7月14日「良いわざを始め、完成される神」

2019年7月14日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:詩編98編1~9節

    フィリピの信徒への手紙1章3~11節

説 教:「良いわざを始め、完成される神」

 フィリピの信徒への手紙には二つの別名が付けられているということを、前にお話ししました。「獄中書簡」と「喜びの書簡」という名前です。本来一緒になるはずがないこの二つの名前がこの書簡につけられているのはなぜか、その秘密、その真理を探っていくことが、この手紙を読む際の一つの楽しみでもあります。きょうの礼拝で朗読された箇所に、すぐにも喜びという言葉が出てきます。そして、その喜びとはいかなるものであるのか、獄に捕らえられているパウロが、それにもかかわらず喜びと感謝に満たされているのはなぜなのかが、この最初の個所で明らかになります。

 【3~4節】。この手紙には「喜び」とか「喜びなさい」という言葉が10数回用いられていますが、その最初が4節の「喜びをもって」、次が18節の「わたしはそれを喜んでいます。これからも喜びます」、ここには続けて2度出てきます。この手紙の差出人である使徒パウロは今獄につながれています。7節にそれが暗示されていますし、12節以下でははっきりと彼が今監禁されていることが語られています。それなのに、彼は喜んでいます。なぜでしょうか。獄に捕らえられ、しかも自らが犯した何らかの犯罪とか過ちとかによってではなく、主イエス・キリストの福音を語ったがゆえにユダヤ人やギリシャ人から迫害を受けて、獄の中で鎖につながれ、自由を束縛され、もしかしたら死の判決を下されるかもしれないという不安や恐れ、孤独と絶望に閉ざされてしまいかねないような困難な状況の中で、しかもなおパウロは喜びに満たされている、神に感謝している、それはなぜなのか、わたしたちはぜひともその秘密を知りたいと願わずにおれません。

 もう一度、3節の終わりの個所を読んでみましょう。「いつも喜びをもって祈っています」。パウロの喜びは、まず第一に、祈りと結びついているということが分かります。パウロは獄中で神に祈っています。喜びと感謝をもって祈っています。祈りは、獄中のパウロをすべての束縛や不安、恐れから自由にし、解き放ちます。ここに、パウロの特別な喜びの隠された秘密、その理由があります。パウロにとって祈りは、それはわたしたちすべてのキリスト者にとっての祈りとも共通することですが、神を信じる人の祈りは、祈りの相手である神のみ力が働くときです。祈るわたしには全く力なく、可能性はなく、希望もないにもかかわらず、そうであるからこそわたしたちは神に祈るのですが、わたしたちの祈りによって主なる全能の神が立ち上がってくださり、お働きになってくださる、神のみ心が実現されていく、それが祈りです。たとえ今パウロが獄につながれ、太い鉄格子で囲まれていようとも、たとえだれかが、あるいはこの世のどのような権力が彼を抑圧しようとしても、パウロは祈りによって自由になっています。彼はどのような状況の中でも祈ることができます。祈りは彼を自由にし、彼を縛り付けているすべての束縛を断ち切り、鉄格子を打ち破り、不安や恐れを投げ捨て、そして、彼にこの世ならぬ喜びを感謝を与えているのです。

 したがって、ここからわかる第二の点は、パウロがフィリピ書でしばしば語る喜びとは、天の父なる神から与えられる喜びであるということです。この世で、パウロが努力して手に入れることができた喜びではなく、この世のだれかが、何かが彼に与えることができる喜びでもなく、むしろ、そのようなこの世の喜びがすべて失われてしまったのちにも、天の父なる神から与えられる喜び、祈りによって、全能の神から与えられる喜びなのだということです。この世でわたしたちが手にすることができる喜びといったものは、別の喜びによっておおわれてしまったり、あすになれば憂いに変わってしまったりするほかありません。もちろん、そのような喜びも天からの喜びの反映であり、神はそのような喜びをもわたしたちにお与えくださるでしょう。でも、天からの本当の喜び、どのような状況でも決して変わらず、失われることもない永遠の喜びは、この世のあらゆる束縛をも打ち破り、すべての不安や恐れからわたしたちを解放する喜びなのです。この世にある他のすべての喜びは、この天からの、神からの喜びの反映なのであり、繁栄でなければなりません。

 次に注目すべき点は、3節で「わたしは、あなたがたのことを思い起こす度に、わたしの神に感謝し」と言っていることです。パウロの感謝はまず神に向けられています。彼がこの手紙を書く主な目的は、フィリピ教会が獄中のパウロに援助の手を差し伸べたことに対するお礼を伝えるということにありました。パウロはもちろんそのことへの感謝を忘れているわけではないでしょうが、しかしパウロはそれについては手紙の終わりの個所で、4章10節以下で具体的に語ります。手紙の冒頭では、何よりもまず神に対する感謝を語っています。神こそがすべての感謝の源だからです。

 もう一つ、この3節で特徴的なことは、パウロはここで「わたしの神」と言っていることです。新約聖書でも旧約聖書でも、神を「わたしの神」と言い表す例はごくわずかしかありません。多くは、「わたしたちの神」「イスラエルの神」と言います。それは、天におられる神の尊厳や偉大さを強調していたからです。そのために、「わたしの神」と親しげに言い表すことを避けていたからです。しかし、パウロはここで大胆にも「わたしの神」と言っています。神との親密な関係を大胆に表現しています。それはおそらく、パウロが今置かれている状況と深く関連していると思われます。パウロは今、ローマかエフェソか、あるいは他の町で獄に捕らえられ、信仰の兄弟姉妹たちから隔離され、一人でやがて下されるであろう死の判決を待っています。けれども、パウロは決して一人ではありません。孤独ではありません。主なる神が、彼と共にいてくださいます。このような困難な状況の中でこそ、パウロは神の存在を身近に感じています。パウロが獄にとらわれている時にも、神はパウロの神であることをやめません。いや、たとえ彼に死の判決が下され、彼が死に赴かなければならなくなるとしても、その時にも神はパウロの神であり続けます。神はどのような時でも、「わたしの神」として、わたしの傍らにいてくださる、わたしと共にいてくださるということを、パウロは強く信じているのです。

 パウロの喜びをさらに探っていきましょう。【5節】。ここでは、パウロの喜びと感謝の源となっていることが何であるのかが、よりはっきりと書かれています。それは、フィリピの教会が主キリストの福音にあずかっているからです。「最初の日から」とは、パウロが第2回世界伝道旅行の途中に、小アジアからヨーロッパに渡って最初にフィリピの地で福音を宣べ伝えた時からということで、それは紀元48年か49年ころと思われますが、それ以来、パウロが今手紙を書いているこの時までずっと、フィリピ教会で主キリストの福音の説教がなされ、聞かれ、信じられてきた、フィリピの教会の人たちは主キリストの福音によって生き続けてきたという事実、そのことをパウロは感謝し、喜んでいるのです。

 なぜならば、主イエス・キリストの十字架の福音は、それを聞き、信じる人を、罪から救い、死と滅びの道から命と希望の道へと導くからです。パウロはローマの信徒への手紙1章16節でこう言います。「わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシャ人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです」。また、コリントの信徒への手紙一1章18節以下では次のように語ります。【18~25節】(300ページ)。主イエス・キリストの十字架の福音はわたしたちを罪と死と滅びから救い、罪ゆるされた人としての新しい人間を創造し、わたしたち一人一人を来るべき神の国の民として導くのです。これこそが、天から、神から与えられた、永遠の喜びであり、この世のすべての鎖や壁を打ち砕き、悲しみや憂いや、不安や恐れからわたしを解放する神の力なのです。パウロはフィリピ教会がこの福音を宣教し、聞き、信じていることを、何にもまして喜んでいる、神に感謝しているということを、手紙の冒頭で語っているのです。

 この喜びはフィリピ教会に与えられている喜びであり、パウロの喜びでもあります。様々な困難や迫害に苦しめられているフィリピ教会、そして今迫害のために獄に捕らわれの身となっているパウロ、その両者がこの天からの、神からの喜びによって固く結ばれているのです。その喜びはまた、今日聖書のみ言葉を読むわたしたち一人一人の礼拝者に与えられている喜びでもあります。主キリストの福音から与えられるこの罪のゆるしの喜び、救われた喜び、自由と解放の喜び、この喜びが全世界の教会の民を一つに結合しています。

 【6節】。ここでは、パウロの喜びと感謝がさらに広げられています。主キリストの福音によって与えられる喜びは、場所や地域や国を超えて、あるいはそれぞれの状況の違いを超えて、すべて福音を信じる人々を一つにする、それだけでなく、時をも超えて過去から現在へ、そして未来へ、終わりの日に至るまで、広がっていく様子を、わたしたちはここに見ることができるのです。

 「あなたがたの中で善い業を始められた方」とは神のことです。フィリピの町に最初に福音を宣べ伝え、教会の基礎を築いたのはパウロですが、またそこに集まり信仰の群れを形成したのはフィリピの人たちですが、彼らをお用いになって教会建設のわざを始められたのは、主なる神ご自身です。神はご自身が始められた救いのみわざを、途中で放棄されることはありませんし、何らかの障害によってとん挫することもありません。神がなさるみわざは必ずや成し遂げられ、完成へと至ります。詩編98編の詩人はこのように歌います。【1~3節】(935ページ)。また、イザヤ書55章8節以下にはこのように書かれています。【8~11節】(1153ページ)。

 それゆえに、パウロの喜びと感謝は時をも超えていきます。「キリスト・イエスの日」とは、世の終わりの日、終末の時、神の国が完成される日のことです。10節や2章16節では「キリストの日」と言われています。主イエス・キリストが再びこの地に下ってこられ、地にあるすべてをお裁きになり、この古い世界を終わらせ、信じる人々を天にある神の国へと引き上げてくださる日のことです。パウロの目は、過去から現在へ、そして終わりの日へと向けられています。それは、主なる神が天地創造の初めからイスラエルの選びの歴史を貫き、主イエス・キリストの十字架と復活によって成就してくださった救いの歴史を、終わりの日に完成させてくださることを固く信じているからです。

 これがパウロの終末信仰です。この終末信仰こそが、パウロの喜びと感謝の根拠です。いかなる現実によっても左右されず、むしろ現実を打ち破り、変革し、新しい道を切り開いていく力と可能性とを持った喜びです。フィリピの使徒への手紙はその喜びに満ちています。それゆえに、「獄中書簡」でありながら「喜びの書簡」と呼ばれるのです。わたしたちにもこの喜びが与えられています。

(祈り)

7月7日説教「昼と夜の創造」

2019年7月7日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:創世記1章14~19節

    使徒言行録17章22~31節

説教題:「昼と夜の創造」

 きょうの礼拝で朗読された創世記1章14~19節には、神の天地創造の第四日目のみわざについて書かれています。【14~19節】。第四日目も、「神は言われた」という14節の言葉で始まります。神がみ言葉をお語りになることから、第四日目が始まります。この日だけではありません。天地創造のこの日までの3日間も、またこの日以後のすべての日々も、「神は言われた」という言葉で始まります。それだけではありません。神の天地創造から今日に至るまでの全世界のすべての日々も、またこれ以後のすべての人にとってのすべての日々も、「神は言われた」という言葉で始まるのだということ、始められなければならないのだということを、わたしたちは知っています。人間が何かを語りだすよりも前に、人間が何かをなすよりも前に、神がまずみ言葉をお語りになる、そして人間がそれを聞く、そのようにして一日が始められるとき、15節にあるように、「そのようになった」というみ言葉を聞くことができるし、さらには、その日の終わりには、18節に書かれているように、「神はこれを見て、良しとされた」というみ言葉をも聞くことができるのだということを、わたしたちは知っています。

もし人が、神なしで、神のみ言葉を聞くことなしで、自ら語り、自ら何かをなそうとするならば、それは実りのない、むなしく消え去っていくしかない一日、空虚な時になるほかないでしょう。わたしたちのきょうの一日が、わたしの生涯の日々が、満たされた時、確かな実りを約束された日々となるために、そしてすべての時が、すべての日々が、神によしとされるために、わたしたちはまず神ご自身がお語りになり、わたしがそれを聞くということが第一に重要なのだということを、覚えたいと思います。わたしが自分の生涯を終えようとするとき、「神はそれを見て、良しとされた」というみ言葉を聞くために、何よりも重要なことは、「神は言われた」というみ言葉を聞き続けることなのです。

第四日目の創造のみわざを語る際に、聖書は非常に注意深い用語を用いていることに気づかされます。14、15節の天の大空にある「光る物」、また16節の「二つの大きな光る物」のうちの「大きな方」とは、あきらかに太陽のことです。当然、「小さな方」とは月のことです。つまり神はこの四日目に、太陽と月、星々を創造されたのですが、聖書は太陽と月という言葉を直接には用いていません。これには大きな理由があります。

古代社会においては、今日でもそうですが、太陽や月は信仰の対象とされ、神として礼拝されていました。たとえば、イスラエルと様々なかたちで、隣国としての関係を持ってきたエジプトでは、太陽神「ラー」が長い間、国家の中心的な神でした。また、アブラハムの生まれ故郷であった古代メソポタミアでは、月神「シン」が礼拝されていました。その他、あらゆる国で、あらゆる時代に、太陽と月は神として崇められていました。今日でもそうです。

しかしながら、聖書では、イスラエルでは、太陽も月も、そして星々も、主なる神によって創造された被造物に過ぎず、神が大空にそれらを配置され、それらの運航と役割とを神が定め、支配しておられるのです。それらは決して神として礼拝されることはありませんし、それらが人間の運命を左右したりすることも全くあり得ません。古代エジプトやのちの中国などで発達した占星術は、イスラエルにおいては全く愚かで幼稚なものとして投げ捨てられました。このような正しい創造信仰は、わたしたちをすべての偶像礼拝から守ります。きょうの聖書の言葉の一つ一つには、それらの異教的な偶像礼拝や信仰に対する対決、否定が含まれているのです。

