2月11日説教「異邦人に開かれた救いと命への道」

2024年2月11日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:イザヤ書61章1~9節

    使徒言行録11章1~18節

説教題:「異邦人に開かれた救いと命への道」

 カイサリアに駐留していたローマ軍の百人隊長コルネリウスとその一族がペトロの説教を聞いていた時、彼らに聖霊が注がれ、主イエスを信じる信仰が与えられ、洗礼を受けてキリスト者となったという出来事を、使徒言行録10章は詳しく描いています。神に選ばれた民であるユダヤ人以外の異邦人にも聖霊が注がれ、信仰が与えられ、カイサリアに異邦人の教会が誕生したというこの出来事は、紀元1世紀の初代教会にとって非常に大きな意味を持っていました。教会がユダヤ人から異邦人へと拡大されていくきっかけとなりました。しかしまた、そのことは初代教会全体にとっての大きな問題、課題を生み出すことにもなりました。

 11章では、ペトロがエルサレムに帰った時、エルサレム教会のユダヤ人指導者たちがカイサリアでの異邦人教会誕生のことを耳にして、ペトロの行動を非難したことと、それに対するペトロの弁明が報告されています。ここには、初代教会で問題になったいくつかの課題が取り上げられています。その課題に注目しながら、学んでいくことにしましょう。

 【1~3節】。「使徒たちとユダヤにいる兄弟たち」とは、具体的にはエルサレム教会の指導者たちを指すと考えられます。エルサレム教会にはペトロを除いた12使徒と主イエスの兄弟であるヤコブがいました。エルサレム教会は世界最初に誕生した教会として、すべての教会にとっての母なる存在でしたから、その後に誕生した諸教会はエルサレム教会との結びつきを重んじました。8章4節以下にサマリア教会が誕生したことについて書かれていましたが、その時にも、エルサレム教会からペトロとヨハネがサマリア教会に派遣されて、母なる教会としての連携を確認したことが14節に書かれていました。きょうの箇所でも、今度はペトロがカイサリアの異邦人教会誕生の報告をエルサレムの母教会にするという役割を担っています。

 1節に「異邦人も神の言葉を受け入れた」とあります。10章45節、46節でも、「聖霊の賜物が異邦人の上にも注がれる」、「異邦人が異言を話し」と書かれています。イスラエルの民ユダヤ人は先に神に選ばれ、神と契約を結んだ特別な民であることを誇りとし、自分たち以外の民を「異邦人」と呼んでいました。ところが、異邦人コルネリウスの家で、その異邦人にも聖霊が注がれ、彼らが主イエスを救い主と信じる信仰が与えられるという、驚くべき出来事が起こったのです。神の救いのみわざが先に神に選ばれたユダヤ人だけでなく、神に選ばれていなかった異邦人にも拡大されたのです。

 では、神の救いのご計画が途中で変更になったということなのでしょうか。先に選ばれたイスラエルの民、ユダヤ人はこの驚くべき出来事をどのように理解したらよいのでしょうか。きょうの箇所では、そのことについては直接取り挙げられてはいません。エルサレム教会の指導者たちが問題に取り上げたのは、ペトロが異邦人の家に入り、彼らと一緒に食事をしたということについてでした。ペトロの弁明の後半になってから、16節以下で主イエスのお言葉を引用しながら、聖霊の賜物と主イエスの福音がユダヤ人だけでなく異邦人にも与えられたということをペトロは語っています。

 そこで、わたしたちはきょうのテキストでは直接には説明されてはいませんが、神の救いのみわざがユダヤ人から異邦人へと広げられていったことについて、先に考えてみたいと思います。これは、神の救いのご計画の変更では決してありません。わたしたちが旧約聖書を読むと明らかなように、神は先にイスラエルの民をお選びになりましたが、それは当初から全世界のすべての民の救いを目指してのことでした。神の天地創造と人間創造の時から、神はすべての人間の救いをご計画しておられました。アブラハム、イサク、ヤコブの族長時代にも、出エジプトのモーセの時代にも、ダビデ王の時代にも、その時代からすでに神は全世界のすべての人々を救おうとしておられました。預言者たちの預言の言葉、詩編の言葉、すべての旧約聖書の言葉が、そのことを証ししているということを、わたしたちは読むことができます。

 そして、ついに時至って、主イエス・キリストの誕生とその救いのみわざによって、神は全人類のための救いのみわざを成就してくださったのです。それゆえに、主イエスの到来によって、選びの民イスラエルと異邦人との区別は実質的に消滅したことになります。主イエス・キリストの福音が語られるところでは、ユダヤ人と異邦人の区別、男と女の区別、主人と奴隷の区別、その他すべての人間社会の中にある区別や差別は取り除かれたのです。すべての人は主イエス・キリストの十字架の福音によって罪ゆるされなければならない罪びとであり、また同時に、事実罪ゆるされ、救われている人間なのです。

 では次に、エルサレム教会の指導者たちがここで問題にしていることについて見ていくことにしましょう。2節で彼らのことを「割礼を受けている者たち」と紹介しています。ユダヤ人の男子はみな生後8日目に割礼の儀式を受けました。これは、神が創世記17章でアブラハムに命じた神との契約のしるしでした。アブラハム以後のすべてのユダヤ人男子はみな割礼を受けていますから、ここでわざわざ「割礼を受けている者たち」と言われているのは、特別に割礼を重んじている人たちを指していると思われます。この人たちは、ユダヤ人が洗礼を受けてキリスト者になってからも、旧約聖書で教えられている律法を厳格に守り、割礼の儀式も受け継がなければならないと考えていたようでした。

