7月2日説教「聖霊なる神の働き-聖化」

2023年7月2日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

    『日本キリスト教会信仰の告白』連続講解(24回)

聖 書:イザヤ書6章1~7節

    ローマの信徒への手紙8章1~16節

説教題:「聖霊なる神の働き―聖化」

 『日本キリスト教会信仰の告白』の四つ目の文章は、「また、父と子とともにあがめられ礼拝される聖霊は、信じる人を聖化し、御心を行なわせてくださいます」と告白しています。ここでは、聖霊なる神のお働きについて告白されています。キリスト教教理で「聖化」と言われる教えです。ここでは、キリスト教教理の用語の「聖化」という言葉がそのまま用いられていますが、聖書の中に、「聖化」あるいは「聖化する」という言葉が用いられている箇所はありません。類似した言葉としては、「聖である」「聖なる」「聖とする」「聖別する」「清める」などの言葉が数多くあります。聖書で用いられているこれらの言葉は、キリスト教教理の「聖化」とは、厳密に言えば少し違った意味を持ちます。

 そこできょうは、「聖化」という教理を正しく理解するために、聖書で用いられているこれらの言葉の意味をまず学んでいきたいと思います。旧約聖書でも新約聖書でも、「聖」は、神の本質を言い表す言葉です。神は聖なる方です。ただ、神だけが聖なる存在です。神以外の、他のすべてのものは、聖ではありません。この世に属するもの、この世界、地上に属するものです。

 その意味で、聖とは、この世からは全く区別されたものであると言ってよいでしょう。神はこの世のすべてのものからは全く区別された聖なる方、永遠なる方、完全なる方、全能なる方、罪や汚れのない清い方、義なる方、そして唯一の創造者なる方であられます。それに対して、神以外のすべてのものは、わたしたち人間を含め、神以外のすべてのものは、神によって造られた被造物であり、過ぎ去り、移りゆき、滅ぶべきこの世に属し、不完全なもの、限りあるもの、弱くはかないもの、罪あるものです。このように、神と人間との絶対的な違い、区別に基づいた神の超越性が、神の「聖」です。

 預言者イザヤはエルサレム神殿で神と出会ったとき、神の使いセラフィムが互いにこう呼び交わす声を聞きました。「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。主の栄光は、地をすべて覆う」(イザヤ書6章3節)。そのときイザヤは言いました。「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者、しかも、わたしの目は王なる万軍の主を仰ぎ見た」(同5節)。このあと、イザヤは神によって罪と汚れがゆるされ、清められ、イスラエルの預言者として派遣されていきます。

 この世に属する人間は、本来、聖なる神のお姿を見ることも、そのお声を聞くこともできない。もしそうすれば、人間は滅びなければならない。死ななければならない。聖なる存在である神は、聖でない存在に対して、超越的な力、破壊的な力を持つ。そのように考えられていました。

 では、聖なる神に罪びとなる人間が近づくことは全くできないのでしょうか。この世に属する、罪に汚れた滅ぶべき人間が、聖なる神に近づくことが許される唯一の道を、神は備えてくださいました。それが、神礼拝です。わたしたち人間が聖なる神のみ前に恐れと全きへりくだりとをもって神を礼拝するときに、初めてわたしたちは神に近づき、神と交わることが許されます。

 けれども、そのままでは人間は汚れた者ですから、聖なる神のみ前に立つことができません。神のみ前に立つために、人間は聖別されなければなりません。聖別とは、聖なる神のみ前に出るために、この世のものから区別され、分離され、神に属する者に、神にささげられた者に変えられることです。

 神は全世界の中からイスラエルの民を選ばれ、ご自身の民として聖別されました。神はまた一週間のうちの一日を聖なる日、安息日として聖別されました。この日に、神に選ばれ、聖別されたイスラエルの民は、自分自身を神にささげられた者として、この世から自らを分離し、この世でのあらゆる関係やこの世での働きをすべて中止して、神を礼拝しました。そのようにして、彼らは聖なる神との交わりを持ち、神と出会い、神のみ言葉を聞き、神の救いのみわざを経験したのです。

 また、イスラエルの礼拝の中では、罪の贖いのためにささげられる動物も聖別されなければなりません。神にささげられる羊、ヤギ、牛などの家畜は、群れの中の傷がない肥えたものが選ばれ、数日前から群れからは分離されて備えておかれなければなりません。神は言われました。「わたしが聖なる者であるゆえに、わたしを礼拝する者もまた聖なるものとならなければならない」と。

 以上のことから確認されるように、聖書の中で言われる「聖」あるいは「聖別する」とは、神に属するもの、神にささげられるためにこの世から選び出され、この世から分離されるという意味です。

 さて、『日本キリスト教会信仰の告白』で告白されている「聖化」を考える場合にも、このような「聖」という言葉の意味から出発しなければなりません。聖化とは聖なるものに変えられていくことだからです。それは端的に言えば、わたしたちが神のものとされていく過程であると言ってよいでしょう。わたしがかつてはこの世に属していたが、次第に神に属する者へと変えられていくこと、わたしがこの世のものを求め、この世を基準にして生きてきた生き方から、神を求め、神を基準にして生きる生き方へと変えられること、わたしが自分自身のために生きていた生き方から、神に自らをささげ、神のために生きる生き方へと変えられていくこと、そのようにしてわたしが一歩一歩、神のものとされていく、その過程が聖化なのです。

