6月11日「人間の生と死を考える」

2023年6月11日(日) 秋田教会伝道礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:詩編90編1~12節

    ローマの信徒への手紙6章1~11節

説教題:「人間の生と死とを考える」

 今回の伝道礼拝の説教題を「人間の生と死とを考える」と付けました。その理由は、案内パンフレットにも書きましたが、わたしたちはこの数年、人間の死に関するニュースをしばしば耳にし、死について深く考える機会が多いからです。新型コロナウイルス感染症のために、高齢者や体力が弱い人が、時に十分な医療のサポートを受けられずに亡くなっていく例を多く見ました。亡くなる際にも、家族にも看取られず、また通常の葬儀も行えないというニュースも聞きました。それに加えて、戦争や侵略、内紛によって、ミサイルが平和だった町々村々の空を飛び交い、きょうは何人死んだ、その中で子どもは何人だったというアナウンスを、何度聞いたことでしょう。国家権力の暴力によって奪われていく人間の命、あるいは自然災害によって犠牲となる命、そのたびに、人間の死とは何なのか、人間の命とは何なのかと、心を痛めながら、強い憤りを感じながら、また深い同情をもって、考える機会が多くありました。みなさんはいかがでしょうか。

 このテーマのもう一つのポイントは、人間の生と死、生きることと死ぬことは、いつでも結びついているものであり、結びついて考えなければならないということです。人間は自ら死すべきものであることを知ることができる生き物であり、それゆえにまた、死の時が来るまでは人間はみな生きている、生きることができるということをも知っています。

 そのどちらをより強く意識するかで、その人の人生観が変わってくるでしょう。ある人は死に定められている自分の人生を悲観的にとらえ、辛く、暗い道を歩むようになるかもしれません。でも、ある人は希望と可能性を抱いて、死の直前までは自分は生きることができる、生きることが許されている、生きていてよいのだと考えることができます。死ぬことにより重い意味を見いだすのか、それとも、生きることにより大きな意味と希望を見いだすのか。わたしたちはだれもが後者でありたいですね。

 そこで、わたしたちは人間の命と死とを考える際に、様々なアプローチができると思いますが、たとえばそれぞれの時代の哲学者たちはどう考えたかとか、文学ではどう取り扱われているかとか、世界の宗教ではどのような違いがあるのかとか、それも興味深いのですが、人間の生と死の問題、課題を真正面から、真剣に捕らえ、その問題と課題に、神ご自身が、ご自身の命と全存在とをかけるようにして取り組まれた、主イエス・キリストの父なる神、聖書の神、キリスト教の神が、人間の生と死とをどのようにご覧になっておられるのか、どのように教えておられるのかを、見ていくことにしたいと思います。

 今簡単に触れましたように、聖書の神の教えの最大の特徴は、わたしたちがきょうテーマとして挙げている人間の生と死という問題、課題に、まさに神ご自身が、ご自身の御独り子なる主イエス・キリストの生と死そのものをとおして答えておられるというところにあります。神は天におられて、天からみ声を発して、「人間の生と死とはこうである」と教えておられるのではありません。神は天から地に下ってこられて、わたしたち人間と同じお姿になって、わたしたち人間と同じ生と死とを経験されて、それによってわたしたちの生と死との課題を担ってくださったのです。ここにこそ、人間の生と死との問題、課題に対する本物の答えがあり、わたしたちに希望と喜びを与える真理があると信じるのです。

このことについては、またのちほどお話しすることにして、先に旧約聖書、詩編90編では人間の生と死についてどのように教えられているかを学んでいきましょう。

1節に「主よ、あなたは代々にわたしたちの宿るところ」と書かれています。この詩人は主なる神に「あなたは」と呼びかけ、あなたとわたしたちの関係の中で、人間の生と死とを考えています。これが重要です。これが聖書の、またキリスト教の人間観、人生観、死生観の大きな特徴であると言えます。わたしたち人間の生と死、あるいは存在、そのすべてが主なる神との関係の中でとらえられ、理解されていることが重要です。

この詩人はおそらくは長く試練に満ちた生涯を送り、今その終りに近いことを悟り、自らの生と死とを今一度主なる神との関係の中でとらえなおしているように思われます。次の2節で、詩人はこの世界とその中にあるすべては、人間の命と存在も含めて、それらが神の創造によるものであることを告白しています。創世記の初めに書かれているように、神はこの世界とその中に住むすべての命あるものをみ言葉によって創造されました。神は「光あれ」とお命じになると、光が生じました。神は全宇宙とこの世界を同じようにして創造され、それらを正し秩序に配列されました。そして、創世記2章に書かれているように、神は人間を土のちりから創造され、その鼻から命の息を吹き入れて生きる者としてくださいました。

ここには、人間の命は本来神のものであり、神から賜ったものであるという信仰があります。そこで、詩編90編の詩人は、3節で、「あなたは人をちりに返し、『人の子よ、帰れ』と仰せになります」と言うのです。人間の命は本来神のものであり、神から与えられたものであるから、人間の命の役割を終えたら、それは神のもとへと返されるのです。これが、聖書の死の考え方です。神は人間に命を与え、またそれを取り返すのです。詩編の前にあるヨブ記1章21節にはこう書かれています。「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主のみ名はほめたたえられる」。

