5月12日説教 「キリスト・イエスの僕(しもべ)」

2019年5月12日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:イザヤ書42章1~7節

    フィリピの信徒への手紙1章1~2節

説教題:「キリスト・イエスの僕(しもべ)」

 フィリピの信徒への手紙は、使徒パウロがマケドニア地方のフィリピという町に建てられた教会にあてて書いた手紙ですが、これには二つの別の名前が付けられています。一つは「喜びの書簡」、もう一つは「獄中書簡」です。「喜びの書簡」と言われるのは、この手紙の中に「喜び、喜ぶ」という言葉が10数回用いられており、手紙全体の内容も喜びと感謝に満ち溢れているからです。きょうの礼拝で朗読されたすぐ後の4節には【4節】とあり、また18節にも、「わたしはそれを喜んでいます。これからも喜びます」と書かれています。さらに、25節にもこのように書かれています。【25節】。

4節と18節は、この手紙の差出人であるパウロの喜びであり、25節では手紙の受取人であるフィリピの教会の信徒たちの喜びについて語っています。この手紙では、パウロもフィリピの教会員も、共に喜び合い、喜びに満たされています。主イエス・キリストの福音を信じる人たちは、どこにいる人たちであれ、どのような状況に置かれている人たちであれ、またお互いがどのような関係にある人たちであれ、同じように、共に喜び合い、共に喜びを分かち合い、互いに喜びを与え合うことができる、そのような交わりが与えられているのだということを、この手紙を学び始めるにあたり、わたしたちはまずそのことを確認しておきたいと思います。

したがって、この喜びはパウロやフィリピの教会の人たちが自分たちで勝ちとったり、作り上げた喜びではなく、主イエス・キリストの福音からパウロとフィリピの教会の人たちに与えられた喜びなのであって、それゆえにパウロが今どのような状況にあるかとか、フィリピの教会がどうであるかということには関係なく、あるいはわたしが、わたしたちの教会がどのようであるかということにも全く関係なく、それらがどうであれ、それらのすべてをはるかに超えて、天の神から、わたしたちの主イエス・キリストから、すべて信じる人に与えられている大きな、永遠の喜びなのだということ、そのことをもあらかじめ確認しておきたいと思います。

次に「獄中書簡」についてですが、パウロはこの手紙を獄中から書いていると推測されることからそう名付けられています。12、13節やその他の個所からもそのことが推測されます。パウロは紀元48年か49年ころに、第2回世界伝道旅行に出かけ、その途中で小アジア地方からヨーロッパの入口に当たるマケドニア地方に入り、フィリピ、テサロニケ、アテネ、コリントで伝道活動を続けました。そのことは使徒言行録16~18章に書かれています。その後パウロはユダヤ人からの迫害を受け、何度か投獄されました。この手紙は、エフェソかローマで捕らえられた時に書かれたと推測されています。他にも「獄中書簡」と言われるのは、エフェソの信徒への手紙、コロサイの信徒への手紙、フィレモンへの手紙があります。

そこで、この手紙につけられた二つの名前、「喜びの書簡」と「獄中書簡」の関連について考えてみましょう。本来、この二つは相反する内容をもっていて、一つのことを同時に説明する言葉としてはふさわしくないように思われます。獄に捕らわれの身となることは、だれにとっても喜ばしいことではあり得ません。パウロにとってもそうであったに違いありません。全世界に主キリストの福音を宣べ伝え、多くの人々の魂を救いたいとの彼の願いは、投獄によって中断されざるを得ません。彼が福音の種をまいた諸教会を訪ね、群れを励まし、その信仰の成長を助け、主キリストの体なる教会を堅固に建てていくために仕えるということも、妨げられます。それに、彼の裁判の時が迫っており、そこでは死刑の判決が下されるであろうということも、この手紙から推測されます。そのような状況の中で、いったいだれが喜ぶことなどできるでしょうか。

けれども、パウロは今喜んでいます。彼の身を案じているフィリピの教会の人たちにも、繰り返して「あなたがたも喜びなさい」と命じています。では、このパウロの喜びがどこからきているのか、それはわたしたちがすでに確認したことですが、パウロやフィリピの教会の現状からではなく、そのすべてを越えて、そのすべてを突き破るかのようにして与えられる、主イエス・キリストの福音がもたらす喜びなのです。パウロが今どのような困難な状況に置かれていたとしても、フィリピの教会が今どのような不安や恐れや戦いの中にあろうとも、この世のあらゆる鎖や壁や鉄格子を断ち切って、信じる人たちを天からの喜びで満たし、それらのすべてから解放し、自由にする大きな喜びなのです。

