1月1日説教「ペトロとヨハネのサマリア伝道」

2023年1月1日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:エレミヤ書31章1~9節

    使徒言行録8章14~25節

説教題:「ペトロとヨハネのサマリア伝道」

 昨年の主の日の礼拝では、旧約聖書から創世記、新約聖書からはルカ福音書と使徒言行録、それに『日本キリスト教会信仰の告白』の4つのテキストを取り上げ、それらの連続講解説教というかたちで礼拝を守ってきました。今年もしばらくそれを続けることにいたします。神のみ言葉である聖書、そしてわたしたちの信仰と生活の唯一の規範である聖書を丁寧に、深く、また真剣に学び、そのみ言葉に忠実に従って生きる信仰の歩みを共に続けていきたいと思います。

 きょうは使徒言行録8章14節以下を学びます。初代エルサレム教会は最初の殉教者となったステファノの死後、12使徒以外のほとんどの教会員はエルサレム市内から追放されるという大迫害を受けることになりました。それは誕生して間もない教会にとっては大きな試練であり、教会の存続を脅かすほどの危機でしたが、散らされていった信徒たちはパレスチナの町々村々で主イエス・キリストの福音を宣べ伝えました。それによって、福音がエルサレムだけでなくパレスチナ全域へ、さらには北の地中海沿岸の諸国にまで広がっていきました。教会の迫害という大きな試練の時が、教会の成長と拡大の時となったのです。神のみ言葉はこの世のどのような鎖によっても決してつながれることはないということを、わたしたちはこの年の最初の礼拝でも確認しておきましょう。

日本もアジアも世界の国々も、またその中にある教会も、さまざまな災いや病、戦争による人の命と自然の破壊、貧困、飢餓、難民、社会の分断など、数えきれないほどの苦難と試練に行く手をさえぎられて、希望を見いだせないような今日の状況の中にあって、しかしそれでもなおも、わたしたちは神のみ言葉の力と命とを信じ、天から差し込んでくるまことの光に向かって、希望を抱いてこの一年を歩み出したいと切に願っています。主キリストの福音は暗い時代の中でこそ、試練と災いの中でこそ光り輝き、その豊かな恵みを現すことを信じて。

 さて、エルサレムから散らされた一人、フィリポはサマリア地方に主キリストの福音を宣べ伝えました。彼は最初の殉教者ステファノと共にエルサレム教会の貧しい人たちの食卓の世話をするために選ばれた奉仕者7人のメンバーでしたが、ステファノもそうであったように、フィリポも肉体を養うパンのための奉仕者であっただけでなく、人間の魂を養い、人間を罪から救う主キリストの福音のための奉仕者となりました。しかも、彼はユダヤ人との間で長く民族的・宗教的対立関係にあったサマリア人に平和と救いの福音を語ったのです。それは、ユダヤ人とサマリア人との長い歴史的な対立と分断を終わらせるという意味を持っていました。主イエスの十字架の福音はゆるしと和解の福音であり、人間の魂と民族・社会・国家に真実の平和をもたらす福音であるからです。

 サマリアではさまざまな異教の宗教が流行していましたが、その中でも魔術師シモンが特に多くの信奉者を集めていました。しかし、フィリポが主イエス・キリストの福音を語り伝えると、多くのサマリア人がその福音を信じ、洗礼を受けるようになり、シモン自身も洗礼を受けたと書かれています。それは、人間が考え出した偶像の神々や、人間の力によって人々を驚かす魔術に対する十字架の福音の勝利であり、神が救いの恵みによって支配される神の国が到来したことの目に見えるしるしでした。

 きょう朗読された14節以下では、エルサレムから使徒ペトロとヨハネがサマリアに派遣されたことが書かれています。【14節】。なぜ、ペトロとヨハネがサマリアに派遣されたのか、その理由についてはここでは説明されてはいませんが、このあとでも同じように、新しい伝道地にエルサレム教会から使徒が派遣されるということが、10章のカイサリア伝道や11章のアンティオキア伝道でも繰り返されていますので、ここには何らかの共通した意図があったのではないかと考えられています。

 おそらくそこには、エルサレム教会をそののちに誕生したすべての教会にとっての、いわば母教会とする考えがあったと思われます。主イエス・キリストの福音とそれに基づいて建てられた教会は、そのルーツをエルサレムに持っています。実際に、エルサレムから散らされていった信徒たちによって多くの教会は建てられたのですが、その地域の教会がエルサレム教会と具体的につながっているということを、使徒たちの派遣によって確認したのではないかと推測されています。だれかが、個人的な思いつきで、その地に自分の好みに合った教会を建てるというのではなく、エルサレム教会との結びつきの中で、初代教会であるエルサレム教会の信仰と教理、あるいは教会政治を正統に受け継ぐ教会として建てられるということを確認する意図が、ペトロとヨハネの派遣にはあったと思われます。

 わたしたち日本キリスト教会において、新しい教会が誕生する際にも、同じような制度が適用されます。数人の信徒が集まって教会を建てようとする時には、所属の中会に申し出て、その群れが日本キリスト教会の信仰を受け継いでいることを確認し、そのあとで中会から派遣された教会建設委員によって、教会建設式と長老任職式が執行されます。その際には、『日本キリスト教会信仰の告白』が共に告白され、信仰と制度の一致が告白されます。それと同じような意図がここにはあったと思われます。

 もう一つの重要な意図があったことがこのあとで明らかになります。それは、サマリア伝道のある意味での不完全さを補い、それを完成へと導くためでもありました。【15~16節】。サマリア伝道とサマリア教会の誕生が聖霊なる神のみ業であるということが、そして聖霊なる神によって完成されるということがここで明らかにされていきます。

