4月2日説教「主イエスと弟子たちとの最後の晩餐」

2023年4月2日(日) 主日礼拝(受難週)説教(駒井利則牧師)

聖 書:出エジプト記12章21~28節

    ルカによる福音書22章14~23節

説教題:「主イエスと弟子たちとの最後の晩餐」

 主イエスと12弟子たちの最後の晩餐が、ユダヤ人の最大の祭りである過ぎ越し祭の食事であったとルカによる福音書は伝えています。22章7節以下によれば、主イエスは過ぎ越しの子羊を屠るべき除酵祭の日に、弟子たちに過ぎ越しの食事の準備をするようにと命じておられます。そして、14節で「時刻になったので」とあるのは、過ぎ越しの食事を始める時刻のことで、それは出エジプト記12章などによれば、ユダヤの暦でニサンの月の14日の夕刻に子羊を屠り、日没後(ユダヤ人は日没から新しい一日が始まると考えましたから)、ニサンの月の15日が始まるのですが、家族ごとに集まって過ぎ越しの食事をするというのが習わしでした。その食事の席で、かつて神の強いみ腕によってエジプトの奴隷に家から解放され、神の民イスラエルが誕生したことを祝い、神に感謝したのでした。

 「時刻になったので」とは、その新しい一日が始まった、過ぎ越しの食事の時間が始まったという意味なのですが、このニサンの月の15日に、かつてのイスラエルの民の救いを喜び、神に感謝するその同じ日に、神のみ子主イエス・キリストが全人類を罪からお救いくださるために十字架につけられる日となり、その日に全世界のすべての人の救いが成就するであろう、そのようにして全人類の救いが成就される日、その時が今満ちたという意味をも含んでいます。それから、「イエスは食事の席に着かれた」というみ言葉は、十字架への道を進み行かれる主イエスの固い決意を表しているようにも感じられます。

 14節には、「使徒たちも一緒だった」と書かれていますが、ここで12弟子が使徒と呼ばれていることにも注目したいと思います。使徒という言葉は、一般には主イエスの復活と聖霊降臨後に教会が誕生してから、教会の宣教のために仕えるキリスト者を言う言葉ですが、それがこの最後の晩餐の場面ですでに用いられているのは、おそらくこの最後の晩餐、過ぎ越しの食事が、のちに教会の聖餐式として受け継がれていく、その継続性を強調しているからであろうと思われます。12弟子はここですでに初代教会の使徒の働きを受け継いでいるのです。

 ユダヤ人の過ぎ越し祭の食事と教会の聖餐式との連続性、継続性ということについてもう少し深く考えてみましょう。過ぎ越しの祭りの原点は出エジプト記12章に書かれているように、イスラエルの民がエジプトの奴隷の家から救い出される直前の夕食にあります。歴史的にはおそらく紀元前1300年前後のエジプト第19王朝、ラメセス二世のころであろうと推測されています。その夜の最初の過ぎ越しの食事から、イスラエルの民が荒れ野を旅した40年間にも毎年同じ日に過ぎ越しの祭りを祝い、約束の地カナンに定住してからの何百年もの間、さらにはイスラエル王国が滅亡し、民が諸国に離散したのちにも、それぞれの散らされた地で毎年過ぎ越しの食卓を囲み、主イエスの時代に至るまで、彼らは自分たちの祖先が主なる神の恵みにより、その強いみ腕によって、奴隷の家エジプトから救い出されたことを覚え、神に感謝し続けてきたのでした。過ぎ越しの祭りはイスラエル誕生の原点を祝う祭りです。神が全世界の民の中からイスラエルをお選びになり、ご自分の宝の民とされたというイスラエルの選びの原点、イスラエルの存在と命の原点、神の恵みと救いの原点を祝う祭りであったのです。

わたしたちの教会の聖餐式もまた同じような意味を持っています。同じようなと言うよりも、聖餐式は過ぎ越し祭の食事に新しい意味を加え、イスラエルの過ぎ越し祭の成就、完成であると言うのが正しいでしょう。福音書で主イエスが弟子たちと共に祝った過ぎ越しの食事は、ユダヤ人の過ぎ越しの食事の最後となりました。また、キリスト教会の新しい意味を持った聖餐式の最初となるのです。神がイスラエルの民をお選びになって始められた救いのみわざが、今主イエス・キリストによって全世界のすべての人のための救いのみわざとして成就し、その最終目標に達するのです。

ルカ福音書に書かれている過ぎ越しの食事は(これは共観福音書と言われるマタイ、マルコ、ルカの三つの福音書にほぼ共通していますが)、当時のユダヤ人の家庭で行われていた慣習に沿っているのですが、主イエスはそれに全く新しい意味と内容を付け加えています。出エジプト記12章などで定められている過ぎ越しの食事の進め方と比較しながら見ていくことにしましょう。

まず、15、16節で主イエスはこう言われます。【15~16節】。ユダヤ人の家庭ではその家の長、ふつうは父親ですが、過ぎ越しの食事の進行役を務めます。ここでは、主イエスが弟子たちの主人として、進行役を務めておられます。しかし、主イエスはただ進行役を務めておられるのではありません。実は、主イエスご自身がこの新しい過ぎ越しの食事、すなわち聖餐式の主人公として働いておられるのだということが分ります。15節でも16節でも、「わたし」すなわち主イエスが主語です。17節以下で、主イエスが新しい過ぎ越しの食事の意味を、すなわち聖餐式の意味を説明される文章でも、すべては主イエスが主語として語られており、主イエスが今なさる救いのみわざについて語っておられるということを第一に確認しておきましょう。神がイスラエルの民をお用いになって始められた救いのみわざを主イエス・キリストが今成就されるのです。

