2月18日説教「エジプトで増え広がったイスラエルの人々」

2024年2月18日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:出エジプト記1章1~14節

    使徒言行録7章17~22節

説教題:「エジプトで増え広がったイスラエルの人々」

 旧約聖書の最初の5つの書を「モーセ五書」と言います。伝説ではモーセが書いたとされていますが、モーセ以後の時代のことも書いてありますので、実際にはモーセ一人が著者ではなく、多くの伝承や資料などが編集されて今日のように5つの書のまとめられたと推測されます。ヘブライ語聖書では「モーセ五書」は「律法」に分類されます。マタイによる福音書5章17節で、主イエスが「わたしが来たのは、律法や預言者を廃止するためではなく、完成するためである」と言われた時、「律法」とは「モーセ五書」を指していたと考えられます。

 「モーセ五書」の第二の書が、きょうから読み始める出エジプト記です。ヘブライ語聖書の書名は、その書の最初の言葉で言い表すのが一般的です。創世記は「初めに」がヘブライ語聖書の書名になっています。出エジプト記は「そして、これらがその名前である」が書名です。出エジプト記という書名が用いられたのは紀元前1、2世紀ころに完成したギリシャ語訳聖書の「エクソドス」に由来し、それが中国語聖書で用いられ、日本語訳聖書でも採用されました。ギリシャ語のエクソドスは「出立」「退出」を意味していて、イスラエルの民がエジプトの奴隷の家から神によって救い出され、新しい地へと出立したというこの書の内容と一致しています。

 では、【1~5節】。口語訳聖書では、1節の冒頭に、「さて」という言葉がありましたが、新共同訳聖書では訳されていません。さきほど紹介したように、ヘブライ語では、「そして、これらがその名前である」と始まりますが、冒頭には、ヘブライ語で「ヴェ」と発音される小さな言葉があります。これは前の文章との続きを意味する接続詞の働きをしており、日本語では、「そして、さて」と訳されることもありますが、多くは訳されません。出エジプト記の冒頭にこの「ヴェ」という接続詞があるということは、前の創世記との関連性、連続性を意味しています。その連続性について、まず考えてみましょう。

 創世記と出エジプト記の連続性とは言っても、歴史的経過をたどれば、その間には400年以上の年月があります。そのことについては、すでに神がアブラハムに約束して語っておられました。【創世記15章13~14節】(19ページ)。エジプト滞在期間については、出エジプト記12章40節、41節では430年とあり、二つの説があったようです。古代社会では40年が一世代と考えられていましたので、ヤコブ・イスラエルの家族は10世代をエジプトの異郷の地で過ごしたことになります。

 出エジプト記1章1節の冒頭では、その400年余りの時の経過を、「さて、そして」という短い言葉で接続しているのですけれど、そこには長い時の経過を貫いて、あるいはその時の経過を越えて、密接な連続性があるということを、わたしたちは確認することができます。そこには、主なる神の永遠なる救いのご計画があると言ってよいでしょう。

 創世記50章の最後は、大飢饉のためにエジプトに移住した族長ヤコブ・イスラエルの死と、彼の12人の子どもたちのうち、先にエジプトに行っていて、父や兄弟たちをエジプトに呼び寄せたヨセフの死の記録をもって終わっています。それから400年余りの期間に、エジプトの地で神がどのようにヤコブ・イスラエルの一族を導かれたのか、彼らがどのような信仰生活を送ったのかについては、聖書の記録は全くありません。いわば、空白の400年と言えるかもしれません。

 けれども、その間にも、神はエジプトに移住したイスラエルの子孫を忘れておられたのでも、彼らをお見捨てになったのでもありません。神の救いのご計画が停滞するとか、中止されてしまうのでもありません。神が族長アブラハム、イサク、ヤコブに繰り返して語られた契約、約束のみ言葉は無効になったのではありません。創世記50章24~25節で、ヨセフが遺言として語った言葉は、400年以上の年月を経ても、決して忘れられることも、無効になることもありません。それを確認しておきましょう。【24~25節】(93ページ)。神はこの空白の400年にも、約束のみ言葉の成就のために働いておられ、救いのみわざを前進させ、イスラエルの子孫を導いておられたのです。

 そのことは、出エジプト記のきょうのみ言葉からもうかがい知ることができます。【6~7節】。多くの子どもが生まれ、子孫が増えることは神の祝福のしるしです。神は天地創造の第六日目に人間を創造され、このように言われました。創世記1章28節にこう記されています。「神は彼らを祝福して言われた。『産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ』」。また、神がアブラハムにこのように約束されました。「わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように」(創世記12章2節)。同じような約束のみ言葉を、その子ヤコブも、その子イサクも繰り返し聞きました。その神の約束のみ言葉は、エジプトでの空白の400年間にも、決して忘れられてはいませんでした。