14~18節までのすべての文章は、神が主語です。神がお語りになり、神がみわざをなさいます。「神は言われた」で始まるこの日一日は、神がすべてお語りになり、神がすべてのみわざを行われます。神が「あれ」と命じられ、神が「そのようになれ」とお命じになるのです。

では、神は何のために、だれのためにこれらの創造のみわざをなさるのでしょうか。きょうの個所でそのことがより一層明らかになります。神は前日、三日目には、乾いた所、陸地を創造されました。海の水が陸地を覆ってしまわないように、海と陸とを分けられました。神は陸地に、草や果樹を芽生えさせられました。それは、やがて神が第六日目に創造される人間アダムをその陸地に住まわせるため、彼にその草と果樹を食物としてお与えになるためであるということを、わたしたちはのちに知らされます。神は人間アダムが生きるための舞台として陸地を整えてくださったのです。天地創造の神はその創造のみわざの初めから人間アダムを愛され、彼のために配慮してくださいます。

そのような視点から、きょうの四日目の創造について改めて読み返してみると、新たなことに気づかされます。14節に「昼と夜を分け、季節のしるし、日や年のしるしとなれ」と書かれており、15節には「地を照らせ」とあります。神によって創造された太陽と月は、人間アダムの時を刻み、季節ごとの地の実りをもたらすために仕えているのです。神の創造の世界にあっては、太陽と月は人間が礼拝する神々としての対象ではなく、むしろ人間に奉仕するために神によって創造された被造物です。主イエスは言われました。「あなたがたの天の父である神は、悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」(マタイ福音書5章45節)。「今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか」(同6章30節)。わたしたちは神が創造された被造世界を見て、そこに現わされた人間に対する神の大きな愛を知らされるのです。

16節に、「大きな方に昼を治めさせ、小さな方に夜を治めさせられた」と書かれています。神はお創りになった太陽と月とをお用いになって、昼と夜とを創造されます。神はこの日に時を創造されたといってよいでしょう。神は先に人間アダムのために彼が住む陸地を創造されましたが、この四日目には彼が生きる時を創造されました。わたしたち人間が生きる場所も生きる時間も、神から与えられたもの、神の賜物です。わたしたちはその両者を神に感謝しながら、わたしが生きる時とわたしが生きる場所を神のみ手から受け取り、神の創造のみ心に従ってそれを用いるべきです。

しかしながら、今日多くの人がそのことを忘れて、神がお創りになったこの地を、あたかも自分の手で獲得できるかのように、自分の手でさらに広げることができるかのように思い、他の人の地までを略奪し、そのために神から賜った地に多くの人間の赤い血を染み込ませてきたのではないか。あるいは、神がお創りになった時間を、あたかも自分たちの自由に管理できると思い込み、他者の時間までも金銭で買収できると考えたり、あるいは、むしろ時間の奴隷にされたりしているのではないか。そのことを反省させられます。

朝には太陽が昇り、昼の光が明るく世界を照らし、すべて命ある者たちにその光が及ぶ。夜には、月の光のもとできょうの一日を終え、小さな光が優しく人々を安らかな眠りへといざなう。そのようにして、日から日へと、夜から夜へと一日が巡っていくこと、そこに創造主なる神の尊いみ心があり、特にも人間アダムに対する深い愛と配慮があるのだということ、そのことを神に感謝して日々を歩む者でありたいと願います。

神は昼と夜とを創造されたとともに、季節をも創造されました。季節ごとの地の豊かな実り、暑さ寒さもまた、天地創造の神の賜物です。創世記8章22節で、ノアの洪水ののちに神はこう言われました。「地の続く限り、種蒔きも刈り入れも/寒さも暑さも、夏も冬も/昼も夜も、やむことはない」と。神は時と時間と季節とを創造され、それをみ心によって支配され、それぞれの時に応じて、豊かな恵みをお与えくださいます。わたしたちはまた次のようなコヘレトの言葉3章のみ言葉を思い起こします。【1~8節】(1036ページ)。神はそれらのすべての時を、わたしたちのために創造され、支配しておられるのです。

イスラエルの民にとっては、時と季節は特別に重要な意味を持っていました。それはイスラエルの礼拝と深く関係していました。イスラエルでは、春に祝われる過ぎ越しの祭りと種入れぬパンの祭りは、本来は大麦の鎌を入れる収穫祭だったと推測されています。それから50日目に祝われる五旬節・ペンテコステは小麦の収穫を感謝する祭りです。秋に祝われる仮庵の祭りはブドウの収穫を感謝する祭りです。イスラエル3大祭りは、時と季節を創造され、その季節にふさわしい実りを大地にもたらしてくださる神への感謝の礼拝なのです。そのほかに、新年の礼拝、新月の礼拝なども、時に関連した礼拝です。信仰の民にとって、時は神礼拝と密接に結びついています。

14節に、「昼と夜を分け」とあり、また18節には、「光と闇を分けさせられた」と、ここにも「分ける」という言葉が2度用いられています。同じ言葉がすでに4節、7節でも用いられておりましたし、同じような意味を持つ「呼ぶ」という言葉も何度も出てきました。分けるとは、区別すること、境界線を引くこと、両者が互いの領域を侵略しないように定めることです。どれほどに夜が長く続き、闇が深く感じられるような時があろうとも、夜がその日全体を支配することはありませんし、闇が光を永遠に追い出すこともありません。夜と昼、闇と光を創造された神は、その両者を支配しておられます。神は必ずや夜の時を終わらせ、闇を追い払われます。光の昼を来たらせたまいます。

旧約聖書の詩人たちは、試練や悩みの夜を迎える時、夜の深い暗闇を恐れながらも、必ずや神が光の朝を来たらせてくださることを信じて、「主よ、わたしは身を横たえて眠り/また目覚めます。主がわたしを支えてくださるからです」(詩編3編6節)と歌い、また、「見よ、イスラエルを守る方は/まどろむことなく、眠ることもない。主はあなたを見守る方/あなたを覆う陰、あなたの右にいます方。昼、太陽はあなたを撃つことがなく/夜、月もあなたを撃つことがない」(詩編121編4~6節)と歌いました。使徒パウロは、ローマの信徒への手紙13章11節以下で次のように書いています。これは、中世の偉大な神学者アウグスチヌスが長い放浪の旅に終止符を打ち、回心するきっかけとなったみ言葉としても有名です。【11~12節】(293ページ)。

14、15、16節で用いられている「光る物」という言葉について、もう少し触れておきたいと思います。この言葉は、古代の近東諸国で神として崇められていた太陽、月という言葉を直接に用いることを避けるために「発行体」というような意味で用いられていますが、しかし、それ自体が光を放っているとは決して言われているのではなく、創り主であられる神から与えられている光、あるいは神からの光を反射している光のような存在として描かれています。3節ですでに学びましたように、神は創造の第一日目に光を創造されました。この光は、きょうの第四日目の「光る物」とは明らかに違います。創世記1章の中では、3節の光ときょうの「光る物」との違いについては何も説明してはいません。わたくし自身もその違いについてわかりやすく説明することはできません。

それでも次のことは明らかです。新約聖書においては、主イエス・キリストがすべての人を照らすまことの光としてこの世においでくださったとヨハネ福音書1章で証しされており、また、主イエスご自身が「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」と言われたことをわたしたちは知っています。わたしたちキリスト者にとっての光とは、わたしたちの救いであり命である主イエス・キリストのことです。

(祈り)

6月30日(日)説教「恵みと平安があなたがたにあるように」

2019年6月30日(日)午前10時30分 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:民数記6章22~27節

    フィリピの使徒への手紙1章1~2節

説教題:「恵みと平安があなたがたにあるように」

 フィリピの信徒への手紙は、当時のギリシャ世界の手紙の書式にならって、手紙の差出人と受取人に続いて祝福の言葉が語られています。【2節】。手紙の冒頭で、手紙の差出人が受取人に対して祝福の言葉を書くという古代社会の習慣には、今日のわたしたちが考える以上に深い心の交流があったと思われます。今のように、交通が便利ではなく、頻繁に顔を合わせることができない時代に、また電話とかの電子による通話ができなかった時代に、遠く離れた相手に自分の願いや思いを伝える唯一の手段であった手紙に、その冒頭で、要件を書くよりも前に、まず一字一字に深い祈りと思いとを込めて祝福の言葉を書くということの重要性を、わたしたちは気づかされます。

 しかし、この手紙の差出人である使徒パウロは、単に当時の一般社会の習慣に従っているのではありません。パウロの祝福の言葉は、それは短く簡潔な文章ですが、そこにはキリスト教信仰の中心が表現されています。【2節】。ここには、パウロの信仰と神学、主イエス・キリストの福音が端的に言い表されています。

第一に重要なポイントは、この祝福の言葉は手紙を書いている人の社交辞令とか個人的な願いとかではなく、天の父なる神から、また十字架につけられ、三日目に復活され、天に昇られ、父なる神の右に座しておられる主イエス・キリストから、手紙の差出人と受取人の両者にすでに与えられている恵みと平和を感謝して受け取りなさいという、神の恵みと平和への招きなのであり、また神の恵みと平和による信仰者の深い交わりの確認というような意味も含まれているのだということです。この2節のみ言葉には、当時の一般社会での手紙の書式とは違った、パウロの、キリスト教信仰による、全く新しい意味が含まれているのだということを、わたしたちは第一に強調したいと思います。

手紙の冒頭で、相手に思いをはせて、「あなたに祝福があるように、あなたの健康が守られるように」、あるいは当時のギリシャ社会であれば、「ローマ皇帝カイザルの恩恵があるように」と祈り、願う、それが手紙を書く時の習慣でした。でも、パウロの手紙ではそれ以上です。「そうあったらいいね、そうなってほしいね」というのではなく、「すでに、父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平和が、確かに、豊かに、あなたがたに与えられている。だから、そのことを覚えて、神に感謝しなさい。また、わたしと一緒にその恵みと平和を共に分かち合いましょう」、そのようにしてパウロは、手紙の冒頭で神の恵みと平和の中へ教会の民を、わたしたちを招き入れているのです。このパウロの祝福の言葉は、祝福を祈るというよりも、祝福を与える言葉であると言うべきでしょう。

ではここで、他のパウロ書簡のあいさつと祝福の言葉を調べてみましょう。【ローマの信徒への手紙1章7節b】(273ページ)。これはフィリピの手紙と全く同じです。【コリントの信徒への手紙一1章3節】(299ページ)。これも全く同じです。実は、他のパウロ書簡でも、祝福の言葉はみな同じです。【テサロニケの使徒への手紙一1章1節c】(374ページ)。これだけがより簡潔な表現になっていますが、この手紙はパウロ書簡の中で最も早くに、紀元50年ころに書かれたと考えられていますので、これがパウロの初期のころの祝福の言葉であり、そののちにフィリピやローマの手紙のように、「神とキリストから」という言葉が付け加わっていったと推測できます。

ところで、皆さんは手紙の冒頭にどういう言葉を書きますか。相手がクリスチャンであれば、「主にあって」とか「主のみ名を賛美します」と書いておられる人が多いと思います。それでよいのですが、パウロの書簡を読んでいるわたしたちは、パウロにならって、【2節】と書いてもよいのではないでしょうか。「あなたとわたしが、神と主キリストから与えられている豊かな、確かな恵みと平和の中に招き入れられている。その恵みと平和による豊かな交わりによって結ばれている」、そのことを覚えて感謝しつつ、手紙を書くというのはどうでしょうか。

次に重要なポイントは、「恵みと平和」の源泉、それが出てくるのはどこかという点です。「わたしたちの父である神」と「主イエス・キリスト」がその源泉です。この点においても、一般社会の手紙の祝福の言葉と根本的に違っています。この世においては、得体のしれない偶像の神々とか、自然や他の被造物とか、ローマ皇帝とかのこの世の支配者や他のだれかとかがその源泉になるでしょうが、聖書においては、「恵みと平和」は、「父なる神と主イエス・キリスト」からきます。天から与えられます。地上の朽ちるほかない、過ぎ去るほかない、もろもろの恵みとか平和ではありません。それだけでなく、わたしたちが前に確認したように、恵みと平和はすでに父なる神と主イエス・キリストから豊かに、確かに与えられているということを、わたしたちは知っています。

ここでは、「わたしたちの父なる神」と「主イエス・キリスト」がどのような関係にあるのかについては、何も語られてはいません。父なる神とみ子なる神・主イエス・キリストと聖霊なる神とが、三つの位格を持つ一人の神でいますという、三位一体の教理はパウロ書簡ではまだ明確に形成されてはいません。後にキリスト教教理の中心となる三位一体論は、2世紀後半から4世紀にかけて次第に形成されていきました。三位一体という言葉そのものは聖書の中にはありませんが、それは聖書の証言とは違ったことを初代教会が勝手に創作したということではありません。福音書に記されている主イエスの教えとお働き、またパウロなどの使徒たちの証言と信仰を土台として、それらの聖書のみ言葉から導き出された結論として三位一体の教理が形成され、今日のすべての教会の中心的な教理となったのです。パウロの手紙にも三位一体論の基本があることは言うまでもありません。

