10月29日説教「ペトロが見た幻」

2023年10月29日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:申命記14章3~21節

    ルカによる福音書10章9~23節

説教題:「ペトロが見た幻」

 使徒言行録10章1節から11章18節までは、異邦人であるコルネリウスが回心してキリスト者になったという出来事が記されています。ここでは、初代教会にとって大きな問題であった重要なテーマがいくつか取り扱われています。それは三つにまとめられます。

 一つは、旧約聖書の律法に定められている食物規定をキリスト者も守らなければならないのかどうか。特に、ユダヤ人ではない異邦人であって、キリスト者になった場合はどうか、という課題がありました。食物規定というのは、レビ記11章や申命記14章に書かれていますが、イスラエルの民にとって食べてもよい清い生き物と食べてはならない、宗教的に汚れた生き物とが定められていました。これは、その生き物が何か体に害になるとか、それを食べたら病気になるというのではなく、神がイスラエルの民を神に選ばれた聖なる民として訓練するために定め、それを守るようにと命じた神の戒めでした。

 二つには、その食物規定と関連していますが、イスラエルの民は長く汚れた生き物を食べず、自らを聖なる民として保ってきましたが、異邦人はこれまで宗教的に汚れているとされた生き物を食べてきたので、その体に汚れがまといついている。だから、イスラエルの民は異邦人と食卓を共にすることを避けてきましたが、キリスト者になってからもこの慣習を続けるべきかどうかが初代教会にとって大きな問題とされました。

 三つめは、異邦人伝道という課題です。いわゆるユダヤ教はイスラエルの民、ユダヤ人だけが宣教の対象でした。しかし、主イエス・キリストの福音が全世界のすべての人の救いを目指していることを自覚した初代教会は、先に選ばれたユダヤ人がまず第一に宣教の対象であると考えましたが、ユダヤ人以外の異邦人にも主キリストの福音を宣べ伝える使命を神から託されているのだということが、ここに記されているコルネリウスの回心の出来事によって、より明確にされたのです。

 以上の初代教会の課題を考えながら、きょうのみ言葉を読んでいくことにしましょう。前回学んだ1~8節では、カイサリアに駐留していたローマ軍の百人隊長コルネリウスはユダヤ教に正式に改宗はしていませんでしたが、旧約聖書の神を信じ、その教えを重んじる、いわゆる敬神家と呼ばれる信心深い異邦人でした。彼が午後3時の祈りをささげていると、神の使いが現れ、「ヤッファに滞在しているシモン・ペトロを家に招きなさい」との命令を聞きました。彼はすぐに使いをヤッファに送りました。

 同じころ、きょう朗読した9節に、3人の使いがヤッファに近づいたと書かれています。昼の12時、ペトロは祈るために屋上に上がりました。その時、ペトロは「天が開いて、大きな布のような入れ物が、四隅でつるされて、地上に降りて来る」という幻を見ました」(11節)。

 コルネリウスとペトロにはいくつかの共通点があることに気づきます。第一に、二人とも祈りの時に神からの語りかけを聞いたということです。コルネリウスは午後3時の祈りの時(3節)、ペトロは昼の12時の祈りの時(9節)でした。いずれも当時の敬虔なユダヤ教の信者が毎日三度の祈りの習慣をもっていた時間帯です。神はユダヤ人キリスト者ペトロの祈りを、また敬神家の異邦人コルネリウスの祈りをもお聞きくださり、その祈りに応えてくださいました。

 第二には、二人とも神から与えられた幻を見たということです。3節に、「神の天使が入って来て、『コルネリウス』と呼びかけるのを、幻ではっきりと見た」とありました。ペトロは天からつるされた大きな布のような入れ物を見ました。これも幻です。聖書で言われている幻とは、ぼんやりとした幻想とか幻影のことではありません。神がご自身を人間に現わされる際の、はっきりと目に見えたり、耳に聞こえたりする、神の顕現を意味します。罪に汚れている人間は聖なる神のお姿を直接に見ることはできませんので、聖書ではそれを幻を見たと表現しています。

 三つ目の共通点は、神から与えられた幻は目に見える形と同時に神の語りかけとが一緒になっているということです。目に見える形としては,3節では神の天使の姿、11節では天からつるされた大きな布でした。神の語りかけは4節以下と13節以下に書かれています。この両者が一緒になって神の顕現、神がコルネリウスとペトロとに出会ってくださったということの確かさを強調しているのです。

 そして、二人が見た幻に導かれて、コルネリウスとペトロとが24節以下で直接出会うことになるのです。

 さて、ペトロが見た幻がどんなものであったのか、それによって神はペトロに何をお語りになったのかをみていきましょう。11節に、「天が開き」と書かれています。これは、ペトロが見た現象が天におられる神からの啓示であること、神からの幻であることを意味しています。

