5月21日説教「エジプトに売られたヨセフ」

2023年5月21日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:創世記37章12~36節

    ローマの信徒への手紙10章5~13節

説教題:「エジプトに売られたヨセフ」

 創世記37章から、族長ヤコブ(すなわちイスラエル)の12人の子どもの一人ヨセフを主人公にした、「ヨセフ物語」と言われる一連の長い物語が始まります。これは、創世記の終わりの50章まで続きます。そして、次の出エジプト記へと物語が続いていきます。つまり、ヨセフ物語は、なぜイスラエルの祖先がエジプトに移住することになったのか、そのいきさつについて語っていることになります。それはまた、なぜイスラエルがその地での長い寄留生活ののちに、主なる神の強いみ手によって、エジプトの奴隷の家から脱出するという救いの出来事を体験するようになったのか、どのようにしてイスラエルが神の契約の民とされたのかという大きな主題へと発展していくことにもなるのです。ヨセフ物語はヨセフを主人公にしていますが、本来ヨセフの歩みと生涯を導き、支配しておられるのは主なる神であり、これもまた主なる神の救いの出来事であり、神の永遠の救いの歴史の一コマなのです。

 きょうは12節から読んでいきましょう。【12~14節】。ここから、まず分かることは、兄たちが外で羊の群れを養う仕事についていたのに対して、11番目に生まれた子ヨセフは父のところにとどまっていたということです。末の子ベニヤミンがどうしていたのかは不明ですが、ここでもわたしたちは、父ヤコブが年取ってから愛する妻ラケルに生まれた子ヨセフを特別扱いをし、仕事をさせていなかったということに気づきます。3節に、【3節】と書かれてあったのと同様です。このような父の偏愛が子どもたちの間に亀裂を生じさせ、不幸な分断と悲劇を生み出すのは当然です。

 兄たちはシケムで羊の群れを飼っていたとあり、ヨセフは父の家にいて、その場所がヘブロンであったと書かれています。実は、シケムとヘブロンの間の距離は100キロメートル以上あります。たぶん兄たちはテント生活をしながら牧草を求めて移動していたのだろうと推測されます。では、なぜその兄たちのいる遠くの地にかわいい息子ヨセフを派遣したのかの理由はよくわかりません。兄たちの手伝いのためではなかったことは確かです。14節で父ヤコブ・イスラエルは「兄たちの様子を見てきて、報告してくれ」と依頼しているからです。ここでもまだ、ヨセフに対する父の偏愛ぶりは変わっていません。父の代わりに、兄たちの仕事を監視するという意図があったのかもしれません。

 そうであればなおさら、父は兄たちがヨセフを憎んでいたことを知っていたはずなのに、なぜあえてその兄たちのところに最愛の子ヨセフを一人で派遣したのか、ヨセフが兄たちから何らかの仕返しをされるのではという危険性を理解していなかったのかという疑問が生じます。いずれにしても、父ヤコブのヨセフに対する偏愛がやがて不幸を招くことになるのは避けられません。

 ヨセフはシケムの町に着きましたが、兄たちを探しあてることはなかなかできませんでした。ようやくにして、シケムからさらに北20キロメートルのドタンで兄たちの一行を見つけました。

 ところが、兄たちはヨセフの姿を遠くに見つけると、まだ彼が近づかないうちに、セフを殺そうと相談します。【20節】。兄たちはヨセフを「夢見るお方」と呼んでいます。もとのヘブライ語を直訳すれば、「夢の主人」となります。この呼び方には、軽蔑や嘲笑(あざ笑い)の意味と、一種の恐れの念も含まれています。兄たちの考えでは、ヨセフは夢ばっかり見ている夢想家であり、現実をしっかりと見ていない、一種の甘えん坊でありわがままだという見方がある一方で、ヨセフが見た夢の背後には主なる神がおられるのではないか、もしそうだとすれば、ヨセフが見た夢のように、その内容は7節と9節に書かれていましたが、将来自分たちが弟ヨセフに支配されるようになるのではないか、それは自分たちにとっては不幸で災いだ、そんなことが起こってはならない、あるいは、起こるかもしれないという恐怖心も彼らにはありました。そこで、ヨセフを殺してしまえば、彼が見た夢も実現しなくなるに違いない、あるいは、そうなってほしいと兄たちは考えました。

 その時、12人の兄弟のうちヤコブとレアの間に生まれた長男ルベンとレアの4番目の子どもユダが、他の兄弟たちを説得して、ヨセフを殺さないでも済むように提案します。【21~24節】。また、【26~27節】。最年長のルベンが冷静な判断をし、またユダもそれに同意したことから、兄たちはユセフの命を奪うことだけはとどまりました。

 聖書はそのあたりのいきさつについて淡々と描いていて、読者であるわたしたちは、なるほど兄弟の中の最年長であるルベンは冷静な判断をしたから、ヨセフは助かったんだと納得するのですが、ここにもまた確かに、見えない神のみ手が働いていたことを読み取ることができるように思います。神は、父ヤコブ・イスラエルのヨセフにたいする偏愛によって兄弟たちの間に生じた憎しみや敵意、さらには殺意をすらも超えて、あるいはまた兄たちによってその運命を翻弄され、あわや殺されそうになったヨセフをその危機からお救いになり、彼の数奇な生涯をとおして、イスラエルの民をお救いくださるという、永遠なる救いのご計画を、神は着々と進めておられるということを、わたしたちはここから読み取ることができるのです。