 フィリポから洗礼を受けたサマリアの人たちは、魔術師シモンも含め、まだ聖霊を受けていなかったと16節に書かれていますが、これがどういうことを意味するのかは、はっきりと分かっていません。使徒言行録の他の箇所を読むと、2章38節のペンテコステの時のペトロの説教では、「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます」とあり、洗礼を受けることと聖霊が注がれることは切りなせない一つのこととして語られています。また、他の箇所では、主イエスを信じ、聖霊を受け、そののちに洗礼が執行される例もあります。しかし、サマリアの人々の場合、フィリポが授けた洗礼の際には聖霊が彼らに注がれていなかったと16節に書かれています。

そして、17節に「ペトロとヨハネが人々の上に手を置くと、彼らは聖霊を受けた」とありますが、手を置くとは按手のことで、一般には信徒が何か特別な務めに就く際に按手をするのですが、ここでの按手は聖霊が注がれることのきっかけになっています。なぜ、サマリアの人々には洗礼の際に聖霊が注がれていなかったのか、なぜ、ペトロとヨハネの按手によってはじめて聖霊が彼らに注がれたのか。それは、洗礼の時に彼らに真実の悔い改めが欠けていたからなのか。それとも、洗礼を授けたフィリポに何らかの欠けがあったためなのか。あるいはまた、エルサレムから派遣された使徒たちによらなければ、サマリアの群れの信仰が未熟だということなのか、そのあたりのことはよくわかっていません。

ここに記されている按手と聖霊の注ぎについては分からない点がいくつかありますが、わたしたちはここで、聖書全体で教えられている聖霊なる神のお働きについて確認しておくことが必要と思われます。使徒パウロはコリントの信徒への手紙一12章3節で、「聖霊によらなければ、だれもイエスは主であるとは言えない」と書いています。わたしたちが主イエスの福音を聞き、それを信じ、「主イエスはわたしの救い主である」と告白することができるのは聖霊なる神のお働きによります。わたし自身の知恵とか判断とかによるのではありません。わたしたちはみなこの世の朽ちるものに縛られ、わたしたちの知恵や決断も神のみ心から離れており、罪と死に支配されています。聖霊なる神がそのようなわたしの罪やかたくなさを打ち砕き、主イエスの十字架の福音へとわたしの心の目を開いてくださらなければ、だれも主イエスをわたしの救い主と告白することはできません。聖霊なる神がわたしの中に潜んでいた罪を明らかにし、それをわたしに気づかせ、わたしに悔い改めの思いを与え、主イエスの十字架こそがわたしの唯一の救いであることを悟らせ、信じさせてくださるのです。わたしが主イエスを主と信じ、洗礼を受けるときに、そこで働いておられたのは聖霊なる神にほかなりません。

では次に、18節以下に書かれている魔術師シモンの場合を見ていきましょう。【18~24節】。シモンも洗礼を受けたときに聖霊を注がれてはいませんでした。また、彼は聖霊のお働きを正しく理解していませんでした。シモンはペトロとヨハネの行動を見て、自分もまた聖霊を自分の自由に操ることができるようになりたいと考え、その能力をお金で手に入れることができると考えました。そうすれば、自分はこれまで魔術師として人々の尊敬を集めてお金儲けができたように、聖霊を自由に操作して、それを商売にできると考えたようです。彼はまだ魔術師シモンとしての名残を完全に捨てきれてはいませんでした。聖霊によって彼のすべてが打ち砕かれ、新しい人間として生まれ変わってはいませんでした。

そこで、ペトロはシモンに対して、彼が自らの罪を悔い改め、過去の自分から全く解放されて、新しい人となり、主イエスの福音によって生きる信仰者となるようにと勧めます。そのために祈るようにと勧めます。シモンはペトロの勧めに忠実に従い、悔い改め、祈る信仰者となりました。また、ペトロの執り成しの祈りに支えられる信仰者になりました。

使徒言行録がここで明らかにしていることは、聖霊とはそれ自身で自由に働かれる神の霊であり、人間がこれを思いのままに操作したり、人間の間でやり取りしたりできるものではないということ。あるいはまた、聖霊は洗礼式とか聖餐式とかの儀式と結びついているものでもなく、聖霊はあくまでも生ける神ご自身であり、自由と権威とをもって信じる人の救いのために働かれる神の霊であるということです。聖霊は今ここでも、わたしたち一人一人の救いのために働いておられます。

【25節】。エルサレム教会から派遣された使徒ペトロとヨハネの働きによって、フィリポから洗礼を受けたサマリアの人々と魔術師シモンに聖霊が注がれ、このようにして最初のサマリア伝道が締めくくられます。このようにして、ユダヤ人からは異教徒、異邦人としてさげすまれていたサマリア人に主キリストの十字架の福音が、罪のゆるしと和解の福音が宣べ伝えられ、サマリア教会が誕生したのです。主イエスが天に昇られる際に約束されたみ言葉、「あなたがたの上に聖霊が降るとあなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」、このみ言葉が成就したのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、この世界は罪と憎しみ、争いと分断によって、いくつにも引き裂かれています。それによって、多くの人々が傷つけられ、住む土地と家を追われ、パンに飢え、尊い命を奪われ続けています。憐み深い主よ、この世界にまことの和解と平和をお与えください。すべての人々にあなたからの慰めと励まし、喜びと希望をお与えください。新しい一年が主の恵みの年となりますように。あなたのみ心が行われる年となりますように。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

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