11月5日説教「罪のうちに死んでいる人」

2023年11月5日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

    『日本キリスト教会信仰の告白』連続講解(28回)

聖 書:創世記3章17~19節

    エフェソの信徒への手紙2章1~10節

説教題:「罪のうちに死んでいる人」

 『日本キリスト教会信仰の告白』をテキストにして、わたしたちの教会の信仰の特色について学んでいます。印刷物の2段落目の終わりの部分、「この三位一体なる神の恵みによらなければ、人は罪のうちに死んでいて、神の国に入ることはできません」。きょうはこの箇所の「人は罪うちに死んでいて」という告白について、聖書のみ言葉から学んでいくことにします。

 まず、『信仰告白』の中で「罪」という言葉がどのように用いられているかを確認しておきましょう。最初の段落の2行目、「人となって、人類の罪のため十字架にかかり」、次は2段落の2行目、「功績なしに罪をゆるされ」、そしてきょうの箇所、最後に『使徒信条』の第3項、聖霊の項で、「罪のゆるし(を信じます)」、以上の計4回、「罪」という言葉が用いられています。

 これら4回の罪に関する告白に共通していることがあります。それは、罪という言葉がいずれの文章でも主語になってはいないということです。また、罪について単独で語られている箇所もないということも共通しています。「人となって、人類の罪のために十字架にかかり」という文章では、主イエス・キリストが全人類の、すなわち、わたしたちすべての人の罪のために、その罪の贖いを成し遂げ、罪をゆるすために、人間となってこの世界に来てくださった。そして、十字架で死んでくださった、ということが告白されているのであって、この文章の主語は主イエス・キリストです。ここでは、主イエス・キリストの十字架による救いのみわざが告白されているのであって、人類の罪は、主イエス・キリストの十字架によってすでに贖われているのです。人間の罪はすでに主キリストによってゆるされている罪として語られているということが分ります。この文章のあとで、「罪をゆるされ」「罪のゆるしを信じる」と、2回「罪のゆるし」が繰り返して告白されているのも同じ理由によります。

 きょうの箇所では、口語文では文章の主語がはっきりしませんが、文語文では、「この三位一体なる神の恩恵(めぐみ)によるにあらざれば、罪に死にたる人、神の国に入ることを得ず」となっていましたから、「罪に死にたる人」が文章の主語だと分かります。でも、この文章は否定文になっており、「罪に死にたる人」が本来の主語なのではなく、「三位一体なる神の恩恵(めぐみ)」が意味上の主語だということが分ります。ここでは、三位一体なる神の恵みの大きさが強調されているので、このような文章になっていますが、「罪に死んでいる人」が本来の主語なのではありません。

したがって、この箇所でも、罪そのものについて語られているのではなく、三位一体なる神の大きな恵みによってすでにゆるされている罪について語られているのです。罪びとである人間そのものについて語られているのではなく、すでに神の国の民として招き入れられている「罪ゆるされている人」のことが語られているのです。「人間」も「罪の人間」も、あるいはまた「罪」も、信仰告白の主語にはなりえません。聖書の主語でもありません。すべての主語は、神であり、主イエス・キリストによってわたしたちに与えられた神の救いの恵み、それが主語です。罪は、すでにゆるされている罪として語られている。これが『日本キリスト教会信仰の告白』の大きな特色なのです。

そのことを念頭に置きながら、では「罪のうちに死んでいる」とは何を告白しているのかをみていきましょう。「罪のうちに死んでいる」とは、罪によって死んでいる、あるいは罪の中で死んでいると言い換えることができるでしょう。つまり、罪は死であり、その罪に支配されている人は死んでいるということが、ここでは告白されています。また、だれか一部の人がそうであるというのではなく、人間はだれもがみな罪に支配されている罪びとであり、それゆえに死んだ人なのだということです。

旧約聖書でも新約聖書でも、聖書全体がそのことを証ししています。最初に、エフェソの信徒への手紙2章を読んでいきましょう。【1節】。【5節】。「罪のために死んでいた」という言葉が2度繰り返されています。死んでいた状態とはどのようなものであったかということが、2節では【2節】、3節では【3節】と、より詳しく説明されています。すなわち、罪のうちにあって、罪によって死んでいる人間とは、この世を支配している悪しき霊に従って生きている人、人間の肉の欲望のままに生きており、神のみ心を知らず、また神のみ心に従わず、それゆえに神の怒りを受けて滅びなければならない人間のことであり、しかもそれは生まれながらの、生まれて生きているすべての人間の、罪の姿なのだと聖書は語っているのです。

創世記2章には、神が人間を創造された時、土のちりで人を造り、それに命の息を吹き入れて人は生きる者となったと書かれています。したがって、人間は造り主なる神を離れては、また神から与えられる命の息を吹きこまれなければ、生きてはいけない土くれに過ぎないもの、人間はその肉だけでは朽ち果てるほかにない存在なのだと聖書は教えています。けれども、続く3章に書かれているように、人間アダムは神の戒めに背いて、禁じられていた木の実を取って食べました。それが原罪と言われる人間の罪です。神は罪を犯した人間に裁きをお与えになりました。創世記3章19節にはこのように書かれています。「お前は顔に汗を流してパンを得る。土に返るときまで。おまえがそこから取られた土に。塵に過ぎないお前は塵に返る」。このようにして、人間は罪を犯し、神から離れたために死すべき者となりました。

