6月26日説教「あなたがたは私を誰と言うか」

2022.6.26  説教 マルコによる福音書8章27~33節

 「あなたがたは私を誰と言うか」

説教 長老 柴田 理

本日与えられた御言葉は、マルコによる福音書8章27~33節です。

 その頃主イエスは弟子達を連れて、ガリラヤ湖の北の方にある、フィリポ・カイザリヤの村々を巡っていました。

 主イエスはこの頃までに主な伝道を終え、エルサレムに向かって受難への道を歩き始めます。その折り返し点での出来事を記したのが今日の箇所です。

 主イエスは道すがら、弟子達にお尋ねになります。“人々は私のことを何者と言っているか?”

主イエスは公の生活を始めてからこれまで、カナの婚礼で水を葡萄酒に変えたことを皮切りに、数々の奇跡を行っておいでになりました。足の不自由な人を歩かせ、友人達に屋根の上から吊り下ろされた中風の人を癒し、ラザロのように亡くなった人をも生き返らせました。また、山上での説教に代表されるように、人々に福音を告げ知らせました。多くの人が主イエスの権威ある言葉に驚き、癒しに感謝し、悲しみから解き放たれました。その噂はユダヤの広い地域に広がっていました。

 そのような中で、主イエスは弟子達に問われたのです。“人々は私のことを何者と言っているか”。

 弟子たちが答えます。“バプテスマのヨハネと言っている人たちがいます。エリヤだという人たちもいます。また、預言者の一人と言っている人たちもいます。”

 バプテスマのヨハネは、御存じのように主イエスを指し示し、その道を整えるために遣わされた、旧約時代最後の預言者です。

……また、主イエスをエリヤだという人たちがいました。エリヤは、ユダヤの国が北イスラエルと南ユダに分かれてしまった後の北イスラエルの預言者でした。やもめの息子を生き返らせるなどの奇跡を行い、最後は火の戦車に乗って天に上げられました。そして、世界の終わりの日、神様の御支配が完成する前に再び現れるとされていました。

 さらに、預言者の一人だという人たちもいました。

 主イエスの権威ある教えや数々の奇跡から、人々は主イエスのことをただならぬ人と捉えていたことは間違いないことです。しかしいずれにしても神の子ではなく、神の恵みを受けた優れた人と捉えていました。

さて、主イエスは弟子たちの答を聞いてさらに問います。“それではあなたがたは私を誰と言うのか”

 “ちまたにいる人たちではなく、弟子として福音を伝えるために召し出され、そば近くにいて私と行動を共にし、わたしの働きを目の当たりにしてきたあなたたちは、私を誰と言うか”、と問います。

 するとペトロが答えます。“あなたはメシアです”。新共同訳聖書では“あなたはメシアです”と訳されていますが、元のギリシャ語の聖書では“キリスト”と記されています。

 キリストとは“油注がれた者”という意味で、ヘブライ語のメシアをギリシャ語に訳したものです。王が位に就く時に、また、祭司や預言者が聖別される時に頭に油を注がれたことに由来するものです。

 主イエスの頃に人々が考えていたメシアとは、ダビデの家系に生まれ、エルサレムを踏みにじっている異邦人たちを追い出し、栄光と繁栄のうちにダビデの王国を回復してくださる方とされていました。

 そしてペトロは弟子達を代表してはっきりと“あなたこそキリストです”と告白しました。

 さて、続いて主イエスは、御自分がこれからどのような道を辿るかを弟子達にお教えになりました。 31節を読みます。“それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老・祭司長・律法学者達から排斥されて殺され、3日の後に復活することになっている、と弟子達に教え始められた”。

長老、祭司長、律法学者とは、ユダヤで最も力と権威のある議会、最高法院の構成員です。つまり、キリストである主イエスが、この世での神の代理者とも言える人々から捨てられ、殺されることを意味しています。

 これはまさに、弟子達がたった今“あなたはキリストです”と言った告白が意味するところです。主イエスは“そうだ、あなたたちの告白は正しい。その私は間もなく苦難を受け、祭司長や律法学者らによって十字架につけられ、3日目に復活する、それが父の御心である”とはっきりとお示しになったのです。

 しかしこれは、弟子達が思い描いていたキリストの姿とは全く違うものでした。

 ローマの支配にあえぐイスラエルの人々が待ち望む王としての救い主であり、イスラエルを再び甦らせるメシアが多くの苦しみを受け、最高法院によって捨てられ、殺されてしまう。しかも主イエスはそれが神の御心であるとおっしゃるのです。

