11月26日説教「ペトロと異邦人コルネリウスの出会い」

2023年11月26日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:イザヤ書56章6~8節

    使徒言行録10章24~33節

説教題:「ペトロと異邦人コルネリウスの出会い」

 使徒言行録10章に描かれている、カイサリアのコルネリウス一族が主イエス・キリストの福音を信じて洗礼を受けたという出来事は、初代教会の歴史の中で、非常に大きな意味を持つ出来事でした。主キリストの福音が、先に神に選ばれたユダヤ人にだけでなく、異邦人と言われていたユダヤ人以外の人にも語られ、信じられ、救いの出来事として起こったということ、またそのことが神ご自身のお導きによって起こったということ、しかも最初に建てられたエルサレム教会の指導者であったペトロの働きによってそのことが起こったということ、それらのことがここでは語られているのです。

 きょう朗読された24~33節では、コルネリウスとペトロが直接に出会ったことが語られています。そして、二人が出会うきっかけとなった、二人が見た幻について、それぞれの口からもう一度改めて報告されます。実は、同じような内容が11章ではエルサレム教会に報告するペトロの口で繰り返されています。つまり、異邦人コルネリウスとユダヤ人キリスト者ペトロが見た幻によって、二人が出会うことになったという出来事が、ほとんど同じ内容で3回も繰り返されていることになります。このことが、初代教会にとっていかに大きな意味を持っていたかが分かります。

でもここでは、二人の出会いのきっかけになったことがただ同じように繰り返して語られているだけではなく、その出会いを導かれた主なる神の深いみ心がここで明らかにされているのです。その点に注目して読んでいきましょう。

 【24節】。ペトロが滞在していたヤッファからカイサリアまでは地中海沿岸に沿って50キロメートルほどありますから、どんなに急いでも一日二日はかかります。コルネリウスから派遣された3人の使いがヤッファに着き、そこでペトロに事情を話し、翌日ペトロがヤッファの信者たち数人を伴ってコルネリウスの家を訪問するという、往復100キロの道のりを行き来し、ユダヤ人と異邦人との出会いの場面が展開されていくことになります。神の導きにより、主イエス・キリストの福音が異邦人にも語られる場が、このようにして備えられていくのです。

 コルネリウスの家には家族のほか、親類、あるいはローマの兵士たちもいたでしょうが、多くの人たちがペトロの到着を待っていました。27節には、「大勢の人が集まっていた」とも書かれています。彼らはペトロの到着を待っていたと言うよりは、主キリストの福音が語られる時、彼らに救いの恵みが差し出される時を待っていたと言うべきでしょうが、ここに異邦人伝道の大きな成果がすでに備えられ、異邦人にも主キリストの福音が届けられるという、大きな扉が開かれようとしているのです。

 【25~26節】。コルネリウスがペトロの「足元にひれ伏して拝んだ」のは、ペトロを神のようにあがめたということなのか、それとも尊敬する宗教家に対する普通の歓迎の態度なのか、理解が分かれるところですが、しかしまたその両者には簡単に入れ替わるという危険性もあるように思われます。ある聖書注解者は、1930年から40年代にかけてのドイツでのことを思い起こしています。初めは一人の英雄を尊敬するしるしであった「ハイル・ヒトラー」と称える敬礼が,やがて神に等しい独裁者に対する絶対的服従のしるしとなっていったように、人間をいとも簡単に神のようにあがめるようになるという事例は、いつの時代にも数多くあります。

 ペトロはそのような危険を見ぬいていたのかもしれません。すぐにもコルネリウスの体を起こして、「わたしもただの人間です」と応えています。ここには、コルネリウスの間違った人間崇拝を指摘し、それを訂正するという意味だけではなく、ここで大きな主題となっているユダヤ人と異邦人の関係を背景にして考えてみると、もっと大きな意味が含まれているように思われます。すなわち、ペトロがここで言っていることは、主なる神のみ前ではすべての人間は、ユダヤ人であれ異邦人であれ、みな同じ人間であり、みな同じ神によって創造され人間であり、そしてまた、みな同じ罪の人間であり、主キリストによって罪のゆるしを必要している人間なのだということが、ここでは明らかにされているのです。ユダヤ人も異邦人も共に罪を悔い改め、罪ゆるしの福音を聞き、一つの救われた教会の民とされるということがここから始まって行くのです。それゆえに、ここですでに、異邦人への福音宣教の扉が開かれているということに、わたしたちは気づかされます。唯一の主なる神のみ前に立つとき、すべての人間は、民族とか社会的地位とか、その他どのような違いをも超えて、共に主なる神を礼拝する一つの教会の民とされるのです。

