10月1日説教「神の恵みによらなければ、だれも救われない」

2023年10月1日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

    『日本キリスト教会信仰の告白』連続講解(27回)

聖 書:イザヤ書61章1~3節

    エフェソの信徒への手紙2章1~10節

説教題:「神の恵みによらなければ、だれも救われない」

 『日本キリスト教会信仰の告白』は『使徒信条』に前文を付け加えた構成になっています。『使徒信条』は紀元4~5世紀ころにかけて完成したと考えられています。基本信条の一つに数えられ、世界のすべての教会が信じ、告白しています。

 『使徒信条』に付け加えられた前文では、『使徒信条』の中でままだ十分に告白されていない、16世紀の宗教改革以後のプロテスタント教会の特徴、特に宗教改革者カルヴァンの流れを汲む改革教会の信仰と神学の特徴をより鮮明に言い表しています。

 今わたしたちが学んでいる箇所でもそのことが確認されます。「この三位一体なる神の恵みによらなければ、人は罪のうちに死んでいて、神の国に入ることはできません」。この箇所で用いられている「三位一体」という言葉は『使徒信条』では用いられていません。また、「神の恵みによらなければ」という表現も『使徒信条』にはありません。「三位一体」なる神の恵みによってのみ救われるという教理は、宗教改革者たちが聖書から再確認したプロテスタント教会の神学の中心です。

 きょうは、「三位一体論」というキリスト教会教理に触れながら、「神の恵みによってのみ」という宗教改革が強調した信仰について、聖書のみ言葉から学んでいくことにします。

 まず、『使徒信条』と「三位一体論」との関係ですが、『使徒信条』の中には三位一体という言葉は用いられてはいませんが、そこにはすでにその信仰が前提にされていることは確かです。『使徒信条』の第1項では、「わたしは、天地の造り主、全能なる神を信じます」と告白し、第二項では「わたしは、そのひとり子、わたしたちの主、イエス・キリストを信じます」、そして第三項で「わたしは、聖霊を信じます」と告白しています。これは、三つの別々の神を信じることを告白しているのではなく、父なる神、子なる神、聖霊なる神が一人の神であり、唯一の主なる神が、父として、子として、また聖霊として働いておられ、一つの救いのみわざをなしておられるという、「三位一体」なる神が告白されていることは言うまでもありません。

 『日本キリスト教会信仰の告白』がその前文で「三位一体」というキリスト教教理の用語を用いているのは、古代教会から中世の教会、宗教改革の時代から今日に至るまでの教会の教理の歴史を重んじていることの表明であり、またその中で「三位一体論」が成立し、構築され、今もなお試みられているキリスト教教理の確立に向けての営みに自分たちもまた参加していることの表明でもあるのです。さらに言うならば、近代になって、キリスト教教理の伝統から外れて、全く独自の教えを説いてキリスト教会を混乱させている異端的キリスト教(彼らは一様に三位一体論を認めません)に対する明確な反対の表明でもあるのです。

 では次に、「神の恵みによらなければ」という告白の意味について考えていきましょう。この言い方には,強い否定の意味があります。「この三位一体なる神の恵みによらなければ」、だれ一人として、また他のどのような手段や方法によっても、決して救われることはなく、永遠の命を与えられることはなく、神の国に入ることはできないという、強い否定です。と同時に、このただ一つの道だけがある、これ以外にはない、これで十分だという強い断定でもあります。

 宗教改革者たちはこれを、「神の恵みのみによって」と表現しました。「神の恵みのみ」は「聖書のみ」「信仰のみ」と共に、宗教改革の、いわば合言葉でした。彼らはこの「のみ」という言葉を用いて、他のものを厳格に排除し、そのものだけに固執し、それだけに集中することによって、自分たちの信仰をより鮮明にしようとしたのでした。と言うのは、当時のローマ・カトリック教会がそうであったように、いつの時代にも、「神の恵みによってのみ救われる」というキリスト教信仰の真理がゆがめられ、あいまいにされ、神の恵み以外の他の何かによっても救われると考えたり、あるいは罪人が救われるためには神の恵みのほかに、これもあれも必要だと考える、そのような誤った信仰が教会を誘惑するからです。

 そのような誤った信仰理解との戦いは、すでに新約聖書の時代から始まっていました。主イエス・キリストの十字架の福音による救いが示されているにもかかわらず、ユダヤ人キリスト者は律法を守り行うことや、契約の民のしるしとしての割礼を受けることを救いの条件に加えました。パウロをはじめとする初代教会の使徒たちは、「神の恵みのみ」の信仰をゆがめるそのような誤った理解を教会から取り除くために戦いました。

 ローマの信徒への手紙3章20節で使徒パウロはこう書いています。「律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされない。律法によっては、罪の自覚が生じるだけだ」(20節参照)と。それに続けて23節以下でこう言います。「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです」(23~24節)。ここに、「神の恵みにより」「無償で」と書かれています。神の恵みとはどのようなものであるのかがここから分かります。また、別の視点から、11章6節では、神の恵みによるとはどういうことであるのかが語られています。「もしそれが恵みによるとすれば、行いにはよりません。もしそうなれば、恵みはもはや恵みではなくなります」。

