10月24日説教「異邦人の信仰」

2021年10月24日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:イザヤ書56章1~8節

    ルカによる福音書7章1~10節

説教題:「異邦人の信仰」

 主イエスは平地での説教を終えると、ルカによる福音書7章1節で再びカファルナウムに戻られました。4章38節によれば、弟子のシモン・ペトロの家がこの町にあり、主イエスはこのペトロの家を宿にしてガリラヤ伝道をしておられたと推測されています。

カファルナウムはガリラヤ湖の北西海岸にあり、東西に延びる交通の要所としてかなり繫栄した町でした。この町には収税所があり、またガリラヤ地方の領主ヘロデ・アンティパスの守備隊の駐屯地がありました。きょうの個所に出てくる百人隊長は、ローマの駐留軍兵士であるよりは、ヘロデの守備隊の兵士百人を率いる小隊長と考えられますが、いずれにしても彼はイスラエルの民・ユダヤ人ではなく、ローマ人かシリア人であり、異邦人であったことは確かです。この異邦人である百人隊長の部下が死ぬほどの重い病気であったのを、主イエスは離れた場所から、いわば遠隔治療によって、いやされたという奇跡がここには描かれています。

福音書の中でユダヤ人以外の異邦人が主イエスの救いにあずかったという例はごく少ししか記録されていません。きょうのカファルナウムの百人隊長の部下の場合と、マタイ福音書15章21節以下のカナンの婦人の娘が悪霊から解放された例、その他数例しか見られません。主イエスの地上のご生涯では、宣教の対象はほとんどユダヤ人に限られていました。主イエスご自身、マタイ福音書15章24節で、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」と言われました。というのは、神はイスラエルを全世界の中から最初にお選びになり、この民と契約を結ばれたからです。神の愛はこの選ばれた民に集中的に注がれます。主イエスの救いもこの民に集中して行われます。神の愛は選びの愛です。契約の愛です。神はひとたびお選びになった民を決してお見捨てにはならず、最後までその契約を守られ、その愛を貫かれます。

主イエスの救いがユダヤ人から異邦人へ、全人類へと拡大されるのは、主の十字架と復活、聖霊降臨以後です。その時になって、神が最初にイスラエルの民を選ばれ、愛されたのと同じように、全世界のすべての民をお選びになり、すべての人を救いへとお招きになりました。これが、神が主イエス・キリストの十字架の血によって全人類と結ばれた新しい契約です。イスラエルの民を愛された神の愛は今や全人類とすべての人々に注がれています。神が最初にイスラエルをお選びになったのは、後にユダヤ人以外の異邦人の選びの先駆けとなりしるしとなるためであったのです。先に選ばれたイスラエルは、自分たちが神に選ばれる値打ちなど全くなかったにもかかわらず、神の恵みと憐れみとによって、他の国々に先立って選ばれたことを感謝し、またそのことを全世界に向かって証しする務めを授かっていたのです。

わたしたち一人一人が、きょうこの礼拝堂に集められ、先に選ばれた者たちとして神の恵みのみ言葉を聞かされているのも、同じ事情によります。わたしはわたし一人の救いのためにだけ礼拝しているのではありません。わたしの家族、友人、同僚、この地域、この国、そして全世界のすべての人々の救いのために、その先駆けとして選ばれ、ここに集められているのです。そのことの証人として、わたしたちは今ここに立っているのです。

さて、きょうのカファルナウムの百卒長の部下のいやしの奇跡は、主イエスの愛と救いの恵みが、やがて先に選ばれたイスラエルの民・ユダヤ人から異邦人へ、全世界の民へと拡大されていくことをあらかじめ予告している出来事であるということにわたしたちは気づかされます。

【2~3節】。当時、ユダヤ人と異邦人との間には越えがたい壁があって、異邦人がユダヤ人に頼みごとをするとか、あるいはユダヤ人が異邦人の家を訪問するということは、普通ではあり得ませんでした。ユダヤ人は自ら選ばれた民であることを誇り、ユダヤ人以外の異邦人は神の律法を知らない汚れた民であると言い、また異邦人にとってはそのようなユダヤ人の意識は思い上がった選民思想であると映りました。

でも、ここでは普通ではあり得ないことが起こっています。異邦人である百人隊長がユダヤ人である主イエスに頼みごとをし、ユダヤ人である主イエスが異邦人である百人隊長の家に出かけようとしておられます。なぜでしょうか。まずその理由を考えてみましょう。百人隊長の有力な部下の一人が病気で死にかかっていたと2節に書かれています。彼にはある程度の社会的地位があり、権力を持ち、また財産もあったでしょう。それらを用いて自分の意のままに事をなすことができました。けれども今、自分の力や持ち物によってはどうすることもできない困難な事態に直面しています。愛する者の重い病気と死の危機です。人間の死という現実に、彼は今直面しているのです。そして、死の前では彼が持っている地位や、権力、財産のすべてをもってしても、全く無力であることを彼は知るのです。彼は死の前で打ちのめされてしまいます。その時、彼は民族の壁を乗り越えて、社会的な壁や心の壁を乗り越えて、主イエスのみ前にひれ伏し、主イエスに助けを求めるほかないことを悟るのです。

