10月16日説教「悪霊にとりつかれた人をいやされた主イエス」

2022年10月16日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:詩編51編1~14節

    ルカによる福音書8章26~39節

説教題:「悪霊に取りつかれた人をいやされた主イエス」

 主イエスと弟子たちの一行は、ガリラヤ湖の北西沿岸の町カファルナウムから船出して向こう岸に渡っていきました。途中、激しい嵐に会い、舟が沈みそうになりましたが、主イエスが神の権威と力によって風と荒波とをお叱りになって嵐を静められ、舟は無事に対岸に着きました。その地は、26節によれば、ゲラサ人の地方と言われています。

 当時、ガリラヤ湖の東側一帯はデカポリス(10の都市と言う意味)と呼ばれ、そこの住民はほとんどがユダヤ人以外の異邦人でした。ローマ政府が直接統治していた異教徒の地でした。その地で豚を飼っている人がいたのはその理由によります。というのは、ユダヤ人にとって豚は宗教的に汚れた動物で、飼育することもその肉を食べることもしなかったからです。

 主イエスがそのような異邦人の地へ出かけ、異邦人に福音を宣べ伝えたということは、福音書では非常にまれなことです。主イエスがユダヤ人の地で異邦人に伝道したことや異邦人をいやされたという記録はいくつかありますが、異邦人の地へ出かけて行って、異邦人に伝道したという記録はここだけです。その意味で、きょうの個所には大きな意味が含まれているといえます。

 最初に、そのことについて少し考えてみましょう。主イエスの福音宣教の範囲はユダヤ人の地に限られ、その対象もユダヤ人にほぼ限定されていました。それは、神が、旧約聖書に書かれているように、最初にユダヤ人、イスラエルの民をお選びになり、この民と救いの契約を結ばれたからです。けれども、この神とイスラエルとの契約は、一つの民族だけの救いを目指していたのではありませんでした。神は先に選ばれたイスラエルの民によって、やがてその救いのみわざが全世界のすべての国民へと拡大されていくことを最初から計画しておられました。神の限りない恵みと慈しみ、全人類に対する大きな愛が、イスラエルの民をとおして証しされていたのです。そしてついに、主イエス・キリストによってその神の救いのみ心が明らかにされました。主イエスはすべての罪びとのために十字架で死んでくださり、すべての人の罪が主イエスの尊い血の贖いによってゆるされ、救われるということを明らかにされました。神は主イエス・キリストによって、新しい教会の民をお選びくださり、全世界に建てられる教会によって、主キリストの福音がすべての人に宣べ伝えられるようにされたのです。これが神の永遠の救いのご計画でした。

 このことから、きょうのルカ福音書のゲラサ人の地での福音宣教と救いのみわざを見てみると、この出来事はやがて教会が誕生し、主イエスの福音が全世界に宣べ伝えられることの、いわば先取りであり、そのことをあらかじめ預言していることになります。十字架につけられ、三日目に復活された主イエスが、弟子たちに「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」(マルコ福音書16章15節)とお命じになられたように、異邦人伝道、全世界への福音宣教は、主イエスご自身が最初からご計画しておられたことなのです。わたしたちはその主イエスのご計画に従って、こんにちこの日本で、この秋田で、福音宣教のわざのために仕えているのです。

 では、26から27節を読みましょう。【26~27節】。『新共同訳聖書』では、27節の後半は「男がやって来た」と翻訳されていますが、この文章の主語は前半と同じ主イエスと考えるのがよいと思われます。つまり、「イエスは陸に上がられた」「その時、イエスはこの町の者で悪霊に取りつかれている男と出会った」と訳すがよいように思われます。『口語訳聖書』ではそのように訳されていました。この人は人里離れた墓場を住まいとし、他の人にはできるだけ会わないようにしていたのですから、その人が主イエスの方に近づいてきたと考えるよりは、主イエスの方がその人のところへと近づいて行かれ、その人と出会われたと考えるの自然ですし、その方が主イエスご自身の意図でもあったと考えるべきでしょう。

 悪霊に取りつかれていたこの人は、29節にも書かれているように、彼自身の心も体もすべてが悪霊の力によって支配され、自分で自分をコントロールできないほどに凶暴な力を発揮して、人々に恐怖を与えていました。彼はほとんど人間であることを失い、30節では彼自らが自分の名前は「レギオンです。男百何千もの悪しき霊、汚れた霊が自分の中に住み、自分を支配しているからです」と答えているほどでした。レギオンとはローマの軍隊で、歩兵6千人と数百の騎兵で構成されている部隊のことです。それほどの驚異的な力の悪しき霊によって自分が占領され、支配されていると告白しているのです。彼の住みかが墓場や荒れ野であったように、彼は常に死と直面し、絶望と暗闇が彼を覆っていたのです。

 けれども、主イエスがそのような彼と出会ってくださいます。そのような彼に主イエスが近づいて行かれます。そして汚れた霊に向かって「この男から出て行け」とお命じになりました。すると、悪霊に取りつかれている人が言いました。彼が言ったというよりは、彼の中に住んでいる何百何千もの悪霊が言っていると表現した方が適当かもしれませんが。

