7月30日説教「聖霊なる神の働きー聖霊の実」

2023年7月30日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

    『日本キリスト教会信仰の告白』連続講解(25回)

聖 書:出エジプト記20章1~17節

    ガラテヤの信徒への手紙5章16~26節

説教題:「聖霊なる神の働き―聖霊の実」

 『日本キリスト教会信仰の告白』の前文の中で、聖霊なる神のお働きについて告白されている箇所を学んでいます。『信仰の告白』で聖霊について告白されているのは次の3箇所です。今学んでいる箇所の前文2段落目、二つ目の文章、「また、父と子とともにあがめられ礼拝される聖霊は、信じる人を聖化し、御心を行なわせてくださいます」。次は、同じ前文の3段落目、「旧・新約聖書は神の言(ことば)であり、その中で語っておられる聖霊は、主イエス・キリストを顕(あき)らかに示し……」。そして、後半の『使徒信条』では第三項目、「わたしは、聖霊を信じます。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、体の復活、永遠のいのちを信じます」。この全体が聖霊なる神に関する告白と考えられます。

 このように見ると、日本キリスト教会は聖霊についてそれほど強調はしないと前回申し上げましたが、告白されている文章の量やその内容から言えば、父なる神、子なる神・主イエス・キリストとほとんど同じほどに聖霊なる神のお働きを重んじているというべきです。決して聖霊を軽んじているということではありません。ただ、実際には、礼拝説教の中で、あるいは聖書の学びの中で、聖霊を取り上げることは、確かに少ないというのは認めなければなりません。そこで、数少ない機会に、聖霊について正しい理解を深めるように心がける必要があります。

 きょうは、「聖霊は、信じる人を聖化し、御心を行なわせてくださいます」の後半部分、「御心を行わせる」という箇所を、聖書のみ言葉に導かれながら学びます。

「御心を行なわせる」の主語は聖霊です。また、「聖化し」の後にすぐ続けて「御心を行わせる」と続くので、「御心を行わせる」のは聖霊の聖化のお働きの一部、あるいはその結果という意味に理解すべきと考えられます。聖霊がわたしたち信仰者を日々に聖化し、この世に属する者からわたしたちを区別し、神に属する者たちとし、神にささげられた聖なる者たちとし、また主キリストに似た者たちとするという聖化のお働きは、わたしたち信仰者が神のみ心を行う者たちとして造り変えられていくということなのです。そして、聖霊の実を結ぶようになるということなのです。

 聖書はこのような聖化の働きと聖霊の実を結ぶことについてどう教えているでしょうか。【ガラテヤの信徒への手紙5章16~26節】。ここでは、霊の導きに従って歩む信仰者の新しい生き方について語られています。それは、聖霊なる神のお働きによって聖化の道を歩む信仰者の新しい歩みのことです。ここで強調されていることは、信仰者が生きる主体となるのは常に聖霊なる神であるということです。わたしが自分の道を切り開いて歩まなければならないのではなく、またそうすべきでもなく、聖霊がわたしに働かれ、聖霊がわたしの道を導かれ、聖霊がわたしのすべての行動、考えの主体となってわたしを導かれるゆえに、わたしはその聖霊の導きに従うのだということです。『信仰の告白』では「御心を行なわせてくださいます」と表現しているのはそのことです。文語文では「御心を行なわしむ」となっていました。聖霊なる神の強い意志、導きが強調されています。わたしがこの聖霊なる神の強い意志を知り、信じ、それに服従する時、聖霊はわたしを神のみ心にかなった歩みへと造り変え、導いてくださるのです。

 この箇所で繰り返して語られているもう一つのことは、聖霊の導きによって歩む生き方は、肉によって歩む生き方と真っ向から対立するということです。【17節】と書かれています。「肉によって歩む」とは、生まれながらの人間の生き方のことです。それは罪に支配されています。罪に支配されているので、自分でこうしたいと願っていても、それを行うことができないという弱さを持っています。人間の心も意志も行動も、すべてが罪の奴隷とされているからです。

 ガラテヤの信徒への手紙の著者であるパウロは、彼自身がそのような弱さを持つ人間であることを強く自覚していました。彼はローマの信徒への手紙7章18節以下でこのように語っています。「わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それが実行できないからです。わたしは自分が望む善は行わず、望まない悪を行っている。もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのはもはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです」(18~20節)。こう告白するパウロは24節でついにこう叫ばざるを得ません。「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします」(24~25節)。

 パウロはローマの信徒への手紙8章でも人間の肉と神の霊・聖霊との対立について語っています。パウロがそこで強調している点は、肉と霊の対立は、わたしたちにとって死と命の問題なのだということです。肉に従っている人は死ぬほかにない人であり、死んだ人なのだ。なぜなら、その人は神に敵対しているからだと彼は言います。反対に、霊に従っている人は生きる人であり、神から平安を与えられ、神の子たちとされると言います。人間はだれも自分自身を肉の支配から解放することはできません。罪と死の奴隷状態から自由になることはできないとパウロは繰り返します。