その人の命が生まれてわずかであったとしても、病気や事故によって途中で終わったかのように見えようとも、あるいはこの詩人が言うように70年、80年の生涯を全うしたとしても、いずれの命も、神が与え、神が取り去られた命であり、それゆえに、その死もまた神のご支配のもとにあるのであって、そのすべてに深い神のみ心があり、神の導きがあるというのが、聖書の教えです。どのような生も死も、神のみ前で意味のないものはなく、神のみ心から離れた生も死もないのです。

この詩人は人間の生と死とを、もう一つの関連の中で見ています。それは、人間の罪です。7~9節を読んでみましょう。【7~9節】。詩人は人間の死を、神の怒りの結果と見ています。人間が神に対して罪を犯し、神がそれを怒り、罰する結果として死があると考えています。罪とは、神のみ心に従わないこと、神に背くことです。それは、人間を創造し、ご自分の形に似せて、愛と真実とをもって創造された神のみ心に背くことですから、その当然の結果として、神の怒りを招き、神の裁きとしての死がやってくるのです。

この詩人はそのことをよく理解しています。けれども、だからといって神の怒りの大きさに不安になったり、生きることに希望をなくしたりはしていません。むしろ、神のみ前に謙遜になることをわたしたちに勧めているように思われます。自分の罪を知り、その裁き主である主なる神を恐れ、敬い、神のゆるしを待ち望むようにわたしたちを招いているように思われます。

そして、12節でこう締めくくります。【12節】。「生涯の日を正しく数える知恵」とは、一つには、人間が神に対する罪のゆえに死すべき者であり、永遠なる神に対して限りある者であり、はかない存在であることを知ることです。もう一つには、そのような罪びとであるわたしたちに神は命をお与えになり、生きることをゆるし、また命じてもおられることを知り、きょうの一日一日を神から賜った命として感謝して受け取り、神のみ心に従って生きる喜びと幸いを知ることです。神はわたしたち人間をご自身の形に似せて創造され、このような知恵を人間にお与えくださったのです。

次に、新約聖書を開いてみましょう。きょうの礼拝で朗読されたローマの信徒への手紙6章1~11節で、この手紙の著者であるパウロは、わたしたち人間の生と死とを主イエス・キリストの生と死とに関連づけながら語っています。4~5節を読んでみましょう。【4~5節】。聖書の神、キリスト教の神は、わたしたち人間の生と死との意味を明らかにするために、ご自身の独り子なる主イエス・キリストをこの世に派遣されたのです。その神のみ子、主イエス・キリストの十字架の死と復活によって、わたしたちに本当の死の意味を明らかにし、本当の生の意味を明らかにされました。そのことが、ここで語られているのです。

パウロはここで洗礼という儀式を比喩的に用いています。洗礼はイエス・キリストを救い主と信じる、いわば入信の儀式ですが、その洗礼によって、主キリストと信仰者とが一つに結合されることを、パウロはいくつかの表現で言い表しています。その一つは「共に」という言葉です。4節では、「キリストと共に葬られ」、6節では、「キリストと共に十字架につけられ」、8節では、【8節】。このほかにも、同じような意味で、3節では、「キリスト・イエスに結ばれて」、3節と4節では、「その死にあずかる」、5節では、「その死の姿にあやかる」「その復活の姿にもあやかる」、同じ5節では、「キリストと一体となって」など、多くの表現で主キリストと信仰者とが固く結合されることが強調されています。

その際、結合の主体と力は常に主イエス・キリストの側にあります。主イエスがわたしたち人間と連帯してくださった、わたしたち罪ある人間の世界においでくださり、わたしたちと共に歩まれ、わたしたちの罪をご自身で担ってくださり、わたしたちの罪のための裁きをわたしたちに代わって受けてくださった。そのようにして、わたしたちを罪の束縛から解放し、ゆるしてくださった。その救いの事実と恵みと、主キリストと固く結ばれることによって、信仰者のうちに豊かに注がれ、信仰者のものとされていくのです。

この箇所のもう一つの特徴は、生、生きるから、死へという順序ではなく、死から生、生きるという順序になっていることです。主イエス・キリストの十字架の死と三日目の復活に合わされた信仰者は、主キリストと共に死んだ、そして主キリストと共に復活し、生きるのだと教えられています。主イエス・キリストが生から死へ、生きることから死ぬことへと至る一般的な順序を逆転させ、死から生へ、死ぬことから生きることへ向かう新しい道を開いてくださったのです。主イエス・キリストの十字架の死と三日目の復活が、わたしたちをすべての死の支配や恐れや不安から解き放ち、神に愛され、受け入れられ、まことの命が約束されている新しい生へ、生きることへ、生きる喜びと希望へと招き入れているのです。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、あなたがわたしたちをきょうの礼拝にお招きくださり、聖書のみ言葉をとおして、主イエス・キリストにある命の道へと招き入れられている幸いをお知らせくださったことを、心から感謝いたします。わたしたちは弱い者であり、迷う者でありますが、あなたによって備えられているこの命の道を、勇気と希望をもって歩むことができますように、あなたのお導きを祈り求めます。

○重荷を負っている人、試練の中にある人、病んでいる人、不安や恐れを抱いている人、孤独な人、すべてあなたの助けを必要としている人を顧みてください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

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