 その後ヨセフがどうなったのか、ここには二つの違った内容が描かれているように思われます。一つは、25節から27節に書かれているように、ヨセフをイシュマエル人の隊商に売ろうとしたユダの提案です。この提案がどうなったのかについては、そのあと具体的に書かれていません。もう一つが、28節のミディアン人の商人たちがヨセフを穴から引き揚げて、彼を銀20枚でイシュマエル人に売り渡したということです。これから判断すれば、銀20枚を受け取ったのはミディアンの商人たちで、ルベンや兄弟たちではなかったことになります。

 ここには、もとの資料に何らかの混乱があったのではないかと考えられています。それを整理すると、ヨセフは兄たちによってイシュマエル人の隊商に売り飛ばされたという資料があり、それとは別に、ヨセフは兄たちが気づかないうちにミディアン人の商人たちが穴から引き揚げて連れ去ったという資料があり、この二つの資料がここでは結合されていると説明されています。

 物語の流れから見ると、29、30節には、【29~30節】と書かれてあるように、後者の資料に物語が続いていきます。ルベンは長男として、他の兄弟たちを説得して、ヨセフの命を助けてあげて、父のもとへと返してあげたいと願っていたのに、彼を投げ入れた穴をあとで見てみると、ヨセフの姿が見つからないので、彼がどうなってしまったのかを、本気で心配しています。長男として弟ヨセフを守り、父のところに連れ戻す責任があったのに、それができないでいる自分の無念さと弟ヨセフを失ってしまった失意の大きさで、「自分の衣を引き裂き」、悲しんでいます。ルベンはユセフが最終的にはイシュマエル人の隊商に売られてエジプトへと連れていかれたことは全く知らなかったようです。他の兄弟たちがそのことに気づいていたのかについては、何も具体的な記述はありません。

 【31~32節】。兄弟たちが行ったこの工作の背景には、当時の慣習があったと言われています。出エジプト記22章12節に、だれかが隣人の家畜を預かり、「もし、野獣にかみ殺された場合は、証拠を持って行く。かみ殺されたものに対しては、償う必要はない」と定められているように、他の人の家畜を預かって養っているときに、野獣に襲われたなら、その襲われた家畜の一部を持って帰れば、弁償する必要はなく、羊飼いとしての責任を免除されることになっていました。兄弟たちが、ヨセフが身に着けていた晴れ着に動物の血を塗って父に見せたことによって、ヨセフが確かに死んだことの証拠となっただけでなく、ヨセフが野獣に襲われた時に、自分たちはヨセフを見捨ててその場から逃げたのではなく、彼を守るためにできるだけのことをしたという証拠にもなったのです。兄弟たちがヨセフの無事を知っていてそのような工作をしたのか、それとも長男ルベンと同様に他の兄弟たちも、ヨセフがもしかしたら野獣にかみ殺されたのかもしれないと考えていたのかは、この箇所からははっきりと断定はできません。

 でも、父ヤコブ・イスラエルは、愛する息子ヨセフが野獣にかみ殺されたのだと判断する以外にありません。【33~35節】。ここには、父ヤコブ・イスラエルの深い、深い嘆き、悲しみが印象的に描かれています。それがあまりにもリアルであり、もはや何ものによっても慰められないほどの、深く、大きく、深刻な嘆き悲しみであることが強調されているので、その出来事の本当の中味を知っているわたしたちにとっては、何か滑稽で、しかし笑うに笑えない、複雑な思いを抱かせます。

 ある人はこう表現しています。「ヨセフ物語の冒頭のこの出来事の中には、まだ父ヤコブ・イスラエルがかつて犯した罪の影が残っている。それは彼ヤコブがまだ若いころから老人になるまで、彼に付きまとってきたものである。かつて彼が自分の父を欺き、父が自分よりも愛していた兄エサウの祝福を横領したように、今や彼の最愛の息子を厄介払いした他の息子たちによって欺かれているのだ」と。

かつて欺いた者が、今欺かれている、そして深く、いやしがたい嘆き悲しみに沈んでいるという、人間たちの罪と偽りの現実をわたしたちはここに見るのです。しかも、その罪と欺きが人間の存在そのものを根底から揺さぶり、あるいは否定し、拒絶すらするほどの、深い苦悩となって、「わたしも嘆きながら陰府に下って行こう」と人間に言わせているほどの、大きな、深刻な罪の現実がここにあるのを、わたしたちは知らされるのです。

そして、神はそのような人間たちの罪の現実の中で、その罪の現実を超えて、エジプトでのヨセフの歩みをなおも導いていかれます。そしてついには、そのような人間たちの罪の現実の中で、その罪の現実をはるかに超えて、神のみ子、主イエス・キリストによる罪からの救いのみわざを神はわたしたちのために成就なさったのです。わたしたちが『使徒信条』で「陰府に下り」と告白しているように、神のみ子主イエス・キリストは、「わたしは嘆きながら陰府へ下って行こう」と言ったヤコブ・イスラエルを陰府から救い出すために、そしてまた、わたしたちを罪のどん底と陰府の苦しみから救い出すために、十字架で死なれ、陰府に下られたのです。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、あなたが旧約聖書の族長たちを導かれ、イスラエルの民を導かれ、そして、あなたの独り子なる主イエス・キリストの十字架の贖いによって全人類のための救いのみわざを成就してくださいましたことを、心から感謝いたします。主なる神よ、どうか罪多く、滅びにしか値しないこのわたしをも、あなたの御愛と御憐みによって、罪と死と滅びからお救いください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

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