9月26日説教「岩の上に家を建てた人」

2021年9月26日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:詩編118編19~28節

    ルカによる福音書6章43~49節

説教題:「岩の上に家を建てた人」

 ルカによる福音書7章43節~45節の、良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実しか結ばないという比喩を、主イエスはいろんな文脈の中で語っておられます。マタイ福音書7章16節以下の「山上の説教」では、偽預言者を見分ける際の基準として語っておられます。偽預言者は人々に好まれ、歓迎される預言を語るが、その心の中では神の真理に仕えるのではなく、自分の誉れや利益を求めていて、羊の皮を身にまとった貪欲な狼であるということを見分けなさいと教えておられます。また、マタイ福音書12章33節以下では、罪と悪に染まっている人間の心の中からは悪い言葉だけしか出てこないということを教える比喩として、悪い木とそれが結ぶ悪い実のことが語られています。きょう学んでいるカ所でも、45節で「人の口は、心からあふれ出ることを語るのである」と言っておられますから、心の中から出る言葉について教えているように理解されます。

 そこで、わたしたちはこのカ所をより深く理解するために二カ所の聖書に目を向けてみたいと思います。その一つは、ヨハネ福音書15章のぶどうの木とその枝についての主イエスの説教です。主イエスはそこでこのように教えておられます。「わたしはまことのぶどうの木であり、あなたがたはその枝である。あなたがたがわたしにつながっておれば、豊かに実を結ぶことができる。わたしにつながっていなければ、あなたがたは自分では何の実をも結ぶことはできない」(1~6節参照)。

 主イエスはここで二つのことを教えておられます。一つは、わたしたち人間はだれもがみな罪に汚れており、その根が腐っており、その枝が枯れていて、自分では少しも実を結ぶことができないということ。もう一つは、わたしたちの救い主であられる主イエスにつながって、主イエスから罪のゆるしの恵みをいただき、主イエスのみ言葉と聖霊とによって新たに再創造される時に初めてわたしたちは豊かな実を結ぶことができるということです。

 参考にしたいもう一カ所は、ローマの信徒への手紙11章17節以下です。使徒パウロはそこで異邦人の救いについて語っています。神に選ばれなかった野生のオリーブの木であった異邦人が、選ばれたオリーブの木であったイスラエルが不信仰のゆえに折り取られてしまったあと、その代わりに接ぎ木されたのであるから、あなたがた異邦人は神の救いにあずかるようになったことを決して誇ることはできないとパウロは言っています。

 これらのカ所を参考に、きょうのルカ福音書7章の主イエスの教えを理解することができます。主イエスはここで、人間はだれもみな悪い実しかつけることができない悪い木であって、その心の中は邪悪と罪で満ちていて、口から出る言葉も、手や足の行動も、悪と罪でしかない。それゆえに、人間は自らの力では良い実をつけることは全くできない。その心の中が完全に洗い清められなければ、良い言葉は出てくることはないし、主キリストに接ぎ木されなければだれも良い実を実らせることはできない。主イエスはそのことを木と実という比喩で語っておられるのです。

 16世紀の宗教改革者たちが言ったように、わたしたち人間は全体が腐敗しており、全的に堕落しており、主イエス・キリストの十字架の死によって古いわたしが完全に葬られ、そして主キリストの復活によってわたしが新しく造り変えられなければ、神のみ前で生きたわたしになることはできないのです。主キリストに接ぎ木され、主キリストと聖霊から新しい命を注ぎ込まれてはじめて、わたしは生きた人間とされるのです。そのようにして、わたしの心は主キリストの十字架の血によって洗い清められ、神をほめたたえる賛美の歌を歌い、隣人を生かす愛の言葉を語ることができるのです。

 1563年に、宗教改革の一つの実りとして制定された『ハイデルベルク信仰問答』では、わたしたち罪びとである人間はただ信仰によってのみ神のみ前に義とされ、救われる、と教えたあとで、64問で「まことの信仰によってキリストに接ぎ木された人が感謝の実を結ばないことなど、あり得ない」と強調しています。宗教改革は人間の完全な堕落を強調しましたが、同時に、主イエス・キリストの十字架の福音を信じる信仰によって義とされ、一方的な神の恵みによって救われた人間は、主キリストに接ぎ木され、主キリストから恵みと養分とを受け取り、大きな喜びをもって感謝の実を結ぶようになるということをも強調しているのです。

 次の46節からの岩の上に家を建てるたとえは広く知られています。けれども、これを正しく理解することはそれほど容易ではありません。まず、主イエスを「主よ、主よ」と呼びながらも、主イエスの言うことを行わない人とはだれを指しているのか、どのような人のことかがはっきりしません。主イエスを政治的なメシアと考え、イスラエルをローマの支配から解放する指導者であると期待して集まってきた人たちのことか、あるいは、主イエスの奇跡や病気のいやしだけを求めてきた人たちのことか、ここではっきりと決めることはできません。

それから、主イエスはここで、ただ聞くだけで、聞いたことを実行しない人たちを非難しているので、聞くことよりも実行することの方が重要だと簡単に結論づけてよいかどうか。あるいは、口先で信仰を告白しても、信仰の実践が伴わなければ、それは土台がない信仰であって、実践こそが大切なのだ。だから、愛の実践をすることによってこそ人は救われる、と結論づけてよいかどうか。そのことが大きな問題になります。