 創世記から出エジプト記への連続性は、イスラエルの側からも確認することができます。1節の「ヤコブ、イスラエル」は明らかに一人の族長の名前です。彼の12人の子どもたちとその家族70人も個人の人数として数えられています。ところが、7節の「イスラエルの人々」は民族の名前であるように思われます。9節の「イスラエル人」12節以下の「イスラエル人」は明らかに民族の名前になっています。エジプトという異教の国、言葉も生活習慣も、もちろん信じる宗教も違う国で、しかも400年、10世代を重ねた彼らは、その間ずっと、お一人の主なる神を信じる一つの神の民として生き、一つの信仰共同体として成長していったのだということをわたしたちは推測できます。彼らは、アブラハム、イサク、ヤコブに繰り返して語られた神の契約、神の約束のみ言葉を信じ続けてきたのです。6節に、【6節】と書かれていましたが、幾世代にもわたって人間の生と死とが繰り返されていく中で、しかしその人間の死をも超えて、神の救いのご計画は続けられていきました。それゆえに、幾世代にもわたって、神を信じる神の民もまた生き続けることができたのです。

 次に、【8~14節】。ヨセフはわたしたちが創世記で読んできたように、全世界を襲った7年間の大飢饉の際に、神から与えられた知恵によってエジプトを飢饉から救い、それだけでなくエジプトに大きな富をもたらしました。ヨセフはエジプト王ファラオに次ぐ地位に就き、当時エジプトでヨセフの名前を知らない者はいないほどでした。しかし、長い年月とともに人間の功績は忘れ去られていきます。主なる神はイスラエルの民を決してお忘れにはなりませんでしたし、イスラエルの民もまた主なる神を忘れませんでしたが、この世のことはすべて移り行き、過ぎ去り、消え去っていきます。「草は枯れ、花はしぼむが、わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ」とイザヤ書40章に書かれてあるとおりです。主なる神のみ言葉とそれを信じる神の民はいつの時代にも固く立つことができます。

 「ヨセフのことを知らない新しい王」はだれを指すのか。それを特定することが出エジプトの年代を決定することになります。今日多くの学者はこう考えます。まずヨセフとその家族がエジプトに移住した年代ですが、それはエジプト第15王朝か第16王朝と推測されています。紀元前1720年から1570年になります。この王朝はヒクソスという外国からの侵略者がエジプトを支配していました。ヒクソスはイスラエルの民ヘブライ人と同じセム系の人種でしたので、ヨセフたちがエジプトに移住してよい待遇を受けることができたのではないかと考えられるからです。また、ヨセフがエジプトで高い地位に就くことができたのもそのことが関係していたと考えられます。

 新しい王とは、ヒクソス王朝が終わり、新王国時代と言われる第18王朝以後の王であろうという点では、学者の意見はほぼ一致しています。イスラエル一族の滞在期間が400年余りということも考慮に入れれば、イスラエルを迫害した王は、第19王朝の創始者セティ一世(BC1309年~1290年)であり、出エジプトの時の王は次のラメセス二世(BC1290年~1224年)ではないかとする説が有望です。

 いずれにしても、エジプト側には全く記録がないので確かではありません。出エジプトの出来事は、イスラエルの側にとっては、民族の誕生であり、神の大いなる救いのみわざですが、エジプト側にとっては取るに足りないことであり、むしろ屈辱的な出来事ですから、その記録を完全に無視したということはあり得ることです。

 新しいエジプトの王は、増え広がり、大きな民となったイスラエルを恐れ、彼らを強制労働に駆り立てます。それによって、彼らの体力を奪い、出産能力を減少させようとしたのかもしれません。しかし、エジプトの王は、イスラエルの目覚ましい成長と強さがどこから来るのかをまだ知りません。もしそれが、人間の中から出てくる民族意識とか、団結力とか、勤勉さに由来するものであれば、人間の力で抑え込むことができたかもしれません。けれども、イスラエルは苦しめられれば苦しめられるほどに、ますます大きく、強くなっていきました。イスラエルの生命力、その逞しさ、その忍耐力は、主なる神から来るものであったかからです。神が彼らと共にいてくださったからです。

 ここでわたしたちが気づかされることは、エジプトの王はイスラエルの民が増えることを恐れ、戦争が起これば彼らが敵に回るかもしれないと恐れ、彼らを強制労働によって迫害することで、彼らを押さえつけ、その力を奪おうとしているのですが、実はそれは主なる神に対して戦いを挑み、主なる神の救いのご計画に抵抗していることなのだということです。エジプトの王自身はまだそのことに気づいてはいませんが、イスラエルの人々はその信仰によって、主なる神が共にいてくださるのであれば、エジプトの国家権力によっても自分たちが決して弱ることなく、消し去られることもないことを信じています。エジプトの王は、増え広がるイスラエルの人々を恐れています。奴隷の民を恐れています。しかし、イスラエルの人々は主なる神のみを恐れ、主なる神のみに仕えています。ここにすでに、神の民の最終的な勝利が約束されていることをわたしたちは知らされます。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、きょうもまたあなたの永遠なる救いのご計画の中にわたしたちを招き入れてくださいましたことを感謝いたします。わたしたちの小さな群れと、わたしたち一人一人をも、どうか主イエス・キリストを信じる信仰によって固く立たせてください。

○天の神よ、先日わたしたちの群れに属する愛する一人の姉妹が、地上のすべての歩みを終えて、あなたのみもとへと召されました。あなたがこの姉妹に信仰を与え、この教会の交わりにお加えくださいましたことを感謝いたします。どうか、ご遺族の上に天からのお慰めと平安が与えられますように。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

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