4月10日説教「完全な犠牲をささげ、贖いをなしとげられた主イエス」

2022年4月10日(日) 秋田教会主日礼拝(受難週)説教(駒井利則牧師)

聖 書:イザヤ書53章1~12節

    ペトロの手紙一1章13~21節

説教題:「完全な犠牲をささげ、贖いを成し遂げられた主イエス」

 教会の暦では、きょうは「棕櫚の主日」、今週は受難週です。主イエスの地上のご生涯の最後の一週間です。主イエスは日曜日にロバの子に乗ってエルサレムに入場されました。人々は棕櫚(しゅろ)の枝を手に主イエスを迎えたとヨハネ福音書12章13節に書かれています。主イエスはその日から毎日エルサレム神殿で神の国の福音を説教されました。木曜日の夕方には弟子たちとの最後の晩餐、それはユダヤ人の最大の祭りである過ぎ越し祭を祝う食事であったと共観福音書は伝えています。そして、金曜日にはユダヤ最高法院での裁判、十字架の死、日没前の墓への葬りと続きます。安息日の土曜日をはさんで三日目の日曜日の朝早く、主イエスは墓から復活されました。次週17日に、わたしたちはイースター礼拝をささげます。

 『日本キリスト教会信仰の告白』を続けて学んでいますが、きょうはちょうど十字架の贖いの個所を学ぶことなっておりますので、主イエスのご受難に思いを馳せながら、聖書のみ言葉から聞いていくことにします。

 『日本キリスト教会信仰の告白』をわたしたちが学ぶことの意義についてここで改めて確認しておきましょう。一つには、すでに洗礼を受けて教会員になった人はこの信仰告白を受け入れて洗礼を受け、秋田教会員になったのですから、自分の信仰をより確かにし、深めるためにこれを繰り返して学んでいく必要があります。二つには、求道中の人はこの信仰告白を自分の信仰として受け入れ、告白して、洗礼へと導かれるために、これを学ぶことが何よりも基本的で重要なことになります。

では、『信仰告白』の個所を読んでみましょう。「主は、神の永遠の計画に従い、人となって、人類の罪のため十字架にかかり、完全な犠牲をささげて、贖いをなしとげ、復活して永遠のいのちの保証を与え」と続いています。ここではキリスト教信仰の最も重要で中心的な内容が告白されています。きょうは、その「贖いをなしとげ」という告白について学びます。

「贖い」という言葉は一般にも用いられますが、聖書では特別な内容を含んでいます。旧約聖書からそれをさぐっていきましょう。贖いの一つの意味は、神から買い戻すということです。本来は神にささげられるべきものを、その代わりに別のものをささげる場合に贖うという言葉が用いられます。たとえば、家畜の中で最初に生まれた雄はすべて神にささげられねばならないと旧約聖書の律法に定められています。これを初子(ういご)の奉献と言います。ここには、命はすべて神から与えられたものであり、神に属するものであるので、神にお返しするという信仰があります。しかし、ロバの場合は宗教的に汚れた動物と考えられ、神にささげることができないので、ロバの初子の代わりに小羊をささげて贖わなければならないと定められています。

 人間の初子、最初に生まれた男子も、神のものであり、神にささげられねばなりませんが、人間の命そのもの神にささげることはできないので、動物の命や金銀で贖うように定められています。ルカによる福音書2章に書かれているように、主イエスの両親も生まれて40日を過ぎた幼子主イエスを神にささげるために、エルサレムの神殿で神を礼拝しました。贖うとは、本来神に属すべきもの、神の所有であるものを、贖いの動物や贖い金を神に支払うことによって、神から買い戻すという意味をもっています。しかし、その命が人間の自由になったというのではなく、あくまでもすべての命は神のものであることには変わりません。主イエスは、ご自身の命をその本来の所有者であられる父なる神におささげになりました。

