8月28日説教「タビタ、起きなさい」

2023年8月28日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:ホセア書6章1~3節

    使徒言行録9章36~42節

説教題:「タビタ、起きなさい」

 ペトロは主イエスの12弟子のリーダーでしたが、世界最初の教会エルサレム教会のリーダーでもありました。彼の巡回伝道が使徒言行録9章32節から再開されます。ペトロはパレスチナとその周辺に建てられた諸教会の母なる存在であるエルサレム教会の代表者として、それらの諸教会を訪問し、教会の基礎を固めるために、さらには宣教活動を拡大するために、エルサレム教会から使命を託され、派遣されたのでした。8章14節からはサマリア教会を訪問したことが記録されていました。少し間があって、9章32節からはリダに住むキリスト者の訪問、そしてきょうの箇所では、ヤッファの集会を訪問したことが書かれています。リダもヤッファもまだ教会として整った群れにはなっていなかったと思われますが、ペトロがその二つの集会で行ったいやしの奇跡と死人をよみがえらせた奇跡は、その地域の福音宣教と教会の成長にとって大きな意味を持っていました。9章35節には、【35節】と書かれています。また、42節には、【42節】と書かれています。いずれも、一人の人がその重い病気をいやされ、死んでいた人が生き返らされたという奇跡以上に、主イエス・キリストの福音宣教によって、その地域全体に今や新しい神のご支配が始められ、神の救いの出来事が起こされ、神の国が接近してきたという、驚くべき神の救いのみわざを多くの人々が目にし、耳にするということが起こっているのです。ペトロはその神の大いなるみわざに仕えているのです。

 【36節】。リダという町はエルサレムから北東に約40キロメートル、ヤッファはさらに北東に20キロメートルほどの地中海沿岸の町です。ヤッファの町にだれがどのようにして主キリストの福音を宣べ伝えたのかについては記録はありませんが、おそらくはリダもそうであったと考えられていますが、8章1節に書かれていた、エルサレム教会に対する大迫害によって、市内から追放されたキリスト者たちがこれらの町にも散らされてきて、福音を宣べ伝えたのであろうと推測されます。わたしたちはここでもまた、「神の言葉はこの世のいかなる鎖によっても決してつながれることはない」(テモテへの第二の手紙2章9節参照)とのみ言葉を確認することができます。神の言葉は教会が経験する迫害や逆境の中でこそ、その力と命とを発揮するのです。

 「タビタ」は、当時のパレスチナ地方の一般的な言語であったアラム語と思われます。ギリシャ語では「ドルカス」と言い、その意味は「かもしか」であると説明されています。タビタはその名のように、美しく、軽やかな足で、活発に走り回り、教会の良い働き人、奉仕者として仕えていました。

 彼女は「婦人の弟子」と言われていますが、この言葉は新約聖書でここにしか用いられていませんので、教会の中でどのような役職であったのか、婦人の長老や執事であったのか、あるいは「使徒」という特別な役職を表すのか、はっきりとは分かりませんが、わたしたちがこの箇所で特に注目したいのは、ここには初代教会における婦人の働きについて、その数少ない記録が残されているということです。

古代社会においては、一般に婦人の社会的地位や働きについて表に現れることはほとんどありませんでした。そんな中で、使徒言行録とルカ福音書の著者であるルカは特に婦人たちの働きについて強調していることが確認できます。それはルカの個人的な見識によると言うだけでなく、主イエス・キリストの福音そのものが男女の違いとか、身分や年齢、その他の人間の違いを乗り越えているからにほかなりません。主イエス・キリストの福音を信じ、その信仰によって罪から救われている人はだれであれ、感謝と喜びとをもって神と隣人とに仕える人とされるのです。タビタがかもしかのような軽やかで活発な足を用いて「たくさんの善い行いや施しをしていた」のは、主イエスの福音によって罪ゆるされ、救われていることの感謝の応答です。

 日本キリスト教会は1963年から、「タビタの家」という、隠退された婦人教職や牧師夫人が共同生活をする福祉施設を造りました。現在は「タビタの会」と名称を変えて、同じような主旨の経済的支援の働きをしています。初代教会においても今日の教会においても、婦人たちの奉仕と働きは教会の大きな柱です。

主イエス・キリストの福音においては、また主の教会においては、男女の差別も、その働きにおける差別もありません。すべての信仰者に同じ神の霊が注がれているからです

 ところが、教会での中心的な働き人、奉仕者であったタビタが突然に病気でなくなるという不幸な出来事が起こりました。そのことはヤッファの教会にとってどんなにか大きな試練であり、損失であり、悲しみであったことでしょうか。

【37~39節】。一人の信仰者の死は教会全体の死であると宗教改革者ルターは言いました。ヤッファの教会の人たちはタビタの亡骸を清め、屋上の間に安置しておきました。タビタの死を悲しむために多くの人たちが集まってきました。特に、生前タビタの愛の奉仕によって助けられ、慰められていたやもめたちの悲しみは大きかったと思われます。一人の信仰者の死はその親族や友人たちの悲しみであるだけでなく、確かに教会全体の悲しみであり、教会全体の死です。教会は一人の信仰者の死によって、教会全体の死を共に経験するのです。しかし、もちろんそれだけではありません。教会は主イエス・キリストの十字架と復活によって、主イエス・キリストご自身がすでに罪と死と滅びとに勝利しておられることを信じている仰者の群れとして、教会全体が終わりの日に約束されている復活と永遠の命を共に経験することを許されているのです。

