1月8日説教「救いの御業を信じる人はみな救われる」

2023年1月8日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:イザヤ書55章1~7節

    ローマの信徒への手紙3章21~26節

説教題:「救いの御業を信じる人はみな救われる」

 『日本キリスト教会信仰の告白』を続けて学んでいます。きょうは、第二の段落の最初の部分、「神に選ばれてこの救いの御業を信じる人はみな」の箇所を、前回に引き続き、聖書のみ言葉に導かれながら学んでいきます。

 「神の選び」については、これまで2回にわたって学んできました。神の選びの教理は、わたしたちの教会、宗教改革者カルヴァンの流れを汲む改革教会の信仰と神学の大きな特徴であることを確認してきました。日本キリスト教会は、ルター派教会ではなく、バプテスト教会でもいわゆる福音派教会でもなく、改革教会の伝統を受け継いでいる教会であって、その特徴の一つが神の選びを強調するという点にあります。わたしたち人間の側の選択や決断、経験が重要なのではなく、神がわたしたちの決断に先立って、あるいは、わたしが生まれる以前から、永遠の救いのご計画に従ってわたしを救いに定めてくださった。わたしを選び、わたしを信仰の道へと導いておられる。そして、この教会ときょうの礼拝に招いてくださった。わたしが今ここに、このようにして存在しているということをも含めて、わたしのすべての命と歩みは、神の主権と自由によるのであり、神の恵みの選びによることなのです。

この神の永遠で、自由な、恵みの選びがわたし自身の決断とか経験に先立ってあるのです。わたしは、このような神の選びを、すなわち、神によってわたしが選ばれているということを、信仰によって選び取るのです。それがわたしたちの信仰です。また、そこにわたしたちの信仰の確かさがあるのです。

 主イエスはヨハネによる福音書15章16節で弟子たちにこう言われました。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである」。ヨハネ福音書14~16章は、主イエスが十字架につけられる前日、受難週の木曜日の弟子たちとの別れの説教、告別説教と言われている箇所です。翌日の金曜日には、主イエスは地上から取り去られ、弟子たちだけが取り残されます。恐れと不安の中にある弟子たちに対して、主イエスはこの説教をされました。

 もし、弟子たちが自分たちの判断で主イエスを選び、自分たちの決断ですべてを捨てて主イエスに従ったのであれば、もしかしたら彼らの判断が間違っていたということがあるかもしれない、あるいは彼らの考えが途中で変わるということがあるかもしれない。そして、自分の弱さや迷いのために、倒れることがあるかもしれない。しかし、そうではないと主イエスは言われます。主イエスが永遠なる神の予定と恵みの選びによって彼らを信仰の道へとお招きくださったのです。主イエスが彼らを弟子としてお選びくださったのです。だから、彼らは自分たちの足で立つのではありません。立たなければならないのでもありません。主イエスによって支えられ、導かれているのです。それゆえに、主イエスが地上から取り去られたのち、彼らがどのような困難や試練の道を歩むことになろうとも、決して倒れることはありません。だからまた、彼らは確かな信仰の実りを結ぶことができるし、父なる神との固い交わりの中で、すべての必要なものを備えられるのです。主イエスは決別説教でそのように約束しておられます。

 わたしたちはここで、神の選びについて3つの点にまとめてみたいと思います。第一には、神の永遠なる予定と恵みの選びは、主イエス・キリストによって、わたしたちひとり一人に適用されるということです。主イエス・キリストの十字架の福音を信じるわたしたちは、主イエス・キリストによって選ばれていることを信仰によって選び取るのです。第二には、わたしたちが自分の判断とか意志によって信仰の道を選んだのではなく、主イエスがこのわたしを、取るに足りない、貧しく、弱く、欠けの多い、罪びとであるこのわたしを選んでくださったという、主イエスの選びこそがわたしの選びの確かさであり、わたしの信仰の確かさなのだということ。第三は、それゆえにこそ、わたしの信仰の歩みは豊かな祝福のうちにあり、神に喜ばれる信仰の実りを結ぶようになるのだということ。わたしたちは、このような神の予定と選びを信じているのです。

 主イエスの選びについて、ヨハネ福音書のこの個所から、もう一つのことを確認しておきたいと思います。15章19節にこのように書かれています。「あなたがたが世に属していたなら、世はあなたがたを身内として愛したはずである。だが、あなたがたは世に属していない。わたしがあなたがたを世から選び出した」。ここでも、主イエスの選びの重要な意味が語られます。わたしたちが主イエスによって選ばれ、キリスト者にされるということは、この世から選び分かたれるということでもあるのです。わたしたちは主キリストのものとされ、もはやこの世のものではありません。この世には住んでいますが、この世に属しているのではなく、主キリストに属しています。それはある意味ではこの世と対峙して生きることです。時には、この世から憎まれ、迫害される生き方を強いられます。なぜなら、この世は依然として罪に支配され、神を憎み、主イエス・キリストを拒む世だからです。

 それゆえに、主イエスによってこの世から選び分かたれたキリスト者のこの世での信仰の戦いは、時として過酷なものになることもあるでしょう。しかし、主イエスは告別説教の終わりで、このように約束しておられます。「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」。

 次に、「神に選ばれて」のあとの「この救いの御業を信じる人はみな」という告白について学んでいきましょう。この個所は、文語訳では「おおよそ神の選びを受け、この救いの御業を信ずる者は」となっています。文語訳の「おおよそ」という言葉は、「だれであれ、だれでもみな」という意味で用いられていると理解されます。英語の翻訳ではWhosoeverという言葉が用いられています。Whoever(だれでも)を強調した言葉です。「信じる人はだれでも、ひとり残らず」という意味・内容です。

