8月6日説教「平和を実現する人々は、幸いである」

2023年8月6日(日) 秋田教会主日礼拝(世界平和祈念礼拝)

説教(駒井利則牧師)

聖 書:イザヤ書2章1~5節

    マタイによる福音書5章1~12節

説教題:「平和を実現する人々は、幸いである」

 主イエスはある日、ガリラヤの山に登られ、弟子たちを集めて説教されました。マタイによる福音書5章1節以下は「山上の説教」と言われます。その中の9節で、主イエスはこう言われました。【9節】。きょうの、「世界の平和を祈念する礼拝」では、この9節のみ言葉を中心に、聖書が語る平和について学んでいきたいと思います。

この箇所の古い文語訳聖書では次のように訳されていました。「幸福(さいわい)なるかな、平和ならしめる者、その人は神の子と称えられん」。この方が、原典のギリシャ語の語順に近い翻訳です。つまり、「幸いである」という言葉が文章の先頭に置かれ、強調されているのです。旧約聖書の詩編1編1節では、「いかに幸いなことか」と訳されていますが、マタイ福音書のこの箇所も、「いかに幸いであることか、何と幸いであることか」と訳す方が、原典の意味を汲んでいます。

では、「幸いである」という言葉が強調されていることの意味は何でしょうか。だれが幸いであるか、どんな状況がより幸福と感じるのかは、人によって違うでしょうし、時代や場所によっても受けとめ方は違うでしょう。けれども、聖書が、「幸いなるかな、何と幸いであることか」と強調して告げる場合は、他者と比較してとか、その時代の価値観に照らして、ということではなく、この世のあらゆる幸いとは全く違った、天から与えられる幸いのことなのです。天におられるすべてのものの造り主なる神、すべての命あるものの主であられ、父であられる神から与えられる幸いのことなのです。

実際に、主イエスの説教を聞くためにガリラヤの山のふもとに集まってきている群衆や、主イエスの12弟子たちは、幸せな生活を営んでいた人たちもいたでしょうし、困難を抱えて、辛く苦しい毎日を送っていた人たちもいたでしょう。特にこの時代は、イスラエルは長く外国の支配下にあり、国の外からは異教的な弾圧に苦しめられ、国の内では権力をふるうヘロデ王家の圧政に苦しめられていました。多くの人々は自分たちが幸いであるとは感じていなかったと思われます。

また、今この時代の中で、そしてきょうの礼拝で、この主イエスの「あなたがたはさいわいなるかな」というみ言葉を聞いているわたしたちはどうでしょうか。わたしたちが今生きているこの世界、この国、地域、家庭、わたし自身には、本当の幸いがあるでしょうか。むしろ、不安や恐れ、思い煩い、憎しみ、悲しみ、怒りの方が多くあるのではないでしょうか。

主イエスは今、そのようなすべての人たちに呼びかけておられるのです。「あなたがたは何と幸いであることか」と。なぜならば、主イエスの山上の説教は、天の父なる神からの語りかけであり、神の命と恵みに満ちたみ言葉の説教だからです。そして、神の恵みと命に満ちたみ言葉は、それを聞いている人の中に、新しい出来事を生み出していくからです。「幸いなるかな」との呼びかけを聞き、それを天の父なる神がお語りくださった神のみ言葉と信じる人に、神から与えられる幸いが創り出され、その人を実際に幸いな人として造り変えるのです。

なぜ、そいうことが起こるのかを深くさぐっていくと、ここで説教をしておられる主イエスご自身に行き着きます。主イエスは神のみ子として、クリスマスの日に、おとめマリアの胎から聖霊によってお生まれになりました。天におられる神が、地に下ってこられ、わたしたち人間と同じ肉のお姿でこの世においでくださいました。神はわたしたち罪の中にある人間たちと共におられるしるしとして、み子主イエスをこの世にお送りくださいました。それだけではありません。主イエスはご自身の罪も汚れもない肉のお体を、わたしたちの罪を贖うための供え物として十字架におささげくださったのです。それによって、わたしたちを罪の支配から救い出し、神の所有として買い戻してくださったのです。罪の奴隷であったわたしたちを神の子どもたちとしてくださったのです。

そのようにして、神のみ子・主イエス・キリストはわたしたちに「幸いなるかな」と語りかけ、わたしたちの中に天から与えられるまことの幸いを、永遠の幸いを創り出してくださるのです。

では次に、「平和を実現する人々」とはどのよう人々のことなのかを見ていきましょう。「平和」という聖書の用語は、旧約聖書ではヘブライ語の「シャローム」、新約聖書ではギリシャ語の「エイレーネー」です。この二つは、今日でもそれぞれの言語が用いられている国では、一般のあいさつの言葉として、日常で用いられているそうです。「こんにちは、おはよう、お元気ですか、またね」というあいさつとして、「シャローム」「エイレーネー」と声を掛け合うそうです。「あなたに平安があるように」という意味合いでしょうか。

ヘブライ語の「シャローム」は聖書では「平安、平和」と訳されるほか、「繁栄」「救い」とも訳されます。神と人間との関係において、あるいは国と国の関係、人間と人間の関係において、破れがなく、不和や争いがなく、満たされている関係にあること、精神的に不安や恐れがないこと、経済的には貧富の差による軋轢や富の独占がなく、肉体的には健康で活力に満たされていること、そのような状態を「シャローム」と言い表しました。ギリシャ語の「エイレーネー」も新約聖書の中では「シャローム」の意味を受け継いでいます。すべての点において神のみ心のままに調和と協力、分かち合いと豊かな交わりがある状態が「エイレーネー」です。

