7月16日説教「十字架を背負って主イエスに従う」

2023年7月16日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:イザヤ書43章1~7節

    ルカによる福音書9章21~27節

説教題:「十字架を背負って主イエスに従う」

 ルカによる福音書9章18節から27節までは、福音書の前半の頂点であると言われたり、あるいは前半と後半を分ける分水嶺とも言われます。また、18~20節で、弟子のペトロが主イエスに対して、「あなたは神から遣わされたメシア・キリスト・救い主です」と告白したペトロの信仰告白と、21~22節の、主イエスの第1回目の受難予告、そして23~27節の、だれでも主イエスの弟子である者は、日々自分の十字架を背負って主イエスに従って行くべきであるとの主イエスの勧めと、この三つのことは互いに関連しあっており、その関連の中で読まなければならないということ、これらのことを今までにも確認してきました。きょうはそれらのことを考慮しながら、23節以下の三つ目のことを学んでいきます。

 18節から27節までに語られている三つのことの中心は、二つ目の21~22節の主イエスの受難予告にあります。この受難予告を中心にして、その前のペトロの信仰告白を読まなければなりませんし、また23節以下の主イエスの勧めをも読む必要があります。

 つまり、「あなたは神から派遣されたメイア・キリスト・救い主です」というペトロの信仰告白は、主イエスが受難予告で語っておられるように、ご受難と十字架のメシア・救い主であるということが明らかにされているのです。当時のユダヤ人たちが期待していたような、イスラエルを武力でローマ帝国から解放する英雄的な王としてのメシアではなく、また、多くの人が期待するような、わたしの人生を経済的にも精神的にも豊かにし、わたしの望みをかなえてくれるようなメシアでもなく、主イエスはご受難と十字架のメシアである、すなわち、全人類を罪から救うために苦難の道を歩まれ、最後にはご自身の命を犠牲にして十字架で死なれるメシアであるということを主イエスはここで明らかにされたのです。ペトロとのちの教会は十字架の主イエスこそが全世界の唯一の救い主であると告白すべきであり、教会は十字架の主イエスを信じ、告白することによって生きるべきであり、ただそうしてのみ、生きることができるのだということが、ここでは教えられえているのです。

 次に、主イエスの受難予告と23節以下の主イエスの勧めとの関連は、これについてはきょうの礼拝で詳しく学ぶことになりますが、その関連についてはすぐに明らかなように、わたしたちキリスト者が日々に自分の十字架を背負って主イエスに従って行くべきであるのは、主イエスご自身がわたしたちに先立ってその道を歩まれたからにほかなりません。

 そこで、わたしたちに先立って十字架への道を進まれた主イエスご自身のことをまず考えてみましょう。9章18節から27節までの箇所は、福音書の前半の頂点、あるいは前半と後半の分水嶺であると紹介しましたが、このあとのルカ福音書を読むと、これ以後主イエスは確かにご自身の歩まれる道がエルサレムに向かっているということ、エルサレムでのご受難に向かっているということを深く意識しておられることが分ります。すぐに続いている28節以下の「山上の変貌」と言われる箇所もそうですし、44節の2回目の受難予告、そして51節にはこのように書かれています。【51節】。「天に上げられる時期」とは、主イエスのご受難と十字架の死、復活、そして昇天のすべてを含んでいます。それによって、神の救いの出来事が成就することを意味しています。主イエスは父なる神が備えられたこの道を、ご受難と十字架への道を、固い決意をもって進んで行かれます。それは、わたしたちの救いのためです。

 では、23節のみ言葉を読みましょう。【23節】。ここでは、主イエスの弟子であること、キリスト者であることが四つの表現によって言い表されています。一つには、「主イエスについていくこと」、二つに、「自分を捨てること」、三つは、「日々、自分の十字架を負うこと」、そして四つには、「主イエスに従うこと」。

 まず、一つ目の「わたしについて来る」は、直訳では「わたしのあとを行く」となります。主イエスをわたしの人生の先頭に立て、自分は主イエスの後をついて行くということです。わたしが自分の人生の先頭に立って、自分の道を切り開いていかなければならないのではなく、またそうする必要はなく、そうすべきでもないということです。わたしが自分の意志や知恵で選び取る道は、どれほどに慎重に選び、また熱心に努力しようが、それは罪の道であり、滅びに向かう道であるからです。わたしたちの心や思い、願い、また行動のすべては、神のみ心から離れており、神に背いているからです。主イエスの十字架がそのことを明らかにしました。わたしたち人間が自ら選び取ろうとするすべての道は神との交わりを破壊し、隣人との関係を破壊し、ついには自らを死と滅びへと至らせるほかにないのです。わたしたちの罪をゆるすために十字架の道を進み行かれた主イエスの後について行くことこそが、キリスト者とされたわたしたちが歩むべき道です。また、十字架の主イエスだけが、わたしたちの罪をゆるし、わたしたちが喜んで主イエスの後を行くことができる道へと、導いてくださるのです。