きょうの個所でも、わたしたちの父なる神のほかに、もう一人の主なる神として主イエス・キリストがおられるということが言われているのではありませんし、主イエス・キリストが父なる神とは違った別の存在であるとか、別の人間であるということが言われているのでもありません。父なる神と主イエス・キリストは一体です。おひとりの神です。切り離すことはできません。パウロ書簡の他の個所では、主イエスは「神のみ子」と言われ、神は「主イエス・キリストの父である神」と呼ばれています。父なる神とそのみ子であられる主イエス・キリストから、同じ恵みと平和が一緒になってわたしたちに与えられる、父なる神とみ子なる神は一人の神であって、同じ救いのみわざのために働かれるという、三位一体論の基本をここに読み取ることができます。

旧約聖書時代からの伝統によれば、全世界の唯一の主である父なる神からすべての恵みと平和が与えられます。パウロはそれに主イエス・キリストを付け加えています。なぜでしょうか。それは、神が主イエス・キリストによって、わたしたちの父となってくださったからであり、また父としての大きな愛によって、わたしたちに恵みと平和をお与えくださったということを言い表しています。神がご自身のみ子主イエス・キリストによって、イスラエルの民のみならず、全世界のすべての人にとっての真実の、永遠の父として、その豊かな愛と憐れみによって、ご自身の恵みと平和をわたしたち一人一人にお与えくださったのです。神は主イエス・キリストによって、わたしたちのための救いのみわざを成し遂げてくださいました。それ故に、わたしたちは主イエス・キリストをわたしたちの唯一の救い主と信じ、父なる神にすべてのご栄光を帰して、礼拝をささげるのです。

恵みは、ギリシャ語ではカリスですが、当時のギリシャ社会で一般に用いられている普通のギリシャ語でした。ギリシャ人は日常のあいさつで、「カイレ」、「恵みあれ」と言って言葉を交わしました。ちなみに、今日のギリシャ語では、カリスと日を意味するメーラを合わせて、「カリメーラ」(良い日)とあいさつするそうです。日本語の「こんにちは」と同じような意味あいでしょうか。

しかし、聖書では、恵みという言葉には特別な意味がこめられました。特に、パウロ書簡では「恵み」という言葉は100回以上も用いられ、パウロの信仰と神学を特徴づける重要な言葉になっています。

では、聖書の中での恵みにはどのような意味が込められているのでしょうか。恵みとは、本来それを受けるに値しない人に、神の側から、神の憐れみによって、無償で差し出される良きもののことであり、人間はその恵みをただ感謝と恐れとをもって受け取り、その恵みの圧倒的な豊かさと力とに驚きつつ、その恵みに応えて、新しい自分となって神と隣人のために生きるようにされる、そのような恵みを言います。

パウロにとっては、その恵みは、第一には、罪びとに与えられた罪のゆるし、救いの恵みです。人間はみな罪びとであり、神の裁きを受けて死すべき者であるにもかかわらず、神のみ子主イエス・キリストが罪びとたちの罪をすべて背負ってくださり、罪びとたちに代わって十字架で神の裁きを受け、死んでくださった。ご自身の汚れなき血を贖いの供え物として、父なる神におささげくださった。それによって、すべての人の罪が贖われ、すべての人の罪がゆるされている。だれでも、主イエス・キリストの十字架の福音を信じるならば、恵みによって、一方的に神の側から差し出されている恵みによって罪がゆるされ、救われる。これが、救いの恵みです。これこそが、わたしたち人間に与えられている最も大きな、高価で、尊く、偉大な恵みです。その恵みが、わたしたちの父となってくださった神と主イエス・キリストから、わたしたちひとりひとりに与えられているのです。

次に、平和という言葉ですが、これは旧約聖書のヘブル語の伝統を受け継いでいると考えられています。ヘブル語では「シャローム」、ギリシャ語では「エイレーネー」です。当時のユダヤ人は、あいさつの言葉として「シャローム」と言っていました。今日でもそうだそうです。このシャローム「平和」という言葉も、旧約聖書と新約聖書の中では特別な意味を持つようになりました。パウロの書簡でも重要な概念としてたびたび用いられています。

旧約聖書ヘブル語のシャロームという言葉には、戦争や争いがない状態という意味のほかに、繁栄、健康、充足(満ち足りていること)などの意味があります。欠けのない状態、満たされている状態をいいます。

では、パウロはこの言葉をどのような意味で用いているのでしょうか。ローマの信徒への手紙から代表的な箇所を読んでみましょう。【5章1~2節】(279ページ)。ここでは、平和は神との正しい関係を言い表しています。10節では「神との和解」という表現もあります。罪によって神から離れ、神なしで生きていた人間、それだけでなく神と敵対して生きていた人間が、み子主イエス・キリストの死によって、罪ゆるされ、神との敵対関係が終わり、神との和解を与えられた、それが平和です。この神との平和の関係は、どのような第三者の力が外から加わっても、決して破られることのない永遠の平和です。神のみ子がご自身の死をもってわたしたちのために築いてくださった平和だからです。

もう一か所、【14章17節】(294ページ)、それに【15章13節】。5章1節でもそうでしたが、ここでも平和は義と結びつけられ、また喜びとも結びつけられています。平和は、主イエス・キリストによる罪のゆるし、救いの恵みと固く結びついています。罪ゆるされている人に与えられる神との和解、神との正しい関係、神との霊的な交わり、それゆえに与えられる平安、喜び、希望、それが平和です。この神との平和が与えられているのならば、わたしたちには何も欠けるものがありません。すべてにおいて満たされています。

 (祈り)

6月23日(日)説教「洗礼者ヨハネ誕生の予告」

2019年6月23日(日) 秋田教会主日礼拝説教6月23日(日)

聖 書:マラキ書3章1~5節

    ルカによる福音書1章5~25節

説教題:「洗礼者ヨハネ誕生の予告」

 ルカによる福音書は、主イエスの誕生に先立って、主イエスのために道を整える務めを果たす洗礼者ヨハネの誕生について記しています。ヨハネの父となるザカリアは祭司の務めについていました。祭司は、エルサレム神殿での礼拝の中で、神とイスラエルの民との仲立ちをします。ある日、彼が属していたアビヤ組が神殿での礼拝当番に当たり、彼が代表して神殿の聖所に入り、祭壇に香をたくことになりました。【8~10節】。

 香をたくのは、香の煙と香りが天に昇っていくように、礼拝者たちの祈りが一つに集められて天におられる神に届けられるということを象徴的に表していました。イスラエルの民を代表して神のみ前に立ち、神殿で香をたき、神に祈りをささげ、そして神からの祝福と救いの恵みを民に語り伝えるという祭司の務めは、大変重要で、光栄ある務めであり、ザカリアにその務めが当たったことは、最高に名誉ある、幸いなことでした。それは、単なる偶然ではありません。神の永遠のご計画でした。神がイスラエルの民のために、また全世界のすべての人々のために、そしてわたしたちのために計画しておられた救いのみわざが、この時から具体的に開始され、成就されていくことになるのです。ルカ福音書の最初に書かれているこのエルサレム神殿での出来事は、まさに神の救いの出来事が成就する初めなのです。

 では、次に【11~13節】。「主の天使」とは、み使いとも言われますが、聖書では神ご自身のことです。神は天にいます聖なる方ですから、地にある、罪にけがれた人間の目でそのお姿を直接見ることはできませんし、人間の耳で直接そのお声を聞くことはできませんので、何か他の媒介を用いて神が人間に働きかける際に、天使とかみ使いとかの姿になります。

 「ザカリアはそれを見て不安になり、恐怖の念に襲われた」と12節に書かれています。神が人間に出会われるとき、み言葉をお語りになるときに、人間は驚き、恐れるほかありません。地に住み、罪のゆえに滅びるほかない人間が、天におられる聖なる神と出会うとき、わたしたちは自らの滅びと死を自覚せざるを得ません。預言者イザヤは神殿で神と出会ったとき、「災いだ、わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者。しかも、わたしの目は/王なる万軍の主を仰ぎ見た」と叫んだことが、イザヤ書6章に書かれています。他にも、聖書の至る所に、神と出会うときの人間の恐れについて書かれています。わたしたちがクリスマスの時期に読むよく知られたみ言葉もそうです。2章9節以下がそうです。【9~11節】(103ページ)。

 神と出会うときのこの恐れは、いわば「聖なる恐れ」です。本当に恐れがいのある恐れです。神こそが、わたしたちが恐れるべき唯一のお方だからです。そして、神を恐れる人は他のいかなるものをも恐れる必要はありません。なぜならば、神は、ご自身を恐れる人に対して、「恐れるな」とお命じになるからです。最初にクリスマスのおとずれを聞いた羊飼いたちがそうであったように、またザカリアがそうであるように。「恐れることはない。ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた」と続けて13節に書かれてあるように。

 神が、ご自身を恐れる人に対して、「恐れるな」とお命じになるとき、それはわたしたちの恐れを禁じるだけではありません。神は、恐れを喜びに変えてくださいます。「恐れることはない。ザカリア……ヨハネと名付けなさい」(13節)。神はご自身を恐れる人のためにみ心を行ってくださいます。その祈りをお聞きくださいます。

 ところで、ザカリアが神に祈っていたということ、またその祈りの内容について、聖書は具体的に記していません。彼が何を祈っていたのか、彼のどのような祈りが今神によって聞かれたのか、わたしたちは二つの内容を考えることができると思います。一つは、ザカリアの家に子どもが与えられるようにとの祈りです。ザカリアとエリサベトは長い間その祈りを熱心に続けてきたと思われます。7節からそのことが予想できます。しかし今、彼ら夫婦に、人間的な可能性が全く失われたときになって、神の奇跡によって、彼ら老夫婦に子どもが与えられようとしているのです。

 もう一つの祈りは、ザカリアは祭司として、神とイスラエルの民に仕えることがその務めでしたから、彼はイスラエルの長い苦難の歴史を顧みながら、神の民イスラエルが慰められる時が来るように、イスラエルに救いの恵みが与えられるように祈っていたことも確かです。イスラエルは紀元前6世紀から、バビロニア帝国、ペルシャ帝国の支配下にあり、この時にはローマ帝国に支配されていました。神の民に信仰の自由、礼拝の自由が与えられ、神の栄光が全世界に輝き渡る時が来るようにとの祈りは、信仰深いすべてのユダヤ人の祈りでもあったのです。しかし今、その祈りが聞かれ、イスラエルと全世界の救いが成就する時が来ようとしているのです。

 ザカリアの第一の祈りが聞かれたのか、それとも第二の祈りか、ということを考えていると、実はこの二つの祈りは一つであるということに気づかされます。14節に、【14節】と書かれてあるとおりです。長く子どもがいなかったこの夫婦に男の子が与えられ、その子の誕生がその家庭に喜びと楽しみをもたらすだけでなく、多くの人もまたその子の誕生を喜ぶというのです。神はザカリアとエリサベトに与えられるヨハネという人物をとおして、彼をお用いになって、イスラエルと全世界の救いのみわざの成就を今具体的に開始されようとしておられるのです。イスラエルの民全体のための祈りが、一つの家庭のための個人的な祈りが聞かれるというかたちで成就し、また一つの家庭のための個人的な祈りが、民全体のための祈りとして聞かれ、成就するという、不思議な仕方で、今や神はザカリアの祈りにお応えになるのです。このようにして、神はわたしたちの祈りよりはるかに勝った大きな恵みをもって、わたしたちの祈りに応えてくださるのです。

 ヨハネという名は、「神は恵み深い」という意味を持っています。ユダヤ人にはごく一般的な名前です。主イエスの12弟子の中にもガリラヤ湖の漁師でヨハネという名の人がいます。ヨハネ福音書やヨハネ書簡、ヨハネの黙示録を書いたのも、すべて同じ人かどうかは分かりませんが、ヨハネです。生まれた子どもに名前を付けるのは父親の務めでした。親はその子が、神は恵み深い方であることを信じて歩んでほしい、また神の恵みをいっぱいに受けて成長してほしいと願いながら、わが子をヨハネと名づけました。

 ところが、この場合にはそうではありません。まだその子が生まれる前から名前が決められており、しかも父ザカリアが名づけるのではなく、神ご自身が名づけ親になられたのです。ここには、親の願いに先立って、神ご自身の強い意志、み心、神のご計画があるのです。神は、ヨハネという神の奇跡によって誕生した人間をとおして、彼をお用いになって、実際に神が恵み深くあることをお示しになり、事実イスラエルと全世界に大きな救いの恵みをお与えになるのです。

 主イエスの場合にも、やがてわたしたちが学ぶように、マリアの胎内からお生まれになる前に、神によってそのお名前が決められていたということが31節に書かれています。イエス、ヘブル語ではヨシュア、すなわち「神は救いである」という意味を持つこの神のみ子によって、神は実際にご自身の救いのみわざを、旧約聖書の時代から預言されていた神の永遠の救いのみわざを、成就されたのです。

 ではここで、ヨハネ誕生の奇跡について考えてみましょう。7節に書かれていたように、ザカリアとエリサベトには子どもがなく、しかも二人ともすでに年老いていました。人間的には、あるいは医学的・科学的には子どもが与えられる可能性は全くありませんでした。人間の側からの可能性がすべて消失してしまったときに、神から与えられる奇跡によって、この老夫婦に子どもが与えられます。このような奇跡による子どもの誕生物語は、旧約聖書の中にもいくつかの例があります。その最初は、創世記に書かれているアブラハムとサラの子、イサクの誕生です。アブラハムの妻サラも子どもができない体質であったと書かれています。にもかかわらず、神はアブラハムが75歳の時、「あなたから生まれる子孫は空の星の数ほどになる。あなたの子孫は大きな国民となり、神の祝福を受け継ぐであろう」との約束をお与えになりました。その神の初めの約束から25年が過ぎて、アブラハムが100歳になり、人間的には子どもが授かる可能性は全くなくなってから、子どもイサクが神の奇跡によって生まれました。イサクと妻リベカから生まれたヤコブの場合もそうでした。サムエル記に記されている祭司で預言者のサムエルの誕生もそうでした。

