6月4日説教「主イエスの受難予告」

2023年6月4日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:イザヤ書53章1~5節

    ルカによる福音書9章21~27節

説教題:「主イエスの受難予告」

 ルカによる福音書9章18節から27節までには、互いに関連しあっている3つの重要な内容が語られています。18~20節は、ぺトロの信仰告白。21~22節は、主イエスの受難予告。そして23~27節は、主イエスの弟子である信仰者は日々に自分の十字架を背負って主イエスに従って生きるべきであるとの勧め。この3つのことは互いに深く関連しあっているので、その関連を考えながら読む必要があります。マタイ、マルコ、ルカ福音書、この3つを共観福音書と呼びますが、3つの福音書共に、細かな記述には違いが見られるものの、これらの3つの内容を同じ順序で、一連のものとして描いています。

 きょうは21節と22節を学びますが、これは18節から27節の関連した3つの内容の中で、その中心となっている最も重要な箇所です。

 まず21節ですが、【21節】と書かれています。弟子のペトロが主イエスを「あなたは神からのメシアです」と告白したことは正しい信仰告白であったということをわたしたちはすでに学びました。「イエスは神のみ子である」。「イエスは主である」。そして、「イエスはメシアである」。これらの信仰告白は、主イエスに対する信仰告白の基本であり、今日わたしたちが告白している『使徒信条』の土台となっているということをわたしたちは確認してきました。主イエスは全人類を罪から救うために神がこの世にお遣わしくださったメシア・キリスト・救い主であり、この方にわたしの救いのすべてがあるというのがわたしたちの信仰の中心です。

 そうであるのに、主イエスはここで弟子たちに「このことをだれにも話すな」と厳しく命じておられます。なぜでしょうか。多くのユダヤ人がこの正しい信仰告白をするようになり、主イエスを救い主と信じることこそが、主イエスの願いであり、また弟子たちはそのためにお仕えしているのではないでしょうか。そうであるのに、主イエスはこのことをすべての人に秘密にしておけと言われます。なぜでしょうか。

 このことは、一般に「メシアの秘密」と言われていて、新約聖書の大きな神学的テーマになっています。「メシアの秘密」は特にマルコ福音書で強調されていますが、共観福音書に共通しています。実は、ルカ福音書の中でわたしたちがこれまで学んできた中にも同じようなテーマがありました。4章35節では、汚れた霊(悪霊)が主イエスを「神の聖者だ」と告白した際に、主イエスは悪霊に「黙れ」とお命じになったことが書かれていました。また4章41節でも、悪霊が「お前は神の子だ」と叫んだのに対して、主イエスは悪霊にものを言うことをお許しにならなかったと書かれていました。さらに5章14節では、主イエスが重い皮膚病の人をいやされた際に、このことをだれにも話さないようにと厳しく命じられました。これらはみな、「メシアの秘密」と同じ意味があると考えられています。

 では、その意味、意図とは何でしょうか。一言でいうと、主イエスはご自身がメシア・キリストであることを誤解されたり、信仰以外の他のことのために悪用されることを注意深く避けようとされたということです。主イエスはご自身が「神のみ子」「主キリスト」「メシア・救い主」であることをこの世に宣教し、証しするためにおいでになったのですが、またそのために弟子たちを選ばれ,人々の病気をおいやしになったのですが、しかし、そのことが正しく信じられず、告白されずに、人間の好みに合わせて誤解されたり、悪のわざのために利用されたり、罪びとの救いのためではなく、この世の経済的繁栄とか、政治的運動とかのために利用される恐れがあることを知っておられました。そこで、弟子たちや人々を正しい信仰告白へと導くために、そのことがすべて明らかにされる「その時」までは、ご自身がメシアであることを安易に言い広めてはいけないと戒められたのです。

そのことがすべて明らかにされる「その時」とは、主イエスの十字架と復活の時です。その時には、主イエスがどのようなメシア・救い主であるのか、主イエスが神のみ子としてどのようなみわざをなさったのか、主イエスが全世界の唯一の主であるとはどういうことなのかが、すべて明らかにされるのです。その時にこそ、だれもが誤解することなく、他のだれかに、あるいは他の何かに悪用されることもなく、ただ主イエスの十字架の死のゆえにこそ、すべての人は主イエスをメシア・救い主と信じ、告白するようになるからです。

次の22節の主イエスの受難予告がそのことを明らかにしています。【22節】。これは主イエスによる第1回の受難予告です。このあと、2回続きます。第2回は9章44節、第3回は18章32~33節です。それぞれ表現の仕方には違いがありますが、「人の子、主イエスは苦難の道を歩まれ、十字架で死に、三日目に復活する」という中心的な内容は一致しています。

同じことを3度も予告されたのは、そのことが確かに起こることを強調しています。主イエスは父なる神が定められたこの苦難の道を、固い決意をもって進まれたのです。

また、予告とは、単に未来のことを予想して言うのではなく、主イエスが言われるみ言葉は、確実に、そして現実にその出来事を生み出していくという、力強い神のみ言葉です。

弟子たちは主イエスが復活されたあとで、この3度にわたる受難予告を思い起こし、あの時にはまだ全く気付いておらず、理解できていなかった主イエスの受難予告の意味を悟ったのでした。そして、このような主イエスのご受難の道にこそ、神の救いのみ心があったのだということを信じたのでした。