 使徒パウロはこのことをローマの信徒への手紙6章23節で、「罪が支払う報酬は死です」と言っています。また、少し前の5章12節ではこう書いています。「このようなわけで、一人の人によって(これはアダムを指していますが)罪がこの世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです」。ここには二つのことが言われています。一つには、最初の人間アダムが罪を犯したために、死が入り込んできて、アダムが死すべき者となったということ。もう一つには、最初の人アダムと同じように、彼以後のすべての人間も同じように神に対して罪を犯しているために、全人類にも死が入り込んできて、すべての人が死すべき者となったということです。

 このようにして、すべての人が、一人の例外もなく、皆生まれながらにして神に背いており、罪を犯しており、それゆえに神の裁きを受けて死すべき者となり、事実死んでいるのだという教えは、聖書全体に貫かれています。

 人間のこのような徹底した罪と死の姿について、1619年に制定された『ドルト信仰基準』はこのように告白しています。「すべての人は罪のうちにはらまれ、生まれながらにして怒りの子であり、救いに役立つ善を何一つなすことができず、悪に傾き、罪の奴隷になっている。聖霊の再生する恩恵がなければ、神に立ち帰ることも、その本性の堕落を改善することも、改善に身をゆだねることもできず、またそれを欲することもしない」。ここでは、人間は徹底的に堕落していて、人間の側からの救いの可能性は全くないと告白されています。宗教改革者たちはこれを人間の完全な堕落と表現しました。

 さて、「罪のうちにある人は、まことの命に生きることができず、死の中にある」というこの告白が持っている二つの側面を考えてみましょう。一つは、罪の人間はみな死に定められており、やがては死ぬべき者であるということです。罪の人間は永遠に生きることは許されていません。神の裁きを受けて死ななければなりません。聖書は人間の死を、自然的なものとか、偶発的なものとか、あるいは運命的なものとは見ていません。死は、人間の罪に対する神の恐るべき、また厳しい裁きであると聖書は語ります。

 それゆえに、死のうちにあるということのもう一つの意味は、罪に支配されている人間は、今すでに死んでいる者なのであるということです。今はまだ定められている死の最期を迎えてはいないけれども、その死に向かっている、神なき世界で希望のない死に向かっているということです。その意味で、罪の人間は今すでに死のうちにあるということです。

 ここでわたしたちは今一度エフェソの信徒への手紙2章のみ言葉に戻ろうと思います。【4~6節】。ここでは、人間の罪が最後に勝利するのではなく、神の憐みと愛が、人間の罪に勝利したということが語られています。4節冒頭の「しかし」という言葉が、1~3節までの人間の罪と死の現実を逆転させています。1節の、「あなたがたは、以前は」という言葉を受けて、またそれを否定して、「しかし、今では」と語っているのです。主イエス・キリストの十字架の死と三日目の復活によって、あなたがたは罪から救われているのであり、あなたがたの罪と死の現実はもはや過去のものとなったのだと語っているのです。実際に、注意深く読みますと、1~3節の文章はすべて過去形になっていることに気づきます。主イエス・キリストの救いのみわざによって、人間の罪と死は過去になったのです。

 ここで、もう一つのことに注目しなければなりません。人間の罪は主イエスによって罪ゆるされている罪として認識されるということは、主イエスによって罪ゆるされて初めて人間の罪がはっきりと認識されるということでもあります。つまり、人間の罪は罪なき神のみ子の十字架の死によらなければ解決されないほどに、大きく、また深刻であるということです。罪なき神のみ子の十字架の血によらなければ、他のどのような方法によっても、人間の罪のゆるしはあり得なかったのです。

 しかし、今や、あなたがたは罪の奴隷ではない。神に愛されている者であると聖書は語ります。あなたがたは主イエス・キリストの救いの恵みによって、新しい復活の命に生かされている者である。あなたがたはすでに天にある神の国へと迎え入れられている。そのように聖書は語っているのです。

 十字架と復活の主イエス・キリストを信じる信仰者にとっては、罪びとに対する神の怒りは、すでに主イエスがわたしたちに代わって父なる神の裁きをお受けになったことによって取り除かれ、怒りではなく愛に変えられました。主イエスの復活によって、罪と死の棘(とげ)と牙(きば)は取り除かれました。宗教改革者たちが言ったように、わたしたちは常に罪ゆるされている罪びとです。地上にあっての寄留者であり、旅人ですが、神の国を目指して、天にある本来の故郷を望み見ながら、信仰の旅路を続けているのです。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、あなたがみ子主イエスの十字架と復活によってわたしたちを罪の奴隷から贖い、解放してくださいました恵みを、心から感謝いたします。日々あなたのみ前に罪を悔い改めつつ、主イエスの救いを信じつつ、信仰の歩を終わりの日まで続けることができますように、お導きください。

○全世界を支配しておられる主なる神よ、あなたの義と平和がこの世界において実現しますように。主キリストによるゆるしと和解がこの世界に与えられますように。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

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