したがって、「喜びの書簡」と「獄中書簡」という二つの呼び名は、主イエス・キリストの福音によってこそ、互いに固く結びつけられているのです。そして、そのことはわたしたちの日々の信仰生活においても起こります。主イエス・キリストの福音は、わたしたちを縛り付けているこの世のすべての恐れや重荷や苦悩からわたしたちを解放し、自由にし、喜んで神と隣人とに仕えていく道を切り開いていきます。わたしたちはきょうから学び始めるフィリピの信徒への手紙から、そのような力強い神のみ言葉を聞き取っていきたいと思います。

さて、1~2節では、この手紙の差出人と受取人が紹介され、次に差出人から受取人への祝福の言葉が書かれています。これは当時のギリシャ社会の手紙の書き方に倣っています。パウロの多くの手紙も同じような書式で始まります。ただ、パウロは当時の一般的な書式をそのまま踏襲しているのではありません。パウロ独自の、福音的な内容が込められています。

1節の差出人の紹介にその特徴が最もよく表れています。「キリスト・イエスの僕(しのべ)であるパウロとテモテから」、これが手紙の差出人の自己紹介です。きょうはこのみ言葉に集中して学んでいきます。

まず、「パウロとテモテ」という二人の名前が、共同発信人として挙げられています。パウロの他の多くの手紙でもそうです。その理由についてはいくつかのことが考えられます。一つには、テモテはパウロの最も近くにいて共に福音伝道のために仕えた弟子であり、特にフィリピ伝道の際にはパウロはテモテをぜひとも一緒に連れていきたいと願ったことが使徒言行録16章に書かれています。テモテはパウロと共にフィリピ教会誕生のために仕えました。教会の人たちにもよく知られていましたから、彼を共同発信人として名を連ねることは、教会員にとって信仰による交わりを強めることになります。

テモテが実際にこの時にパウロのそばにいて、獄中のパウロの世話をしていたのかどうかについては確認されてはいませんが、パウロがテモテを手紙の共同発信人に挙げているさらに大きな理由は、この手紙でパウロは単に個人的な意見を述べているのではなく、主キリストの福音の証しとして、主キリストから遣わされた使者として、天からの権威と豊かな恵みを語っているということを強調するためでした。主イエスは12弟子を神の国の福音を宣教するために遣わすにあたって、二人を組にして派遣されたということが、マルコによる福音書6章7節等に書かれています。それは、旧約聖書に「重要な判決を下す場合には、二人、または三人の証言によらなければならない」と定められているからです(申命記19章15節以下等を参照)。パウロがこの手紙で語っていることは、すべて真実であり、真理であり、主なる神がフィリピの教会に対してお語りくださる神のみ言葉なのであり、彼らはその神のみ言葉を命のみ言葉として、彼らを罪から救う主イエス・キリストの福音として聞くべきなのです。わたしたちにとってもそうであることは、言うまでもありません。

「キリスト・イエス」とは、「イエスはキリストである」という初代教会の信仰告白です。イエスは、ヨセフとマリアの子としてクリスマスの時に誕生された子どもの名前です。ユダヤ人には一般的な名前でした。しかし、この子の名前はこの子が誕生する前に神によって定められていた名前でした。またこの子は、ヨセフとマリアがまだ一緒になる前に、聖霊によって宿った神のみ子でした。神はこのみ子によって、ご自身の救いのみわざを成し遂げるために、この世にお遣わしになりました。それは、神が旧約聖書の中でイスラエルの民と結ばれた契約の成就でした。

それを示す言葉がキリストです。キリストはヘブル語メシアのギリシャ語訳です。ヘブル語のメシアとは、「油注がれた者」という意味です。イスラエルでは王、祭司、預言者がその務めにつく時には就任式でオリブ油を頭から注がれました。主イエスの時代には、神がやがてイスラエルにお遣わしになられる、まことの王であり、まことの祭司であり、まことの預言者である救い主を「油注がれた者」メシアとして待望していました。主イエスこそがそのメシア・キリストです。全人類の救いのために十字架で死なれ、三日目に死の墓から復活され、今も生きて教会の主として、わたしたち一人一人の救い主として導いておられる主イエスこそが、神から遣わされた永遠の油注がれたメシア・キリストである、まことの王、まことの祭司、まことの預言者であるという信仰告白が、「キリスト・イエス」、あるいは「主イエス・キリスト」という言葉の意味です。

