10月15日説教「主イエスの二回目の受難予告」

2023年10月15日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:イザヤ書44章1~5節

    ルカによる福音書9章43~45節

説教題:「主イエスの二回目の受難予告」

 主イエスが、悪霊に取りつかれていた一人息子をいやされ、悪霊の支配から解放されたという奇跡に続いて、ルカによる福音書9章44節で主イエスは二回目の受難予告をされます。『新共同訳聖書』では43節を前半と後半とに分けて、その間に段落を設けて、「再び自分の死を予告する」という小見出しを付けていますが、これは42節までの奇跡のみわざと44節の受難予告とを分断させてしまうように思われるので、適切ではありません。

実は、この二つのことには深いつながりがあるのです。そのつながりは、わたしたちが18節から何度も確認してきたつながりと同じです。つまり、18節以下のペトロの信仰告白と21節以下の一回目の受難予告とがつながっているように、また23節以下の、キリスト者は日々に自分の十字架を背負って主イエスに従いなさいとの勧めが、その二つとがつながっているように、さらには28節以下の主イエスのお姿が山の上で栄光に輝いたという山上の変貌がそれにつながっているように、そして37節以下の悪霊に取りつかれた一人息子をいやされ、悪霊から解放されたという奇跡がそれにつながっているように、44節の二回目の受難予告もまたそれにつながっているのだということです。

ルカ福音書はそれぞれのつながりを強調しながら、一つ一つの主イエスのみ言葉、主イエスのみわざ、主イエスの出来事の意味を、より強め、深めているのです。わたしたちは聖書の記述の前後関係をていねいに考えながら、一つ一つの事柄の深い意味を探っていくことが求められています。

以上のことに注目するならば、43節はその節全体が前の悪霊追放の奇跡と、あとの二回目の受難予告とを結びつける役割を果たしているということに気づきます。しかもそれは、ある意味で逆説的な意味あいを持ったつなぎの文章と言えます。つまり、「人々は皆、神の偉大さに心を打たれ、イエスがなさったすべてのことに、皆が驚いていた」が、そのような偉大な神のみ力を与えられていた主イエスが、ここで二度目の受難予告をされているのだ。罪びとたちの手に引き渡されようとしているのだ。偉大な力と権威とを持っておられた神のみ子が、このように無力になり、罪びとたちによって葬り去られようとしているのだということを、ルカ福音書は強調しているのです。あるいは、このように言い換えてもよいかもしれません。悪霊に取りつれた人から悪霊を追い出され、悪霊をすらも支配される主イエスに人々が驚いているけれども、本当に驚かなければならない神の最も偉大なる奇跡は、人の子・主イエスが十字架につけられるということなのだ。それによって、神は全人類を罪から救ってくださったということこそが、世界中の人々が心を打たれ、驚き、そして見上げるべき神の救いのみわざなのだ。そのことをルカ福音書は強調しているのです。

 では、以上のことに注意を向けながら、43節を読んでみましょう。43節の前半では「人々は皆、神の偉大さに心を打たれた」とあり、後半では「イエスがなさったすべてのことに、皆が驚いていた」と書かれてあります。ここではまず、主イエスの悪霊追放の奇跡が神の偉大な、驚くべきみわざであったことが強調されています。それは、すべての被造物を支配しておられる全能の主なる神だけがなしうるみわざです。それとともに、ここでは神と主イエスとが結びつけられています。主イエスは神のみ子であり、神であることがここでは告白されているのです。主イエスが悪霊を追い出され、悪霊を支配していることは、そこに神のみ力が働いていることの目に見えるしるしなのであり、神のご支配のしるしなのです。

 主イエスは11章20節でこのように言われます。「しかし、わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」。主イエスは神のみ子として、悪霊に勝利され、罪と死とに勝利され、神の救いの恵みによってすべての人を支配される神の国の王として、この世においでくださいました。そして、エルサレムで十字架にかかり、ご自身の罪なき尊い血をおささげになることによって、全人類の罪の贖いを成し遂げられ、救いのみわざを成就されるのです。

 【44節】。これは主イエスによる二回目の受難予告ですが、主イエスはまず「この言葉をよく耳に入れておきなさい」とお命じになります。主イエスはしばしば弟子たちに「よく聞け」とお命じになりました。8章8節や14章35節では、「聞く耳のある者は聞きなさい」と言われました。主イエスがこのように繰り返して弟子たちに「聞け」とお命じになった理由は、第一には、弟子たちは、またわたしたち信仰者は、主イエスのみ言葉を聞いて生きる者だからです。主イエスから聞かなければ、わたしたちの信仰の歩みは始まりませんし、正しく歩むこともできません。主イエスのみ言葉を聞き、それに教えられ、導かれて生きるのが、わたしたち信仰者です。

 第二には、弟子たちも、またわたしたちも、しばしば主イエスのみ言葉を忘れたり、他の言葉に耳を傾けたりしてしまう弱い者だからです。そこで、主イエスは繰り返して「よく聞け。耳を傾けよ」とお命じになります。わたしたちはその主イエスの命令を聞くたびに、わたしがそれまでいかに主イエスのみ言葉から離れた生活をしていたか、主イエスの導きに従っていなかったかに気づかされ、自らの罪に気づかされるのです。