 このように、神の奇跡によって生まれた子どもは、その誕生が100パーセント神の恵みであり、神の奇跡の力によるように、その子の生涯もまた100パーセント神の恵みによって生き、神のみ力によって歩むようになるのであり、その人の存在と命、その生涯と働きのすべてが神のためのものとなり、神にささげられたものとなるのです。

 ヨハネの場合もそうです。15節以下に書かれているとおりです。【15~17節】。このみ言葉の内容については次回詳しく学ぶこととしますが、15節のはじめに「彼は主の御前に偉大な人になり」とあり、また17節の終わりに「準備のできた民を主のために用意する」と書かれているように、洗礼者ヨハネは徹底してその生涯を来るべき神のメシア・救い主であられる主イエス・キリストのみ前に生きるのであり、主イエス・キリストのために生きるのであり、主イエス・キリストに彼のすべてをささげて生きるのです。それが、神の奇跡によって誕生したヨハネの生涯なのです。

 この点においても、先駆者ヨハネは来るべきメシア・救い主、主イエス・キリストの誕生とそのご生涯、そして死を指し示しています。ヨハネとイエスという名前の命名に関して、それが両者ともに本人の誕生前に神ご自身によって決められていたという類似だけでなく、両者の誕生においても、神の奇跡によるという類似があることに気づかされます。主イエスはヨセフとマリアがまだ一緒になる前に、人間の営みなしに、神の聖霊によって、おとめマリアの胎内に宿られました。これこそが純粋に100パーセント神の恵みによって、神の奇跡による誕生でした。それゆえにまた、主イエスのご生涯はすべて父なる神のための歩みであり、神にすべてをささげつくすご生涯であり、そして事実、主イエスは死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで、従順に父なる神に服従され、その命を神におささげになられました。それによって、全人類を罪から贖い、わたしたち一人一人の救いを成就してくださったのです。

 最後に、もう一度14節のみ言葉に注目したいと思います。【14節】。ヨハネの誕生がザカリアの喜び、楽しみとなり、それだけでなく多くの人たちにも喜びをもたらすと言われているこの喜びは、実はあのクリスマスの時の大きな喜び、「恐れるな。わたしは民全体に与えられる大きな喜びを告げる」と2章10節で言われている主イエス誕生の喜びの反映であるということに気づかされます。その喜びがヨセフとマリアという小さな家庭の喜びであるだけでなく、イスラエルの民に与えられる喜びであるだけでなく、全世界のすべての人々の喜びとなり、その喜びによって結び合わされた教会の群れを形成していくのです。わたしたちの教会もまた、先駆者・洗礼者ヨハネ誕生の喜びにあずかり、それ以上に、彼の後においでになるメシア・救い主・主イエス・キリスト誕生の喜びにあずかる者たちとして、ここに喜びの群れを形成しているのです。

(祈り)

6月23日(日)説教「洗礼者ヨハネ誕生の予告」

聖 書:マラキ書3章1~5節

    ルカによる福音書1章5~25節

説教題:「洗礼者ヨハネ誕生の予告」

 ルカによる福音書は、主イエスの誕生に先立って、主イエスのために道を整える務めを果たす洗礼者ヨハネの誕生について記しています。ヨハネの父となるザカリアは祭司の務めについていました。祭司は、エルサレム神殿での礼拝の中で、神とイスラエルの民との仲立ちをします。ある日、彼が属していたアビヤ組が神殿での礼拝当番に当たり、彼が代表して神殿の聖所に入り、祭壇に香をたくことになりました。【8~10節】。

 香をたくのは、香の煙と香りが天に昇っていくように、礼拝者たちの祈りが一つに集められて天におられる神に届けられるということを象徴的に表していました。イスラエルの民を代表して神のみ前に立ち、神殿で香をたき、神に祈りをささげ、そして神からの祝福と救いの恵みを民に語り伝えるという祭司の務めは、大変重要で、光栄ある務めであり、ザカリアにその務めが当たったことは、最高に名誉ある、幸いなことでした。それは、単なる偶然ではありません。神の永遠のご計画でした。神がイスラエルの民のために、また全世界のすべての人々のために、そしてわたしたちのために計画しておられた救いのみわざが、この時から具体的に開始され、成就されていくことになるのです。ルカ福音書の最初に書かれているこのエルサレム神殿での出来事は、まさに神の救いの出来事が成就する初めなのです。

 では、次に【11~13節】。「主の天使」とは、み使いとも言われますが、聖書では神ご自身のことです。神は天にいます聖なる方ですから、地にある、罪にけがれた人間の目でそのお姿を直接見ることはできませんし、人間の耳で直接そのお声を聞くことはできませんので、何か他の媒介を用いて神が人間に働きかける際に、天使とかみ使いとかの姿になります。

 「ザカリアはそれを見て不安になり、恐怖の念に襲われた」と12節に書かれています。神が人間に出会われるとき、み言葉をお語りになるときに、人間は驚き、恐れるほかありません。地に住み、罪のゆえに滅びるほかない人間が、天におられる聖なる神と出会うとき、わたしたちは自らの滅びと死を自覚せざるを得ません。預言者イザヤは神殿で神と出会ったとき、「災いだ、わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者。しかも、わたしの目は/王なる万軍の主を仰ぎ見た」と叫んだことが、イザヤ書6章に書かれています。他にも、聖書の至る所に、神と出会うときの人間の恐れについて書かれています。わたしたちがクリスマスの時期に読むよく知られたみ言葉もそうです。2章9節以下がそうです。【9~11節】(103ページ)。

 神と出会うときのこの恐れは、いわば「聖なる恐れ」です。本当に恐れがいのある恐れです。神こそが、わたしたちが恐れるべき唯一のお方だからです。そして、神を恐れる人は他のいかなるものをも恐れる必要はありません。なぜならば、神は、ご自身を恐れる人に対して、「恐れるな」とお命じになるからです。最初にクリスマスのおとずれを聞いた羊飼いたちがそうであったように、またザカリアがそうであるように。「恐れることはない。ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた」と続けて13節に書かれてあるように。

 神が、ご自身を恐れる人に対して、「恐れるな」とお命じになるとき、それはわたしたちの恐れを禁じるだけではありません。神は、恐れを喜びに変えてくださいます。「恐れることはない。ザカリア……ヨハネと名付けなさい」(13節)。神はご自身を恐れる人のためにみ心を行ってくださいます。その祈りをお聞きくださいます。

 ところで、ザカリアが神に祈っていたということ、またその祈りの内容について、聖書は具体的に記していません。彼が何を祈っていたのか、彼のどのような祈りが今神によって聞かれたのか、わたしたちは二つの内容を考えることができると思います。一つは、ザカリアの家に子どもが与えられるようにとの祈りです。ザカリアとエリサベトは長い間その祈りを熱心に続けてきたと思われます。7節からそのことが予想できます。しかし今、彼ら夫婦に、人間的な可能性が全く失われたときになって、神の奇跡によって、彼ら老夫婦に子どもが与えられようとしているのです。

 もう一つの祈りは、ザカリアは祭司として、神とイスラエルの民に仕えることがその務めでしたから、彼はイスラエルの長い苦難の歴史を顧みながら、神の民イスラエルが慰められる時が来るように、イスラエルに救いの恵みが与えられるように祈っていたことも確かです。イスラエルは紀元前6世紀から、バビロニア帝国、ペルシャ帝国の支配下にあり、この時にはローマ帝国に支配されていました。神の民に信仰の自由、礼拝の自由が与えられ、神の栄光が全世界に輝き渡る時が来るようにとの祈りは、信仰深いすべてのユダヤ人の祈りでもあったのです。しかし今、その祈りが聞かれ、イスラエルと全世界の救いが成就する時が来ようとしているのです。

 ザカリアの第一の祈りが聞かれたのか、それとも第二の祈りか、ということを考えていると、実はこの二つの祈りは一つであるということに気づかされます。14節に、【14節】と書かれてあるとおりです。長く子どもがいなかったこの夫婦に男の子が与えられ、その子の誕生がその家庭に喜びと楽しみをもたらすだけでなく、多くの人もまたその子の誕生を喜ぶというのです。神はザカリアとエリサベトに与えられるヨハネという人物をとおして、彼をお用いになって、イスラエルと全世界の救いのみわざの成就を今具体的に開始されようとしておられるのです。イスラエルの民全体のための祈りが、一つの家庭のための個人的な祈りが聞かれるというかたちで成就し、また一つの家庭のための個人的な祈りが、民全体のための祈りとして聞かれ、成就するという、不思議な仕方で、今や神はザカリアの祈りにお応えになるのです。このようにして、神はわたしたちの祈りよりはるかに勝った大きな恵みをもって、わたしたちの祈りに応えてくださるのです。

 ヨハネという名は、「神は恵み深い」という意味を持っています。ユダヤ人にはごく一般的な名前です。主イエスの12弟子の中にもガリラヤ湖の漁師でヨハネという名の人がいます。ヨハネ福音書やヨハネ書簡、ヨハネの黙示録を書いたのも、すべて同じ人かどうかは分かりませんが、ヨハネです。生まれた子どもに名前を付けるのは父親の務めでした。親はその子が、神は恵み深い方であることを信じて歩んでほしい、また神の恵みをいっぱいに受けて成長してほしいと願いながら、わが子をヨハネと名づけました。

 ところが、この場合にはそうではありません。まだその子が生まれる前から名前が決められており、しかも父ザカリアが名づけるのではなく、神ご自身が名づけ親になられたのです。ここには、親の願いに先立って、神ご自身の強い意志、み心、神のご計画があるのです。神は、ヨハネという神の奇跡によって誕生した人間をとおして、彼をお用いになって、実際に神が恵み深くあることをお示しになり、事実イスラエルと全世界に大きな救いの恵みをお与えになるのです。

 主イエスの場合にも、やがてわたしたちが学ぶように、マリアの胎内からお生まれになる前に、神によってそのお名前が決められていたということが31節に書かれています。イエス、ヘブル語ではヨシュア、すなわち「神は救いである」という意味を持つこの神のみ子によって、神は実際にご自身の救いのみわざを、旧約聖書の時代から預言されていた神の永遠の救いのみわざを、成就されたのです。

 ではここで、ヨハネ誕生の奇跡について考えてみましょう。7節に書かれていたように、ザカリアとエリサベトには子どもがなく、しかも二人ともすでに年老いていました。人間的には、あるいは医学的・科学的には子どもが与えられる可能性は全くありませんでした。人間の側からの可能性がすべて消失してしまったときに、神から与えられる奇跡によって、この老夫婦に子どもが与えられます。このような奇跡による子どもの誕生物語は、旧約聖書の中にもいくつかの例があります。その最初は、創世記に書かれているアブラハムとサラの子、イサクの誕生です。アブラハムの妻サラも子どもができない体質であったと書かれています。にもかかわらず、神はアブラハムが75歳の時、「あなたから生まれる子孫は空の星の数ほどになる。あなたの子孫は大きな国民となり、神の祝福を受け継ぐであろう」との約束をお与えになりました。その神の初めの約束から25年が過ぎて、アブラハムが100歳になり、人間的には子どもが授かる可能性は全くなくなってから、子どもイサクが神の奇跡によって生まれました。イサクと妻リベカから生まれたヤコブの場合もそうでした。サムエル記に記されている祭司で預言者のサムエルの誕生もそうでした。

 このように、神の奇跡によって生まれた子どもは、その誕生が100パーセント神の恵みであり、神の奇跡の力によるように、その子の生涯もまた100パーセント神の恵みによって生き、神のみ力によって歩むようになるのであり、その人の存在と命、その生涯と働きのすべてが神のためのものとなり、神にささげられたものとなるのです。

 ヨハネの場合もそうです。15節以下に書かれているとおりです。【15~17節】。このみ言葉の内容については次回詳しく学ぶこととしますが、15節のはじめに「彼は主の御前に偉大な人になり」とあり、また17節の終わりに「準備のできた民を主のために用意する」と書かれているように、洗礼者ヨハネは徹底してその生涯を来るべき神のメシア・救い主であられる主イエス・キリストのみ前に生きるのであり、主イエス・キリストのために生きるのであり、主イエス・キリストに彼のすべてをささげて生きるのです。それが、神の奇跡によって誕生したヨハネの生涯なのです。

 この点においても、先駆者ヨハネは来るべきメシア・救い主、主イエス・キリストの誕生とそのご生涯、そして死を指し示しています。ヨハネとイエスという名前の命名に関して、それが両者ともに本人の誕生前に神ご自身によって決められていたという類似だけでなく、両者の誕生においても、神の奇跡によるという類似があることに気づかされます。主イエスはヨセフとマリアがまだ一緒になる前に、人間の営みなしに、神の聖霊によって、おとめマリアの胎内に宿られました。これこそが純粋に100パーセント神の恵みによって、神の奇跡による誕生でした。それゆえにまた、主イエスのご生涯はすべて父なる神のための歩みであり、神にすべてをささげつくすご生涯であり、そして事実、主イエスは死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで、従順に父なる神に服従され、その命を神におささげになられました。それによって、全人類を罪から贖い、わたしたち一人一人の救いを成就してくださったのです。

