2月25日説教「旧・新約聖書は神の言葉である(二)」

2024年2月25日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

    『日本キリスト教会信仰の告白』連続講解(30)

聖 書:申命記8章1~10節

    テサロニケの信徒への手紙一3章1~10節

説教題:「旧・新約聖書は神の言葉である(二)」

 『日本キリスト教会信仰の告白』をテキストにして、わたしたちの教会の信仰の特色について学んでいます。印刷物の3段落目、「旧・新約聖書は神の言(ことば)であり、その中で語っておられる聖霊は、主イエス・キリストを顕(あき)らかに示し、信仰と生活との誤りのない審判者です」。この告白はキリスト教教理では「聖書論」というテーマに関連しています。「聖書論」では聖書をどのように理解し、読んでいるかということが取り扱われますので、その教会、教派の特色が最もよく表れると言ってよいでしょう。日本キリスト教会の特色もここの短い告白によく言い表されています。

 わたしたちの教会の信仰告白は聖書論の冒頭で、「聖書は神の言葉である」と、ごく短く、単純明快に告白しています。同じように「聖書は神の言葉である」と表現しても、それにある条件を付けたり、制限を設けたりする人たちがいます。あるいは、全く反対に「聖書は人間の言葉である」と理解する人たちもいます。分かりやすくするために、4つのグループに分けて考えてみます。

 「聖書は神の言葉である」と告白するわたしたちの立場から最も遠い立場は、「聖書は人間の言葉である」という理解です。この理解はさらに二つのグループに分けられます。一つは、キリスト教信仰を持っていない人にとっては、聖書は人間が書いた文書と理解されます。聖書を歴史的文書として研究し、古代社会の文化や生活の記録として読み、研究している学者もたくさんいます。あるいは、高い倫理観や道徳を教える書、人生哲学や処世訓の書ととらえる人もいます。彼らはそれなりに聖書を高く評価し、研究に値する文書として尊敬の念をもって聖書と取組んでいます。しかし、彼らは聖書から、神に対する信仰と主イエスによる罪のゆるしを受け取ることはありませんし、それを期待もしません。

 第二のグループとして、キリスト教徒の中にも、聖書を神の言葉ではなく、人間の言葉として理解している人が少なくはありません。彼らは聖書を、紀元前のイスラエルの民と紀元後の教会の民が、それぞれの時代の信仰的体験を記録し、そこに神の存在と真理とを見いだした信仰の証しの書であることを認めます。そこから、彼らなりの真理を発見したり、神の存在を信じたり、信仰を養ったりすることもあります。しかし、そうであっても、聖書はあくまでも人間が書いた人間の言葉であるので、時には自分が受け入れられない言葉や教えがあれば、それは無視したり、否定したりもします。結局、彼らには神に対する恐れはありませんし、真実の悔い改めもありませんから、その信仰は薄く、弱いものでしかありません。実は、今日、そのように人間の書として聖書を読み、そのような人間主体の信仰を持っているキリスト者が多いのではないかと思います。

 第一のグループも第二のグループも、聖書を神の言葉ではなく、人間の書と理解している限り、そこでは神の言葉としての真実の力も命も、また真実の救いの恵みも受け取ることはできません。預言者イザヤはイザヤ書55章8節以下で次のように告白しています。【イザヤ書55章8~11節】(1153ページ)。「聖書は神の言葉である」と信じ、告白する時にこそ、わたしたちもまたイザヤと共にこのように信じることができるのです。

 第二の立場は、聖書は神の言葉と人間の言葉との両者を含んでいるという理解です。続けて、第三の立場は、聖書は人間の言葉であるが、そこに聖霊が働くときに神の言葉になるという理解です。この第二と第三の理解については、神学的に厳密に分析しなければなりませんが、きょうはこの二つを一緒にして、ごく簡単に説明しておくにとどめます。

 先に述べた「聖書を人間の言葉」と理解する第二のグループが近年のキリスト者に多くなったのと同様に、この第二、第三の理解もまたプロテスタント教会に広がっているように思われます。この両者に共通している特徴は、「聖書は神の言葉である」という信仰があいまいであり、人間の恣意的な判断で、時には神の言葉になったり、時には人間の言葉であったり、その人の勝手な判断に左右されるという点です。

 ここには、近年の合理主義的理解と聖書を学問的に批判研究する方法が急速に進んだために、「聖書は神の言葉である」と断定することができなくなったという事情があるように思われます。聖書の中には合理的な説明がつかないことや、互いに矛盾しているような記述が少なからずあります。また、聖書を歴史の資料として分析したり、あるいは文学的な構造を研究したりすることによって、今までの伝統的は信仰理解とは違った意味を読み取ることもあります。さらには、この箇所は今日の社会の常識からはあまりにもかけ離れているから書き改められなければならないとか、聖書の中には古代社会の古い慣習や生活様式があり、それにとらわれているから、近代の社会常識によって再解釈されなければならないとか、実に多様な聖書理解が生み出されてきています。そのような中で、「聖書が神の言葉である」と単純に断定することが困難になっていることが背景にあると思われます。

