12月31日説教「神の国に入る」

2023年12月31日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

    『日本キリスト教会信仰の告白』連続講解(28回)

聖 書:詩編96編1~12節

    ヨハネによる福音書3章1~15節

説教題:「神の国に入る」

 『日本キリスト教会信仰の告白』をテキストにして、わたしたちの教会の信仰の特色について学んでいます。印刷物の2段落目の終わりの部分、「この三位一体なる神の恵みによらなければ、人は罪のうちに死んでいて、神の国に入ることはできません」。きょうはこの箇所の「神の国に入る」という告白について、聖書のみ言葉から学んでいくことにします。

 この文章は、文法的には二重否定になっています。「神の恵みによならければ」は否定分です。「神の国に入ることはできません」も否定分です。このような二重否定は、意味を強調するために用いられます。ここでは、救いの道、神の国に入る道を厳しく限定しています。この道以外には救いの道はない、この道以外には神の国に入る道はない、他のどのような方法や手段によっても、それは全く不可能である、ただこの道だけである、ということを強調しているのです。

 それはまた、この道を無限大に広げていることにもなります。つまり、その人に、ほかに何がなくても、ほかにどのような欠点や破れがあろうとも、弱さや未熟さがあろうとも、「この三位一体なる神の恵み」さえあれば、これさえあれば、あなたの罪はゆるされ、救われる、あなたは神の国の民として迎え入れられるということでもあります。

 ここで告白されている信仰は、16世紀の宗教改革以後のプロテスタント教会の信仰の大きな特色です。宗教改革者たちはそれを「神の恵みのみ」という言葉で表現しました。ローマ・カトリック教会が、罪びとが救われるためには主イエス・キリストの福音を信じる信仰とともに、人間の良きわざも必要だと教えていたのに対して、ルターやカルヴァンは「いや、そうではない。聖書が教えている正しい救いの道は、罪びとは良きわざが全くないにもかかわらず、主イエス・キリストの十字架の福音を信じる信仰によって、神から差し出されている一方的な恵みによって、罪ゆるされ、救われる。聖書はそのように教えている」と語って、カトリック教会に抗議したのです。「神の恵みのみ」、これがプロテスタント教会の信仰の基本です。

 『日本キリスト教会信仰の告白』では、その宗教改革の基本線をさらに強調するために、「この三位一体なる神の恵みによらなければ」という表現を用いて、「神の恵み」を「三位一体なる神の恵み」として、より強く神の恵みの豊かさを告白しています。つまり、主イエス・キリストの救いのみわざの恵みと、父なる神の救いのみわざの恵み、そして聖霊なる神の救いのみわざの恵み、そのすべての恵みが、わたしの救いのために働いているということを告白しているのです。ここに、わたしの救いの確かさがあります。救いの永遠性があります。

 では次に、「神の国に入る」という告白について学んでいきましょう。「神の国」という言葉は新約聖書で数多く用いられています。もとのギリシャ語を直訳すれば、「神の王国」となります。これは、神が王として支配している場所、そのような状態を言います。ただし、マタイによる福音書だけは、神という言葉を避けるために「天の国、天の王国」と言います。その他の福音書、書簡等では「神の国、神の王国」です。

 主イエスがお語りになった説教の内容は神の国の福音が中心でした。マルコ福音書1章14節以下にはこのように書かれています。「ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、『時は満ち、神の国は近づいた、悔い改めて福音を信じなさい』と言われた」(14~15節)。

主イエスはまた神の国について、多くのたとえをお用いになって説教されました。マルコ福音書4章には種をまく人のたとえが書かれています。種をまくとは、神の言葉をまくことであり、良い地にまかれた種は30倍から100倍もの豊かな実りをつけると語られています。また、26節以下では、土に種をまくと、その種が芽を出し、成長して、その葉の陰に空の鳥が宿るほどに大きな枝になると、語られています。主イエスの説教の多くが神の国のたとえでした。

これらの神の国のたとえの中心は、主イエスご自身が天の父なる神の言葉をお語りなる最初の種まきであり、また主イエスご自身が神の言葉が肉となって、人間のお姿になってこの世においでになり、豊かな救いの恵みをお与えになって、多くの人々を新しい神のご支配のもとへと招き入れてくださる救い主であるということが、証しされているのです。

そのほかに、主イエスがなさったさまざまな奇跡のみわざ、回復が見込めない重い病気をいやされるとか、悪霊に取りつかれていた人から悪霊を追い出されるとか、あるいは湖の嵐を沈めるとか、しかもそれらの奇跡を権威あるみ言葉をお語りになることによってなさることにより、新しい神の恵みのご支配が今や到来したことの目に見えるしるしを現わされたのです。主イエスのご生涯全体が神の国がこの地に到来し、神の新しい恵みのご支配が始まっていることのしるしであったと言えるでしょう。