 第二には、奴隷などを買い戻す際にもこの言葉が用いられます。貧しさのために、家族のだれかがを奴隷として売った場合や土地を売り渡した場合に、後になって近親者がその奴隷や土地を買い戻すことを贖うと言いました。その際に、だれでも奴隷や土地を自由に売買できるというのではなく、もとの所有者に最も近い肉親、近親者にだけ贖う権利がありました。したがって、奴隷や土地をだれでもが自由に売買することは、イスラエルでは固く禁じられていました。奴隷も土地も、すべては本来神のものであり、人間に貸し与えられたものであるという信仰がここにもあります。

 第三に、イスラエルの民が外国に支配され、奴隷状態であった時に、主なる神が彼らを外国の支配から解放されることを贖うと言いました。イスラエルのエジプト脱出は、神の贖いのみわざでした。出エジプト記6章6節には次のように書かれています。「それゆえ、イスラエルの人々に言いなさい。わたしは主である。わたしはエジプトの重労働の下からあなたたちを導き出し、奴隷の身分から救い出す。腕を伸ばし、大いなる審判によってあなたたちを贖う」。また、イザヤ書では、バビロンに捕囚になっているイスラエルの民を神が再び約束の地、聖なる神の都エルサレムに連れ戻されることを、神の贖いのみわざとして繰り返し預言されています。イザヤ書43章1節にはこうあります。「ヤコブよ、あなたを創造された主は、イスラエルよ、あなたを造られた主は、今、こう言われる。恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのものだ」。神の贖いのみわざは、イスラエルの民にとっては外国の支配からの解放であり、救いでした。イスラエルはもはや異教の王の支配下にあるのではありません。奴隷の民ではありません。主なる神によって解放された自由の民であり、贖い主であられる神の所有とされたのです。

 ここには、神の贖いのみわざの重要な特徴が含まれています。それは、神が奴隷の民、捕囚の民イスラエルを買い戻すために、彼らの近親者となってくださったということです。イスラエルの民は自らの罪のゆえに、主なる神を捨て、主なる神に背いて、自らを奴隷として異教の王に売り渡したのですが、それゆえに彼らを贖う近親者はイスラエルの側から要求されるのですが、しかし、彼らの中にはだれも彼らを奴隷から解放できる贖う者、その資格を持つ者もその能力を持つ者も、だれ一人いませんでした。その時に、主なる神が、そうする義務も責任も全くなかったにもかかわらず、むしろご自身に背き、敵対したイスラエルのために、彼ら奴隷の民の近親者、贖い主となってくださったのです。イスラエルが自らを贖うための贖い金を全く支払っていないにもかかわらず、神は全く無償で、神の側からの一方的なあわれみと恵みによって、彼らを奴隷の支配から救い出され、ご自身の民として買い戻してくださったのです。

 贖うの第四の意味は、これが最も重要な意味ですが、人間の罪の贖いのために雄牛や雄山羊などの家畜を贖罪の犠牲として神にささげるという儀式です。これについては、旧約聖書のレビ記や申命記などに細かく規定されています。イスラエルの民が神の律法に背いて罪を犯した場合、その罪を神からゆるしていただくために、動物の命を自分たちの身代わりとして神にささげ、神の裁きを逃れ、神の怒りを和らげるという意味がありました。エルサレムの神殿では、毎日毎日人間の罪の贖いのために家畜が贖罪の犠牲としてささげられていました。それが、彼らの礼拝だったのです。イスラエルの民はこの罪からの贖いなしには、神の民として生きていくことができなかったのです。

 さて、主イエス・キリストの十字架の死が、わたしたちのための贖いの成就であったという『日本キリスト教会信仰の告白』は、以上のような旧約聖書の贖いの信仰を背景にしています。では次に、主イエス・キリストの贖いのみわざについて、更に深く学んでいきましょう。