 最後に、もう一度14節のみ言葉に注目したいと思います。【14節】。ヨハネの誕生がザカリアの喜び、楽しみとなり、それだけでなく多くの人たちにも喜びをもたらすと言われているこの喜びは、実はあのクリスマスの時の大きな喜び、「恐れるな。わたしは民全体に与えられる大きな喜びを告げる」と2章10節で言われている主イエス誕生の喜びの反映であるということに気づかされます。その喜びがヨセフとマリアという小さな家庭の喜びであるだけでなく、イスラエルの民に与えられる喜びであるだけでなく、全世界のすべての人々の喜びとなり、その喜びによって結び合わされた教会の群れを形成していくのです。わたしたちの教会もまた、先駆者・洗礼者ヨハネ誕生の喜びにあずかり、それ以上に、彼の後においでになるメシア・救い主・主イエス・キリスト誕生の喜びにあずかる者たちとして、ここに喜びの群れを形成しているのです。

(祈り)

6月16日(日)説教「天と地を創造された神」

2019年6月16日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:創世記1章6~13節

    ヘブライ人への手紙1章1~4節

説教題:「天と地を創造された神」

 創世記1章に記されている神の天地創造のみわざは、文章の形式が非常によく整っていることが分かります。まず、「神は言われた」とあり、続いて「あれ! そのようになれ!」と言われる神の命令が語られ、次に、「あった、そのようになった」という結果が語られ、さらに「神はそれを見て良しとされた」という評価が付け加えられ、終わりに、「夕べがあり、朝があった。第何日であった」という時の区切りが書かれます。第一日目の光の創造から始まって第六日目の人間の創造に至るまで、ほぼ完全と言ってよいほどにこの形式が守られています。

 このような、リズミカルで、整っている表現は、礼拝での朗誦や交読、あるいは信仰告白や讃美歌が背景になっているのではないかと考えられています。イスラエルの礼拝の中で、長く歌い継がれ、告白されてきた伝統をここに見ることができます。2章1節以下に書かれている第七日目の安息日の規定には、まさにイスラエルの民を礼拝へとお招きになる神の最終的な意図が読み取れるように思われます。

 きょうは6~13節まで、第二日目と第三日目の創造のみわざについて学びます。わたしたち人間を真実の神礼拝へとお招きになる神のみ心を尋ねながらご一緒に読んでいきましょう。

 【6~8節】。6節の二日目の初めもまた「神は言われた」という言葉で始まります。神がみ言葉をお語りになることによって、新しい一日が始まります。神がみ言葉をお語りになることによって、新しい創造のみわざが始まります。神がみ言葉をお語りになることによって、わたしたちの救いのみわざが始まります。わたしたちの礼拝が始まります。

「そのようになった」と続けて8節に書かれています。神のみ言葉はむなしく語られることはありません。神のみ言葉は出来事を生み出していきます。神のみ言葉は救いの出来事をわたしたちのうちに引き起こします。神のみ言葉が語られることから始まる一日の歩み、一週の歩みは、決してむなしく終わることはありません。神ご自身がこの日に、この週に、わたしたち一人一人のために創造のみわざを、救いのみわざをなしてくださるからです。そして、わたしたちは神がなさったみわざを見て、「そのようになった」と感謝をもって告白することができるのです。

「水の中に大空あれ……水を分けさせられた」(6~7節)。第二日目には大空と呼ばれる天が創造されました。古代近東諸国の宇宙観によれば、地の上を覆っている空、天空は半円形のドームのような形をしていると考えられていました。神はその大空の上にある水とその下にある水とに分けられました。大空の下の水は9節以下の第三日目で海の水として集められるのですが、上の水は固い鉄板でできたドーム型の大空のうえにある貯水槽のようなものに蓄えられており、神は時に応じてその鉄板の扉を開いて地に雨を降らすと考えられていました。

ここでは、6節と7節にある「分ける」という言葉が重要な意味を持ちます。同じ言葉は4節にもありました。神は光と闇とを分け、両者が勝手に相手の領域に侵入しないように定めておられます。どのような深い闇であっても、神のみ心なしでは、闇は光に勝利することはできません。どのような長い闇が続いていたとしても、神はみ心によって闇を追い出され、光の勝利を告げられます。光も闇も神のご支配のもとにあり、神のみ心によってコントロールされているのです。それと同じように、大空の上にある水と下の水は共に神のご支配のもとに置かれています。神のみ心なしには、天の大空の上にある水は地に落ちることはなく、下の水があふれて両者が一体となることもありません。ここには、原始の混沌とした海の水を支配し、コントロールされる主なる神の偉大な力が暗示されています。そのことについては9節、10節の三日目の創造で再度触れます。

創世記7章のノアの大洪水の個所には、神が天の窓を開かれ、雨が40日40夜降り続いたと書かれています。また、列王記上17章には、預言者エリヤがイスラエルの罪に対する神の裁きを告げるために、神が3年の間地に雨を降らせないと預言したことが書かれています。さらに、大空をご支配しておられる神の慈しみについて、詩編78編23~25節にはこのように書かれています。【23~25節】(914ページ)。主イエスはマタイによる福音書5章の「敵をも愛しなさい」と勧める箇所で、天の父なる神は「悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからだ」と言われました。

神は天と天の上にある水とを支配しておられ、み心のままにそれをお用いになります。

 8節に「神は大空を天と呼ばれた」とあります。「呼ぶ」という言葉も5節ですでに出てきました。呼ぶ、あるいは名づけるとは、神の支配権と神がそれにふさわしい務め、役割を与えることを意味します。では、天とは何でしょうか。天という言葉は旧約聖書では450回近く、新約聖書では300回近く用いられています。聖書の中で重要な言葉の一つです。わたしたちが「天の父なる神よ」と祈るその天のことです。天という言葉が用いられるとき、ほとんどの場合、そこでは同時に神のことが語られています。神は天をご自身の住まいとされました。もちろん、天も神によって創造された被造物ですから、天イコール神ではなく、神は天にだけ閉じ込められる方ではありません。神は天にも地にも、地の深いところにも、至る所におられます。列王記上8章27節でイスラエルの王ソロモンは、神殿を奉献する礼拝で、「神は果たして地上にお住まいになるでしょうか。天も、天の天もあなたをお納めすることができません。わたしが建てたこの神殿など、なおさらふさわしくありません」と祈っています。

 にもかかわらず、神は天におられることを良しとされました。あえてその場所をお選びになりました。天とは、わたしたちの頭上に張り巡らされている星をちりばめた空のことであり、神がアブラハムに「空の星を見なさい。それを数えることができるなら数えてみなさい。あなたの子孫もそのようになる」と約束された空のことであり、太陽の光がそこからすべての人に注がれる空、雨がそこから落ちて地を潤す空のことであると同時に、天とはまた神が住まわれるところ、わたしたち人間が住むこの世界とは全く違っている、わたしたちの手や目や理解力が及ばない天のことでもあります。天イコール宇宙ではありません。宇宙は人間が到達可能であり、科学的な探求が可能です。しかし、聖書で言われている天は広大な宇宙よりもはるかに広く、高く、遠くの世界、領域を意味しています。わたしたち人間の考えや能力をはるかに超えている天、神がそこにお住まいになっておられる天、神がそこからすべての被造物をご覧になられ、この世界を裁かれ、この世界に住む人間たちに恵みをお与えくださる天のことでもあります。詩編104編13節には、「主は天上の宮から山々に水を注ぎ/御業の実りをもって地を満たされる」とあり。また、アモス書9章6節には、「天に高殿を設け/地の上に大空を据え/海の水を呼び集め/地の表に注がれる方。その御名は主」とあります。神は天でご自身の職務を司っておられます。

 「神は大空を天と呼ばれた」(8節)。それによって、わたしたちが神を思い描くときに、そして祈るとき、上なる大空を見上げ、そこから神の賜物を期待することができるようにされたのです。失望して頭を下げ、トボトボ歩いているときでも、大きな重荷にあえぐときでも、かしらを上に挙げ、沈んだ心を持ち上げて、天に向け、そこにおられる神を見上げることができるようにされたのです。罪を犯し、顔を地に伏せるしかないとき、恥と屈辱に目を伏せるとき、なおも天に顔を向けて、そこからお語りくださる神のゆるしのみ言葉を聞くことができるようにされたのです。天におられる神は、地上にあるどのような困難で乗り越えがたい障害物にも妨げられることなく、上から、天から、必要なものを与えたもうのです。それゆえに、わたしたちは「天にましますわれらの父よ」と祈るのです。

 9~13節は天地創造第三日目のみわざです。【9~13節】。ここでは、下の水が一つのところに集められ、陸地が作られます。2節の混沌とした原始の海の水が神によってコントロールされて上の水と下の水とに分けられ、さらには下の水が神のみ力によって一つ所に集められ、はじめて陸地が姿を現します。10節にも「呼ぶ」という言葉が2度用いられています。呼ぶ、あるいは名づけるとは、神の支配権を表し、神がそれにふさわしい務めをお与えになることを意味しています。先にも少し触れましたが、ここでは水を支配される神の偉大な力が強調されているように思われます。

古代の人々は、海には人間が制御することができない悪魔的な力があると信じていました。イスラエルにおいても、信仰者が経験する苦難や試練を大水にたとえる例が多数あります。詩編69編を開いてみましょう。【2~3節、15~16節】(901、2ページ)。詩人は大水の恐ろしさを知っています。彼自身の力とか、何か他の力によっても、だれも大水を制御することができない悪魔的な力を持っていることを知っています。それと同時に、詩人はただ神だけが大水を鎮め、支配されることを知っています。詩編93編4節にはこうあります。「大水のとどろく声よりも力強く/海に砕け散る波。さらに力強く、高くいます神」。

神が「乾いたところを地と呼び、水の集まったところを海と呼ばれた」とは、海と陸との間に神が確かな境界線を定め、海の水がその境界線を越えて陸地を覆ってしまわないように、また陸の山が海を埋め尽くしてしまわないようにされたということ、また、それぞれにふさわしい使命、役割をお与えになったという意味です。イスラエルの民はただ海の水の悪魔的な力を恐れるだけではなく、その水をも支配され、み心のままにコントロールされる神の偉大な力を信じ、その神の救いのみわざを信じました。出エジプト記14章に書かれている葦の海を二つに分けられた神の奇跡と救い、またガリラヤ湖の嵐をみ言葉によって静められた主イエスの奇跡は、そのような背景の中で起こった神の驚くべき力を強調しているのです。

三日目の後半には、地に草と果樹を芽生えさせたことが書かれています。ここでは地に特別な使命が与えられています。神は地に命じて「芽生えさせよ」と言われます。地は神がお与えくださる豊かな実りを生み出す母としての使命を与えられています。ここではまた、神が地に対して特別の関心を持っておられることをも暗示しているかのようです。神はご自身の住まいである天よりも、あるいは神がその悪魔的な力をご支配された海よりも、より大きな関心を地に対して持っておられるように思われます。神はのちに、この地の上に生き物を創造され、人間を創造され、この地の上でご自身の救いのみわざをなさいます。

三日目には「神はこれを見て、良しとされた」という言葉が10節と12節とに二度繰り返されていますが、そして実は二日目にはこの言葉が欠けているのですが、それがどういう理由によるのかはよく分かっていません。二日目に水が天の上と下とに分かられたことが、三日目になって海と陸とに分けられたことで完了するからとか、神が地に対して特別の大きな関心を寄せておられるからなどと説明されます。

いずれにしても、神がご自身が創造されたもの、すべての被造物を良しとされました。神によって創造されたものはみな良きものです。みな神のみ心によってそこにあり、みな神のみ心によって生き、みな神のみ心によってその使命、務めを与えられているのです。

(祈り)

6月9日(日)聖霊降臨日説教「聖霊降臨と教会の誕生」

2019年6月9日(日) 聖霊降臨日 秋田教会礼拝説教

聖 書:ヨエル書3章1~5節

    使徒言行録2章1~13節

説教題:「聖霊降臨と教会の誕生」

 きょうは教会の暦ではペンテコステ・聖霊降臨日です。この日に、エルサレムに集まっていた主イエスの弟子たちの上に聖霊が注がれ、聖霊に満たされて主イエスの福音を語った弟子のひとりペトロの説教を聞いたユダヤ人3千人が主イエス・キリストを信じて洗礼を受け、ここに世界最初のキリスト教会が誕生しました。

使徒言行録2章1節では「五旬祭」と訳されているように、ギリシャ語のペンテコステは第50番目、第50日目という意味で、旧約聖書の時代から続くユダヤ人の3大祭りの一つです。過ぎ越しの祭りの翌日から数えて50日目の祭りで、旧約聖書では七週の祭りとか、初穂の祭りとも呼ばれています。

 そこできょうは最初に、旧約聖書の過ぎ越しの祭りとその後50日目の初穂の祭りとの関連について、また主イエスの十字架と復活のみわざとその50日後の聖霊降臨による教会誕生の関連について、さらには、旧約聖書時代の二つの祭りと新約聖書の教会の二つの祭りである復活日と聖霊降臨日との関連について、考えてみましょう。

 ユダヤ人最大の祭りである過ぎ越し祭は、イスラエルの民が奴隷の家エジプトから主なる神によって救い出された解放を祝う祭りです。その50日後、ペンテコステ、あるいは七週の祭り、初穂の祭りは、奴隷の家から解放されたイスラエルの民が約束の地カナンに導かれ、その地で最初に収穫した小麦の穂を神に感謝してささげる祭りです。後の時代には、シナイ山で十戒をはじめとした律法を授けられたことを感謝する意味も付け加えられました。

 ペンテコステの祭りが過ぎ越しの祭りを起点として数えられているのは、この二つが密接に結びついているからです。つまり、神によって奴隷の家から救い出された民は、それに続いて、豊かな収穫を約束されているということなのです。罪の奴隷から解放され、救われた民は、神の律法、神のみ言葉に喜んで従っていく信仰生活を通して、豊かな実りを与えられる、その実りを神に感謝しておささげする礼拝の民となるのです。