主イエスが説教された神の国到来の福音は、旧約聖書における神の国の理解と共通点があります。旧約聖書の中では神の国という言葉は用いられてはいませんが、神が王としてイスラエルと全世界とを支配しておられるという神の国の考え方は数多くあります。たとえば、詩編93編から100編は、神が王として即位する即位式の詩編と言われていますが、これらの詩編では、神が全世界を支配される唯一の、永遠なる王としてその位に就く儀式が想定されていると言われます。詩編96編10~13節を読んでみましょう。【詩編96編

10~13節】(934ページ)。

旧約聖書時代のイスラエルの国は、繰り返して外国からの攻撃を受け、民の多くが諸外国に散らされ、苦難の歴史を歩んできました。紀元前721年には北王国イスラエルが滅ぼされ、587年には南王国ユダも滅ぼされ、ダビデ王国は完全に消え去りました。イスラエルの民はそのような苦難の歴史の中で、神がやがてイスラエルと全世界の唯一の王として君臨し、すべての民を義と平和ですべ治め、神の国を完成されるであろうと期待しました。神はそのために、油注がれたまことの王であるメシア・救い主を世にお遣わしになるであろうと信じました。その旧約聖書の待望が、今や、主イエス・キリストによって成就の時を迎えたのです。わたしたちが先週のクリスマス礼拝で聞いたルカ福音書のみ言葉がそれです。「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである」(2章1節)。

けれども、ここでわたしたちは一つの重要なことを確認しておかなければなりません。それは、主イエスがどのようにして神の国の王となられるのか、またどのようしてすべての人をすべ治められるのかということです。それは、当時の多くのユダヤ人が期待していたのとは全く違ったものであったということです。すなわち、多くの人が期待していたのは、たくましい軍馬にまたがり、手にはするどい剣を持ち、イスラエルを支配していたローマの軍隊を追い出し、イスラエルを異教徒の王の支配から解放する英雄的な王としてのメシアでした。

しかし、主イエスはそのような王ではありませんでした。主イエスは受難週の最初の日の日曜日に、軍馬ではなく柔和なロバに乗ってエルサレムに入場されました。剣をもって権力をふるう王ではなく、人類の罪ためにご自身が苦しまれ、わたしたち罪びとのためにお仕えくださる僕(しもべ)として、十字架の死に至るまで従順に父なる神に服従されました。わたしたちの罪のためにご自身の命を贖いの犠牲としてささげ尽くされました。それによって、罪と死とに勝利され、三日目に復活されたのです。主イエスは十字架で死んでくださった救い主であり、また愛と恵みとをもってわたしたちを復活の命へと導かれる主として、神の国の王となって君臨されます。わたしたちは十字架と復活の主イエス・キリストをわたしの救い主と信じる信仰によって、神の民とされ、神の国に入ることが許されているのです。

次に、ヨハネ福音書3章で、主イエスはユダヤ教ファリサイ派の学者ニコデモとの対話の中で、「神の国に入る」とはどういうことかを教えておられます。

【3節】。また【5節】。ここでは「神の国を見る」あるいは「神の国に入る」という表現が用いられています。パウロの書簡などでは「神の国を継ぐ」とも言われています。これらの表現からも分かるように、神の国に入ると約束されているのはわたしたち信仰者ですが、それはわたし自身の意志や努力や能力によってなされるのではないことは明らかです。神の国、神のご支配は、天におられる神からわたしの方に近づいて来る、あるいは到来するのですから、わたしはそれを受け入れる、あるいは迎え入れる、それを受け取って自分のものにすることによって、神の国に入ることが許されます。

 主イエスはそれを「新たに生まれる」ことによって、また「水と霊とによって生まれる」ことによって可能になるのだと、説明しておられます。それまでの罪に支配されていた自分と別れて、その古い自分に死んで、新たに天の父なる神から与えられる霊によって生きる者に変えられる。そして、主イエスの十字架の死と復活に合わせられる洗礼を受け、水によって古い自分を洗い流し、新たに主イエス・キリストの救いの恵みによって生きる者へと変えられる。そのようにして、わたしは主イエスによって開かれた神の国に入ることが許されるのです。

 神の国では、神が永遠にわたしたちと共におられます。神とわたしとの交わりを妨げるものは何もありません。神の国では、もはや死はなく、悲しみや痛みもなく、すべての不安や恐れは消え去り、常に、永遠に神が共におられ、主イエスのみ顔を仰ぎながら、感謝と喜びに満ちた祝宴の席に連なることが許されるのです。

 わたしたち信仰者は、今すでに、この世にあって、来るべき神の国に生き始めているのです。罪と死に勝利された主イエスが、天の父なる神のみ座から、わたしたちのために執り成していてくださるからです。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、み子主イエス・キリストの十字架の死と復活によって、わたしたちをあなたの救いと恵みのご支配のもとへと招き入れてくださいましたことを、心から感謝いたします。どうか、あなたの強い愛と聖霊のみ力によって、わたしたちを永遠にあなたの御国の民としてください。

○主なる神よ、あなたが恵みと憐みとをもって秋田教会の一年の歩みをお導きくださいましたことを覚え、感謝いたします。また、教会に連なる一人一人をもお導きくださいましたことを感謝いたします。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

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