 「贖いをなしとげ」は、1953年に制定されたら文語体の告白では、「贖いを成就し」となっていました。主イエスの十字架の死によって、旧約聖書に預言されていた神の贖いのみわざが成就したという意味が含まれています。先ほど挙げたイスラエルのエジプトの奴隷の家からの贖いと救い、バビロン捕囚からの帰還とエルサレムの再建、人間の罪からの贖いを願っての礼拝、それらのすべてが主イエス・キリストの十字架による贖いと救いを預言しているのであり、また主イエス・キリストの十字架の死によって旧約聖書で語られているそれらすべての神の贖いのみわざが、完全に成就したのだということです。神がイスラエルの民のためになされた贖いのみわざが、主イエス・キリストの十字架によって、全人類の贖いのみわざとして成就したのです。イスラエルの民が苦難の歴史の中で待ち望んでいた永遠の贖い主、奴隷からの解放者、罪と死と滅びからの救い主が、主イエス・キリストの到来によって成就したのだということです。主イエス・キリストこそがイスラエルと全人類のための真実の、永遠の贖い主であられ、わたしたちを罪の奴隷から贖い出し、すべての悪しき支配から解放してくださる救い主なのです。

 第二の重要な点は、主イエスはわたしたちの真実の贖い主となるために、わたしたち罪びとたちに最も近い近親者となってくださったということです。わたしたちは神を知らず、神から離れ、神に敵対していた罪びとでした。そのような罪びとたちの世に、神のみ子が人間のお姿となって天から降(くだ)って来られ、わたしたち罪びとたちと共に歩まれました。主イエスは、マタイによる福音書20章28節でこのように言われました。「人の子が(主イエスご自身のことですが)、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金(これは贖い金という意味ですが)として自分の命をささげるために来た」。主イエスは、罪なき神のみ子であられましたが、徹底して罪びとたちの僕(しもべ)として仕えてくださり、最後にはご自身が罪びとの一人に数えられ、罪びとが受けるべき十字架の死の裁きを、わたしたちに代わって受けてくださるほどに、わたしたち罪びとたちの近親者となってくださり、そのようにしてわたしたちを罪の奴隷から贖ってくださったのです。

 わたしたち人間はだれも自分自身を贖うことも他の人を贖うこともできません。詩編49編の詩人はこのように告白しています。「神に対して、人は兄弟をも贖いえない。神に身代金を払うことはできない。魂を贖う値は高く/とこしえに、払い終えることはない。しかし、神はわたしの魂を贖い/陰府の手から取り上げてくださる」(8~9節、16節)。神のみ子であられ、罪も汚れもない主イエス・キリストの尊い血だけが、すべての人を罪と死の支配から贖い、救い出すことができるのです。

 そのことについて、ヘブライ人への手紙9章11節以下では次のように教えられています。【9章11~14節】(411ページ)。また、【ペトロの手紙一1章18~19節】(429ページ)。

 主イエス・キリストが十字架でおささげくださった血は、動物などの代用品ではなく、神のみ子の血であり、地上のどれほどに価値あるものよりもはるかに尊く高価であり、完全であり、永遠であるゆえに、すべての人の罪を完全に、永遠に贖い、救うことができると、強調されています。主イエス・キリストの十字架によって罪ゆるされない人は、だれもいません。主イエス・キリストの十字架によってゆるされない罪は何もありません。すべての人のすべての罪が永遠に贖われ、ゆるされています。それが、『日本キリスト教会信仰の告白』で「贖いをなしとげ」と告白されている内容です。

 わたしたちはこの信仰告白を共に告白することによって、主イエス・キリストによって罪の奴隷から贖われ、主キリストのものとされている一人一人として、また罪のゆるしの恵みによって生かされてれている者たちの群れとして、ここに主イエス・キリストの体なる教会を建てていくのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、罪の中で滅ぶべき者であったわたしたちをあなたがみ子の尊い血によって贖い、救ってくださいましたことを心から感謝いたします。どうか、わたしたちを永遠にあなたのものとしてください。

〇主なる神よ、あなたの義と平和をこの世界にお与えください。国々の為政者、指導者たちが、何よりもあなたを恐れ、あなたのみ前にひれ伏す者としてください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

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