 【12~14節】。ペトロが天からの声が神のみ言葉であることを直ちに理解しています。そして、「自分は旧約聖書に定められている食物規定を厳格に守っているので、清い生き物と汚れた生き物が一緒に入れ混じっている入れ物から食べることはしない」と彼は答えます。同じ入れ物に清いものと汚れたものとが一緒に入っていると、清いものに汚れが移り、皆汚れてしまうと考えられていたからです。ペトロはキリスト者となっていましたが、この時点ではまだ旧約聖書の律法を厳格に守るユダヤ人でした。

 しかしながら、天から聞こえてきた神のみ声はペトロの考えを根本からくつがえす内容でした。【15~16節】。この神のみ言葉は、神が創造されたすべての被造物は神によって清められているという意味に理解されます。福音書に書かれている主イエスのお言葉もこれと同じです。【マルコによる福音書7章18~20節】(74ページ)。主イエスは、口から体の中に入る食物で人が汚れることはない。かえって、人から出る悪い思いや人が語る悪い言葉こそが、その人と周りの人とを汚すのだと言われました。

 では、これらのみ言葉から結論づけられることは、旧約聖書の食物規定の律法は廃棄されたということなのでしょうか。主イエスご自身は、「私は律法を廃棄するために来たのではなく、律法を完成するために来たのだ」(マタイによる福音書5章17節)と言われましたが、それと矛盾することにはならないだろうかという疑問が出てきます。この点について少していねいに考えていくことにしましょう。

 この疑問に答えるために、そもそも旧約聖書の食物規定がどのように定められたのか、それが何を目指していたのかを、神のみ心は何であったのかを読み取っていかなければなりません。礼拝では申命記14章の食物規定の箇所を朗読しましたが、食物規定に触れているもう一つの箇所、レビ記20章を読んでみましょう。【24節c~26節】(195ページ)。

 ここには、神が清い動物と汚れた動物との区別をお与えになった根本的な理由、目的が語られています。それは、イスラエルの民自身が神によって他の諸民族から区別されていることを教え、自覚させるためであり、それによって彼らが他の諸民族の宗教や生活慣習に習うことなく、自らを神に属する聖なる民として生きるためであると語られています。食物規定はイスラエルの民の選びを確かにすることを目指していたことが語られています。

 ところが、今や、主イエスの到来によって、主イエスの十字架の福音によって、救いの道がイスラエルの民だけではなく、諸国民のすべての人々に対して開かれました。主イエスの十字架の福音を信じる信仰によってすべての民が神に選ばれた民とされ、すべての人が神の恵みの選びに招かれているのです。それゆえに、清い食物と汚れた食物の区別をする必要がなくなりました。神が主イエス・キリストによって、すべての人の罪をゆるし、すべての人を罪から洗い清め、聖なる一つの神の民としてくださったからです。

 ペトロは同じ幻を三度見ました。「神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない」というみ言葉を三度聞きました.それによって、ペトロは、ユダヤ人からは汚れた民と思われていた異邦人もまた神によって清められ民として、教会が受け入れるべきであるとの神のみ心を知らされたのです。

 ペトロはまだそのことをはっきりとは理解していませんでしたけれど、17節以下で、彼はそのことを確認することになりました。【17~22節】。コルネリウスの祈りの時に彼に現れて幻によって語られた聖霊なる神、またペトロの祈りの時にも彼に現れ、彼に幻を見せ、み言葉を語られた聖霊なる神、その神がこのようにして、23節以下に記されているように、コルネリウスとペトロに出会いの機会を備えてくださったのです。

ペンテコステの日に、弟子たちの上に注がれた聖霊によって、エルサレムに最初の教会が誕生し、その後教会が経験した数々の迫害にもかかわらず、否むしろそれらの迫害をお用いになって、教会を成長、拡大させてくださった聖霊が、今またユダヤ人だけでなく異邦人をも教会にお加えくださるためにお働きくださったのです。聖霊は今もなお世界の教会をとおして働いておられ、わたしたちの教会においても働いておられるのです。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、あなたがみ子・主イエス・キリストによって全人類の救いのためになしてくださったみわざは、今もなお続けられていることを信じます。多くの困難を抱えている世界の教会を、また日本の教会を、そしてわたしたちの教会を、あなたか顧みてくださり、聖霊による力を増し加えてくださいますように。

○わたしたちは今特に、世界の平和のために祈ります。武器によって人間の命を奪い、家や自然を破壊することは、どのような理由であれ、あなたのみ心ではないと信じます。どうか、世界の為政者たちに戦争の愚かさとその罪とを覚えさせてくださいますように。和解と平和への道をあなたが備えてくださいますように、切に祈ります。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

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