2月4日説教「神の国にふさわしく生きる」

2024年2月4日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:申命記6章4~15節

    ルカによる福音書9章57~62節

説教題:「神の国にふさわしく生きる」

 ルカによる福音書9章57節に、「一行が道を進んで行くと」と書かれています。「道を進む」とは、51節で、【51節】と書かれていることと関連しています。つまり、主イエスがエルサレムへ向かう道の途中にあるということです。57節以下では、「従う」という言葉が57節と59節、そして61節に用いられており、「主イエスに従う」ということが主題になっていますが、ルカ福音書はその主題を主イエスのエルサレム行きと関連付けて語っているのです。すなわち、「主イエスに従う」とは、エルサレムで苦しみを受け、十字架につけられる主イエスに従うことなのだということを、ルカ福音書は特に強調しているのです。

 では、そのことに注目しながら、主イエスに従って生きるわたしたち信仰者の生き方はどうあるべきなのかを、きょうのみ言葉から聞き取っていきましょう。57節以下には、主イエスに従う志を持った3人が登場します。一人は、自分の方から主イエスに従いたいと申し出ました。しかし、主イエスはその人に、「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない」と言われ、あたかもその人の志をくじくような、あなたに従いたいとの願いを拒絶するようなお言葉を語られました。

 二人目は、主イエスの方から「わたしに従いなさい」とお招きになりますが、その人は「その前に、亡くなった父を葬りに行かせてください」と答えています。三人目は、主イエスに従って行きたいが、まず家族に別れを言ってからにしますと申し出ます。主イエスはこの二人目と三人目の人に対して、そのような従い方では本当にわたしに従うことにはならないと言われ、弟子になりたいという二人の申し出を拒絶するような言い方をしています。

 以上から分かるように、この三人はいずれも主イエスに従いたいとの願いや志を持ってはいましたが、正しい姿勢で、正しい仕方で主イエスに従って行くことができなかったということが明らかにされています。

では、主イエスに従うということは、それほどに難しいことなのか。高いハードルを越えるようにして、高く強い志と覚悟を持っていなければ、主イエスに従って行くことはできない、主イエスの弟子になることはできないと、主イエスはここで教えておられるのか。そのように考えるかもしれません。

けれども、そうではありません。主イエスがここで教えておられることは、主イエスに従うことの困難さについてではありません。また、主イエスに従うには、わたしたちの側に大きな決断や高い志が必要だということでもありません。説教の最初に、51節と57節の冒頭のみ言葉で確認したように、主イエスご自身がわたしたちに先立って、堅い決意をもって、先頭に立たれ、エルサレムに向かって行かれたのです。主イエスがわたしたちのために苦難を受けてくださり、救いの道を開いてくださったのです。そして、わたしたちをその道へとお招きくださっておられるのです。わたしたちは主イエスによって備えられた道を、主イエスが先立って進まれた道を、主イエスのあとに従い、主イエスに導かれて歩むのです。

そのことをあらかじめ確認したうえで、きょうのみ言葉をさらに深く学んでいきましょう。まず、きょうの箇所でテーマになっている「主イエスに従う」ことの「従う」という言葉ですが、この言葉の本来の意味は、「だれかのあとについて行く、追従する」という意味で、そこから「服従する、従順に従う」という意味になりました。ほとんどは福音書の中にあり、「主イエスに従う」という文脈では70回用いられているということです。ルカ福音書でも、これまでに何回も用いられてきました。5章10節では、主イエスがシモン・ペトロに、「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる」と言われると、彼はすぐに「すべてを捨てて主イエスに従った」と書かれていました。また、5章27節では、主イエスがレビという徴税人をご覧になって、「わたしに従いなさい」とお命じになると、「彼は何もかも捨てて立ち上がり、主イエスに従った」と書かれていました。

ここでも、注目すべきは、主イエスによって弟子として選ばれたペトロやレビの側の決意とか志とか、あるいは資格とか能力とかは全く問題にされておらず、主イエスの強く権威ある招きのみ言葉だけが強調されているということです。きょうのみ言葉を理解するうえでも、そのことは参考になるでしょう。

さて、きょうの箇所に登場する3人の中の最初の人は、「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と主イエスに申し出ています。ここには、この人の並々ならぬ覚悟と決意が言い表されています。どんなに困難な道でも、どんな苦労でも、わたしは耐えて、あなたに従いますから、あなたの弟子にしてください。彼はそのように表明しています。

マタイ福音書8章19節では、そのように申し出たのが、ある律法学者であったとなっています。おそらく彼は主イエスを巡回伝道者と考え、多くの人々をひきつけ、また多くのいやしのみわざをなさっておられるのを見て、自分もまたそのように人々から尊敬を受ける巡回伝道者になりたいと願っていたのかもしれません。彼がこの世での称賛とか名誉とかを期待し、それによって自分の生活の安定を求めていたらしいということは、58節の主イエスのみ言葉からも推測されます。