聖書を読む場合にはいつでも、どの個所でもそうなのですが、わたしたちは主イエス・キリストの十字架の福音の光の中でこのカ所をも読まなければなりません。主イエスが語られたみ言葉の説教と主イエスなさったみわざのすべては、彼の十字架の死と復活を目指しており、またそれによって最後の目的に達し、完成するからです。

47節で主イエスは、「わたしのもとに来て、わたしの言葉を聞き、それを行う人」こそが岩の上に土台を据えて家を建てた人であると言われます。「主イエスのもとに来る」「主イエスのみ言葉を聞く」そして「それを行う」、この3つのことが連続し、つながっていることが大切なのです。しかし、49節で言われているように、「聞いても行わない人」は土台なしで家を建てた人であり、その家は水があふれるとすぐに流されてしまうと言われています。主イエスのみ言葉を聞くこととそれを行うことが連続していることによって、わたしたちの信仰の歩みが確かにされ、どのような試練や困難にであっても決して揺れ動くことないと主イエスは教えておられます。

では、47節で言われている三つのことを見ていきましょう。第一は、主イエスのもとに来ることです。わたしたちがどのような大洪水が押し寄せてきても揺り動かされない堅固な家を建てるためには、まず主イエスのところに行かなければなりません。これが第一の重要なポイントです。自分の知恵や力で、自分の好みに合わせた家や、この世の目から見て豪華な家を建てるのではありません。また、富や財産、この世的な幸いを土台として家を建てるのでもありません。主イエスご自身が堅い岩、土台となってくださいました。主イエスは家を建てるために最も重要な隅の親石となってくださいました。わたしたちはこの主イエス・キリストという大きな堅い岩を土台とした家を立てなければなりません。人となってこの世に来られた神のみ子であられ、神の言葉、神の真理、神の義であられる主イエス・キリストのもとに行き、主イエスとの出会いを経験することによって、どんな嵐や洪水にも揺れ動かされない堅固な家を建てることができるのです。

第二には、主イエスのみ言葉を聞かなければなりません。主イエスの十字架と復活の福音を聞かなければなりません。主イエスはわたしの救いのために必要なすべてのみわざをすでに成し遂げられ、わたしを罪と死と滅びから解放してくださっておられることを聞き、信じることによって、わたしのすべての罪がゆるされ、神との生きた交わりへと招き入れられます。その神との生きた交わりの中で、神がわたしに必要なすべてのものを備えてくださり、わたしが進むべき道を示し、その道へと日々導いてくださり、終わりの日にはわたしを来るべき神の国へと招き入れてくださるという固い約束に生きることがゆるされるのです。ここにこそ、わたしの揺るがない堅固な信仰の道があります。

第三には、主イエスのみ言葉を行うことです。ここで「行う」とは、人間が何かの行動を起こすとか、信仰と実践とを区別して、信仰よりも実践の方が重要だという意味での「行う」ではありません。主イエスのみ言葉を聞いて行うのですから、主イエスのみ言葉を信じ、それに信仰をもって服従するということにほかなりません。主イエスのみ言葉を聞いても行わないのは、そもそも信仰がないからです。主イエスのみ言葉を聞いて信じ、服従する人は、そのみ言葉によって生きる人となります。主イエスのみ言葉の証し人として、主イエスのみ言葉に生きることを喜びとします。それは具体的に言うならば、礼拝と祈りの生活です。主イエスの救いの恵みに常に心からの感謝をささげ、主の日ごとの礼拝を重んじ、また主イエスのみ心を信じて日々に祈り、そのようにして、わたしたちの信仰の道はこの世の荒波の中にあっても決して揺らぐことなく、確かな目標に向かって前進していくことができます。主イエスご自身がその道の先頭を行かれ、わたしをその道へ導かれるからです。

最後に、もう一つのことを確認しておきましょう。岩の上に家を建てた人にも洪水は襲うということです。主イエス・キリストを信じるということは、災いや試練に会わないで済むという保証ではありません。いやむしろ、信仰を持たない人たちよりも多くの苦難や厳しい信仰の戦いを強いられるでしょう。たとえそうであるとしても、主イエスはわたしたちを固い岩の上に立たせてくださいます。わたしたちの足を支えてくださいます。主イエスのもとに来て、主のみ言葉を聞き、それを行う信仰者はどのような洪水や嵐や荒波が押し寄せてきても、固く立ち続けることができるのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、わたしたちは迷いやすく、つまずきやすく、またすぐに疑いの雲に覆われて、失望する弱い者たちです。またある時には、自分の力に頼り、傲慢になり、あなたへの恐れを忘れてしまう不信仰な者たちです。どうぞ神よ、そのような揺れ動くわたしたちを、あなたが強いみ腕をもって、固く支えてください。あなたのみ言葉がわたしたちの唯一の救いであり、命であり、希望であることを固く信じさせてください。

〇病んでいる人たち、重荷を負っている人たち、孤独な人たち、生きる希望を失いかけている人たちを、主よどうか顧みてください。あなたが近くにいてくださり、必要な助けをお与えください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

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