5月28日説教「主キリストの霊によって生きよ」

2023年5月28日(日) 秋田教会聖霊降臨日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:エゼキエル書37章1~14節

    ローマの信徒への手紙8章1~17節

説教題:「主キリストの霊によって生きよ」

 きょうは聖霊降臨日です。主イエスが十字架で死なれてから50日が過ぎたこの日に、弟子たちの上に聖霊が注がれ、新しい力に満たされた弟子たちが語った説教によって、三千人余りの人が洗礼を受け、エルサレムに世界最初の教会が誕生した日です。その日以来、聖霊なる神は全世界に教会を誕生させ、またそれらの教会のすべての働き、務め、活動を導いておられます。今もそうです。きょうのわたしたちの礼拝もそうです。さらには、わたしたち一人一人の日々の信仰の歩みも、聖霊なる神によって導かれています。

 きょうの礼拝では、ローマの信徒への手紙8章のみ言葉から、聖霊なる神がわたしたち一人一人にどのように働いてくださるのか、また聖霊によって新しい命を与えられているわたしたちキリスト者はどのように生きるべきなのかについてご一緒に学びましょう。

 【8章1節】。冒頭の「従って」という言葉は、この手紙の著者であるパウロがこれまでに語ってきた内容を受けています。具体的には、3章21節から始まっている主イエス・キリストによって成し遂げられた救いのみわざと、それを信じる信仰によってすべての人は罪ゆるされ、救われるという福音です。主イエス・キリストはわたしたちすべての人間の罪をゆるすために十字架で死んでくださいました。そして、三日目に復活されて、罪と死とに勝利されました。だから、その主イエス・キリストの十字架の福音を信じるあなたがたは、「罪に定められることはありません」と宣言されているのです。

 「定める」と訳されている言葉は、裁判で用いられる法廷用語です。「罪に定められることはありません」とは「無罪判決が下される」という意味です。しかも、パウロがこれまで語ってきたことから判断すれば、この判決はこの世の法廷ではなく、天にある神の法廷での無罪判決という意味になります。つまり、あなたがた、主イエス・キリストを救い主と信じるあなたは、神のみ前で罪をゆるされ、罪なし、無罪であるとの判決を神からいただいている。だから、あなたはもはや罪の奴隷ではない、罪から自由にされている。あなたは主キリストと固く結ばれているのだから、もはや神から見捨てられている罪びとではなく、神に愛されている神の子どもたちである。そのようにして、神によって罪ゆるされている人、神に愛され、受け入れられている人として、神はあなたを見ておられるという意味です。

それをさらに説明して、2節ではこう言われています。【2節】。「霊」とは、聖霊なる神のことです。9節では、「神の霊」また「キリストの霊」とも言われています。この「霊、神の霊、主キリストの霊」が、使徒言行録2章に書かれているペンテコステ・聖霊降臨日の教会誕生の出来事を起こされた聖霊なる神のことです。パウロはこれから、聖霊なる神がわたしたちキリスト者にどのように働いてくださるのかを語るのですが、その前に聖霊について少し確認をしておきたいと思います。

 聖書では、「聖霊」「神の霊」「キリストの霊」また旧約聖書では「主の霊」と言われているのはみな聖霊なる神のことですが、単に「霊」と言われている場合も、ほとんどが聖霊なる神を指しています。聖霊なる神は、父なる神、子なる神と同様に、唯一の、永遠なる、主なる神のことです。キリスト教教理では「三位一体論」と言いますが、唯一の主なる神が、父として、子として、聖霊としての、三つの位格を持ちながら、天地万物の創造のみわざ、罪からの救いのみわざ、救いの完成のみわざをなしておられるという教理です。

 したがって、聖霊は天地創造の初めから、父なる神とみ子なる神と同様に、唯一の神として永遠におられ、旧約聖書ではイスラエルの民の信仰を導かれましたが、ペンテコステの日からは、すべての人の目にはっきりと分かるように、イスラエルだけではなく、全世界の至る所で、力強いお働きを始められました。それが、使徒言行録2章以下に書かれている内容です。聖霊がエルサレムだけでなく、パレスチナ地方全土に、小アジア地方に、ギリシャ、ヨーロッパ全域に、教会を建てられたことがそこには記録されています。そのことから、使徒言行録は聖霊行伝とも呼ばれることがあります。

 旧約聖書の時代にイスラエルの民の信仰を導かれた聖霊には、ペンテコステ以後には新しいお働きが付け加えられました。それは、主イエス・キリストによって成し遂げられた救いのみわざを証しし、すべての人を信仰へと導く働きです。すなわち、主イエスが苦難の道を進まれ、十字架に付けられ、死んで葬られ、そして三日目に復活され、40日目に天に挙げられた、その主イエスのご生涯のすべてがわたしの罪のためであった、わたしを罪から救い出し、わたしが新しい復活の命に生きるためにあったということを、わたしに悟らせ、その主イエスをわたしの唯一の救い主として信じ、受け入れる決断を与え、わたしを洗礼へと導かれる、それが聖霊なる神のお働きだということです。