 主イエスの十字架はユダヤ人の過ぎ越しの祭りの時期でした。主イエスは十字架につけられる前日の夕方、弟子たちと最後の晩餐を共にされました。共観福音書によれば、それは過ぎ越しの食事でした。また、ヨハネによる福音書によれば、主イエスが十字架で死なれた金曜日の午後3時ころは、エルサレムの神殿で過ぎ越しの子羊を屠る時刻と一致していました。旧約聖書の過ぎ越しの祭りと主イエスの十字架は、時期が同じであるだけでなく、二つは同じ神の救いのみわざであるということをも聖書は強調しています。神がイスラエルの民によってお始めになった出エジプトという救いのみわざは、今や主イエスによって全世界の民のための十字架による救いのみわざとして成就したのです。

 旧約聖書の七週の祭り・初穂の祭りとペンテコステ・聖霊降臨日にも密接な関連があります。主イエスの十字架の贖いによって罪の奴隷から解放されたわたしたちは、神から与えられた自由の中で、喜んで神のみ言葉に聞き従い、主イエスが備えてくださった救いの道を歩み、神を礼拝する民とされます。復活された主イエスは天の父なる神の右に座しておられ、そこから聖霊なる神を送ってくださり、わたしたちを導いてくださいます。その具体的な実りとして地上に誕生したのが教会です。教会は主イエスの十字架の贖いよって救われたわたしたちが、そこで神に喜ばれる豊かな実りを結び、その収穫を神への感謝のささげものとして携え、神を礼拝する場です。ペンテコステはその教会の誕生を記念する日です。今も、教会は聖霊によって生かされ、豊かな収穫を約束されていることを覚えたいと思います。

 使徒言行録2章には、最初にエルサレムで教会が誕生した時のことが詳しく描かれています。【1~4節】。ここに描かれている聖霊降臨の出来事は激しい風の音と炎のような舌が現れるという、非常に具体的で、人間の視覚や聴覚によってとらえられる現象として描写されていることにまず注意したいと思います。聖霊なる神とか、聖霊が注がれるということは、わたしたちには理解しづらいことのように思われます。また、日本キリスト教会の神学や信仰においては、聖霊の教理はあまり強調されない傾向にあるようにも思われます。その理由の一つには、聖霊がしばしば人間の感情と混同されて理解されることが多かったという歴史的な反省があります。聖霊は三位一体なる神の一つの位格であるということ、すなわち、父なる神、み子なる神主イエス・キリスト、そして聖霊なる神という、三つの位格を持つ一人の神であるというキリスト教信仰の中心的教えである三位一体論からそれて、聖霊を人間の感情とか思い、心の運動、興奮した状態などと同じように誤解されることが過去にも、また現在にも多くあるということを警戒してのことだと思われます。

 しかしながら、誤解を恐れるだけではなく、聖霊についての教理を積極的に、また正しく理解すべきであることは言うまでもありません。そのために、きょうのみ言葉は重要です。聖霊の降臨、また聖霊の働きとは、人間の感情とか心のことでは全くなく、むしろわたしたちが耳で聞き、目で見て、体全体で感じ取ることができる、外からの、強く激しい力であるということを、まず第一に確認しておくことが大切です。

激しい風の音が天から聞こえてきたと書かれています。炎のような舌が天から伸びてきました。聖霊なる神のお働きは、天からやってくるのです。そのために、聖霊降臨と呼びます。人間の内側からではなく、人間の外から、天から、復活された主イエスがそこにいます天から、聖霊が下り、弟子たちの上に注がれたのです。聖霊なる神は天から来られて、わたしたちをつき動かします。それはむしろ、人間の感情や心に逆らって、時にはそれを破壊する大いなる力として働くのです。

3節に「一人一人の上にとどまった」とありますが、この個所全体では弟子たちが一つの群れであることが何度も強調されています。1節に、「一同が」「一つになって」「集まっていると」、4節でも、「一同は」とあります。この一同とは、1章6節に、「使徒たちは集まって」と書かれていた主イエスの弟子たちであり、また14、15節では、他の兄弟姉妹たちも加わり、120人ほどの群れになって、共に熱心に祈っていた人たちのことです。少し時間を戻すと、彼らは主イエスの十字架の時には、みなそこから散らされた人たちでした。だれ一人として、主イエスと共に十字架を担っていくことができず、すべてのひとが主イエスの十字架につまずき、主イエスを見捨て、十字架から散らされていった人たちでした。その人たちが今一度、呼び集められ、共にある一つの群れとされ、一同とされているのです。そして、彼らの群れの上に聖霊が注がれたのです。

ここには聖霊なる神の最も大きなお働きが暗示されています。聖霊なる神は、罪のゆえに神から離れ、散らされ、孤立している人間を、またお互いにも罪のゆえに分離している人間を、一つの群れとして呼び集め、愛とゆるしの絆によって結びつける働きをするということが、暗示されているのです。

わたしたちはここで、創世記11章に書かれているバベルの塔のことを思い起こします。世界の人間たちが互いに相談しあって、高い塔を建てて、その頂を天の神にまで届かせようとしたとき、神は彼らの言葉を乱し、互いに言葉が通じないようにして、彼らを全地に散らされたということが書かれています。人間の罪は自らが神のようになって、神よりも高いところに立ちたいという欲望と傲慢を生み出します。しかし、神なき世界の究極は滅びでしかないことを神は知っておられます。それ故に、神はまことの救いが到来するときまで、人間たちの言葉を乱し、人間たちを孤立させることによって、世界の絶滅を防止されたのです。

しかし今や、まことの救いの時が到来しました。主イエス・キリストの福音によって全世界のすべての人たちが罪ゆるされ、救われて、一つの神の民となる時が到来したのです。み子主イエス・キリストの十字架の救いと聖霊なる神のお働きによって、散らされていた人たちが一つに呼び集められ、主キリストの教会の民として結集させられたのです。それが聖霊降臨日の出来事の最も大きな意味です。

使徒言行録2章5節以下に描かれている弟子たちの行動がそのことを具体的に示しています。聖霊に満たされた弟子たちは全世界の言語で神の偉大なみわざである主イエス・キリストの福音を語りだしました。9~11節に挙げられている諸民族、諸言語は、当時のローマ帝国全体を指しています。聖霊に満たされた弟子たちが、ペンテコステの祭りを祝うためにエルサレムに集まって来ていた全世界の民族、言語の違うすべての人たちに一つの同じ神のみわざである主キリストの福音を語り、彼らがみなその福音を理解したという出来事は、バベルの塔の出来事の正反対の現象であり、その時に世界に散らされた諸民族、諸言語の人々が今や聖霊が弟子たちに語らせる言葉によって一つの民とされたことを表しているのです。

主イエスの十字架の前でつまずき、散らされていた弟子たち、また罪のゆえに全世界に散らされていた諸民族、諸言語の人々が、聖霊のお働きによって一つの神の民として結集される、主キリストの福音を聞く一つの礼拝の民とされる、これがペンテコステの出来事です。1~5節のみ言葉をその視点から読み返してみると、ここにも同じ聖霊なる神のお働きがあることに気づかされます。2節には、激しい風が天から吹いてきて家中に響いたと書かれています。風は聖霊を意味しています、聖霊が家中に満ちるとは、全世界に聖霊なる神のお働きが及ぶことを象徴的に言い表しています。また、聖霊が教会全体を支配していることを言い表しています。聖霊が全世界の民を、教会の民を一つに結びつけます。

3節に「炎のような舌が分かれて現れ、一人一人の上にとどまった」とあります。天から下ってきた聖霊なる神が弟子たち一人一人を上から支配し、彼らの全身を満たします。聖霊は舌の賜物として、すなわち言葉を語る賜物として、弟子たちに与えられます。これまで弟子たちは主イエスの教えを聞く立場でした。しかし、聖霊を受けてからは、彼らは主キリストの福音を語る者としてこの世に遣わされるのです。4節に、【4節】と書かれているとおりです。

「聖霊に満たされ」とは、聖霊が弟子たちを覆いつくし、彼らのうちに満ち溢れ、彼らの全身が聖霊によって支配され、彼ら全体が聖霊によって占領されているかのようになり、聖霊が彼らの新しい主体となって働かれることを意味しています。「霊が語らせるままに」と書かれています。聖霊が彼ら一人一人に新しい霊の言葉を授け、彼ら自身がその聖霊の言葉によって生きるとともに、彼らはその聖霊の言葉をこの世の人々に向かって語りだすのです。そのようにして、5~13節に書かれているような不思議な出来事が起こり、14節以下に書かれているようなペトロの説教が語られ、37節以下に書かれているように、主イエスを信じる信仰者が誕生し、教会が誕生するのです。

聖霊に満たされた弟子たちは、主キリストの福音を語り、主キリストの救いのみわざのために仕え、またこの世の人々の救いのために仕える者とされるのです。わたしたちはそのような一人一人としてこの教会に集められ、聖霊の賜物を与えられているのです。

(祈り)

6月2日(日)説教「主キリストにある聖なる者たち」

2019年6月2日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:申命記7章6~11節

    フィリピの信徒への手紙1章1~2節

説教題:「主キリストにある聖なる者たち」

 フィリピの教会はパウロの第二回世界伝道旅行の際にその基礎が築かれました。使徒言行録16章によれば、パウロは小アジア地方での伝道活動の途中で、「マケドニア州に渡って来て、わたしたちを助けてください」という祈りを聞き、トロアスからエーゲ海を渡ってヨーロッパの玄関口フィリピに入り、その町で主イエス・キリストの福音を語り、何人かのキリスト者が誕生しました。しかし、まもなくパウロは迫害によってこの町を出ることを余儀なくされましたが、パウロとフィリピ教会とはその後も非常に親密な交わりを持ち続けました。パウロは伝道活動のための個人的な経済支援を原則受けませんでしたが、フィリピ教会だけは例外でした。この時にもローマかエフェソで投獄されているパウロのための援助の贈り物をエパフロディトという教会員が届けてくれたことに対して、パウロは心からの感謝を伝えるためにこの手紙を書いています。

 手紙の冒頭には、当時の手紙の書式にならって、差出人と受取人の名前が書かれ、そのあとに祝福が祈られています。前回は差出人について学びましたから、きょうは1節後半の手紙の受取人について、当時のパウロとフィリピ教会の状況を考えながら学んでいくことにします。

 「フィリピにいて、キリスト・イエスに結ばれているすべての聖なる者たち、ならびに監督たちと奉仕者たちへ」(1節b)。これが手紙の受取人です。ここでは、教会という言葉(ギリシャ語ではエクレーシア)は用いられてはいませんが、フィリピの町に建てられた教会、パウロが第二回世界伝道旅行の際にその基礎を築いたフィリピ教会のことです。「フィリピにいて」(あるいは、「~にあって」)とは、その教会が建てられている特定の場所を示しています。主キリストの教会は全世界に一つです。これを「公同の教会」と言います。教会の主はおひとり、主イエス・キリストであり、教会が信じている神は唯一の神でありますから、教会は各地に建てられていますが、本来はただ一つの公同の教会です。「日本キリスト教会」というわたしたちの教派の名称もそのような意味です。英語の表記では、Church of Christ in japanです。秋田教会も同じ意味です。

 したがって、ポイントは「フィリピにある、あるいは日本にある」というところにではなく、「主キリストの」という方にあります。教会はどこにあったとしても、主キリストの教会です。主キリストの教会として、それぞれの地に建てられているのです。この順序を逆転させることは危険です。かつて、ドイツ第三帝国時代のドイツの教会では、ドイツ・キリスト者運動といわれる勢力が教会の本質をゆがめていきました。ドイツ民族こそが世界の中で最も優秀な民族であり、自分たちの教会はこのドイツ民族のために仕えるのだというスローガンのもと、ナチス・ヒトラー政権を支援し、ヨーロッパでの戦争やユダヤ人大量殺戮に協力しました。このような運動や考え方は、いつの時代にも、どこの地域にも起こり得ます。日本でもそうです。わたしたちは教会の本質がどこにあるのか、教会はそもそもだれに属するのかという点を、見失わないようにしなければなりません。

 そのことを明確にしているのが、次の「キリスト・イエスに結ばれている」という言葉です。この個所は元のギリシャ語原典では、「キリスト・イエスにある」、英語では、in Jesus Christです。口語訳聖書では「キリストにある、キリストにあって」と訳されていましたが、新共同訳ではほとんどが「キリストに結ばれて」と訳しています。パウロは彼の手紙の中で、この「キリストにあって」という表現を何十回も用いています。それぞれの個所で、いろいろな意味が込められているように思われます。ここではどうでしょうか。ここではフィリピ教会のこと、主キリストにあるすべての聖なる者たちのことが言われていますので、「主キリストを唯一の主と信じている、主キリストによって神のみ前に呼び集められている、主キリストによって罪のこの世から召し出された、主キリストによって救われ、神のものとされている、主キリストによって一つの群れとされている、主キリストのうちにあってまことの命に生かされている」などの内容が考えられます。いずれにしても、教会の存在と命、生活と活動のすべての源泉、土台、基礎、出発点、そして目標が主キリストにあるということです。

 次に、パウロはここでは教会という言葉の代わりに「すべての聖なる者たち」と表現しています。パウロはしばしば教会を「聖なる者たち、聖徒たち」と表現します。【ローマの信徒への手紙1章7節】(273ページ)。【コリントの信徒への手紙一1章2節】(299ページ)。この個所については、後ほどもう一度触れます。【同二1章1節】(325ページ)。【コロサイの信徒への手紙1章2節a】(368ページ)。これ以外にも多数の例があります。