 以上の2箇所の聖書から、神の恵みとはどのようなものなのかを教えられます。第一に、神の恵みとは、無償で、値なしに与えられるということです。何らかの報酬として与えられるものでは全くありません。神の恵みを受けるに値しない、いやむしろ神に背く罪びとであるわたしたちに対して、神の側から一方的に、神の憐みによって、神からの贈り物として、差し出され、与えられる恵みなのです。わたしたちはそれをただ驚きと感謝とをもって受け取る以外にない恵み、それが神の恵みなのです。そして、その恵みによってわたしたちは罪から救われ、神の国の民とされているのです。

 第二に、神の恵みは他のすべてのものを排除するということ、不必要とするということです。あるいはまた、神の恵みに何かを付け加えるならば、それはもはや神の恵みではなくなってしまうということです。神の恵みは神の恵みだけで十分であり、純粋に神の恵みだけであるときに、最も大きな救いの力を発揮し、すべての人を罪から救うのです。

 『日本キリスト教会信仰の告白』で「神の恵みによらなければ」と表現し、宗教改革者たちが「神の恵みのみ」と言ったのは、そのような内容を含んでいるのです。

 では、もう一箇所、きょうの礼拝で朗読されたエフェソの信徒への手紙2章4節以下を開いてみましょう。ここには「恵み」という言葉が3度用いられています。5節に、「あなたがたの救われたのは恵みによるのです」。7節では、「神は、キリスト・イエスにおいてわたしたちにお示しになった慈しみにより、その限りなく豊かな恵みを、来るべき世に現わそうとされたのです」。また8節では、「あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました」とあります。神の恵みは豊かであり、限りなく広く、深く、数多くあります。その中で、ここで強調されているのは「救いの恵み」です。神の恵みの中で最も尊く、最も大きな恵みは「救いの恵み」です。罪の中で死んでいたわたしたちを、主キリストの十字架と復活の福音によって罪から救い、新しい命に生かし、来るべき神の国での勝利と栄光を約束してくださいました。その豊かな神の恵みの前で、わたしたちはだれも自らを誇ることはできません。わたしたちはただ信仰によって、主イエス・キリストがわたしのためになしてくださった救いのみわざを信じ、受け入れるのです。それがわたしたちの救いです。

 最後に、もう一度「三位一体なる神の恵みによらなければ」と告白されている、「三位一体なる神」という表現に注目してみましょう。別の言い方をすれば、「三位一体なる神」でなければ救われない、救いは完成されないということであり、また「三位一体なる神」の救いのみわざであるからこそ、それは完全であり、永遠であり、普遍的であるということを強調していることにもなります。

 『日本キリスト教会信仰の告白』でこれまでに告白されていた「三位一体なる神」のそれぞれのお働きについて振り返ってみましょう。冒頭の告白では、「わたしたちの唯一の主であるイエス・キリストがまことの神でありまことの人として、十字架で完全な犠牲をささげてくださり,復活して永遠の命の保証をお与えくださり、わたしの救いが完成される終わりの時まで、わたしのために執り成していてくださる」と告白されていました。

 次に、「父なる神の永遠の選びによって、この救いのみわざを信じるすべての人は、神によって義と認められ、罪ゆるされ、神の子どもたちとされる」と告白されていました。

 第三に、「聖霊なる神が、救われた信仰者を聖化し、神のみ心に喜んで従っていく人へと造り変えてくださる」ことが告白されていました。

 このようにして、お一人の神が、父なる神として、子なる神として、聖霊なる神として、三つの位格をフル稼働させるようにして、ご自身の全人格、すべての愛と恵みを注ぎ尽くすかのようにして、一つの救いのみわざのためにお働きくださっておられるのです。それゆえに、その救いのみわざは完全であり、永遠であり、普遍的であり,全人類を、すべての人を、罪から救う力を持つのだということが、ここで告白されているのです。その救いのみわざは、何かによって補われる必要は全くありません。また、それから何かを差し引いたり、付け加えたりする必要も全くありません。「この三位一体なる神の恵みによって」、わたしたちは罪から救われ、神の国の民とされているのです。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、罪の中で滅びにしか値しなかったわたしたちを、あなたがみ子の十字架の血によって罪から贖い、救いの恵みをお与えくださいましたことを、心から感謝いたします。あなたを離れては、わたしたちはまことの命を生きることはできません。どうか、これからのちも日々あなたの命のみ言葉によってわたしたちを養い、み国が完成される日まで、わたしたちの信仰の歩みをお導きください。

○天の神様、病んでいる人を、またその人を介護する家族を励まし、支えてください。重荷を負って苦しんでいる人を助け、導いてください。孤独な人,道に迷っている人、飢え乾いている人、迫害されている人に、あなたが伴ってくださり、一人一人に希望と慰めと平安をお与えくださいますように。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA