8月20日説教「山上での主イエスの栄光の姿」

2023年8月20日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:詩編2編1~12節

    ルカによる福音書9章28~36節

説教題:「山上での主イエスの栄光の姿」

 ルカによる福音書9章16節から27節は、この福音書の前半の頂点、あるいは前半と後半とを分ける分水嶺と言われます。ルカ福音書を読み進んでいくと、この時から、主イエスはご自身でもはっきりと自覚をもってご受難と十字架への道を進んで行かれることを感じ取ることができます。また、この箇所で語られている三つのこと、つまり、ペトロの信仰告白と、主イエスの第一回目の受難予告、そして主イエスの弟子である者は、日々自分の十字架を背負って主イエスに従って行くべきであるということ、これら三つのことは互いに深く関連しあっているということ、それがこの箇所のもう一つの重要なポイントであるということをわたしたちは学んできました。

 そして、きょうの礼拝で朗読された28節以下に記されている、後半の最初の場面、山上で主イエスのお姿が栄光に包まれたという山上での変貌と言われる箇所も、その前の三つのことと、別の意味で深く関連しあっています。これまでに学んできたことを振り返りながら、その関連性についてまず考えてみましょう。

 弟子のペトロが、「あなたこそが神から遣わされたメシア・キリスト・救い主です」と告白した主イエスは、第一回目の受難予告によって、ご自身が受難と十字架のメシアであることを明らかにされました。主イエスは人々が期待していたような政治的メシアではなく、罪や悪を剣や権力によって滅ぼす英雄的なメシアでもなく、国家や社会を繁栄に導くメシアでもない。全人類の罪のためにご自身が神の裁きを受け、苦しまれ、十字架で死なれるメシアである。それゆえに、そのメシア・キリストを信じる信仰者もまた、日々に自分の十字架を背負って、罪の自分に死につつ、神と隣人とのために自らをささげ、主イエスが進まれた道を生きるべきであると教えられました。

そして、その主イエスのお姿が山上で栄光に輝いたというこの箇所から、十字架の主イエスはまた同時に罪と死とに勝利され、復活された栄光の主であるということが明らかにされているのです。

 さらには、ご受難と十字架の主イエスをわたしの救い主と信じ、告白するキリスト者は、日々に自分の十字架を背負って生きることによって、主イエスが神の国で栄光の座につかれる時には、同じ栄光にあずかることが許されるという約束が、ここでは語られているのです。ここでは、いわゆる十字架の神学と栄光の神学とが結びつけられています。ご受難と十字架の主イエスは、同時に勝利と栄光の主イエスです。わたしたちキリスト者は苦難と十字架をくぐりぬけて、主イエスの勝利と栄光にあずかることが許されているのです。それが、きょうのみ言葉の中心的なメッセージです。

 では、28節から読んでいきましょう。【28節】。ルカ福音書は主イエスの祈りのお姿を多く描いていることをこれまでも確認してきました。主イエスが洗礼を受けられたとき、12弟子を選ばれたとき、そしてすぐ前の18節でも、主イエスは重要な場面で、あるいは重要な決断をなさるとき、いつも祈られました。父なる神のみ心を尋ね求め、それに従われました。わたしたちも祈りの大切さを今一度思い起こしたいと思います。

 次に、「山に登られた」とあります。山は旧約聖書でも新約聖書でも、神が人間と出会う場です。人里から離れ、人間たちの営みとこの世から離れ、ただ神とだけ向かい合う場です。主イエスはそのような場、そのような時を大切にされました。わたしたちはどうでしょうか。そのような場を、そのような時を持っているでしょうか。余りにも人間的なしがらみの中にがんじがらめに縛り付けられ、この世の有様に心も体も奪われてしまってはいないでしょうか。神と向かい合い、神と語り合うことが少なくなってはいないでしょうか。わたしたちはそのような場とそのような時を、もっと確保しなければなりません。

 主イエスはその際に三人の弟子たちを連れていかれました。ペトロ、ヨハネ、ヤコブ、この三人は8章51節で、会堂長ヤイロの娘を主イエスが生き返らされたときにも、選ばれてその証人となりました。彼らは主イエスの重要な場面の証人として選ばれているのですが、彼らが選ばれたのは、彼らが他の弟子たちよりも信仰深かったからとか、優秀であったからでは必ずしもありません。と言うのも、32節には「ひどく眠かった」と書かれていて、彼らは主イエスと共に目覚めて祈っていることができなかったからです。彼らはそのような弱く、信仰の浅い人間の代表者なのです。そうでありながらも、主イエスによって選ばれて、この重要な場面の証人とされ、主イエスの栄光のお姿をその目で見ることを許されたのは、主イエスの一方的な恵みの選びによることです。

 【29~32節】。主イエスの「服は真っ白に輝いた」と書かれています。主イエスがこのときにどのようは服装をしておられたのかは分かりませんが、おそらくは粗末なものだったに違いありません。日夜、福音宣教のために旅を続けておられたのですから、服は擦り切れ、泥やほこりにまみれていたと思われます。また、そのお顔は汗で汚れ、みすぼらしかったと推測されます。人となられた神み子は、そのようにして身も心もすり減らすほどに,わたしたちの救いのために働かれました。