28節を読みましょう。【28節】。ここで、彼は、あるいは悪霊はと言うべきでしょうが、主イエスのみ前にひれ伏し、主イエスを「いと高き神の子イエス」と呼んでいます。これはどういうことでしょうか。「いと高き神の子」という言葉はこの福音書の1章32節にもあります。【1章30~33節】(100ページ)。これは神から遣わされたメシア・救い主キリストへの正しい信仰告白です。だとすれば、悪霊は主イエスを全世界の唯一の救い主だと信じ、告白しているということなのでしょうか。そうではないでしょう。悪霊は主イエスに敵対している罪の力ですから、これは主イエスに対する正しい信仰告白ではもちろんありません。悪霊自身がこの人の口を借りて「自分たちには構わないでくれ。頼むから自分たちを苦しめないでくれ」と懇願しているのですから、これが悪霊の正しい告白でないことは明らかです。

これと同じような状況がすでに4章34節に書かれていたことを思い起こします。【4章34節】(108ページ)。ここでも学びましたように、悪霊や汚れ霊は人間をはるかに上回る力や知恵(それは悪しき知恵ですが)、霊的力(これも悪しき霊の力ですが)を持っていて、人間が気づくことができず、知ることもできない真理のようなものを直観的に悟る能力を持っていたので、弟子たちでさえもまだ信じることができなかった主イエスの本当の正体を感じ取ることができたのではないかと考えられます。とは言っても、もちろんそれが主イエスに対する正しい認識でも正しい信仰告白でもないことは言うまでもなく、主イエスはそのような悪霊の告白を受け入れることはありません。それを拒絶なさいます。悪霊に向かって「黙れ、この人から出て行け」とお命じになったと、4章35節に書かれていました。

きょうの個所でも同じです。主イエスは悪霊の力も権威も、その偽りの告白をも受け入れることはありません。主イエスはいと高き神の権威と力とによって、悪霊を支配され、滅ぼされます。それがおできになります。そのことを知っている悪霊は、自分たちが完全に滅ぼされてしまうことを恐れて31節に書かれているように、「底なしの淵へ行けという命令を自分たちに出さないように」と主イエスに懇願しています。そして、悪霊たちは主イエスに豚の中に入る許可を求めたと32節書かれています。主イエスはそれをおゆるしになりました。

けれども、主イエスは悪霊たちがこれからもずっと豚の中で生き延びることをおゆるしになったのではありませんでした。豚の中に乗り移った悪霊は、豚と一緒に崖を下って、ガリラヤ湖の底に沈んで死んでしまったと33節に書かれています。

主イエスは悪霊に勝利されました。そして、このようにして、悪霊に取りつかれていた人を悪霊の支配から解放され、彼を死と暗闇の中から救い出されました。【35~36節】。主イエスが神の権威と力によって、悪霊に勝利され、死んでいた人を生き返らされる時、それを見た人々は恐れざるを得ません。神の奇跡を見る時、人はみな大きな恐れにおそわれます。主イエスのお働きの中に天におられる神の現臨を、全能の父なる神の救いのみわざを見るからです。ここでは、主イエスが十字架の死と復活によって明らかにされた罪と死に対する勝利がすでに暗示されているのです。それゆえに人々は主イエスの救いの福音を、この異邦人の地で語り伝えるということが起こっているのです。ここにすでに、後の世界の教会の働きが暗示されているのです。

37節からは、主イエスのこの救いのみわざを見たゲラサ地方の人々の反応が書かれています。【37節】。主イエスが神の権威と力によって悪霊に勝利するという神の救いのお働きを見た彼らの恐れは、しかし信仰には至りませんでした。一人の人が悪霊の支配から解放され、救われたという、この驚くべき救いのみわざを信じ、主イエスに従っていく信仰の決断をする人は、いやされたその人以外にはいませんでした。この地方の人々は主イエスにここから立ち去ってもらいたいと願いました。一人の人が救われたという神の恵みに感謝するよりも、彼らが飼っていた家畜が悪霊と一緒に湖に沈んで死んでしまったという、損失をこうむったことの方を、重大視したのでしょう。これ以上自分たちの財産を失いたくないと考えたのでしょう。

しかし、主イエスにとっては一人の人が悪霊の支配から解放され、救われたということは、全世界を手に入れるよりもはるかに尊いことなのです。主イエスは言われました。「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか」(マタイ16章26節)。またこうも言われました。「二羽のすずめが一アリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のおゆるしがなければ、地に落ちることはない。あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんのすずめよりもはるかに勝っている」(マタイ福音書10章29~30節)。

主イエスによって悪霊から解放され、救われた人は、主イエスと一緒に働きたいと申し出ましたが、主イエスは彼にこう言われました。【39節】。彼は、異邦人の地に留まり、異邦人に向かって主イエスの福音を語り伝える最初の人となりました。彼はのちの時代に全世界に建てられる教会の、最初の宣教者となりました。主イエスと出会い、主イエスの救いの恵みにあずかった人は、主イエスの福音を語り伝える人へと変えられます。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、あなたは天地創造の初めから今に至るまで、そして終わりの日に神の国が完成される時まで、恵みと慈しみとをもって、また義と愛とをもって、すべての造られたものをご支配し、導いておられます。どうか、この地においてあなたのみ心が行われますように、あなたの救いのみわざが全世界のすべての人たちに実現しますように。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

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