 二つ目には、「自分を捨てる」ことです。捨てるとは否定することです。これと同じ言葉が、主イエスのご受難の場面で用いられています。ルカ福音書22章56~57節を読んでみましょう。【56~57節】(156ページ)。ここで「打ち消して」と訳されている言葉と同じです。このときペトロは自分を守るために、自分を捨てるのではなく、逮捕されて裁判を受けている主イエスを否定し、捨てました。ペトロは十字架の主イエスにつまずき、十字架の主イエスを否定しました。自分の命と安全を守るために、十字架の主イエスを捨てました。主イエスの十字架の前では、そのようなすべての人間の罪が明らかにされるのです。

 では、自分を捨てるとはどういうことでしょうか。それはどのようにして可能になるのでしょうか。自分を捨てるためには、まず自分から解放されなければなりません。自分から自由にならなければなりません。自分の命と安全を守ることを第一に考える自分から、自分の地位や名誉や富を得ること第一とする自分から、自由になることです。そのような自分を否定し、わたしのために十字架につけられた主イエスをわたしの唯一の救い主として受け入れ、信じることです。それによって、わたしは罪に支配されていた自分から解放され、自由にされることができます。

 使徒パウロはそのことを、「古い罪の自分が十字架につけられて死んだ」(ローマの信徒への手紙6章6節参照)とか、「生きているのは、もはやわたしではない。キリストがわたしの内に生きておられるのだ」(ガラテヤの信徒への手紙2章20節参照)と言っています。主イエスの十字架によって罪の奴隷からは解放されたわたしは、喜んで神と隣人の僕(しもべ)として仕えるように変えられていくのです。

 三つめは、「日々、自分の十字架を背負うこと」です。「日々」と言われているように、それがキリスト者とされているわたしたちの毎日の信仰生活であるということです。この「日々」という言葉の意味を、「ペトロの信仰告白」で教えられていることとの関連で考えてみましょう。

 日本キリスト教会は信仰告白を重んじる教会です。信仰告白を重んじるとは、『日本キリスト教会信仰の告白』を礼拝の中で全員が唱和するとか、その『信仰の告白』について深く学ぶとかいうことだけではありません。わたしたち一人一人の日々の信仰生活が、「主イエスこそが神から遣わされたメシア・キリストであり、わたしたちの罪のために十字架で死なれた唯一の救い主である」という告白に生きるということ、日々の信仰の歩みで、今の時代の中で、自分が置かれている場で、そのことを証しして生きるということ、それが信仰告白を重んじる教会であるということなのです。

 「自分の十字架を背負う」とあるように、主イエスの十字架ではなく自分の、わたしの十字架を背負うと言われています。これはどういうことでしょうか。わたしが主イエスと同じように自分の罪の贖いのために十字架で死ななければならないということでしょうか。そうであるはずはありません。わたしの救いは主イエスがご自身の十字架の死で完全になし遂げられたのですから、わたしがそれに何かを付け加えなければならばいということでは全くありません。

 ある人たちは、わたしたちキリスト者がこの世で担わなければならない重荷や苦難、あるいはキリスト者が不当に負わされている重圧とか迫害のことではないかと考えます。でも、それは正確ではありません。十字架が持っている負のイメージをここで強調するべきではありません。むしろ、自分が背負うべき十字架はすでに主イエスがわたしのために背負って、ゴルゴタの処刑場まで歩まれた十字架であることを強調すべきでしょう。だから主イエスは言われました。「わたしのくびきを負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたに平安が与えられる。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」(マタイ福音書11章29~30節参照)。

 わたしが背負うべき十字架はすでに主イエスが負ってくださった十字架です。そこから、わたしの十字架が理解されます。すなわち、すでに主イエスの十字架によって罪ゆるされたいるわたしが、罪ゆるされていることの確かなしるしとして背負う十字架です。それは感謝と喜びのしるしとしての十字架です。あるいはまた、主イエスが死と復活と昇天によって罪と死とに勝利され、わたしたちを天にある神の国へとお招きくださっておられることの確かなしるしとしての十字架です。それゆえにわたしは、日々罪の自分に死に、日々に悔い改めつつ、日々に主イエス・キリストによって新しい命に生かされながら、神の栄光のために仕え、神と隣人のために自らをささげて生きる道へと招かれているのです。

 四つ目は「主イエスに従うこと」です。主イエス以外のだれをも、いかなるものをも、わたしの主とはしない、それらには従わないということです。ただ、主イエスにだけ聞き従うということです。なぜならば、これまでに学んだように、主イエスがわたしのためにご自身の尊い命をささげつくして開いてくださった命の道へ、幸いな道へとわたしを招いてくださっておられるからです。わたしはその道で、感謝と喜びに満たされつつ、主イエスによって託された務めを担っていくでしょう。「わたしに従ってきなさい。あなたがたを人間をとる漁師にしよう」(5章10節参照)との主イエスの招きを聞くでしょう。「あなたの敵を愛しなさい」(6章27節参照)との命令を聞きます。「あなたのともし火を高く掲げて、すべての人に見えるようにしなさい」(8章16節参照)との勧めを聞きます。その他のすべての主イエスの招きの言葉、務めへの召し、幸いの約束、それらのすべてのみ言葉を、喜んで聞き、主イエスに従って行くのです。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、わたしたちを罪から救うために苦難と十字架への道を歩まれた主イエスの大きな愛と恵みを心から感謝いたします。どうかわたしたちが、罪ゆるされ救われている信仰者として、あなたのご栄光を表す歩みを続けることができますように、お導きください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

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