4月3日説教「ステファノの説教(一)アブラハムの選び」

2022年4月3日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:創世記12章1~9節

    使徒言行録7章1~8節

説教題:「ステファノの説教(一)アブラハムの選び」

 使徒言行録7章2節からステファノの長い説教が始まります。これは53節まで続きます。使徒言行録に記されている説教の中で最も長いものです。わたしたちがこれまで聞いてきた使徒ペトロの説教は2章29~39節、3章12~26節、4章9~12節、5章30~32節がありました。このあとには、10章36~43節、それから使徒パウロの説教が13章16~41節、14章15~17節、Ⅰ7章22~31節にあります。これらのどれよりもはるかに長い説教です。使徒言行録の著者であるルカがある意図をもってこれだけの長い説教を記録していることは明らかです。あらかじめその意図の一つを指摘しておきましょう。

 それは、ステファノがキリスト教会最初の殉教者となったということと関連しているように思われます。しかも、彼のこの一回の説教が直接的な理由となって、53節で彼の説教が終わるや否や、あるいは途中で中断させられたのかもしれませんが、すぐに58節で石打の刑によってステファノは殺されてしまいます。初代教会がこれから幾度も経験しなければならないユダヤ人とローマ人からの迫害とそれによって流すであろう殉教の血がここで初めて流されたのです。キリスト教会はステファノが語った説教によって、また同時にステファノが流した殉教の血によって、これからのちも生き続けていくのです。ここに、ステファノの説教の大きな意味があるのです。

 では1節から読んでいきましょう。【1節】。ユダヤ最高議会・最高裁判所の議長を務めている大祭司は裁判の正式な手続きを踏んで、最初に、訴えられている被告の罪状認否と弁明の機会を与えます。被告はここで、自分が無罪であることや情状酌量の余地があることなどを語るのが一般的です。けれども、これまでのペトロたちの裁判でもわたしたちが見てきたように、彼らはその席で主イエス・キリストの福音を語りました。彼らは主イエス・キリストの福音の証し人としてその裁判の席に立ち、そこに集まっているユダヤ人の指導者たちに主イエス・キリストの十字架の福音を語るのです。自分たちの減刑や命乞いの機会とするのではなく、福音宣教の機会として彼らは被告席に立っています。

 ステファノも同様です。もっとも、彼がはっきりと主イエスご自身について語るのは長い説教の終わりの個所、52、53節になってからですが、しかも直接主イエスのお名前を口に出してはいませんが、そこをまず読んでみましょう。【52~53節】。聞いていたユダヤ人指導者たちは、これが主イエスと自分たちのことであることを直ちに理解し、激しく怒ったと54節に書かれています。したがって、ステファノの長い説教はこの終わりの個所に向かっていたということがわたしたちにも分かってきます。彼がアブラハムから始まって、イサク、ヤコブの族長たちについて語っていること、9節からはヨセフとエジプト移住、23節以下ではモーセによるエジプト脱出とダビデ、ソロモンの時代のことを彼は旧約聖書に基づいて説教しているのですが、それらの旧約聖書に描かれているイスラエルの歴史はすべてが主イエス・キリストの福音に向かっていたということ、主イエスによって最後の目標に達したのだということ、それがステファノの説教の結論なのです。それと同時に、しかしユダヤ人はそれを受け入れず、信じなかったということ、この二つがステファノの説教の大きな柱なのです。そのことをあらかじめ確認して、2節からのステファノの説教を読んでいくことにしましょう。

2節から8節では、アブラハム、イサク、ヤコブの3人の族長の信仰について語っています。創世記12章以下に書かれている内容と大筋では一致していますが、細かな点では違いも見られます。きょうは細かな点の違いについては触れません。

 まず、ステファノの説教が族長アブラハムから始まっていることに注目したいと思います。イスラエルの歴史を語る場合、特に主イエス・キリストによってその頂点、最終目的に達するという意味でのイスラエルの信仰の歩みについて語るにあたって、出エジプト時代のモーセと彼に授かった律法から語るのではなく、アブラハムの召命と選びから語るということは、この文脈においては意義深いと言えます。おそらく、ユダヤ最高議会の主たるメンバーである律法学者やサドカイ派の人たちならば、モーセの律法やダビデ・ソロモン時代の礼拝や祭司の務めなどについて触れるに違いないのですが、ステファノはそれらについては一切触れていません。

 彼は説教の冒頭で、神の招きのみ言葉に聞き従った信仰の父アブラハムについて語ります。3節にあるように、「あなたの土地と親族を離れ、わたしが示す土地に行け」。アブラハムはこの神のみ言葉に聞き従いました。ここには、神の召命があります。神の招きと選びがあります。そしてまた、神の招きのみ言葉に従順に聞き従うアブラハムの信仰があります。これこそが神の民であるイスラエルの出発点なのだとステファノは語るのです。ヘブライ人への手紙11章8節に書かれているとおりです。「信仰によって、アブラハムは、自分が財産として受け継ぐことをになる土地に出て行くように召し出されると、これに服従し、行く先も知らずに出発したのです」。