 その主イエスのお顔が今、山の上で突然に変わり、その服が真っ白に輝いたのです。白く輝く服装は神の使い、天使の服装です(ルカ福音書24章4節、ヨハネ福音書20章12節参照)。主イエスは汚れのない、罪がない、神からの使者としてのお姿を現されたのです。罪も汚れもない神のみ子が、罪のこの世に人のお姿でおいでくださり、人間の汗と労苦を身にまとわれ、わたしたちと共に歩まれる人の子となられたのです。そのようにしてわたしたちの救いを成し遂げられたのです。

 その時、旧約聖書の偉大な二人の人物が栄光に包まれて現れました。モーセとエリヤです。この二人は旧約聖書全体を代表しています。モーセは出エジプトの指導者、シナイ山で神から律法を授かりました。旧約聖書の律法を代表しています。エリヤはイスラエルの最初の預言者で、彼は死後その体が天に引き上げられました。終りの日に、メシアに先立って地上に再び現れるとマラキ書の最後で預言されています。彼は旧約聖書の預言者を代表しています。

 その二人が、エルサレムで主イエスが成し遂げようとしているおられる最期について話していたと書かれています。それは具体的には、主イエスの十字架の死と三日目の復活、そして40日目の昇天を指しています。それによって、旧約聖書の民イスラエルが長く待ち望んでいた救いが完成されます。モーセに代表される律法が成就され、エリヤに代表される預言が成就されます。旧約聖書を代表しているモーセとエリヤ自身がここに登場してそのことを証言しているのです。

 ペトロたちは眠りかけていましたが、栄光に輝く主イエスのお姿に目が開かれ、彼らは主イエスがご生涯の最後にエルサレムで成し遂げられるであろう救いのみわざをあらかじめ見ることを許され、その証人とされました。彼らが選ばれて主イエスの山上での変貌の証人とされたことの意味をさらに考えてみたいと思います。

 一つには、主イエスが最後に勝ち取られる勝利と栄光のお姿の証人とされたことです。それは、十字架の死と復活、そして昇天にとどまりません。来るべき神の国での主イエスの栄光のお姿の証人とされたということです。主イエスは神の栄光の輝きにその全身が包まれています。もはや、罪も死も痛みも苦しみもありません。すべてが神の栄光に包まれ、光り輝き、一片の暗さもありません。主イエスはそのような神の国の王であられます。彼らはそのことの証人です。

 もう一つには、教会の民もまたこの栄光を約束されていることの証人です。教会の民はこの地上にあっては主イエスの十字架の福音によって生きることを許されていますが、しかしなおも、破れや弱さを持ち、この世からの迫害や辱めを受けなければなりません。けれども、教会は苦難と十字架をくぐりぬけて、神の栄光にあずかる約束を与えられています。終りの時、再び主イエスが来臨される時、教会は主の栄光のお姿に似た者とされ、欠けも破れもなく、汚れも弱さもない、栄光ある主イエスのお体と同じにされるという約束を与えられています。彼らはそのことの証人として選ばれているのです。

 ところが、ペトロをはじめ弟子たちは主イエスの山上での変貌の出来事を正しく理解してはいませんでした。【33~36節】。ペトロは主イエスの栄光のお姿をそのまま永久にそこにとどめておきたいと願いました。栄光に輝いた主イエスとモーセとエリヤとをその場に長くとどめておくために小屋を三つ建てることをペトロは提案します。けれども、それは正しい提案ではありませんでした。栄光に包まれていたモーセとエリヤの姿は雲の中に消え去りました。主イエスのお姿はなおも貧しい人の子としてそこに残っていました。主イエスはこののちもなおも、神から遣わされたメシア・キリストとして、わたしたちを罪から救うために、エルサレムへと、ご受難と十字架への道を進み行かなければなりません。その歩みをここでとどめることはできません。主イエスが栄光に輝くためにはご受難と十字架の道を通らなければなりません。

 教会もまた、最後の栄光の時を約束されている群れとして、なおも今は地上にあっては困難な福音宣教の務めを続けていかなければなりません。わたしたち信仰者は、終わりの日の栄光を約束されている者たちとして、なおも今は地上にあっては、弱さや破れを抱えながら、信仰の歩みを続けなければなりません。わたしたちはまだ神の栄光に完全に包まれ、覆われているのではありません。けれども、主イエスご自身がすでに罪と死とに勝利され、父なる神の右に出しておられ、栄光のお姿に変えられていることをわたしたちは知っています。そして、わたしたち一人一人をもその栄光の中に招き入れてくださることを信じています。主イエスの約束のみ言葉を聞きつつ、信じつつ、主の栄光のお姿を直接この目で仰ぎ見る時がくるまで、勇気と希望とをもって信仰の歩みを続けていきたいと思います。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、あなたはわたしたちの弱くみすぼらしい現実を知っておられます。地上の教会の困難は信仰の戦いをご存じであられます。この世界の混乱と悲惨とをすべて見ておられます。主よ、どうかわたしたちを憐れんでください。この世界とわたしたちにあなたの救いのみわざを行ってください。わたしたちにあなたのみ心をお示しください。あなたのみ心がこの地に行われますように。そして、わたしたちがあなたの栄光の内に神の国の民として迎え入れられますように。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA