7月23日説教「起きて、床を取り上げなさい」

2023年7月23日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:ヨブ記19章23~27節

    使徒言行録9章31~35節

説教題:「起きて、床を取り上げなさい」

 使徒言行録9章31節にこのように書かれています。【31節】。これは、これまでの教会の歩みをまとめた文章です。使徒言行録の著者であるルカは、前にも何度かまとめの句を書いていました。すぐ前では、6章7節でこのようにまとめていました。【6章7節】(223ページ)。ここでは、初代エルサレム教会が2度のユダヤ人による迫害を経験しながらも、神の言葉が力強く広まっていったことが強調されていました。神の言葉はこの世のいかなる鎖によっても決してつながれることはない(テモテへの手紙二2章9節参照)ということをわたしたちはそこで確認してきました。

 きょうの31節でまず取り上げたいことは、聖霊なる神のお働きについてです。聖霊はペンテコステの日に弟子たちの上に豊かに注がれ、エルサレム教会を誕生させました。聖霊はそののちの教会のすべての歩みを導かれました。教会の宣教活動にも教会員の交わりと奉仕の働きにも、賛美や祈りにも、あるいはまた、迫害や試練の時にも、聖霊は常に教会と教会員一人一人の歩みと共にあり、その歩みをみ心のままに導かれました。

 聖霊は使徒言行録の最初から最後まで、教会と信仰者の歩みを導かれる主体です。そこで、使徒言行録は聖霊行伝とも呼ばれます。今日のわたしたちの教会でも、聖霊のお働きは絶えず続けられています。この日本の異教の地にあっても、聖霊はすべての偶像の神々に対する勝利をわたしたちに確信させます。あらゆる困難や試練の中でも、わたしたちの歩みを力強く導かれ、希望と励ましを与えてくださいます。そして、終わりの日の完成へと導いてくださいます。

 31節では、「聖霊の慰めを受け」と書かれています。「慰め」と訳されているもとのギリシャ語は「パラクレーシス」であり、これは「傍らに呼び出された」という意味を持ち、「弁護」とか「慰め、励まし、呼びかけ」と訳されます。聖霊は常に教会のすべての歩みに伴っていてくださいます。わたしたち信仰者の傍らに立ち、時に、失望しているわたしに勇気と希望を与え、時に、道に迷っているわたしを正しい道へと呼び返し、時に、この世のことで心を煩わせているわたしを神のみ言葉へと差し向けてくださいます。そのようにして、聖霊は教会とわたしたち一人一人の信仰を終わりの日の完成へと導いてくださるのです。

 次に、「平和を保ち」とあります。わたしたちがこれまで学んできたように、初代教会は同胞のユダヤ人、あるいはユダヤ教から幾度も激しい迫害を受けました。エルサレム市内から多くの教会員が追放され、散らされるという大迫害もありました。そして、その迫害の急先鋒であったサウロ、すなわちパウロが復活の主イエスとの衝撃的な出会いによって、迫害者から福音の宣教者に変えられたという驚くべき出来事を9章の前半で読みました。教会は今、しばしの落ち着いた平安な時を迎えています。けれどもそれは、教会に迫害がなくなったという保証ではもちろんありません。12章1節で新たな迫害が始まることをわたしたちは読むことになるでしょう。それまでの少しの間の平和です。

この平和の期間もまた、教会の内的な充実と成長の時です。迫害の時に、神のみ言葉の力によって教会が成長したように、この平和の期間にも教会は成長し続けます。平和の中で休んでいるのではありません。神のみ言葉はいつも生きて働きます。聖霊はいつもわたしたちと共に歩まれます。教会は与えられた平和に感謝しながら、たゆみなくその歩みを続けます。

もう一つ31節で重要なことは、「主を畏れる」ということです。主なる神を恐れるという信仰は、旧約聖書時代からの信仰者の最も基本的、中心的な信仰の姿勢です。主なる神を恐れるとは、神を神とし、人間を人間とすること、そして主なる神以外のいかなるものをも神とはしないということです。主なる神への恐れがなければ、教会のわざは人間的なもの、この世的なものになり、終わりの日のみ国での真の実りを結ぶことはできません。教会の伝道活動、熱心な祈り、聖書の学び、信徒の交わり、一人一人の奉仕、あるいは喜びや悲しみを分かち合うこと、それらのすべてが主なる神への恐れをもってなされる時、人間の計画や思いや努力をはるかにまさった神のみわざが行われ、神の奇跡が行われ、豊かな祝福と実りが与えられるでしょう。

このように、聖霊なる神が共におられ、信仰者が神への恐れをもって共に仕える時に、教会は神のみ言葉の上に固く建てられ、また神のみ心かなって成長していくのです。

32節からは使徒ペトロの働きについてしばらく語られ、これは10章の終わりまで続きます。【32節】。ペトロの活動について最後に語られていたのは8章14節以下でした。そこでは、ペトロはヨハネと一緒に、誕生して間もないサマリア教会を視察するために、エルサレム教会から派遣された巡回伝道者としての務めを果たしていました。この箇所で、ペトロが方々を巡り歩き、リダという町の信者たちを訪問したのも、同じ巡回視察の務めのためと思われます。