 ステファノはこのアブラハムの信仰と今のイスラエルとの関連性を強調するために、「兄弟であり父である皆さん」と呼びかけ、「わたしたちの父アブラハムが」と語りだしています。およそ千年も前の族長時代とステファノの時代とを結びつけています。イスラエルはこのようなアブラハムの信仰によって神の民としての歩みを始めたのです。神がアブラハムを選び、彼を召し、彼にみ言葉を語り、恵みと救いへの道へと彼をお招きになられた。アブラハムはその神のみ言葉を信じて服従した。この信仰こそが神の民イスラエルの原点なのです。そして、今この時も、同じようにしてすべてのユダヤ人も神の招きを受けているのです。神がメシア・救い主をイスラエルと全世界のためにお遣わしになったからです。そうであるのに、あなたがたはその神の招きに逆らったのではないか、とステファノは51節で言うのです。

 2節の終わりに「栄光の神が現れ」とあります。「栄光の神」とは、この世に存在するものとは思えないような、天からの圧倒的に大きな力と権威と威厳とをもって人間の進むべき道を照らされる神のことです。その栄光の神のみ前では、アブラハムはただ黙々と従うほかにありません。また、そうすることが彼が生きるべき幸いな道なのです。なぜならば、アブラハムには今はまだ何も分からなくても、神ご自身が彼のために最もよい道を備えてくださるからです。彼の行く先にどのような困難が待っていようとも、そこがどのような土地であり、いつそれが自分の所有になるのかも全く知らされていないにもかかわらず、アブラハムは神の招きに従って、故郷を捨て、親族を捨て、それまでのすべての生活を捨てて、行く先を知らずして旅立ちました。これが信仰の父アブラハムの信仰です。

 主イエス・キリストの福音を信じる信仰もこれと同様です。主イエスはわたしたちが罪と死と滅びから救われ、新しい命に生きるために必要なすべてのみわざを成し遂げてくださいました。その主イエス・キリストをわたしの救い主と信じる信仰によってすべての人が救われます。わたしには何一つ誇りえるものがなく、良きわざもなく、神の律法にことごとく背いているとしても、わたしの今あるがままで、主イエス・キリストの十字架の福音を信じる信仰によって、神はわたしを義と認めてくださり、罪なき者と見なしてくださるのです。ユダヤ人もまたこの信仰へと招かれています。けれども、彼らはその招きに応えなかったと、ステファノは言うのです。

 まだ見ていないことを信じるアブラハムの信仰はさらに続きます。5節では次のように言われています。【5節】。わたしたちは今並行して創世記を読んでいますから、ここで言われていることについては何度も聞いてきました。アブラハムが最初に神の約束のみ言葉を聞いたのは彼が75歳の時でした。それから彼が100歳になって長男イサクが与えられるまで、彼には子どもがなく、また約束の地の一角をも所有していませんでした。けれども、彼は神のみ言葉を信じ続けました。神の約束の成就を待ち続けました。

 神の約束のみ言葉は、さらには、アブラハムの生涯をも超えて、それのみか、その子イサク、その子ヤコブをも超えて、いやさらに、エジプトでの400年の奴隷と苦難の歴史をも超えて、その先に進みます。

【6~7節】。ここまでくると、アブラハムの信仰とか、イサク、ヤコブ、ヤコブの12人の子どもたちの信仰とかがここで問題にされているというよりは、彼らの信仰を超えて、神の約束のみ言葉の永遠性、神の救いのご計画の永遠性こそが重要なのだと言うべきでしょう。神はイスラエルのエジプトでの400年間の苦難の歴史を経て、そののちにようやくにして、アブラハムに対する約束を成就されたのです。神はイスラエルの苦難の歴史をとおして、彼らを真実の礼拝の民とされるのです。エジプト脱出は彼らが真実の礼拝の民となるためであったのです。

 わたしたちはここにも主イエスによって成就された真実の礼拝の原型を見るように思います。イスラエルの民は400年間のエジプトでの奴隷と苦難の歴史から解放されて、真実の礼拝の民とされるとここで預言されています。それと同じように、主イエス・キリストのご受難と十字架の死をとおして、「霊と真理とをもって礼拝する」(ヨハネ福音書4章24節)まことの礼拝がわたしたち教会の民のために成就されたのです。ユダヤ人もこのまことの礼拝へと招かれています。しかし、彼らは依然としてエルサレム神殿での古い礼拝にとどまり続けているとステファノは語ります。

 最後に8節を読みましょう。【8節】。割礼は神とイスラエルとの永遠の契約の目に見えるしるしです。神が最初にアブラハムと結ばれた契約は、彼の子孫によって永遠に受け継がれていきます。イスラエルの民は、エジプトで奴隷であった時も、約束のカナンに移り住んでからも、また約束の地を失い、異教の地バビロンで捕囚の民であった時にも、割礼のしるしによって、神との契約の民であることを忘れませんでした。そして今、主イエス・キリストを救い主と信じる教会の民は、洗礼という目に見えるしるしをもって、神との新しい契約に生きる民であることを覚え続けるのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、あなたの恵みと慈しみとは永遠に変わらず、あなたを信じる民に豊かに注がれます。あなたがお選びになった信仰の民と結ばれた契約も、永遠に変わることなく、み国の完成の時まで続きます。どうか、わたしたちがそのことを信じてあなたのみ前に従順に歩む者としてください。

〇主なる神よ、多くの困難な課題を抱えながら苦悩しているこの世界を顧みてください。その中で、傷つき傷んでいるひとり一人を顧みてください。どうか、あなたの真実と正義と平和をわたしたちにお与えください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

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