 「人の子」とは、主イエスがご自分のことを指して言われる場合にしばしば用いる言い方です。主イエスは神のみ子であられましたが、天から下ってこられ、人の子となられ、人間の肉をまとわれました。わたしたちの罪と弱さのすべてをご自身に担われ、父なる神のみ前で徹底的に貧しくなられ、弱くなられ、ご受難と十字架への道を進まれました。そのような「人の子」主イエスには、野の獣や空の鳥にでさえも与えられている休息の場すらなく、この世での生活の保障も、命の保証すらないと主イエスは言われます。否むしろ、罪びとたちのためにご自身の命を捨てることこそが、ご自身の使命であるということを、主イエスはここで語っておられるのです。

 それゆえに、主イエスのあとに従う弟子たち、わたしたち信仰者は、この世での名誉や報酬を期待するべきではなく、あるいはまたこの世での生活の安定とか喜び、楽しみを求めるべきでもありません。だれしもが追い求めているこの世での名誉、報酬、喜び、楽しみ、それらよりもはるかに尊く、はるかに祝福された宝、十字架の主イエスから与えられる朽ちることのない、永遠なる宝を約束されているのだということを、主イエスはここで暗示しておられのです。

 第二の人の場合は、主イエスの方から「わたしに従いなさい」とお招きになります。それに対してこの人は、「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と応答しています。この人も主イエスに従う用意も決意も十分にあり、主イエスを自分の人生の主と信じる信仰もあるように思われました。けれども、その前に、彼にはしなければならないことがありました。彼は今、亡くなった父親の葬儀の途中です。それを済ましてから、主イエスに従うつもりです。モーセの十戒に、「あなたの父と母を敬え」と命じられています。愛と敬意をこめて親を葬ることは子どもの重要な務めであり、何をおいてもまずしなければならない子どもの大切な義務と考えられていました。

 けれども主イエスは、「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい」と言われます。これはどういう意味でしょうか。ここでも、わたしたちはエルサレムに向かう途中にある主イエスを思い起こさなければなりません。主イエスはエルサレムでわたしたちを罪から救うために苦しみを受けられ、十字架で死なれ、三日目に復活されました。それによって主イエスはわたしたち罪びとたちの罪と死とを滅ぼされ、罪の奴隷からわたしたちを贖い、死のとげを抜き取られ、罪と死とに完全に勝利されたのです。

 それゆえに、主イエスを信じる信仰者にとっては、死者を葬ることはそれまでとは全く違った意味を持つようになりました。ヨハネ福音書11章で、主イエスはベタニア村のラザロの死と葬儀に直面された時、ラザロの姉マリアや葬儀に参列している人たちがみな泣いているのをご覧になって、「心に憤りを覚えられた」と33節と38節に二度繰り返されています。そして、墓に納められていたラザロに「ラザロ、出てきなさい」とお命じになると、彼は墓から生き返って出てきたことが記されています。主イエスは、死の前で何もなしえず、死に屈服するほかない人々に対して、激しい憤りを覚えられました。そのようにして、主イエスはただお一人死と戦われ、そのためにご自身の血を流されるほどに死と格闘され、そしてついには死に勝利されたのです。それゆえに、主イエスを信じる信仰者にとっては、死者を葬ることは新しい復活の命への入口なのです。信仰者にとっての葬儀は、人間の命の敗北の儀式なのではなく、新しい復活の命への招きなのです。

 主イエスが続けて、「あなたは行って、神の国を言い広めなさい」とお命じになったのは、そのことを意味しています。罪と死が支配するこの世の国からあなたは救い出され、常に神が共にいてくださる救いの恵みと命に満たされた神の国へと、あなたは招かれているという福音を語り伝えることこそが、主イエスに従う信仰者の新しい使命になるのです。

 三番目の人は、自分の方から、「主よ、あなたに従います」と申し出ますが、その前に家族に別れを言いに行かせてくださいと言います。先の二人と同様に、彼にも主イエスに従う決意と覚悟はありました。でも、まだこの世の人間関係に縛られています。この世でやり残した仕事やこの世での肉の欲望に未練を持っています。

 しかし、主イエスは言われます。「神の国にふさわしく生きなさい」と。主イエス従うとは、主イエスによってl始まった新しい神のご支配に生きることです。この世の朽ちるものによって生きるのではなく、永遠に変わることのない神の命のみ言葉を聞き、主イエスによって与えられた救いの恵みに生きることです。終わりの日に完成される神の国に、今すでに招かれている者として、いわば終りの日を先取りするようにして、終わりの日の神の国の完成を基準にして生きることです。エルサレムで十字架につけられ、死んで葬られ、三日目に死者のうちから復活し、天に昇って、父なる神の右に座していたもう主イエスが、わたしたちのためにすでに開いてくださり、備えてくださった道を進むこと、それが主イエスに従うわたしたち信仰者の生き方です。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、わたしたちをあなたのみ国の民としてお招きくださいますことを感謝いたします。どうか、わたしたちの目と心とを来るべきみ国へと向けさせ、天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼむことのない財産へと向けさせてください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

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