ユダヤ人の家庭では家長が過ぎ越し祭の食事の意味を家族と子どもたちに説明します。家長は言います。「かつて、神が自分たちの先祖をエジプトの奴隷の家から導き出された時、子羊の血を家の鴨井と門に塗ることによって、夜に滅ぼす者が来て、エジプトのすべての家の長男と家畜の初子とを撃つけれども、子羊の血が塗られたイスラエルの民の家の前は通り過ぎて行って、あなたがたの家には災いが及ぶことはない。その間に、あなたがたはエジプトを脱出しなさいと神は言われました。神はイスラエルの民を子羊の血によって贖ってくださり、エジプトの奴隷の家から救い出してくださったのです。その神の救いの恵みをいつまでも忘れないために、我が家でもこのようにして過ぎ越しの食事を共にしているのです」と説明します。

ところが、15、16節の主イエスの説明は全く違っています。15節の「苦しみを受ける前に」とは、主イエスがこれまでに何度も弟子たちに語られた主イエスの受難予告を思い起こさせます。主イエスはご自分がエルサレムで長老・祭司長たちによって殺され、三日目に復活されることを弟子たちに告げておられましたが、今やその時が来たのだと言われます。そして、迫りくるご自身の死と過ぎ越しの食事とを結び付けておられます。これによって、これから弟子たちと祝う過ぎ越しの食事に全く新しい意味が付け加えられたのです。

その新しい意味を三つにまとめてみましょう。一つには、主イエスは二度と過ぎ越しの食事をすることはないということ。すなわち、これが主イエスにとっての最後の過ぎ越しの食事になるということ、つまりは主イエスは地上から取り去られ、死ぬのだということがここでは語られているのです。主イエスの十字架の死の時が迫っているのです。弟子たちはまだだれもそのことに気づいてはいませんでしたが、主イエスははっきりとそのことを自覚しておられました。

二つ目は、イスラエルの民の出エジプトの救いの恵みを祝う過ぎ越しの食事はこれが最後になるということ。これからは、新しい神の民である教会によって、全世界のすべての人を罪から救う聖餐の食卓が始まるであろうということです。

三つ目には、終わりの日に神の国が完成されるとき、過ぎ越し祭で祝われてきた神の救いの恵みが最後の完成を見るであろうということ。かつて、イスラエルの民がエジプトの奴隷の家から解放され、救われたことを祝う過ぎ越しの食事が、神の国が完成される日には、完全な形で成就され、その最終目的に達するのだ。すなわち、全世界のすべての人々が罪と死から解放され、罪ゆるされ、朽ちることのない永遠の命が与えられていることを喜び祝う神の国での大宴会、大祝宴が開かれる。教会の聖餐式はその時まで、その時を目指して続けられるであろうということです。

主イエスはご自分の死を自覚しておられますが、しかしこの場面には、悲しみも悲惨な様子も悲壮感も全くなく、むしろ希望と喜びに満ちています。主イエスはご自身の死をはるかに超えて、父なる神が定めておられるこの最後の目標にしっかりと目を据えておれら、その道を進んでおられます。

では次に、17~20節を読みましょう。【17~20節】。この場面の主イエスのみ言葉は、パウロがコリントの信徒への手紙一11章23節以下で、正しい聖餐式の執行を教えておられる箇所(これが今日のわたしたちの教会の聖餐式の制定語として読まれる箇所ですが)、それとほとんど一致します

旧約聖書の過ぎ越しの食卓では、家長である父親が子羊を屠ることとその血を塗ることの意味を語った後、苦菜を食べるのはエジプトでの苦しみを忘れないため、酵母が入っていない固いパンを食べるのは夜の間に急いでエジプトを出たので酵母を仕込む余裕がなかったから、などと説明するのですが、この日の主イエスの説明はそれとは全く違っています。

パンは「あなたがたのために与えられるわたしの体である」と言われ、「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である」と言われました。これは主イエスの十字架の死を言い表しています。主イエスが十字架上で裂かれた肉と流された血によって、ユダヤ人の過ぎ越しの祭りは全く新しい意味を与えられました。もはや、エジプトでのイスラエルの民の苦しみを象徴する苦菜を食べるのではなく、神のみ子ご自身がわたしたちの罪のために苦難の道を歩まれ、十字架の死を忍んでくださったのです。

また、もはや子羊の肉と血という、いわば代用品ではなく、罪なく、汚れなく、聖なる神のみ子のお体がささげられ、その血が注がれることによって、全人類の、すべての罪びとの贖いが完全に、永遠に成し遂げられたのです。それによって、主イエスを救い主と信じる人はみな、新しい神の民とされ、神の国での朽ちることのない永遠の命を約束されているのです。聖餐式はそのことの目に見える確かなしるしであり、またその恵みの保証であり、確証なのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、あなたはわたしたちの救いのためにみ子をご受難と十字架の道へとお導きになられました。わたしたちがまだ自分の罪に気付かず、罪と戦うこともしていなかったときに、み子はわたしたちを罪から救うために苦しまれ、裁かれ、血のような汗を滴らせながら祈られ、そして、十字架におつきになられました。どうか、この受難週をみ子のお苦しみと十字架による救いの恵みとを覚えて過ごすことができますように、お導きください。

〇主なる神よ、どうかこの世界があなたから離れて滅びへと向かうことがありませんように、あなたの義と真実によって支え、導いてください。

主イエス-キリストのみ名によって。アーメン。

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