ここで普通ではないことが起こっている第二の理由は、本来はこれが第一の理由となるべきですが、主イエスこそが人間の死というこの困難な事態を解決できると百人隊長が信じたからです。4~5節で、百人隊長の依頼によって主イエスのもとを訪れたユダヤ人の長老たちが言っているように、この百人隊長は異邦人でありながら、ユダヤ人の信仰には深い理解を示し、会堂を建てるために援助までしています。もしかしたら、その会堂で主イエスの説教を何度か聞いたことがあったのかもしれません。そして、この主イエスこそが旧約聖書で預言されているメシア・救い主であり、異邦人の自分をも顧みてくださり、自分の願いをお聞きくださり、部下の重い病気をいやし、彼を死から救ってくれることができるという信仰をこの百人隊長に芽生えさせたと推測できます。百人隊長のこの信仰が民族的な壁やその他のすべての壁を乗り越えさせたと考えられます。と言うよりは、神が今この時、時満ちて、約束のメシア・主イエス・キリストをこの世にお遣わしになり、主イエスとこの異邦人との出会いの時をお定めになったのだと言うべきでしょう。そして、主イエスご自身が百人隊長にそのような信仰をお与えになったのです。

もう一つの理由を付け加えるならば、百人隊長の徹底したへりくだり、謙虚さが、主イエスと異邦人である彼との壁を乗り越えさせたと言えます。彼は主イエスが自分の家に向かっておられる途中に友達を送ってこのように言わせています。【6~8節】。この世である程度の地位や権力、また財産を持つ人は、時としてそれを誇ったり、傲慢になったりするものです。この百人隊長は軍隊の小隊長であり、背後には領主ヘロデ・アンティパスがついています。一般の民衆に対しては絶対的な権力を持っています。また、彼はユダヤ人のために大金を出して会堂を建ててやったという功績もあります。自分はユダヤ人のためにこれだけのことをしてやったのだから、困っている時にユダヤ人に助けてもらって当然だと言ってもおかしくはありません。

けれども、彼は主イエスのみ前にひれ伏し、徹底的に謙遜になり、自分は主イエスを家に迎え入れる資格がない者だと告白しています。

この百人隊長の謙遜な告白と当時のユダヤ人、その中でも自ら選ばれた特別な存在であると誇っていたファリサイ派や律法学者たちの傲慢とを比べてみてください。彼らユダヤ人たちは異邦人は神を知らぬ滅ぶべき民だとし、自分たちにはエルサレムと神殿があり、神の守りがあると自慢しながら、主イエスを救い主として受け入れることを拒んだのでした。そしてついには、ユダヤ人たちは主イエスを偽りの預言者、神を冒涜する者、社会秩序を乱す者として裁判にかけ、十字架刑にしたのでした。主イエスは9節で、「言っておくが、イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない」と言っておられます。ここでは、異邦人の信仰が称賛されていると同時に、神に選ばれた民であるイスラエル・ユダヤ人の不信仰と不従順が裁かれているのです。

それに対して、この異邦人である百人隊長は自分が主イエスをお迎えするにふさわしくない者であると自覚しながら、ただ主イエスの憐みに寄りすがるほかないことを告白しています。主イエスのみ前に自らへりくだり、謙遜になった時、彼は主イエスのみ言葉の権威と力とを信じることができたのです。そして、「ひと言おっしゃったください。そして、わたしの僕をいやしてください」と願います。

宗教改革者カルヴァンは、「僕の病気がいやされるよりも前に、この百人隊長自身がいやされ、救われているのだ」と言っています。実際、この出来事の中では、部下である兵士のことやその病気の内容についてはほとんど関心が払われてはいませんし、その病気がいやされたということも主なテーマになってはいません。「ひと言おっしゃったください。そして、わたしの僕をいやしてください」。異邦人である百人隊長のこの信仰と、その信仰を受け入れ、彼の願いをお聞きになった主イエスのみ言葉の権威と力がテーマです。

この異邦人の百人隊長は部下がいやされる奇跡を見て、主イエスを信じたのではありません。まだそれを見る前に、彼の部下が死に瀕していたそのただ中で、死の病から救い出してくださる主イエスのみ言葉に、彼の祈りと希望のすべてをかけて信じたのです。死という厳しい現実の中で、その現実を打ち破って、無から有を呼び出だし、死から命を生み出す主イエスのみ言葉の権威と力とに、彼の存在のすべてをかけたのです。その時、彼は救われ、彼の部下はいやされました。

創世記1章3節に、「神は言われた。『光りあれ』。こうして、光があった」と書かれています。また、詩編103編3節以下にはこのように書かれています。「主はお前の罪をことごとく赦し、病をすべて癒し、命を墓から贖い出してくださる。慈しみと憐れみの冠を授け、長らえる限り良いものに満ち足らせ、鷲のような若さを新たにしてくださる」。そして、イザヤ書55章11節では、「そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も、むなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ、わたしが与えた使命を必ず果たす」と言われています。主イエスがお語りになるみ言葉は同じように権威と力を持ち、恵みと命に満ちたみ言葉です。異邦人の百人隊長はこの主イエスのみ言葉を信じたのです。

ルカ福音書に戻って、10節に「使いに行った人たちが家に帰ってみると、その部下は元気になっていた」と書かれています。主イエスのこのいやしの奇跡は遠隔治癒と言われます。主イエスが直接に病人と対面したり、その体に触れることをしないで、離れた所でいやされるという奇跡は、このほかにはマタイ福音書15章21節以下に書かれているカナンの婦人の娘のいやしがあります。興味深いことに、いずれも異邦人の信仰がテーマになっています。

ただ、主イエスのみ言葉を聞き、それを信じるという信仰、これがわたしたちの信仰です。主イエスのみ言葉以外にどんな保証やしるしをも求めず、主イエスのゆるしといやしのみ言葉にわたしの祈りと希望のすべてを委ねる信仰、そのような信仰があるところに、主イエスはゆるしといやしの奇跡を起こしてくださいます。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、あなたの全能のみ力を信じさせてください。主イエスのみ言葉の恵みと命とを信じさせてください。あなたのみ心が地にも行われますように。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

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