ところが、多くの場合、人間の罪によってこの平和が乱され、踏みにじられ、破壊されているという現実があることを聖書は語るのです。戦争、あらゆる争い、略奪、憎しみ、分断、それらはみな人間の罪が生み出すものです。人間が神の創造のみわざを破壊し、神の救いのみ心をそむき、神の義と公平を重んじないところに人間の罪があり、それが平和を破壊し、戦争を生み出します。

神がご自身の形に似せて創造された人間の命を尊重せず、その命を傷つけ、破壊する殺人が行われているところには平和はありません。神が創造された海、山、自然を砲弾で破壊し、その地の上を戦車のキャタビラで掘り返すところには平和はありません。核兵器や長距離弾道弾の恐怖におびえて暗い夜を過ごさなければならないところに平和はありません。だれもが他の人よりも多くを持とうとし、隣の貧しい人に目を向けないならば、その社会がどんなに富み栄えていても、そこには平和はありません。人間の罪が支配しているところには、国家であれ、社会であれ、家庭であれ、そこには平和はありません。

では、主イエスはどのようにして弟子たちを、またわたしたちを「平和を実現する幸いな人たち」とするのでしょうか。罪の中にあって、平和を破壊し、新たな戦争を生み出すことしかできないような、傲慢で不従順なわたしたち、自分を守るためにより強力な武器を持とうとしているわたし、他者をゆるすことができず、自分こそが正しいと主張しているわたし、心では平和を願いながら、世界平和のための祈りに乏しいわたし、平和のために立ち上がる勇気も力もないわたし、そのようなわたしに対しても、主イエスは「幸いなるかな、平和を実現する人たちは」と呼びかけてくださるのでしょうか。

9節後半の言葉に注目したいと思います。「その人たちは神の子と呼ばれる」。この文章は前半で語られたことの理由や根拠を示しています。新改訳聖書2017年版では、「その人たちは神の子どもと呼ばれるからです」と訳しています。つまり、主イエスはこう言われるのです。「あなたがたはかつては罪の奴隷になっていて、戦いや分裂しか生み出すことができない人たちであったが、今やあなたがたは罪の奴隷から解放され、神に属する者たちとされ、神の子どもたちとされているのであるから、そして今天の父なる神からの幸いを与えられているのだから、あなたがたは平和を実現する者たちとして新しく造り変えられているのだ」と。

ここでもう一度、わたしたちに「幸いなるかな」と呼びかけてくださる主イエスご自身に目を向けましょう。実は、主イエスこそがただお一人の神のみ子です。わたしたちは主イエスによって、いわば神の養子とされているのです。ヨハネの手紙一3章1節にはこのように書かれています。「御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどで、事実また、そのとおりです」。わたしたちが神の子どもたちと呼ばれるために、父なる神はご自身の一人子なる主イエス・キリストを罪びとたちの手に渡され、全人類を罪から贖う供え物として十字架におささげくださった、それほどに大きな愛によってわたしたちを愛されたからなのだと、この手紙は語っているのです。

主イエスはご自身の十字架の死によって、神と人間との間を隔てていた罪を滅ぼしてくださいました、また、人間と人間、国と国との間を隔てていた敵意や憎しみを滅ぼしてくださいました。そのようにして、主イエスはいくつにも分裂していた人間とこの世界とを一つに結び合わせ、共に神と和解されている者たちとしてくださったのです。そして、この和解の福音を宣べ伝える務めをわたしたちに授けてくださったのです。わたしたちは平和の創造者であられる主イエスの十字架の福音を携えて、この世へと、世界へと派遣されていくのです。主イエス・キリストの十字架の福音こそが、どんな武器よりも、核兵器よりも、力強く、そして確かに、この世界と人間たちに、真実の平和をもたらすということを、語り伝えていくのです。これがキリスト教会の使命です。また、教会に招かれているわたしたち一人一人の使命です。

(執り成しの祈り)

(礼拝出席者全員で「世界の平和を願う祈り」をささげましょう。

【世界の平和を願う祈り】

天におられる父なる神よ、

あなたは地に住むすべてのものたちの命の主であり、

地に起こるすべての出来事の導き手であられることを信じます。

どうぞこの世界をあなたの愛と真理で満たしてください。

わたしたちを主キリストにあって平和を造り出す人としてください。

神よ、

わたしをあなたの平和の道具としてお用いください。

憎しみのあるところに愛を、争いのあるところにゆるしを、

分裂のあるところに一致を、疑いのあるところに信仰を、

絶望のあるところに希望を、闇があるところにあなたの光を、

悲しみのあるところに喜びをもたらすものとしてください。

主よ、

慰められるよりは慰めることを、

理解されるよりは理解することを、

愛されるよりは愛することを求めさせてください。

なぜならば、わたしたちは与えることによって受け取り、

ゆるすことによってゆるされ、

自分を捨てて死ぬことによって永遠の命をいただくからです。

主なる神よ、

わたしたちは今切にあなたに祈り求めます。世界にまことの平和を与えてください。

深く病み、傷ついているこの世界の人々を憐れんでください。

あなたのみ心によっていやしてください。

わたしたちに勇気と希望と支え合いの心をお与えください。

主イエス・キリストのみ名によってお祈りいたします。アーメン。

 「聖フランシスコの平和の祈り」から

2023年8月6日

日本キリスト教会秋田教会「世界の平和を祈念する礼拝」

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