 「信じる」という言葉が『信仰告白』の中ではここで最初に用いられます。この後を見ると、「信じる人を聖化し」とあり、その後には「信仰と生活」という名詞形で出ています。後半の『使徒信条』の部分では、「父なる神を信じます」、「イエス・キリストを信じます」、「聖霊を信じます」と告白されています。

 わたしたちはここで「信じる」とはどういうことか、「信仰」とは何かを考えようとしているのですが、それに先立って、『信仰告白』の文章の続き具合をもう一度確認しておきたいと思います。「神に選ばれてこの救いの御業を信じる人はみな」とありますから。神の選びは信じること、信仰を目ざしているということが分かります。わたしたちが神に選ばれているのは、わたしたちが信じるためであり、神によってわたしが信仰へと招かれるためなのだということです。

 神に選ばれているということは、何か、特権階級につくとか、人間として優秀で有能であるというお墨付きを神からいただくとか、それで神の特別な保護を約束されているということではありません。旧約聖書時代のユダヤ人の一部や、主イエスの時代のユダヤ教ファリサイ派・律法学者たちは、イスラエルの民が神によって選ばれたことをそのように誤解したために、預言者たちから非難され、また主イエスも彼らを厳しく叱責されたということを、わたしたちは聖書から知らされています。イスラエルが神に選ばれたのは、彼らが優秀な民であったからではなく、また彼らが選ばれたことを誇るためでもありません。神との契約を忠実に守り、ただ神だけを信じ、礼拝し、神の救いのみわざの証人となるためでした。弟子たちが主イエスによって選ばれたのも同様です。わたしたちが主イエスによって選ばれたのも、それ以外ではありません。わたしたちが主イエスをわたしの唯一の救い主と信じ、その信仰を告白するためにほかなりません。

 では、信じるとはどういうことなのでしょうか。まず、何を信じるのでしょうか。『信仰告白』では、「この救いの御業を信じる」と告白されています。「この救いの御業」とは、その前の「主は、神の永遠のご計画に従い」から「救いの完成される日までわたしたちのために執り成してくださいます」までの主イエス・キリストの救いのみわざを指しています。つまり、信じるとは、主イエス・キリストの救いのみわざを、十字架の福音を信じるということです。

 信じるとか、信仰を持つということは、神の存在を信じるとか、何か人間の力や能力を超えた漠然とした神の力や働きを信じるとか、神聖なものや神々しい、神秘的なものに心を動かされるとか、あるいはまた、何かの真理を信じるとかいうことではありません。神が、ご自身の独り子であり、まことの神であり、まことの人となられた主イエス・キリストによってわたしたちのためになしてくださった、具体的な、歴史的な、十字架と復活による救いの出来事、救いのみわざを信じるということなのです。

 さらに進んで、主イエス・キリストの救いのみわざが、2千年前にパレスチナの一角で起こった歴史的な出来事であったと信じるだけでなく、また、全人類の救いのためのみわざであったと信じるだけでもなく、ほかでもない、このわたしのための、このわたしを罪から救うためのみわざであったと信じること、この信仰へとわたしを導き入れるために、神はわたしを選ばれたのです。主イエス・キリストが、ほかでもないこのわたしのために、わたしを罪から救い出すために、苦しみを受けられ、十字架で死んでくださり、その尊い血を流して、わたしを罪の奴隷から贖い出してくださった。主イエス・キリストは、ほかでもないこのわたしが朽ちることのない永遠の命に生きるために、来るべき神の国の民として生きるために、三日目に復活され、天に昇られ、今もこのわたしのために執り成しておられる。そのことを信じるために、神はわたしを選ばれたのです。

預言者イザヤはイザヤ書55章でわたしたちをこのように招いています。「渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。銀を持たない者も来るがよい。穀物を求めて、食べよ。来て、銀を払うことなく、ぶどう酒と乳を求めよ。なぜ、糧にもならならぬもののために銀を量って払い、飢えを満たさぬもののために労するのか。わたしに聞き従えば、良いものを食べることができる。あなたたちの魂はその豊かさを楽しむであろう」(55章1~3節)。「主を尋ね求めよ。見いだしうるときに。呼び求めよ、近くにいますうちに。神に逆らう者はその道を離れ、悪を行う者はそのたくらみを捨てよ。主に立ち帰るならば、主は憐れんでくださる。わたしたちの神に立ち帰るならば、豊かに赦してくださる」(6~7節)。

わたしたちはこのような信仰へと招かれています。信仰とは、全くの無代価で、神から差し出される恵みを受け取ることです。わたしたちが神に何かを支払ってその代価として恵みをいただくというのではなく、糧にもならないもののために高額な代金を支払って無駄に労してきた愚かなわたしたちに、最もよい魂の糧によって養うために、神が無償で差し出してくださるゆるしの恵みを、神の側の一方的なあわれみによって受け取ること、これが信仰です。

また使徒パウロは、主イエス・キリストによってわたしのために備えられている信仰について、ローマの信徒への手紙3章21節以下でこのように語っています。「ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです」(3章21~24節)。

わたしたちはだれでもみな、神に選ばれて、この主イエス・キリストの福音を信じるなら、その信仰によって、神のみ前に義と認められ、罪ゆるされ、救われ、神の国の民とされるのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、罪の中で滅びにしか値しなかったわたしたちを、あなたがみ子の十字架の血によって、罪と死と滅びから救い出してくださったことを感謝いたします。どうか、全世界のすべての人がこの福音へと招き入れられますように。主イエス-キリストのみ名によって。アーメン。

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