では次に、受難予告の内容を見ていきましょう。まず、主イエスはご自分のことを「人の子」と言われます。これは3回の受難予告でも同じです。主イエスはご自身の口から、「わたしは神の子である。わたしはメシア・キリストである」と言われることは一度もありません。多くの場合、ご自分を「人の子」と言われます。これにも、「メシアの秘密」と同じ意図があったと考えられています。

「人の子」とは、普通の意味で人間を言い表す言葉ですが、福音書の中ではそれに特別な意味が付け加えられています。この受難予告では、イザヤ書53章に預言されているような「苦難の僕」としての「人の子」のイメージが強調されています。主イエスは苦難の道を歩まれることによって主なる神の僕(しもべ)としての務めを果たし、主なる神のみ心を行い、他者のために執り成しをし、他の人の罪のために自ら苦しみを受け、そうすることによって多くの人を罪から救う「人の子」なのです。

しかも、主イエスが言われる「人の子」は単に他者のために苦難の道を歩むのではなく、22節で続けて説明されているように、「長老、祭司長、律法学者たちから排斥され殺される」という、最も屈辱的で、最も激しい拒絶を経験し、最も大きく深い苦難と苦悩の道を歩み、そしてついには捨てられ殺されるという、徹底した「苦難の僕」としての道を歩むというのです。そこには、何一つとして報いもなければ、もちろん誉れもありません。

「長老、祭司長、律法学者たち」は当時のユダヤ国家・イスラエルの宗教的・政治的な指導者たちでした。彼らはユダヤ最高議会(サンヘドリン、70人議会)の議員を構成し、最高裁判所の務めをも果たしていました。主イエスはこの法廷で裁かれ、最終的には、神を冒涜する者、神の律法に違反する者、エルサレム神殿を汚す者として裁かれました。当時のユダヤ人の知恵や信仰的伝統のすべてが主イエスを十字架で処刑すべき者と結論づけたのでした。そのようにして、主イエスがここで予告しておられてことが、すべてそのように実現したということをわたしたちは福音書の終わりで知らされます。

主イエスのこの「受難予告」は主イエスご自身による信仰告白と言ってもよいでしょう。主イエスはこれが「人の子」として、父なる神がご自分をこの世へとお遣わしになった目的であると悟り、信じておられたのでした。そして、父なる神が備えたもうたその苦難の僕の道を、喜んで進まれたのでした。この道を進むことこそが、全人類のまことの救いとなることを信じておられました。

しかしながら、当時のユダヤ人の多くが期待していたメシア・救い主の姿は、主イエスの「受難予告」の内容とは大きくかけ離れていたのです。当時の人たちは一般的に、いわば政治的メシアを待望していました。と言うのも、イスラエルは紀元前6世紀にダビデ王朝が倒され、それ以後次々と異教の諸外国の勢力の支配下にありました。紀元前63年からはローマ帝国の支配下に置かれていました。そのような、長い試練の歴史の中で、神がやがてメシア・救い主をイスラエルに送ってくださり、イスラエルを外国勢力から解放し、神に選ばれた自由な信仰の民として導いてくださるであろう。そのメシアはたくましい軍馬にまたがり、知恵と力と栄光を身に帯び、神に選ばれた民イスラエルの名誉と栄光を回復するであろう。そのようなメシアの到来を待望する信仰が高まっていました。

いつの時代でも、人々は自分たちが希望するメシア像を作り上げます。自分たちの願いをかなえてくれる救い主を求めます。自分たちの不足や不安、恐れや痛みを取り除いてくれる英雄を思い描きます。けれども、主イエスの「受難予告」はそれらの一切を否定し、拒絶し、打ち壊します。そして、どこに神のみ心があるのか、どこに真実の救いがあるのかをわたしたちに明らかにします。わたしたちはこの「受難予告」から主イエスの福音宣教のお働きを見ていかなければなりません。それゆえに、主イエスはご自分の十字架の時が来るまでは、ご自分がメシア・救い主であることを公に言ってはならないとお命じになったのです。

これが「メシアの秘密」の意味であり、意図です。わたしたちは当時の弟子たちやユダヤ人とは違って、主イエスの十字架の福音をすでに聞き、信じていますから、何ものをも恐れることなく、だれにもはばかることなく、大胆に、すべての人に、主イエス・キリストこそがわたしたちの唯一の救い主であると告白し、また宣べ伝えることができるのです。「主イエス・キリストはわたしたちの罪のために苦難の道を歩まれ、十字架で死んでくださり、三日目に復活され、わたしたちを罪から救い、わたしたちに新しい復活の命を授けてくださる」と宣べ伝えることができるのです。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、罪の中で滅ぶべきであったわたしたちを、あなたがみ子主イエス・キリストの十字架と復活によって救い、新しい命に生かしていてくださいますことを、心から感謝いたします。今わたしたちが遣わされているこの時代の中で、この時代の人々に、主イエス・キリストの十字架の福音を大胆に宣べ伝えることができますように、わたしたち一人一人に聖霊を注ぎ、強め、励ましてください。

○主よ、どうかこの世界とそこに住む人々を憐み、あなたの救いのみ心をお示しくださいますように。深く病み、傷つき、傷んでいるこの世界をどうぞお救いくださいますように。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

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