初期のころの教会は、エルサレム教会をいわば母なる教会と考える意識が強くありました。パレスチナ各地に建てられた諸教会は、だれかが勝手に自分の好みに合わせた教会を形成するのではなく、母なる教会、エルサレム教会に連なる一つの教会として、その信仰を受け継いだ教会でなければなりません。更にその源流をたどれば、エルサレムで起こった主イエス・キリストの十字架の死と復活という出来事から始まっているのであって、全教会は母なる教会、エルサレム教会に連なっていると考えられていました。

ペトロは主イエスの12弟子のリーダーでしたが、またエルサレム教会のリーダーともなりました。彼はエルサレム教会を代表して各地に建てられた教会を巡回していたようです。このあと巡回する36節のヤッファ、10章24節のカイサリア、そして12章2節でエルサレム教会に戻るという道のりです。

リダの町はエルサレムから北東の方角へ40キロメートルほどに位置しています。この地に最初に伝道活動をしたのがだれであるかは知られていませんが、おそらくは8章1節に書かれていたエルサレム教会が受けた大迫害でエルサレムから追放された信者たちではないかと推測されます。サマリア教会もそうであったように、迫害で散らされて行った信者たちが、このようにして各地に宣教活動を展開していました。神は迫害という不幸な出来事をもお用いになって、教会の宣教活動を拡大させてくださるのです。

「リダに住んでいる聖なる者たち」と書かれていますが、ここではまだ教会という群れを形成するには至っていなかったようです。信者たちは「聖なる者たち」と言われています。この世から区別され、主キリストによって神のものとされ、神にささげられる者となったという意味です。彼らがエルサレムから追い出され、散らされた者としてリダに住むようになったにしろ、あるいはもともとリダに住んでおり、この町でだれかの宣教活動によってキリスト者となったとしても、そしてリダに住民登録をしているとしても、彼らは主キリストの十字架の血によって買い戻され、神のものとされ、本来は神の国の住民であり、天に国籍を持つ者たちです。わたしたちすべてのキリスト者もまたそのような意味での「聖なる者たち」です。

【33~34節】。ペテロは巡回視察のためにこの町の信仰者の様子を見に来ただけではありません。この町でも、ペトロは主キリストの福音を宣教する伝道者として、主キリストの救いのみわざのために仕えます。長い間重い病気で苦しむ一人の人と出会い、その人を信仰と救いへと導きます。

「会った」と33節に書かれています。人と人が出会うという経験はわたしたちの人生にとってとても貴重です。多くの良き出会いの経験をとおして、わたしたちは成長していきます。けれども、人間が人間と出会うだけではまだ決定的な出来事が起こりません。その出会いをとおして、主キリストとの出会いへと導かれることこそが、重要です。ペトロはアイネアを主イエス・キリストとの出会いへと導きます。わたしたちの伝道活動もこのようにして行われます。

ペトロは単刀直入に、「アイネア、イエス・キリストがいやしてくださる。起きなさい」と命じます。ペトロ自身がアイネアの病気をいやすのではありません。あるいはペトロが優秀な医者のところへ彼を連れて行くのでもありません。ペトロはただ主イエス・キリストを信じる信仰者として、主イエス・キリストこそが彼の病をいやしてくださることを信じて、命じているのです。命じているのはペトロですが、いやしのみわざを行っておられるのは主イエスです。主イエスは神から遣わされたメシア・救い主としてわたしたちのすべての罪をゆるし、また病をいやしてくださいます。詩編103編の詩人は3~5節でこのように預言しています。「主はお前の罪をことごとく赦し、病をすべて癒やし、命を墓から贖い出してくださる。慈しみと憐みの冠を授け、長らえる限り良いものに満ち足らせ、鷲のように若さを新たにしてくださる」。主イエスはこの預言を成就されたのです。

アイネアに対するペトロの命令は3章6節で彼が神殿の境内に横たわっていた足の不自由な人に語りかけた言葉と似ています。3章6節にこう書かれていました。「ナザレ人イエス・キリストの名によって歩きなさい」。それはまた、ルカ福音書5章24節で主イエスご自身が語られた言葉と似ています。「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。そして、中風の人に、わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」。ペトロのいやしのわざは、この主イエスご自身のみわざの継続と言ってよいでしょう。それらのすべてにおいていやしのみわざをなしておられるのは、わたしたちの罪のために十字架で死なれ、三日目に復活された主イエス・キリストご自身にほかなりません。ペトロをはじめ初代教会の使徒たちは主イエスによる罪のゆるしのしるしとして、このような病のいやしの賜物を与えられていました。

長い間寝たきりであったアイネアが起き上がり、それまで自分が寝ていた床を整えることは、主イエスを信じて罪をゆるされ、新しい信仰の歩みを始めたことの目に見えるしるしです。アイネア自身がそのことを体験したしるしであり、また周囲の人たちに対しても主イエスによる奇跡的ないやしと救いのみわざの目に見える、確かなしるしとなりました。それは、アイネアが長い間縛りつけられていた罪の奴隷からの解放のしるしであり、彼が縛りつけられていたすべての束縛からの解放のしるしです。

「アイネアはすぐに起き上がった」と書かれています。主イエスを救い主と信じる人は、すべての奴隷と束縛の鎖から解き放たれ、自由にされ、罪と死の中から起き上がることができるのです。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、罪の中にあって死んでいたわたしたちを、あなたがみ子の十字架の死と復活によって、死の床から起き上がらせてくださり、新しい命に生きる者としてくださったことを感謝いたします。願わくは、わたしたちを日々新たに造り変え、あなたのみ心を行う者としてください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

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