 わたしたちを罪と死の法則から解放されるのはただお一人、主イエス・キリストだけです。ご自身がわたしたち人間と同じ肉のお姿でこの世においでくださり、十字架と復活によってわたしたちを罪と死の法則から解放してくださった主イエス・キリストだけが、わたしたちに命をもたらす霊の法則へと導くことができるのだとパウロは言います。8章11節にはこのように書かれています。「もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬべきはずの体をも生かしてくださるでしょう」。

 そのようにして、主イエス・キリストの十字架の福音によって、罪と死の法則から自由にされる時、わたしたちは初めて神のみ心に喜んで従っていく者とされ、聖霊の実を豊かに結ぶことができるようにされていくのです。

 ではここで、パウロがガラテヤの使徒への手紙5章とローマの信徒への手紙8章で教えている聖化への道、聖霊の実を結ぶ歩みについて重要なポイントを4つにまとめてみましょう。

 第一点は、人間の生まれながらの肉と聖霊とは両立しない、両者は厳しく対立し、どちらか一方を選び取ならければならないということです。そしてそれは、わたしたちが命を選ぶのか、それとも死を選ぶのかという選択だということです。つまり、生まれながらの肉に従って死を選ぶのか、そうではなく、聖霊に従って生きる命の道を選ぶのかという選択なのです。肉に従って生きる時、人間のすべての行い、わざは、それがどんなに精魂込めてなされたとしても、それは神のみ心からは遠く離れており、罪と死と滅びに支配されているので、実りを結ぶことはできません。

 第二点は、わたしたちが生まれながらの肉の支配から解放されるためには、主イエス・キリストの十字架と復活の福音を信じる信仰による以外にはないということです。わたしたちはだれも肉の支配に負けてしまう弱い者でしかありません。自分の力で肉の欲を制御することも、それを死滅させることもできません。わたしたちのために罪と死とに勝利された主イエス・キリストだけが、聖霊によって肉と罪と死の支配からわたしたちを解放してくださいます。従って、わたしたちの聖化への道、聖霊の実りを結ぶ歩みは、ただひたすら主イエス・キリストと共に歩む道であり、主イエス・キリストが備えられた道を歩むこと以外ではありません。

 第三点は、わたしたちが聖化への道を進むためには、常に罪のゆるしを土台にし、罪のゆるしと固く結びついていなければならないということです。『日本キリスト教会信仰の告白』でも、「キリストにあって義と認められ」に続いて「信じる人を聖化し」と告白されているように、信仰義認による罪のゆるしと聖化の道は切り離すことはできません。聖化は罪のゆるしのあとに続き、罪のゆるしを土台としています。わたしたちは日々主イエス・キリストの十字架と復活の福音によって罪ゆるされている者として、主キリストと固く結ばれ、肉の支配から解放されることによって、聖化への道を進むのです。

 第四点は、わたしたちは主イエス・キリストによって肉の支配と罪と死の法則から解放されているだけでなく、それらに対する勝利を約束されているゆえに、わたしたちは勇気と希望をもって肉の弱さと戦い、罪と死の法則に抵抗し、聖霊の導きに喜んで従うものとされるということです。そのようにして、神のみ心を行い、聖霊の実を豊に結ぶようにされていくのです。

 パウロがガラテヤの信徒への手紙5章22~23節で挙げている聖霊の実は、「霊の結ぶ実}と言われているように、聖霊なる神がわたしたちの中で働いてくださり、わたしたちの朽ち果てるべき肉の体をお用いになって、わたしたちにお与えくださる実です。

 「愛」「喜び」「平安」「寛容」「親切」「善意」「誠実」「柔和」「節制」、これらの聖霊の実は、信仰者が他者との交わりの中で、他者に対して好意を示し、他者の徳を立て、他者に仕える生き方の中で与えられる聖霊の実です。これを、19~21節に書かれている肉のわざと比較してみるとその違いは直ちに明らかになります。肉のわざがすべて自分自身を楽しませ、自分自身の利益を求める生き方であることが分ります。聖霊に導かれて聖化の道を歩む信仰者は、主イエスがそうであられたように、愛と真実とをもって他者に仕えていく時に、豊かな聖霊の実を与えられるのです。

 わたしたちは最後になお一つのことを付け加えなければなりません。わたしたちの聖化の道は神の国の完成の日まで続けられるということです。その日には、神はわたしたちに朽ちず、汚れず、しぼまない、天に蓄えられている財産を受け継がせてくださるでしょう(ペトロの手紙一1章4節参照)。わたしたちは神が最後にお与えくださる天にある賞与を得るために、前のものに全身を向けつつ、目標を目指して走り続けるのです(フィリピの信徒への手紙3章13~14節参照)。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、わたしたちがあなたのみ心に喜んで聞き従い、十字架の主キリストを仰ぎ見つつ、あなたの栄光を現わす歩みを続けることができますように。主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

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