 主イエスがご自身の受難予告を三度もされた理由も同様です。特に、主イエスの受難予告は、主イエスがどのようなメシア・キリスト・救い主であるのかを明らかにしていますから、誤ったメシア待望やご利益宗教界からわたしたちを守るために、非常に重要な内容を含んでいます。それゆえに、主イエスは何度もご自身のご受難と十字架、復活についてあらかじめ語っておられるのです。弟子たちとわたしたちを正しい信仰へと導き返そうとされるのです。

 一回目の受難予告は9章22節にありました。【22節】。そして、三回目は18章31節以下にあります。【31~33節】(145ページ)。二回目の受難予告は最も短くなっています。二つの点を取り上げましょう。

 一つは、主イエスはご自身のことを「人の子」と表現されているのは三つの受難予告に共通しています。受難予告の箇所に限らず、福音書の中で主イエスはご自身のことを「人の子」と表現しておられます。ご自身が「神の子」であるとか、「メシア・キリスト・救い主」であると、ご自身の口で言われるケースはありません。それはおそらく、当時のユダヤ人の間にあった、誤ったメシア待望論と混同されたり、誤解されたりするのを防ぐためではなかったかと推測されています。

 「人の子」という表現は、一般的に人間を意味する場合もありますが、福音書の中では特別な意味あいで言われているように思われます。それは、神が人の子、人間となられたたという意味です。主イエスは神が人となられた神のみ子であるということがこの表現で暗示されていると考えられています。特に、旧約聖書イザヤ書で預言されているような、神から特別の使命を託されて創造され、選ばれた人の子、特にまた、神の使命を果たすために苦難の道を歩む主の僕(しもべ)としての人の子という意味も含まれているように思われます。主イエスは旧約聖書のすべての預言を成就する神のみ子であり、「人の子」なのです。

 次に、「人々の手に引き渡される」についてです。「引き渡される」という言葉は三回目の受難予告でも用いられています。この言葉は、新約聖書の中で特別の意味を持った、いわば専門用語です。福音書の中では主イエスの受難予告の箇所と受難の場面にしばしば用いられます。パウロの書簡でも用いられています。この言葉がイスカリオテのユダについて用いられるときには、「裏切る」と翻訳されます。22章22節で主イエスはユダについてこう言われます。「人の子は、定められたとおりに去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ」。ここで「裏切る」と訳されている言葉と「引き渡す」と訳されているもとのギリシャ語は同じです。

 この「引き渡す」という言葉には次のような意味が込められています。主イエスは人となられた神のみ子でしたが、罪びとたちの手から手へと引き渡され、ついには十字架に引き渡されたということです。まず、イスカリオテのユダに引き渡されます。ユダは主イエスをユダヤ人指導者の祭司長、長老たちに引き渡します。彼らは主イエスをユダヤ最高議会の法廷に引き渡します。ユダヤ最高議会はその裁判の際に、異邦人であるローマの総督ピラトの手に引き渡します。そして、ピラトはローマの処刑方法であった十字架刑に主イエスを引き渡します。そのようにして、主イエスは罪なき神のみ子であられたにもかかわらず、次々に罪びとたちの手に引き渡され、時に吟味され、時に侮辱され、そして捨てられ。十字架で死なれたのです。ここには、神がお遣わしになったメシア・キリスト・救い主である主イエスを受け入れず、信じないで、罪ありとして裁く人間の傲慢と、深く大きな罪とが暗示されているのです。

 使徒パウロはこの同じ「引き渡す」という言葉を全く違った意味で用いています。ローマの信徒への手紙8章32節にこのように書かれています。「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか」。パウロはここで、主イエスが罪びとたちの手によって次々と引き渡されていったという人間の罪の連鎖、その罪の深さ、大きさをもはるかにに上回る神ご自身の「引き渡し」のみわざを見ているのです。神はご自身のみ子を罪のこの世にお与えになっただけでなく、そのみ子を罪びとたちの手によって、最後には十字架の死へと引き渡されたのです。主イエスを十字架に引き渡したのは罪びとである人間たちであるかのように思われましたが、しかし実はそこで、人間のすべての罪をはるかに超えた神の大いなる愛があったのです。神はご自身の最愛のみ子をわたしたち罪びとにお与えくださったほどにわたしたちを愛されたのです。神はこのようにして、人間の罪のわざを神の救いのみわざへと変えてくださいました。ここに、神の偉大なる愛の「引き渡し」があります。ここにこそ、全世界のすべての人が驚きをもって見上げ、あがめるべき神の大いなる奇跡のみわざがあるのです。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、あなたはわたしたち罪びとたちのためにご自身の最愛のみ子を十字架に引き渡されるほどにわたしたちを愛され、わたしたちを罪から救ってくださいました。もはや何ものも、あなたのこの大きな愛からわたしたちを引き離すことはできません。主よ、どうかわたしたちをあなたが愛される民として、み国の完成の時に至るまで、守り、支え、導いてください。

○主よ、世界は混乱と危機に満ちています。戦争や破壊、災害や略奪、貧困や飢餓に苦しむ人たちが、全世界至る地域に、数多くおります。どうかこの悩める世界をあなたが顧みてください。憐れんでください。為政者たちに戦争の愚かさを気づかせ、あなたの愛と恵み、義と平和を与えてください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

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