 そのようにして、聖霊によって信仰へと導き入れられたキリスト者は、そののちのすべての信仰生活も聖霊によって導かれて生きるのです。それを、パウロは2節で、「霊の法則」によって生きることだと言います。「法則」とは、ある一定の原則に従って力を発揮し、支配することを言います。つまり、聖霊の力によって支配され、聖霊なる神の意志と導きに従って生きることです。主キリストに結ばれ、主キリストの救いの恵みをいただいている信仰者は、自分の意志や力、あるいは自分の好みや欲望のままに生きるのではなく、聖霊の力と働きによって、聖霊なる神のみ心に導かれて生きる者とされるのです。

 「霊の法則」と反対の意味を持つのが「肉の法則」です。それは「罪と死の法則」でもあります。生まれながらの人間はだれもみな「肉の法則」の中にあります。「罪と死の法則」に支配されています。そして、だれ一人として、この「罪と死の法則」から自分自身を解放することはできません。

でも、ほとんどの人は自分が「肉の法則」のもとにあり、「罪と死の法則」に支配されていることには気づいていません。聖書が語る神のみ言葉によって、人は初めてそのことを知らされます。そして、主イエス・キリストによって「肉の法則」と「罪と死の法則」から解放されて初めて、わたしたちは自分がかつてはそのような「法則」のもとに支配されていたのだということに気づくのです。

神はわたしたちを「罪と死の法則」から解放するために、ご自身のみ子を肉のお姿でこの世にお遣わしになりました。3節に、「罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです」と書かれてあるとおりです。神の御独り子なる主イエスは罪なき聖なる神のみ子であられたにもかかわらず、わたしたち人間と同じ肉のお姿となられ、わたしたち罪びとの一人となられました。そのようにして、わたしたち罪びとである全人類に代わって、ご自身が神の裁きを受けて、神に呪われた十字架で死んでくださったのです。主イエスはわたしたち肉にある人間が経験しなければならないすべての労苦と苦しみと痛みとをご自身に経験され、父なる神に見捨てられるほどの深い苦悩の中で、死を経験されました。主イエスは死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順に父なる神に服従されました。そのようにして、ご自身の命をかけて罪と戦われ、そしてついに、罪に勝利されたのです。父なる神はみ子主イエスを三日目に復活させ、天に引き上げられ、ご自身の右の座につかせたのです。そのようにして、罪と死とに勝利された神のみ子主イエス・キリストだけが、わたしたちを「罪と死の法則」から解放することがおできになります。

11節で、パウロは主イエスによる救いのみわざをこのようにまとめています。【11節】。ここでは、「イエスを死者の中から復活させた方」という言葉が2度繰り返されています。死の中から命を生み出される神、無から有を呼び出される全能の神のみ力が強調されています。その神が、わたしたち一人ひとりにも聖霊を注いてくださり、わたしたちを「肉の法則」と「罪と死の法則」から解放してくださるとの、強い、確かな約束がここで語られているのです。

では、そのような固い約束を与えられているわたしたちはどのように生きるべきなのかを聞いていきましょう。9節に、「神の霊」「キリストの霊」とあり、また11節でも、「イエスを死者の中から復活させた方の霊」と言われています。前に紹介したキリスト教教理の「三位一体論」では、「聖霊は父なる神と子なるキリストから出る霊」と説明されますが、その聖霊がわたしたちに注がれるということは、三位一体の神がその父としてのお働き、そのみ子としてのお働き、またその聖霊としてのお働き、そのすべてのお働きによってわたしたちの救いのために、わたしたちの救いが完成されるために、力を尽くしておられるということを意味しています。神はご自身の愛と恵みのすべてをお用いになって、ご自身の義と真実のすべてをお用いになって、わたしたち一人一人を強くとらえ、支配し、導いておられるということなのです。だから、そこには命と平和が満ちあふれています。たとえ、わたしがこの世で試練や災いにあう時にも、病や孤独と戦う時にも、全能の父なる神の霊と主キリストの霊がわたしと共にいてくださり、わたしを最後の勝利へと導いてくださるからです。

父なる神と主キリストが、すでに「肉の法則」と「罪と死の法則」に勝利しておられます。その支配からわたしを解放し、自由にしてくださいました。だから、自由にされた者として、聖霊によって生かされている者として、自分の中にある肉の働きを殺して生きるようにと13節では勧められています。【13節】。すでに、主イエス・キリストによってあなたは「肉の法則」「罪と死の法則」から解放されている。だから、そのように生きよと勧められているのです。そうであるから、いまだこの世を支配している「罪と死の法則」に対しては恐れずに信仰の戦いを挑み、主キリストの福音を語り伝える使命を果たすことができるのです。「だから、あなたがたは聖霊によって生きよ、また生きることが許されている」と聖書は語るのです。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、わたしたちは肉の弱さの中にあり、罪と死とに支配されています。どうか、わたしたちを憐んでください。わたしたちを罪と死からお救いください。

○主なる神よ、今わたしたちはあなたがみ子主イエス・キリストによってわたしたちを罪と死からお救いくださり、聖霊によって生きる新しい命の道へと導いておられることを聞きました。どうか、あなたのお招きに応えて、主キリストの福音を信じ、命と平和の道を歩む者としてください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

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