1月7日説教「エルサレムに向かう主イエス」

2024年1月7日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:エレミヤ書1章4~10節

    ルカによる福音書9章49~56節

説教題:「エルサレムに向かう主イエス」

 わたしたちが続けて読んでいるルカによる福音書を含めた初めの3つの福音書、マタイ、マルコ、ルカを「共観福音書」と言います。この3つの福音書は主イエスのご生涯を描いている記事の順序が同じだけなく、時には一字一句が同じ個所もたくさんあります。そこで、これら3つを4番目のヨハネ福音書と区別して「共観福音書」と呼ぶようになりました。

 今日の研究によれば、マルコ福音書が最も早く、紀元60年代に書かれ、マタイとルカはマルコを参考にしながら、他の資料をも加えて70年代に書かれたと推測されています。ちなみに、ヨハネ福音書は少し遅れて80年から90年代に書かれたとされています。

 きょう朗読されたルカ福音書9章50節までは、マルコ福音書とほとんど同じ順序で書かれていますが、51節からはマルコの順序からは離れ、またマタイとも違って、ルカ特有の記事が続くようになります。それが、9章51節から19章27節まで続きます。この長い箇所は「ルカの大挿入」と言われます。ルカ独自の資料がこの箇所に多数加えられています。また、この箇所は、主イエスのガリラヤ地方での伝道が終わり、エルサレムに向かって進んで行かれる途中の出来事が記されていますので、「主イエスのエルサレム旅行記」とも言われます。

 51節にこのように書かれています。【51節】。この文章からも分かるように、エルサレムへの旅行とはいっても、それは観光目的とかだれかに会う目的の旅行ではもちろんありません。主イエスが「エルサレムに向かう決意を固められた」のは、「天に上げられる時期が近づいた」からです。「天に上げられる」とは、主イエスの昇天を指していると思われますが、ここでは、主イエスがエルサレムで経験されるすべてのこと、つまり、受難週の初めの日に苦難の僕(しもべ)としてロバに乗ってエルサレムに入場され、ユダヤ人指導者たちによって逮捕され、偽りの裁判で裁きを受け、人々からの辱めと屈辱と嘲笑の叫びの中で十字架につけられ、死んで三日目に復活され、40日目に天に昇られるまでのすべての出来事を含んでいます。それはまた、主イエスがすでに2度ご自身の受難予告で語っておられたことです。父なる神がお定めになったこの受難への道を、主イエスは今、固い決意をもって進み行かれるのです。

 ルカ福音書がエルサレムでの主イエスのこれらのみわざを「天に上げられる」と表現しているのは、それによって神の救いのみわざが成就されるという意味を含んでいます。主イエスはユダヤ人指導者たちの悪意や憎しみに敗北してしまうのではありません。人々の罪や拒絶によって、神の救いのみわざが挫折してしまうのではありません。主イエスは罪に勝利されます。すべての人間たちの過ちや憎しみや拒絶に勝利されます。そして、神の救いのご計画を成し遂げられます。その勝利のしるしとして主イエスは天に上げられたのです。

 では次に、主イエスがエルサレムへの旅を開始される直前の49節以下と、その直後の52節以下に記されていることについて、今学んだ51節のみ言葉との関連性を考えながら学んでいくことにしましょう。

 【49~50節】。ヨハネは主イエスの12弟子の一人です。5章10節によれば、ガリラヤ湖の漁師で、ゼベダイの子ヤコブの兄弟です。この二人の兄弟の名前は54節にも出てきます。ヨハネはペトロとともに、12弟子の中での中心的な存在でした。でも、その中心的な存在であるヨハネが主イエスのみ心を正しく理解してはいなかったことが、ここと、また52節以下でも、明らかにされているのです。

 ヨハネの誤解がどこにあったのでしょうか。そのヒントが49節の「お名前を使って」という言葉にあります。お名前とは主イエスのお名前のことです。ここでは、主イエスのお名前が持っている大きな権威と力が重要な意味を持っています。それは、すぐ前の48節にも共通しています。「主イエスのみ名のために」一人の小さな子どもを受け入れることが、重要なのです。子どもそれ自体に何らかの価値があるからではなく、主イエスがその小さな子どもを愛され、その子どもを受け入れてくださるからこそ、その小さな者を受け入れる信仰者こそが、神の国では大きな者と認められるのです。主イエスのお名前が、48節でも49節でも、決定的に重要な意味を持っているのです。

ところがヨハネは、ある人が主イエスのお名前を使って、そのお名前の権威と力によって悪霊を追い出していたのを見、自分たち、すなわち12弟子たちの集団に加わって一緒に行動するようにその人に要求したが、その人はそれを断ったので、主イエスのお名前を使って悪霊を追い出すことをやめさせたというのです。それに対して主イエスは「やめさせてはならない」と言われました。

なぜならば、主イエスのお名前が持つ天からの権威と力が悪霊に勝利しているからです。悪霊に勝利できるのは、神のみ子である主イエスのほかにはだれもいません。その主イエスのお名前以外の何ものによってもそれはできません。主イエスのお名前が権威をもってその力を発揮しているところには、神のご支配が、神の国が始まっているからです。