 それまでの権威ある教え、5千人の食事、癒し、湖の上を歩く……これらは苦難とは無縁のように思われました。しかしローマの支配を打ち破ると期待された方は、苦難を受けて死に至る。しかもその苦難はユダヤで最も信仰深いとされた人々によって下される。それが神様のお決めになったことであって、さらに主イエスはそれらを甘んじて受け入れるつもりでいらっしゃる。

ペトロをはじめとする弟子達にとっては全く理解しがたく、受け入れられないもの、あってはならないことでした。

 弟子達は、いわば自分たちの願望に従って、イエスの終わりは当然栄光に満ちているものであり、すべてに勝利し、イスラエルを押さえつけている一切の事柄から解き放たれて王となるものと信じていたのです。

 ここでペトロは、“主イエスを脇へお連れしていさめ始めた”とあります。別の訳によると、“ペトロが彼を連れ出し、叱りつけ始めた”とされています。マタイによる福音書には、ペトロが“主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません”と、主と弟子の関係を弁えない強い口調で諫めたことが記されています。弟子達は主イエスの低さを受け入れられなかったのです。

 主イエスは振り向いて弟子たちを見て、ペトロを叱りつけました。“サタン、私の後ろに下がれ。” 私の前に立ちふさがって苦難への道を遮るのではなく、私の後ろから従ってくるように、とおっしゃるのです。

主は弟子達の中に、自分を十字架への道から逸らそうとするサタンの誘惑を認められたのです。

 “あなたこそキリストです”と正しい告白をした弟子達でしたが、その中身はまだ極めて未熟な信仰だったのです。

 主イエスはこの後、二度にわたってご自分の死と復活を予告なさいました。しかし弟子達は霊に憑かれて発作を起こす男の子を癒すことができずに主イエスから信仰のなさを指摘されました。また自分達の中で誰が一番偉いかと議論して諭されています。さらに、ゲッセマネの園で主イエスが必死に祈っている時に3度も眠りこんでしまい、主イエスの逮捕と共に逃げ去ってしまいました。大祭司カヤファの庭ではペトロが3度主イエスを知らないと誓い、十字架の下に主立った弟子は一人もいませんでした。その上主イエスが甦られた日、弟子達はマグダラのマリアが復活を証言しても信ずることなく、おそらくエマオに行く途中に主イエスと出会った二人の弟子が復活を告げても信じることができませんでした。

 では、今を生きる私達は主イエスをどのような方と告白するのでしょうか。主は問います。“あなた方は私を誰と言うか”

私達は弟子達と同じように“あなたこそキリストです”と告白することができます。

 しかしその時、私たちはこの時の弟子たちよりもしっかりと、“あなたこそキリストで す”と告白したことの示すところを受け止め、自分のこととしていると言えるでしょうか。

 そして、主イエスが私のために、この罪の中にある私自身のために天から降りてくださり、私自身を贖ってくださるために十字架について下さり、神は私自身のために主イエスを死人の中から立ち上がらせ、永遠のいのちの保証を与えてくださり、主イエスは今も神の右にいて取りなしてくださっていることを自分自身のことと捉えた上で、“あなたこそキリストです”と告白できているでしょうか。

……主の問いかけに“あなたこそキリストです”と告白する時、人にはその告白にふさわしい生き方が求められます。告白は主に真摯に向き合った応答であり、同じくその応答として、告白と一体となった生き方へと導かれるのです。日々の生活が信仰告白になるのです。

 “あなたがたは私を誰と言うか”。“あなたこそキリストです”。では私達が主イエスをキリストと言う時、どのような生き方をするのでしょうか。

 主の日毎に教会に通い、主を褒め讃え、罪を赦されて御言葉に聴いている私達は、自分にはまあそこそこの信仰がある”と密かに自負していないでしょうか。私達の教会には牧師がいて、教会員は毎週御前に立っていると、いわゆる“心地よい敬虔さ”にんでいないでしょうか。

 ヨハネの黙示録3章15節、16節に良く知られた1節があります。“私はあなたの行いを知っている。あなたは冷たくもなく熱くもない。むしろ、冷たいか熱いかであって欲しい。熱くも冷たくもなく、生温いので私はあなたを口から吐き出そう。”

 100%の信仰には、人は地上の生涯では到達し得ません。しかし今いるところから少しでも上げて頂くために、祈り、求め続けるのです。自らの努力に拠るのではなく、導き続けていただけるように。