 けれども、わたしたちはそれでも第四の立場を断固として貫き通し、「聖書は神の言葉である」と明確に告白しているのです。それには何の条件も付けず、何の制限も設けず、単純明快に「聖書は神の言葉である」と告白しているのです。その積極的な意味を、わたしたちは正しく理解しておくことが大切です。

 預言者イザヤは40章8節でこのように言います。「草は枯れ、花はしぼむが、わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ」。新約聖書・ペトロの手紙一1章23節以下では、このイザヤの預言を引用しながらこのように言っています。【23~25節】(429ページ)。

 また、テモテへの手紙二3章15~16節にはこう書かれています。【15~16節】(394ページ)。さらにもう一箇所、テサロニケの信徒への手紙一2章13節で使徒パウロはこのように書いています。【13節】(375ページ)。

 以上のように、聖書はそのすべてのみ言葉が神の言葉であり、永遠に変わらない、生きた命の言葉であり、決して人間の意志や考えによって書かれたのではない。神の霊によって書かれた神の言葉である。それゆえに、聖書のみ言葉はわたしたちを罪から救い、新しい命を注ぎ込み、わたしたちをまことの命に生かす真理と命に満ちた神の言葉なのである。これがわたしたちの信仰であり、「聖書論」の中心です。

 では次に、そのような信仰と「聖書論」をさらに深めるために、いくつかの点について考えていきます。第一には、聖書の本来の著者は神ご自身であり、聖霊なる神であるということです。神は、それぞれに時代の信仰者や預言者たちをお用いになって、また福音書記者や使徒たちをお用いになって、ご自身の救いのみわざについてお語りになり、それを記録させてくださいました。それゆえにペンを手にとって書いたのは預言者や使徒という人間でしたが、彼らは主なる神への信仰と服従をもって、聖霊なる神の導きによって書いたのであり、本来の第一の著者は神ご自身であると言えます。

神はまた、その時代の文化とか生活様式とか、あるいはその土地の言語をお用いになって、その時代の人々にお語りになりました。したがって、古い時代に書かれた神の言葉である聖書が、時代的・文化的制約を受けるということはあり得ることですが、しかしわたしたちはその時代の枠を超えて、永遠の真理と命とを持っている神のみ言葉から、神がその時代の人々に何を語られたのか、そして今、今日のわたしたちに何を語っておられるのかを、読み取っていくことができるのです。

 第二には、聖書が書かれたのが神の霊感によるのであり、人間が神の霊に導かれて書かれたように、聖書を読む場合にも神の霊によって、聖霊なる神の導きによって読まなければならないということです。わたしたちの心と肉体はみな罪の誘惑にさらされており、肉の弱さの中にあります。神のみ言葉を聞くことも、それを受け入れ、信じることもできませんから、聖霊によって暗い心が明るく照らされ、かたくなな心が打ち砕かれ、眠っている魂が目覚めさせられなければなりません。

 第三に、聖書が神の霊によって書かれ、また神の霊によって読まれなければならないというわたしたちの信仰は、先に第三の立場として紹介した、聖書は人間の言葉であるが、聖霊によって神の言葉になるという理解とは、根本的に違うということです。第三の立場の人たちには、そもそも聖書が神の言葉であるとの信仰が欠けているために、聖書に向かう姿勢として、神への恐れとか、罪びととしての砕かれた心とか、真実の悔い改めとかがありません。聖霊なる神に対する全き信頼と服従の信仰が欠けています。

 もう一つ付け加えておきたい点は、「聖書は神の言葉である」というわたしたちの信仰は、いわゆる「逐語霊感説」とは違うということです。「逐語霊感説」というのは、聖書の言葉の一字一句がすべて神の霊感によって書かれているので、すべて誤りがなく、文字どおりに理解され、信じられなければならないとする考えです。英語では「バーバル・インスピレィション」と言い、彼らは一般に根本主義者(ファンダメタリスト)と呼ばれます。

 しかし、この理解は、聖霊を重んじているようですが、実際には聖霊が聖書の言葉すべてに機械的に働くととらえられており、聖霊の自由な働きがむしろ妨げられていると言わなければなりません。

 最期に、カール・バルトの「神の言葉の三様態」について簡単に触れておきたいと思います。「様態」とは、様式、あるいは働き、性質という意味ですが、神の言葉には三つの様態があり、それらがいわば三位一体となって理解されるべきであるという説です。一つは、書かれた神の言葉である聖書。二つは、受肉した神の言葉である主イエス・キリスト。三つは、語られ、宣教された神の言葉である説教。この三つの神の言葉を一つの神の言葉として、互いに深い関連を持つものとして理解されることが重要です。

 わたしたちは主の日の礼拝ごとに、書かれた神の言葉である聖書の朗読とその解き明かしである説教を聞き、そこで受肉した神の言葉である主イエス・キリストと出会い、主イエス・キリストの十字架と復活の福音を信じる信仰によって罪ゆるされ、罪と死と滅びから解放され、来るべき神の国の民としての永遠の命の約束を受けることができるのです。

 

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、わたしたちをこの世の朽ちるパンによってではなく、永遠の命に至るあなたのみ言葉によって養い、育ててください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

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