ところが、ヨハネは自分たちの集団を大きくすることをより重要だと考えていたようです。あるいは、37節以下に書かれていたように、自分たちには悪霊を追い出すことができず、主イエスからお叱りを受けたことがあるのを覚えていたのかもしれません。でも、重要なことは主イエスのお名前です。主イエスのお名前のもとにすべての救われた人たちが集合するのです。主イエスのお名前を信じ、主イエスのお名前によって洗礼を受け、主イエスのお名前によって集められた教会に、すべての信仰者は結集するのです。

51節以下に書かれる主イエスのエルサレム行きは、そのことをよりはっきりさせます。主イエスの十字架のもとに、全世界のすべての民、すべての人々が、罪ゆるされ、救われた神の国の民として、結集するようになるのです。

52節以下を読んでみましょう。【52~56節】。主イエスはエルサレムに向かわれる時にサマリア地方を通って行かれました。当時、ガリラヤからエルサレムへのルートは二つありました。一つは、ガリラヤからまっすぐに南下してサマリアを通過するルート、この道だと100キロ余りを3日くらいかかります。もう一つは、いったんヨルダン川を渡って東へ迂回していくルート、この道ではさらに1日から2日が必要になります。

なぜこのようなう回路が必要になったのかと言えば、ユダヤ人とサマリア人との長い間の民族的・宗教的対立が原因していました。紀元前721年に北王国イスラエルとその首都サマリアはアッシリア帝国によって滅ぼされました。アッシリアは征服した地に外国人を移住させ、サマリアには多くの外国人が移り住むようになりました。そのために、サマリアのユダヤ人は異教の人々と混じり合い、民族的にも宗教的にもユダヤ人としての純粋さを失うことになったのです。南王国ユダはダビデ王家の王たちによって治められ、民族的・宗教的にユダヤ人としての純粋性を重んじてきましたから、サマリア人を異教徒に身を売り渡した軽蔑すべき異邦人とみなし、対立するようになったのです。両者の対立が決定的になったのは、紀元前4世紀ころ、サマリア人はエルサレムの神殿に対立してゲリジム山に独自の神殿を建ててからでした。

そのようなわけで、ユダヤ人はサマリア地方を通り抜けることを避けて、わざわざ遠回りをして、ヨルダン川東側のう回路を通るようになりました。けれども、主イエスはサマリアを通って行かれました。その理由は書かれていませんが、サマリアの町々村々でも神の国の福音を宣べ伝えるためであったことは明らかです。サマリアの人々も神の国の福音を聞き、信じて、救われるために、主イエスは信仰深いユダヤ人ならば避けて通るであろうサマリアへの道をお選びになったのです。そして、弟子のヤコブとヨハネとを先に派遣して、自分たちの宿や食事の手配などをさせました。

しかし、サマリアの人たちは主イエスの一行を歓迎せず、宿を提供することを拒みました。特に、主イエスの一行がエルサレム神殿に向かっていると知った彼らは、彼らが建てたゲリジム山の神殿が無視されていると感じて、敵対心をむき出しにしました。

そこで、主イエスと自分たちの道を邪魔されたヨハネとヤコブは、天からの裁きを求めてサマリア人を焼き滅ぼすことを主イエスに提案しました。この提案には、ユダヤ人のサマリア人に対する長い憎しみや敵対心が現れているのは明らかです。弟子たちは主イエスを迎え入れようとしないサマリア人に神の裁きが降るのは当然だと考えていました。けれども、主イエスは弟子たちの提案を拒否されました。主イエスが今エルサレムに向かっておられるのは、まさにそのような民族間の敵対心や対立を取り除くためであったからです。弟子たちにはまだそのことが理解されていませんでした。

最後に、主イエスがエルサレムに向かう決意を強くされ、その道を進み行かれたことが、この箇所でどのような意味を持つのかを2つのポイントにまとめてみたいと思います。一つには、弟子たちの信仰の無理解と誤解を取り除き、彼らが真実に主イエスの弟子として、福音宣教の使者として世界に遣わされていくため訓練のためであったということです。エルサレム行きの直前の48節以下では、彼らはだれが一番大きいかと論じ合っていました。49節以下では、主イエスのお名前の権威と力とを理解せず、自分たちのグループを大きくすることに関心を向けていました。エルサレム行き直後のきょうの箇所でも、彼らは主イエスのエルサレム行きが裁きのためではなく、すべての人の救いのためであることを理解していませんでした。主イエスの十字架の死と復活、そして昇天と聖霊降臨は、それらの弟子たちの無理解と誤解を取り払い、彼らを初代教会の使徒として固く立たせたのです。

第二には、主イエスの十字架と復活は、神とわたしたち人間との間の罪という深く大きな溝を取り除き、わたしたちを神のみ前で罪ゆるされ、救われた神の民として迎え入れる救いのみわざであるとともに、その十字架の福音によってすべての民族や人々の間にあった分裂や憎しみ、対立をも取り除き、主イエスの十字架のもとにすべての人を一つの神の民、一つの礼拝の民とする救いのみわざでもあるということです。主イエスは10章25節以下で、親切なサマリア人のたとえをお話になりました。ユダヤ人からは軽蔑され、救いから除外されていたサマリア人こそが、今や主イエスの十字架の福音を信じる信仰によって救いへと招き入れられているのです。わたしたちもまた異教の民であり、小さな取るに足りない一人一人でしたが、主イエスの十字架によって救いへと招かれているのです。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、あなたがこの罪の世を顧みてくださり、み子の十字架によって全人類をお救いくださったことを感謝いたします。どうか、この混乱と分断と試練の中にある世界にあなたからの和解と平和と希望とをお与えください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

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