 主イエスは未熟な弟子達を最後までお見捨てになりませんでした。

 そして今、主イエスは世に聖霊をお送り下さっています。私達はその聖霊に自分を明け渡し、信仰が深められること、またそのことへの応答としての生き方ができるように願い求めるのです。

 さて、今日の箇所で、もう一つ気付かされることがあります。

 主イエスは弟子達に“あなた方は私を誰というか”と問われました。“ペトロ、あなたは私を誰というか”ではありません。ペトロを含む弟子達、すなわち弟子達の群れに問われたのです。

 マルコによる福音書1章によると、主イエスはガリラヤ湖の畔で初めに、後にペトロと呼ばれるシモンと、その兄弟アンドレを召し、続いてゼベダイの子ヤコブとヨハネを召しました。そして3章によると、主イエスはイスカリオテのユダを含む12人を中心となる弟子とし、使徒と名付けられました。彼等は常に主イエスと行動を共にし、また時には二人ずつ伝道に遣わされ、再び主イエスの下に帰ってくる、ひとつの群れでした。

 主イエスはこの時、一人一人の弟子ではなく、主イエスに導かれる群れとして、御自分をどのように信ずるかを問われたのです。“あなたこそキリストです”と告白したのは、ペトロ一人の信仰ではなく、弟子達の群れとしての信仰を告白したのです。

 既にお話ししましたように、弟子達はこの告白の後も、数々の失敗を繰り返します。

 しかしこのような不信仰・不服従が延々と続く弟子達に対しても、主イエスは復活した時のことについて“私はあなた方より先にガリラヤに行く”と告げました。弟子達を見捨てることなく、ガリラヤで待っていると、弟子達を招くのです。そしてペンテコステの時に聖霊をお送り下さって、三千人もの人々を召されて教会をお作りになりました。

 キリストに結ばれた、キリストによってこの世から選び出された者達の群れ、教会は今に至るまで続いています。どれほど未熟な信仰でも、主はそれを育て、その群れを御自身のために用いてくださるのです。

 そして今を生きる私達に問われることは、キリストの葡萄の木につながれた枝として“公同の教会に繋がり、日本キリスト教会の会員としてあなたは私を誰と言うか”と言うことです。そこに属するあなたの信仰は何かが問われているのです。

 洗礼式の時、洗礼を受けようとする人は牧師によって誓約を求められます。

“あなたは神を信じますか。”、“あなたは主イエスキリストを信じますか”、“あなたは聖霊を信じますか”、“父と子と聖霊の御名において洗礼されることを願いますか”。そして、“あなたは日本キリスト教会信仰の告白を誠実に受け入れ、その憲法・規則に従うことを誓約しますか”と問われます。群れとしての信仰を受け入れることが求められるのです。

 牧師や教職者を持たない教派のように、一人一人が聖書と向き合って個々人の信仰を深めるということではありません。個人としての信仰が深められることは必要ですが、私達はまず群れの信仰を受け入れ、それを土台として自分の信仰が紡がれていくのです。

 教会と言う言葉には、呼び出すという意味があります。主体は個人ではなく、呼び出され、集められた人の群れ、救われた人の群れなのです。

 主はその中に、救われた人の群れの中に私たちを置いてくださり、主の日毎にきょうだいと共に御前に立つ礼拝を通じて、説教と聖礼典を通じて、未熟な信仰を成長させてくださるのです。

“あなた方は私を誰と言うか”

 私達は教会において、日々主イエスの“あなた方は私を誰というか”という問いに真実に向き合い、“あなたこそキリストです”と告白し続けるのです。

祈りましょう。

 主なる神様、あなたの御名を褒め讃えます。

 主の日に教会に集められ、きょうだいと共にみ前に立ち、主を讃え、罪を告白し、これを赦され、御言葉に聞けますことを心から感謝いたします。

 どうか公同の教会に繋がる私達を慈しみ、終わりの日に向かって成長させてください。

 日本キリスト教会をあなたの省みの内に置いてください。大会、中会、神学校、及びそれらに伴う組織を支えるきょうだいをあなたの祝福の内においてください。新たに牧者を志すきょうだいを立ててください。

 戦争、内乱、災害、差別、病、いじめ、虐待などにより、弱さの中にあるきょうだいをお守り下さい。国々の先頭に立つ者達を御心に従わせてください。

 この週も世界があなたの御心のままにありますように。主の御名によって祈ります、アーメン。

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