 28節から、ペトロが集まった多くの異邦人に対して語りだします。ペトロはここで、9節以下に描かれていた、彼が見た幻について語っています。ところが、ここでは9節以下でわたしたちがすでに学んだような、ユダヤ人が重んじていたいわゆる「食物規定」、すなわち、宗教的に汚れた、食べてはならない生き物と、食べても良い生き物とを定めた律法のことではなく、人間の中での清い人間と清くない人間との区別のことが問題になっています。

 【28~29節】。ユダヤ人が外国人と交際してはならないと、はっきりと定めている律法は旧約聖書の中には見いだすことはできませんが、ユダヤ人が神とイスラエルとの契約に基づき、その信仰を守るために他の民族の宗教や慣習に習わないようにという趣旨の言葉は数多くあります。主イエスの時代には、ユダヤ人以外の異邦人との接触をできるだけ避けるようにとか、特にサマリア人は同じ民族でありながら外国人と交わって汚れた者になったので、あいさつもしてはならないというような考えが一般に広まっていました。また、異邦人は「食物規定」に定められているような宗教的に汚れた生き物を日常的に食べ、あるいは偶像に備えられたものに触れたり食べたりして、彼らの体も宗教的に汚れているので、彼らと接触すれば自分も汚れると言われていたようです。パウロの書簡からもそのような慣習があったことが伺われます。

 ところが、ペトロが幻を見たのと時を同じくして、彼があの幻の意味は何だろうかと深く思いを巡らしていたその時に、18節に書かれていたように、コルネリウスから派遣された使いがペトロのもとにやってきて、「ためらわずに一緒に出発しなさい。わたしがあの者たちをよこしたのだ」との神のみ声を聞き、神が異邦人と自分との交わりの時を備えたもうたのだということにペトロは気づいたのです。あの幻は「食物規定」を神ご自身が乗り越えさせ、すべての生き物、すべての食物は神によって清めされているのだということをペトロに示されただけでなく、すべての民、すべての民族、すべての人が、みな神によって清められ、神によって救いへと招かれていることを、自分にお示しくださったのだ。あの幻の本来の意味はそのことだったのだ。だから神は「ためらわずに異邦人の家に行きなさい」とお命じになったのだということに、ペトロは気づいたのです。ペトロはその神の招きを受けて、コルネリウスの家にやってきたのです。

 次に、30節以下では、コルネリウスがヤッファにペトロを呼びにやったのもまた主なる神の導きであったことが明らかにされます。【30~33節】。コルネリウスはここで、3節以下に書いてあった、彼が見た幻と神がお告げになったみ言葉を繰り返してペトロに告げています。コルネリウスもペトロも祈りの時に神の啓示を受け、幻を見、神のみ言葉を聞きました。異邦人コルネリウスとユダヤ人キリスト者ペトロはすでに祈りによって神と交わり、また共に祈りによって交わっていたのです。一つの祈りの群れてされていたのです。

 ペトロがヤッファで皮なめし職人シモンの家に泊まっていたと33節で繰り返されていますが、このこともこれまでも何度か言われていました。9章43節と10章6節にも書かれていました。同じことが3回も繰り返されているのには理由があると考えられます。当時、皮なめし職人は最も尊敬されない職業の一つであったと言われます。そのような皮なめし職人であるシモンもヤッファの教会員の一人であり、エルサレム教会からの重要な客人であるペトロを泊めるという名誉を与えられていたのです。ここにはすでに、職業や民族、社会的な地位やその他どのような人間的な違いをも乗り越えて、すべてのキリスト者を一つの群れ、一つの教会として召し集められる主なる神のみ心が働いていたことを読み取ることができます。

 コルネリウスは自分が四日前に神から示された啓示によって、ペトロを自分の家に招くことになったいきさつについて説明をしました。ここに至って、コルネリウスとペトロは、自分たちが今ここで出会うことになったのはすべて神のお導きであったことを知らされました。ユダヤ人であるペトロが異邦人であるコルネリウスの家を訪問し、共に一つの神の救いのみわざにあずかることが許されたという、大きな恵みに気づかされたのでした。このようにして、主イエス・キリストの福音がユダヤ人だけでなく異邦人にも、すべての国民、すべての人にも差し出されるようになったのでした。神が天地万物を創造された時から始められていた全人類のための永遠の救いのご計画が、このようにして実現されていったのです。

 

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、あなたが天地創造の初めからご計画しておられた全人類の救いのご計画が、主イエス・キリストの十字架と復活の福音によって成就し、初代教会の働きをとおして具体化されていった次第を、わたしたちは使徒言行録から学ぶことができました。あなたの救いのみわざは、終わりの日のみ国が完成される日まで続けられます。どうか、この国においても、またアジアの諸国と全世界においても、あなたの救いのみわざが力強く押し進められますように。すべての人に主キリストの福音が届けられますように。

○全世界の唯一の主であり、愛と恵みと義であられる天の父よ、罪と悪に支配され、争いや分断、殺戮や破壊の止まないこの世界を哀れんでください。あなたからのまことの平和と共存をこの地にお与えください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

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