パウロはこの「聖」という概念を旧約聖書のイスラエルの信仰から受け継ぎました。それによれば、神ご自身が聖なるお方です。神は天のいと高き所におられ、罪と死と滅びに支配されているこの地上からは遠く隔てられた聖なる所におられる永遠なるお方です。それゆえに、神の民イスラエルも神のみ前に聖なる者とならなければなりません。そのために、イスラエルは神に動物の命を聖なる贖いの供え物としてささげ、自らの罪をゆるしていただかなければなりません。聖なる供え物としてささげられる牛、羊、山羊などの動物は、前日から群れとは区別され、傷がないか、元気でよく肥えているかが吟味されました。それを聖別と言います。ここから、聖なるものとか聖別するとは、神にささげられるために、この世から選び出され、この世のものからは区別されて、神のものとされるという意味を持つようになりました。

イスラエルの民が聖なる民、神にささげられたものとされたのは、しかし、イスラエルが大きな、力ある民であったからでは全くなく、いやむしろ最も小さな民、奴隷の民であったイスラエルを神が一方的に選び、愛され、ご自身の宝の民とされたからでした。イスラエルが神の聖なる民とされたのは、神の恵みと愛の選びによってでした。イスラエル自身には何の誇るべきものもありません。神の愛の選びによって聖なる民とされたイスラエルは、常に神のみ前に謙遜になり、神の恵みの選びに感謝し、神の大きな愛に応えて生きていくのです。

パウロが教会の民を聖なる者たち、聖徒たちと呼ぶ場合にもこのことが強調されています。教会が聖なる者たちの集まりであるのは、神が主キリストによって彼らをこの世から聖別してくださったからにほかなりません。先ほど読んだコリントの信徒への手紙一1章2節で、「キリスト・イエスによって聖なる者とされた人々」と言われているとおりです。神は主キリストの十字架の死と復活によって、わたしたち教会の民を罪の奴隷から贖われ、解放してくださり、神の新しい民としてくださり、主キリストの体なる教会に属する聖なる者たちとしてくださいました。わたしたちはもはやこの世のものではありません。罪の奴隷でもありません。

しかし、神によって選ばれたイスラエルの場合もそうであったように、教会の民の場合にも、選ばれたわたしたちの側には選ばれる理由、根拠となるものは何もなく、自らに誇りえる何ものもなく、それゆえにまた何か他の人よりも優れた点があるとか、何も欠点がなく、完璧な人間だから聖なる者と呼ばれているのではないということです。否むしろ、自ら罪びとであることを知り、告白し、しかしそうでありつつ、主キリストによって罪ゆるされていることを信じ、主キリストのものとされていることを感謝している、そうであるからこそ、いよいよ神のみ前に謙遜にされ、神のみ心を熱心にたずね求める者とされている、それが「キリスト・イエスにある聖なる者たち」という意味です。

したがって、わたしたちはもはやこの世に属する者ではありません。他のだれかや他の何かに属する者でもありません。罪と死に支配されている者でもありません。主キリストの十字架と復活によって、主キリストのものとされていることによって、それらのすべてから解放されています。主キリストのもの、神の民とされています。それゆえに、パウロがローマの信徒への手紙12章1節で勧めているように、わたしたちは「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとしてささげ」、神を礼拝する民とされているのです。

「すべての聖なる者たち」とはフィリピ教会の信徒、教会員のみんなを指しています。パウロはそのあとで、「監督たちと奉仕者たち」とを特に指定して挙げています。この時代のフィリピ教会がどのような組織になっていたのかははっきりとはわかっていませんが、「監督」と訳されているギリシャ語が今日の教派の分類でいう監督教会と同じような意味での聖職者としての監督を指すのではなく、むしろ教会員の中から選ばれた長老を指していると考えられます。奉仕者は今日のわたしたちの教会の執事と同じ働きをしていたと推測できます。パウロがこの二つの役職名を特に挙げているのには理由があると考えられます。最初にも少し触れましたように、この手紙が書かれた目的は、獄中にあるパウロへの個人的な援助に対する感謝を伝えるとにありましたから、そのことは具体的には手紙の終わり箇所、4章10節以下に書かれていますが、そのパウロへの支援のために実際に労苦した教会の指導者として監督たちと奉仕者たちを挙げて、感謝の思いを言い表そうとしたのだろうと推測できます。監督であれ長老であれ、あるいは奉仕者、執事であれ、教会の中で選ばれて指導的な役割を託されている人たちは、教会の頭であられる主キリストに率先してお仕えすることはもちろん、教会の中の教会員一人一人やまた教会と教会との交わりやこの世のための奉仕のためにも進んで仕えていく務めを託されています。それもまた聖なる者たちに与えられている自由で、喜ばしい務めです。

「キリスト・イエス」という言葉が、手紙の差出人にも受取人にも同じようにつけられています。「キリスト・イエスの僕であるパウロとシラスから、キリスト・イエスにあって聖なる者たちへ」。キリスト・イエスがその両者を固く結びつけています。パウロが投獄されている場所が小アジアのエフェソであればフィリピからは北西に500キロメートル、ローマであればさらに西へ直線距離で1千キロメートル以上も離れていることになりますが、しかもパウロは鉄格子の中に閉じ込められているのですが、しかし主キリストにある信仰者はこの世のすべての壁や山や海をも超えて、あるいは時代をも超えて、強い交わりによって一つに結び合わされています。一つの神の民とされています。来るべき終わりの日の神の国の民とされているのです。主キリストこそがわたしたちキリスト者の交わりを強固で永遠なものにします。

「キリスト・イエス」については前回も学びました。本来は、「イエスはキリスト・メシア・救い主である」という初代教会の信仰告白です。ナザレの村にヨセフとマリアの子としてお生まれになった神のみ子主イエス、わたしたちの罪の贖いのために十字架で死なれ、三日目に死の墓から復活され、今も天の父なる神の右に座しておられ、わたしたちの救いの完成のために執り成し、導いておられる主イエス・キリストこそが、全人類の、わたしたちの、そしてわたしの唯一の救い主である」、これがわたしたちの信仰告白の中心です。

(祈り)

5月26日(日)説教「神の前に正しい人」

2019年5月26日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:ヨブ記1章1~8節

    ルカによる福音書1章5~7節

説教題:「神の前に正しい人」

 ルカによる福音書は、他の福音書に比べて、主イエスの誕生について非常に詳しく描いています。それだけでなく、他の福音書には書かれていない洗礼者ヨハネの誕生についても詳しく報告しています。それがこれから学ぶ5~25節と57~80節に書かれています。洗礼者ヨハネの使命、務めについては、その個所に詳しく書かれていますが、短くまとめると、来るべきメシア・救い主であり、彼のすぐ後に誕生される主イエスのために道を備え、人々を悔い改めへと導き、メシアを迎え入れる準備をすることでありました。

 ヨハネの使命、務めがそうであるように、彼の誕生の次第もまた主イエスの誕生を指し示しています。5~25節には洗礼者ヨハネの誕生予告があり、続く26~56節には主イエスの誕生予告が、そして57~80節にはヨハネ誕生の記録、続く2章1~20節には主イエス誕生の記録というように、ヨハネと主イエスが互いに関連付けられながら描かれています。

 内容的にも、両者にはいくつもの共通点があります。それについてはこれから学んでいくことにしますが、ヨハネは彼の誕生の時から、また彼の全生涯を通して、来るべきメシア・救い主であられる主イエスを指し示し、証しし、主イエスのために道を備えるという役割りを果たしています。

 洗礼者ヨハネだけではなく、実は、聖書に登場するすべての人物は、何らかのかたちで必ず主イエス・キリストと関連性を持っています。主イエスと関連を持たない人物というのは、聖書の中には一人もいません。旧約聖書に登場する最初に神によって創造されたアダムとエヴァから始まって、族長アブラハム、イサク、ヤコブ、また、サウル、ダビデ、ソロモンなどの王たち、イザヤ、エレミヤ、エゼキエルなどの預言者たち、その他すべての旧約聖書の登場人物は、来るべきメシア・救い主、主イエス・キリストを預言し、指し示し、待ち望むという使命を神から与えられているのです。洗礼者ヨハネはその預言と待望の列の一番最後に立って、最も近くで、すぐ後においでになるメシア・キリストを指し示し、証しし、その救い主に実際にお仕えするという、大きな使命を与えられているのです。

 新約聖書に登場する人物たちが、主イエスに関連しているということは、あらためて言うまでもないことです。それだけではありません。さらに、わたしたちひとり一人も、新約聖書のそれらの証し人たち、仕え人たちと連なって、主イエス・キリストとの関連性を与えられています。今わたしたちが置かれている時代の中で、社会の中で、主イエス・キリストを証しし、この主にお仕えするという使命を与えられています。主イエスと関連性のないわたしの歩みというものは全くありません。主イエスと関連性のないわたしの一日もありません。

 さて、きょうの礼拝で朗読された5~7節には、洗礼者ヨハネが誕生した時代のイスラエルの王の名前と彼の両親の名前が紹介されています。「ユダヤの王ヘロデ」とは、後にヘロデ大王と呼ばれるようになった王のことです。ユダヤの王とありますが、この時代イスラエル・ユダヤ地方はローマ帝国の支配下にありましたから、本来の王はローマ皇帝カイサルでしたが、ヘロデはローマ政府の許可のもとで、ユダヤ人を治める権限を委託されていました。いわば傀儡王でした。

 ところで、ヘロデ大王は今日の歴史資料から紀元前4年に死んだことが分かっていますので、ヨハネの誕生がこの時から1年以内、主イエスの誕生はその後半年後ですから、主イエスの誕生は紀元前6年よりは前ということになります。教会は主イエスが誕生した年を紀元1年と定め、それが今日世界で用いられている西暦となったのですが、その数え方の基準になった年は今日の研究とは少しずれているということになります。とはいっても、主イエスが誕生した時から世界の歴史が新しく始まったという意味は、全く変わりません。

 ヨハネの父はザカリア、母はエリサベト。ザカリアは祭司の職にありました。妻エリサベトも大祭司職を受け継ぐアロン家に属していました。祭司の務めは、この後の8~9節に書かれているように、神の民イスラエルを代表してエルサレム神殿で神のみ前に立ち、香をたいて神に祈りをささげ、あるいは動物や農作物をささげ、民全体の罪のゆるしを願い求め、そして次に、神からのみ告げを聞き、神から与えられた罪のゆるしのみ言葉を民に語る、そのようにして、神と民との間に立って仲立ちをし、仲保者の役割を果たす、それが祭司の務めでした。

 したがって、イスラエルにおいては、祭司職は非常に重んじられておりました。祭司の務めがないなら、イスラエルの人々はだれ一人神のみ前に立ち、神を礼拝することができないからです。神と人との間には罪という大きな壁があって、だれも自分の力や他の何らかの方法によっても、神に近づくことも、神と交わることもできません。ただ、神によって選ばれ、神の特別の恵みによって立てられた祭司が、罪をあがなうための動物の犠牲を携えていくことによってのみ、神と人間との交わりの道が開かれるのです。祭司の職がなければ、神の民イスラエルは、信仰の民として、礼拝の民として生きていくことはできません。ザカリアはレビ部族の家に生まれ、父からこの祭司の職を受け継ぎました。それは、神の大きな恵みによる選びでした。

 【6節】。「正しい人」とはどのような人のことでしょうか。それはまず第一に、「神のみ前に正しい人」のことです。人の前でとか、あるいはこの世では、自分自身の前ではというのではないということです。人の前で、この社会の中で自分がどう思われるかということに心を用いて生きるのではなく、あるいは自分で自分を正しいとしたり、自分の願いや欲望のままに生きるのでもなく、神のみ前に生きること、神のみ前でどうあるべきかを考えて生きること、それが正しい人の生き方の基本です。

 「正しい」という言葉は、他の個所では「義」と訳されています。義、正しい、という言葉は関係概念を言い表している言葉だと言われます。神と正しい関係を持っていることを聖書では義と言います。そのような人を義人と言います。

 では、どのようにして神との正しい関係は築かれるのでしょうか。6節に続けて書かれているように、「主の掟と定めをすべて守る」ことによってです。「主の掟と定め」とは旧約聖書に記されている神の律法のことです。出エジプト記20章に書かれているモーセの十戒を初めとして、イスラエルが神の民、信仰の民として生きるための礼拝のささげ方、信仰生活のあり方について、神がお命じになった様々な戒めのことです。「主の掟と定めをすべて守る」とは、別の言葉で言えば、神のみ言葉を聞き、神のみ心に従って生きるということです。

 以上のことからもわかるように、その人が人間的に立派な人物であるとか、社会的な評価を受けているとか、そのようなことには関係なく、たとえ弱さや欠けを持っていても、貧しく力なく、時に迷うことがあっても、ひたすらに神に信頼し、神の恵みと憐れみを願い求め、神のみ心を聞いて生きる人、それが神のみ前に正しい信仰者の生き方です。ザカリアとエリサベトは二人ともそのような人であったと書かれています。

 続けて【7節】。イスラエルでは、古い時代には一般的にそうであったように、たくさんの子どもが与えられることは神の祝福のしるしだと考えられていました。そのために、子どもがいないということは、特に信仰深い家庭にとってはつらいことでした。しかも、ザカリアは祭司の家庭でしたから、その職を受け継ぐ子どもがいないということは、神から託されている大切な務めを失ってしまうことにもなりますから、神のみ前に正しい歩みを続けてきた二人にとっては、どれほどの大きな痛みであり、重荷であり試練であったことでしょうか。

 でも、子どもがいないということと神のみ前に正しく歩むということは、この夫婦にとっては決して矛盾することでも対立することでもありませんでした。子どもが与えられないという神の厳しい試練を受けていたこの夫婦は、そうでありながら、いやそうであるからこそ、より一層熱心に、忠実に、神のみ前に正しく生きるために、神のみ言葉を聞き続けていたのです。