 ヤッファの教会がリダにいたペトロを呼び寄せたのは何のためであったのか、今の段階ではまだはっきりとは分かりません。あとになって分かるようになります。タビタの死をヤッファの教会員と共に悲しんでもらうためではありませんし、ペトロに葬儀の司式を依頼したのでもありません。ヤッファの人たちはペトロがリダの町で、長く中風で寝ていたアイネアを主キリストのみ名によって起き上がらせたという奇跡についてすでに耳にしていたに違いありません。十字架の死から三日目に復活された主イエス・キリストの福音を何度も聞いてきました。彼らがタビタの亡骸をすぐに葬らずに、屋上の間に安置しておいたのも、そしてペトロをリダから呼び寄せたのも、タビタの死を超えて、主なる神が何かをなしてくださるであろうとの彼らの信仰が背後にあったのではないかと、わたしたちは推測してもよいのではないでしょうか。

 【40~43節】。リダとヤッファとの距離は20キロメートルあまりですから、両方の町を行き来するには1日か2日はかかります。その間、ヤッファの教会の人たちはタビタの亡骸を囲みながら愛する人の死を悲しみつつ、しかし何かを期待しつつ、ペトロの到着を待っていました。

 しかし、聖書は彼らがタビタが生き返ることを期待していたとか、ペトロにその力があるかとか、そのようなことについては一言も語っていません。タビタが生き返ることは彼らの期待に応えるために行われるのではありません。そのことは、ペトロがみんなを部屋の外に出し、ただ一人になって神に祈ったと書かれていることによって強調されています。タビタの生き返りは主なる神のみ心であり、主なる神のみ力によるのであり、主イエス・キリストを死から復活させたもうた神のみわざなのです。

 ここに描かれているタビタの生き返りの奇跡、これは正確には死からの復活ではありません。いわば蘇生、生き返りです。その人はいつかは地上の生を終えて死の時を迎えます。復活とは、もはや死を見ない、永遠の命への復活です。主イエス・キリストただお一人が、わたしたちに先立ってこの永遠の命へと復活されました。そして、わたしたち信仰者にも終わりの日に完成される神の国での永遠の命への復活を約束してくださいました。

 実は、聖書には死んだ人が生き返るという蘇生の奇跡がいくつか記録されています。旧約聖書では、列王記上17章17節以下に、預言者エリヤがザレパテのやもめの子を生き返らせた奇跡。列王記下4章32節以下に、預言者エリシャがシュネムの女の子を生き返らせたという奇跡。新約聖書では、ルカ福音書8章40節以下の、主イエスが会堂長ヤイロの娘を生き返らせたという奇跡。これはマタイ福音書9章とマルコ福音書5章に並行記事があります。これとは別に、ヨハネ福音書11章には、マリアとマルタの弟ラザロを主イエスが生き返らせたという奇跡。きょうの箇所、使徒言行録9章と、同じ使徒言行録20章7節以下に、パウロの説教を聞いていたユテコという若者が3階から落ちて死んだときに、パウロが彼を生き返らせたという奇跡。計6か所になります。

 これらの蘇生の奇跡に共通している重要なポイントを二つにまとめてみましょう。一つには、これらはみな人間の蘇生の奇跡であり、主イエスの復活とは本質的には違うということです。主イエスの復活はもはや再び死ぬことのない永遠の命への復活です。両者は厳密に区別されなければなりませんが、しかし両者は固く結びついてもいます。これらの奇跡は主イエスの復活によって信仰者に約束されている終わりの日の神の国における復活と永遠の命の先取りであり、その確かなしるしなのです。主イエスがご自身の十字架の死と復活によって罪と死とに勝利の宣言をしてくださいました。信仰者にとっては、死の牙はすでに抜き取られています。死はもはや信仰者には致命的な傷を与えません。死によって、信仰者が神から引き反されることはありません。パウロがローマの信徒への手紙8章で語っているように、ご自身の独り子さえも惜しまずにわたしたちのために死に渡された大いなる神の愛から、どのような迫害も艱難も剣も死も、わたしたちを引き離すことはできないからです。

 二つには、これらの蘇生の奇跡には全能の生ける神が働いておられるということです。無から有を呼び出だし、死から命を生み出される神がそれらのみわざをなしておられます。預言者エリヤはこう神に祈りました。「主よ、わが神よ、この子の命を元に返してください」(列王記上17章21節)。神はその祈りを聞かれ、その子の命をお返しになりました。主イエスは会堂長に、「恐れることはない。ただ信じなさい」と言われ(ルカ福音書8章50節)、彼の娘の手を取って、「娘よ、起きなさい」と言われると、その子はすぐに起き上がりました。ペトロが「タビタ、起きなさい」と言うと、彼女は眼を開き、起き上がりました。

これらの奇跡には全能の主なる神のみ力が働いているのです。主イエスを復活させられた父なる神が働いておられるのです。その神はわたしたち信じる者たちの死すべき罪の体をも生かしてくださり、ついには終わりの日に、神の国において朽ちることのない永遠の命をお与えくださるのです。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、あなたの命のみ言葉をわたしたち一人ひとりにもお与えください。わたしたちが朽ちるパンのためにではなく、永遠の命のために生きる者としてください。重荷を負っている人、試練の中にある人、孤独な人、迷っている人を、どうかあなたが顧みてくださり、あなたからの助けをお与えください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

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