 ここで、もう一つの重要なポイントは、その聖化は徹底して聖霊なる神のお働きであるということです。『信仰告白』のこの箇所の主語は聖霊です。わたしが自分の努力や自分の行動、意志によって自分を聖化するのではありません。あるいは、わたしの信仰がわたしを聖化するのでもありません。聖化は聖霊のみわざです。

 「聖霊は、信じる人を聖化し」と告白されているように、わたしたちがなすべきことは信じることです。主イエス・キリストの十字架の福音によってわたしの罪がゆるされているということを信じること、その信仰によって生きることです。もちろん、わたしにその信仰を与えてくださるのも聖霊なる神です。主イエス・キリストの十字架の死と復活がわたしの救いのためであることをわたしに信じさせ、その信仰によってわたしを義と認め、わたしを罪から救ってくださる、そのすべてが聖霊なる神のお働きです。その聖霊がそののちも常にわたしをとらえ、導き、わたしを聖化の道へと進ませてくださるのです。

 『信仰告白』の一つ前の文章では、「キリストにあって義と認められ」とあり、続いて、「信じる人を聖化し」とあります。義認と聖化は結びついています。義認には聖化が続きます。義認だけでは救いは完成しません。義認に聖化が続き、終わりの日の信仰の完成へと至ります。

 ところで、日本キリスト教会はどちらかと言えば聖化をそれほどには強調しないと言ってよいかもしれません。18世紀イギリスのジョン・ウェスレーを源流とするメソジスト派や今日の聖霊派と言われる教派は聖霊を強調します。彼らが考える聖化は、キリスト者が日々の生活の中で,祈りや学び、愛のわざなどの信仰の訓練を積み重ねることによって、罪と悪に勝利し、清められ、ついには全き聖化に達すると言います。ウェスレーは『キリスト者の完全』という書物を書いています。

 けれども、このような聖化の理解によれば、人間の意志や努力がどうしても重要視され、人間のわざ、道徳、倫理が強調されることになります。わたしたちの教会はそのことを警戒して、聖化を極端に強調することはしません。聖化はあくまでも聖霊なる神のみわざなのであり、わたしたち信仰者の努力義務をそこに持ち込むことは避けるべきだと考えています。

 では、わたしたちの聖化は具体的にどのようになされるのか。聖霊の聖化の働きはどのようにしてなされるのでしょうか。わたしたちの信仰にとって重要なポイントを二つにまとめましょう。

 第一には、わたしたちの聖化の道の出発とその過程、そしてその最終目的は主イエス・キリストにあるということです。ヘブライ人への手紙12章2節に、「信仰の創始者また完成者であるイエス」と書かれています。わたしたちのために十字架への苦難の道を進み行かれ、その死を耐え忍ばれ、今や勝利者として天の父なる神の右に座しておられる主イエス・キリストのみあとに従って行く道が、聖化の道です。主イエスはこう言われました。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(ルカ福音書9章23節)と。「わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられた」(コリントの信徒への手紙一1章30節)主イエスの招きに応えて、主イエスが歩まれた道、主イエスが備えてくださった道を、従順に従い行くこと、それがわたしたちの聖化です。そして、主イエスが再びおいでになられるときには、わたしたちは主イエスのお姿をありのままに見ることが許され、わたしたちも主イエスのお姿に似た者に変えられるのです(ローマの信徒への手紙8章30節、ヨハネの第一の手紙3章2節参照)。そのとき、聖化の道は最終目的に達するのです。

 もう一点は、わたしたちは常に聖化の道の途上にあるということです。わたしたちは宗教改革者たちが言ったように、常に、罪びとです。しかしまた、常に、罪ゆるされている罪びとです。それゆえに、日々、罪を悔い改めつつ、また日々、罪ゆるされていることを感謝しつつ、神を礼拝する信仰生活を続けることが、聖化への道です。

わたしたちはまだ完全な者になっているのではありません。しかし、そうでありつつ、最後の勝利と完成の時に向かっていることを知っています。だから、わたしたちが「なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリストによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ること」(フィリピの信徒への手紙3章12節以下参照)にほかなりません。この聖化への道を、聖霊は常にわたしと共におられ、わたしを導いてくださるのです。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、わたしたちを罪と滅びから解放し、救いの道へとお導きくださったことを、心から感謝いたします。わたしたちはなおも弱くつまずきやすく、迷う者です。どうか、あなたが聖霊をもってわたしたちの信仰の道を導いてください。終りの日の完成に至るまで、希望と喜びとをもって信仰の道を歩ませてください。

○父なる神よ、不安や恐れの中にある人たちを天からのまことの光で照らし、慰めと平安をお与えください。重荷を負い、生きる困難を覚えている人たちに、主キリストにある励ましと勇気をお与えください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

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