 ここでは、割礼に関する問題が直接に取り挙げられているわけではありませんが、そこから新たな問題、課題が生じてきました。では、キリスト者となったユダヤ人から生まれた子どもも割礼の儀式を受けなければならないのか。さらに問題なのは、異邦人でキリスト者になる人は、先に割礼を受けてユダヤ人の仲間入りをしてから洗礼を受けるべきなのか、あるいは洗礼のあと割礼の儀式を受け、神の契約の民であるイスラエルの仲間入りをしなければならないのかどうかということです。パウロの書簡を読むと、ガラテヤやコリントなどの初代教会の中で割礼をめぐってのこのような議論、論争が少なからずあったということが分ります。

 それに対するパウロの答えも、ユダヤ人と異邦人の区別に関する答えと同様です。すなわち、主イエス・キリストの十字架によって与えられる救いの福音は、人間の側にあるすべての区別、差別をはるかに上回る大きな、豊かな恵みであるゆえに、もはやそれらの違いはすべて解消された。主イエス・キリストの十字架の福音を信じる信仰だけで充分である。すべての人はその信仰によって、その信仰によってのみ救われる。したがって、割礼を受けるかどうかは救いにとっては全く重要ではない。これがパウロの答えでした。

 さて、本論に戻りましょう。エルサレム教会の割礼を重んじていた人たちが問題にしたのは、ペトロがカイサリアで割礼を受けていない異邦人であるコルネリウスの家に入り、異邦人たちと一緒に食事をしたことについてでした。ここには、今説明した割礼に関する問題とともに、旧約聖書に定められていた「食物規定」と言われる律法を守る義務が問題にされています。これについては以前にも説明しましたが、申命記やレビ記にはユダヤ人が食べてはならないとされる宗教的に汚れた生き物についての規定があり、ユダヤ人はそれを厳しく守ってきました。

 しかし、異邦人はその規定を知りませんから、宗教的に汚れているとされる動物を日常的に食べ、また触っています。そのような異邦人自身にも、宗教的な汚れが染みついているので、異邦人の家に入ることはもちろん、一緒に食事をすること、またその体に触ったり、あいさつをすることでさえも、敬虔なユダヤ人は避けるべきだと考えていました。ペトロはその律法を守っていないのではないかと、エルサレム教会の指導者たちは非難したのです。

 それに対するペトロの弁明が5節から始まります。ペトロはここで、彼がこれまで体験したこと、それは主なる神の導きにより、主なる神が彼に働きかけてくださったことなのですが、それを語っています。5節から14節までの彼が見た幻については10章9節から22節に書かれていた内容とほぼ同じです。15節から17節は10章44節以下に書かれていたことの繰り返しです。

 けれども、全く同じ繰り返しではありません。10章では、ペトロが経験したことが客観的に描かれえているのに対して、この章ではペトロ自身が自分の経験として語っていますから、より生き生きとした表現になっています。彼が経験したことがいかに大きな意味を持っていたかということが、ここからも分かります。

 ペトロが見た幻と、その後の神からの語りかけによって、神は今やすべての生き物を清められた、それとともに、神はすべての民を清められ、ご自身の民とされ、すべての人を主イエス・キリストの救いへとお招きになっておられるということを、ペトロは理解したのです。主イエス・キリストがすべての人の救い主としてこの世においでくださったことによって、もはやユダヤ人と異邦人の区別は必要なくなりました。したがって、割礼の役割が終わったと同様に、「食物規定」の役割も終えたのです。主イエス・キリストの到来によって、旧約聖書の律法はすべて完全に全うされ、成就されました。それゆえに、律法を守ることによって救われるという道はもはやなくなったのです。すべての人は主イエスの十字架の福音を信じる信仰によって、ただそれによってのみ救われるのです。

 【18節】。カイサリアに異邦人の教会が誕生したことはすべて神のお働きです。聖霊なる神がペトロに働きかけ、また異邦人であったコルネリウスに働きかけ、ペトロの説教を聞いたすべての異邦人たちにも働きかけ、彼らに罪を悔い改め、主イエスを救い主と信じる信仰を与えてくださったのです。

 このペトロの報告を聞いて、エルサレム教会の指導者たちは反論する言葉を見いだせずに、静まったと書かれています。だれも聖霊なる神のお働きを阻むことはできません。聖霊なる神はあらゆる人間の壁や困難や不信仰をも超えて、救いのみわざを推し進められます。すべての人の救いと命の道を切り開かれます。わたしたちはこの神を信じ、この神にお仕えしていくのです。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、あなたの救いの恵みは全世界のすべての人に与えられています。どうか、世界各地に建てられている主の教会がそのことを力強く証ししていくことができますように、今も生きて働き給う聖霊を、この日本の地にも、秋田の地にも、豊かに注いでください。

○天の父なる神よ、重荷を負って苦労している人たち、道に迷い悩んでいる人たち、生きる希望を失いかけている人たち、戦争や災害に巻き込まれ痛みと悲しみの中にある人たち、一人一人の上にあなたの顧みがあり、希望と慰めを、勇気と喜びを、そして和解と平和をお与えください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

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