 7節の冒頭に、「しかし」と書かれています。原文のギリシャ語では一般的に文章と文章をつなぐときに用いられる「カイ」という言葉で、普通は「そして」と訳されますが、ここでは前の6節で言われていることと7節の内容が対立しているかのように思われるので、「しかし」と訳しています。つまり、この夫婦は神のみ前に正しく生き、神のみ言葉に熱心に聞き続けてきたけれども、しかし残念なことに、そんなに信仰深い夫婦であったにもかかわらず、子どもがいなかった、しかもすでに年老いていたと理解できるかもしれませんが、しかし、聖書がここでわたしたちに語ろうとしていることは、6節と7節を対立する内容として言っているのではなく、その二つのことはともに関連し合いながら、この夫婦の信仰をより深め、強め、より純粋にしているということを強調しているのです。ザカリアとエリサベトは年老いるまで子どもが与えられないという大きな神の試練の中でこそ、いよいよ神のみ前で謙遜にされ、いよいよ神に熱心に祈り求め、いよいよ忠実に神のみ言葉に聞き従うようにさせられているのです。それもまた神の尊いみ心なのであり、人間の目には隠された神の奇しきご計画なのです。神はそれによって、彼らの信仰を鍛え、清めてくださるのです。ザカリアとエリサベトはやがてその神の奇しきみ心を知らされ、その成就を見ることになるでしょう。

 わたしたちはここで旧約聖書のヨブを思い起こします。神のみ前に「無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きていた」ヨブ、しかも多くの子どもたちと財産に恵まれていたヨブが、一瞬のうちにそのすべてを失ってしまったときに、彼はこのように告白しました。【21~22節】(776ページ)。ヨブがこの信仰へと導かれるために、神は彼からこの世のものすべてを、愛する家族たちをも取り去られたのです。ヨブはこの大きな試練の中で、主なる神のみ名をほめたたえているのです。わたしたちにすべてのものをみ心によってお与えくださる主なる神、また、み心によってわたしたちからすべてのものを取り去られる主なる神、わたしたちはその神のみ心を尋ね求めて、そのみ名をほめたたえる者となるように導かれているのです。

 子どもがなく、二人ともすでに年老いていたザカリアとエリサベト、そうでありつつ神のみ前に正しく歩み、忠実に神にお仕えしているこの夫婦、神は彼らをお見捨てになるでしょうか。いや、決してそうではありません。わたしたちは後で13節でこのような神のみ言葉を聞くでしょう。【13節】。このようにして、ザカリアとエリサベトの長い、長い祈りが聞かれ、彼らに子どもが与えられるとすれば、それこそが神の奇跡に他なりません。人間の側の可能性が全く消え去り、もはや人間の力が無にされたときに、無から有を呼び出だすかのようにして、死から命を生み出すかのようにして、全能の神が彼ら夫婦のために、イスラエルの民のために、そしてわたしたちのために、救いのみわざをなしたもうのです。

(祈り)

5月19日説教「神は『光あれ』と言われた」

2019年5月19日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:創世記1章1~5節

    ヨハネによる福音書1章1~18節

説教題:「神は『光あれ』と言われた」

 創世記1章1節のみ言葉は、2節から始まる神の天地創造物語全体の表題と考えられます。実際の神の創造のみわざは3節から始まるのであって、2節は創造前の状態を説明しているのですが、つまり時間の前後関係からすれば、2節が最初で、そのあとに1節がきて、それに3節が続くという順序になるはずですが、1節が表題として冒頭に置かれているということには、明らかな意図が読み取れます。それは、2節の天地創造前の状態もまた神の創造のみわざの中にあるということを教えているのす。

 【2節】。この2節は確かに神がまだ天地を創造される以前の、いわゆる原始の状態を説明していますが、これは神の創造のみわざから離れた、神のみわざとは無関係な何かを表現しているのではありません。また、神が創造される以前に、神よって創造されたのではない何かがすでに存在していたということでもありません。「初めに」神がおられたのであり、神は全く何もないところから、無から有を呼び出だすようにして、み言葉によって万物を創造されたのです。したがって、2節もまた神の天地創造のみわざの中にあるのであり、創造主なる神のみ手の中にあるのだということを、1節の表題が先にあり、それに2節の原始の状態の説明が続くという順序から、わたしたちは知ることができます。

 そのことをはっきりと語っているのが、2節後半の「神の霊が水の面を動いていた」というみ言葉です。混沌として、何も形がなく、闇に覆われていた原始の世界を神の霊が優しく大きな手のように包んでいます。その混沌と闇もまた神の創造のみ手の中に守られている、神の創造のみわざを待ち望むかのようにして、今か今かと神のみ言葉が語られるのを期待し、神のみ言葉が新しい創造の世界を生み出すのを待っている、そのことを暗示させるのです。

 ここで重要なことは、2節は神が天地を創造される以前にこの世界がどうであったのかということを語ることに中心があるのではなく、むしろ聖書が語ろうとしている事柄の順序から言えば、まず最初に神の天地創造のみわざがあり、2節はその天地の創造主なる神のみ手を離れるならばこの世界がどうなるのかについて語っているということなのです。この世界が、もし創造主なる神のみ手から離れて、神なしで存在しようとするならば、この世界は直ちに混沌と闇の中に飲み込まれてしまわざるを得ないのだということを、聖書は語っているのです。この世界も、世界の歴史も、また人類と、わたしたち一人一人の生涯も、もし創造主なる神のみ手を離れるならば、神なしであろうとするならば、神の創造のみ言葉を聞くことがないならば、すべては混沌と闇に閉ざされてしまわざるを得ないのであり、混乱、無秩序、むなしさ、空虚に飲み込まれ、確かな目標を失い、実りのないものになってしまうということを、聖書はわたしたちに語っているのです。神が始めてくださった創造のみわざの中で、神が完成させてくださる救いのみわざを信じて、その神と共に歩む、その神の命のみ言葉を聞き続けていく、そこにこそ幸いで祝福に満たされた道があるのです。神はきょうの礼拝でわたしたちをそのような道へと招いてくださいます。

 3~5節は神の創造のみわざの第一日目、光の創造について語っています。 【3節】。まず、「神」という言葉について簡単に触れておきます。ヘブライ語で神を意味する言葉は「エル」と発音しますが、聖書ではほとんどの場合複数形の「エロヒーム」が用いられます。しかし、形は複数形ですがエロヒームを受ける動詞は、3節の「神は言われた」の場合もそうですが、3人称単数形になっています。当然、神は唯一の神であるという信仰が聖書の基本ですから、神・エロヒームに続く動詞も単数形になるのですが、ではなぜ神を複数形で表現するのかという理由については、いくつかの理解があります。もっとも一般的には、それは尊厳の複数形であるという説明です。神の偉大さ、尊厳性を言い表すために、神はおひとりであるが、エルの複数形、エロヒームを用いたと考えられています。

 次に、「言われた」ですが、神は言葉を発することによって光を創造されました。2日目以降でも、すべてそうです。「神は言われた」という言葉が、3節、6、9、11、14節と繰り返されます。聖書の神、イスラエルの神、主イエス・キリストの父なる神、わたしたちが信じている神は、み言葉を語られる神です。み言葉をお語りになることによって創造のみわざをなされ、救いのみわざをなされる神です。これが神の第一の特色です。他のすべての偶像や偽りの神々と聖書の神、教会の神との大きな違いがここにあるといえます。わたしたちは物言わぬ神々を、言葉によってご自身を啓示される神以外の神々と言われるものを、神とすべきではありません。それらはまことの神ではなく、創造のわざも救いのわざをもなすことはできません。

 「神は言われた」というみ言葉の中には、神の強い意志、み心が働いています。神はみ言葉をお語りになることによって、ご自身の強い意志、み心によって、すべてのものを創造されました。神によって創造されたすべての被造物、すべて存在するものには、神の意志とみ心があります。この世界に存在するものの何一つとして、偶然にそこに存在しているものはなく、神のみ心から離れて存在しているものもありません。

 わたしたち人間も言葉を語ります。鳥たちやクジラなどもそれぞれの言葉を持っていると言われます。しかし、それらはみな神が語られる言葉とは根本的に違っていきます。わたしたちの言葉の多くはむなしく消え去っていきます。けれども、神のみ言葉は新しい存在と新しい出来事を生み出していきます。詩編33編9節には、「主がお語りになると、そのように成り/主が命じられると、そのように立つ」と書かれてあり、またイザヤ書55章11節で神はこう言われます。「そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も/むなしくは、わたしに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ/わたしが与えた使命を必ず果たす」。わたしたちはそのような神のみ言葉を聞き、信じるのです。

 「光あれ」。これは神の命令です。「神が言われた」というみ言葉の中にすでに神の強い意志やみ心が示されていますが、「あれ」という命令形の中には断固とした神の意志、神の永遠の意志、神の摂理、存在へと召し出される神の大きな愛が言い表されています。「こうして、光があった」と続けて書かれています。神の創造の意志が直ちに実現し、出来事になります。神によって造られたすべての被造物にはこの神の愛の意志が貫かれています。山がそこにあり、木がそこに生え、鳥がそこにいる、そのすべての存在に神の強い愛の意志があります。もちろん、わたしがここにいること、あなたがここにいること、そこにこそ神の最も深い愛の意志があるのであり、だれも偶然にこの世に存在したのではないし、何か得体のしれない運命とかによってあやつられて今ここに生きているのでもありません。すべての存在、すべての出来事、すべての生と死に、神の愛とご配慮に満ちた意志が貫かれているのだということを、わたしたちは信じるべきですし、信じることができるのです。

 【3節】。「光」とは何でしょうか。この光は、天体の光、太陽の光のことではありませんし、何らかの人工的な光のことでもありません。というのも、太陽は14節で、第四日目に創造されるからです。まだ発行体となるべきものが何一つ創造されていないときに、天地創造の第一日目に神によって創造されたこの光とは何でしょうか。これを説明する適当な言葉がわたしたち人間にはないように思われます。ある神学者はあえてこう表現しています。「この光は世界を形成している最も崇高な元素である」と。そう言われてもよく分かりませんが、分かりやすく解説すれば、すべてのものがこの光の中で存在することができ、この光がなければ何ものも存在することができず、すべてのものの存在を根本から支えている光、そのような光であると言えるでしょう。この光の中で、神は第二日目、第三日目の創造のみわざを続けられ、この光の中に次々と創造されたものが存在していくことになります。

 さらに言うならば、この光は詩編119編105節で、「あなたの御言葉は、わたしの道の光/わたしの歩みを照らす灯」と告白されている光のことであり、ヨハネによる福音書1章4、5節と9節で証しされている、主イエス・キリストのことであると言うべきでしょう。すべての人を照らし、すべての人に命を与えるまことの光であられ、この世界の暗闇の中で光り輝いている永遠の光なる主イエス・キリスト、このまことの光なる主イエス・キリストにあって、わたしたちは神に創造された者であり、一人一人がその存在を与えられ、まことの命に生きる者とされているのです。

 【4節】。同じ言葉はこの後にも繰り返されます。神が強い、深い愛のみ心によって創造されたすべてのものは、良きものであると神ご自身が確認しておられます。「良い」とは、欠けや破れがない、整っているとか、目的にかなっているという意味です。神が創造されたすべてのものは、それぞれに存在の意味があり目的があり、神の良きみ心があります。

 けれども、もし神によって良きものとして創造されたこの世界が、その調和と秩序を失い、悪しきものへと変質しているとすれば、それは神の創造のみわざののちに入り込んだ人間の罪が作用しているのだということをわたしたちは深刻に受け止めなければならないでしょう。神は言われます。「わたしは世界を良きものとして、欠けも破れもないものとして、わたしの心にかなうものとして創造した」と。その神のみ言葉を信じないで、自らなおも不足しているかのようにしてむさぼり取り、なお自らを富める者にしようとあくせくし、自らなおも美しく着飾ろうとして心を悩ましているならば、それはむしろ神の創造のみ心から離れ、神が創造された調和と秩序の世界を破壊していることになるのではないかということを、人類は真剣に考えなければなりません。わたしたちが世界の平和と共存を考える際に、また生命の尊厳や世界環境の保護を考える際、聖書に記されている神の創造のみ心を知ることの重要性を教えられます。そして、わたしたちの罪をおゆるしくださる主イエス・キリストによる回復を切に願い求めなければなりません。

 【5節】。「呼ぶ」という言葉は4節の「分ける」という言葉と関連しています。「分ける」とは分離する、境界線を引くという意味を持ちます。光と闇との間には神のみ心によって超えることができない境界が設けられています。神のみ心がなければ、どんなに深い闇でも光を覆いつくすことはできません。

 「呼ぶ」という言葉は名づけるという意味であり、そこには名をつける神の絶対的な主権と支配があります。神は昼と名づけられた光を支配しておられます。神はまた夜と名づけられた闇をも支配しておられます。闇が神のみ心を離れて光を支配することはできません。

 「夕べがあり、朝があった」と書かれています。旧約聖書の民イスラエル・ユダヤ人は、一日が夕べから、日没から始まると考えました。朝があって、夕べに陽が落ちて一日が終わるのではなく、夕方から始まり夜の闇を貫いて明るい朝が来るというユダヤ人の考え方には興味深いものを感じます。夜の闇が最後に勝利するのではなく、どんなに長く暗い夜でも、やがて必ずや朝が来る、明るい光が最後には勝利する、罪と死という闇を切り裂くようにして、主イエス・キリストが死に勝利した復活の朝を迎えるということをわたしたちは信じています。

(祈り)