わたしたちが主イエス・キリストという場合にも、十字架と復活の主イエスこそがわたしの唯一の主であり、わたしを罪から救ってくださる唯一の主であり、したがって、わたしが聞き従い、わたしのすべてをささげつくしてお仕えするべき唯一の主であるというわたしの信仰を告白しているのです。

最後に、「キリスト・イエスの僕(しもべ)」という言葉について聖書のみ言葉からその深い意味を探っていきましょう。パウロはローマの信徒への手紙1章1節でも、自分をキリスト・イエスの僕と紹介しています。僕とは文字通りには奴隷という意味です。今日、奴隷制度はどこの国からも消え去りましたが、かつて奴隷制度が認められていた社会にあっては、奴隷はその所有者である主人の持ち物であり、主人はその命をも意のままにすることができました。奴隷はその存在と命と働きをすべて主人のためにのみささげるのです。奴隷には人間としての権利は一切与えられていませんでした。

聖書で信仰者が神の僕、主イエス・キリストの僕と言われる場合にも、同じような意味が含まれますが、しかしさらに大きな意味があります。何よりも重要なことは、信仰者の主人は、主なる神であり、主イエス・キリストであるということです。旧約聖書では、アブラハムや(詩編105編42節)、モーセ(同26節)、ダビデ(同89編3節)などが神の僕と呼ばれています。それは特別な信仰者に与えられた名誉ある名前でした。彼らはその主人である神の所有として、ただ神のためにのみ仕え、働き、神のみ心に完全に服従し、それによって信仰の道を全うしたのでした。それゆえにまた、その全生涯が神によって受け入れられ、導かれ、祝福され、神によって必要なすべてのものが備えられたのでした。信仰者が神の僕であるときにこそ、神は彼のすべての道を導き、守り、あらゆる災いや試練の時にも彼と共にいてくださったのです。

パウロが自分を主キリストの僕であると告白するときには、さらに深い意味が付け加わりました。パウロはかつてはユダヤ教の律法の奴隷になっていました。それゆえにまた罪の奴隷でもありました。しかし今や彼は主キリストの奴隷です。主キリストがご自身の十字架の死によって、神のみ子としての清い御血潮をもって彼を罪の奴隷から贖い、救い出してくださり、彼を主キリストのものとしてくださったのです。主キリストが彼の新しい主人であられるとき、パウロはもはや何ものの奴隷でもありません。この世のいかなる権威も、迫害も、試練も、獄の鉄格子も、彼を縛りつけることはできません。彼は本当の意味での自由人として、この世のいかなるものからも自由になって、喜びと感謝をもって、主キリストの福音のために仕え、神と隣人とのために働くことができるのです。

(祈り)

5月5日説教「ルカが伝えた福音」

2019年5月5日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:申命記6章4~9節

    ルカによる福音書1章1~4節

説教題:「ルカが伝えた福音」

 本日から、ルカによる福音書を連続して読んでいきます。新約聖書には四つの福音書があります。いずれも、わたしたちの救い主であられる主イエス・キリストのご生涯とそのお働き、主イエスが語られた説教と救いのみわざが描かれています。最初の三つの福音書、マタイ、マルコ、ルカ福音書を共観福音書と呼びます。形式や内容が非常によく似ていて、お互いに参考にしたか、あるいは同じ資料を参考にして書いたと推測されるからです。今日の研究によれば、マルコ福音書がオリジナルで、紀元60年代に書かれ(つまり、主イエスの十字架と復活からおよそ30年近くたってから書かれ)、マタイとルカはマルコを参考にしながら紀元70年代以降に書かれたと考えられています。わたしたちが今日福音書を読む場合にも、これらの三つの福音書を互いに参照しながら読むことは、理解の助けになります。ちなみに、ヨハネ福音書は共観福音書とはかなり違った形式で書かれています。これを第四福音書と呼ぶこともあります。しかし、その中心的な内容は、共観福音書も第四福音書も、まったく同じ主イエス・キリストであり、主イエス・キリストによる救いのみわざであることは言うまでもありません。

 著者はルカという人だと伝えられています。実際にはこの福音書の中にはその名前は記されてはいませんが、彼は、後でも触れますが、使徒言行録の中でパウロの世界伝道旅行にしばしば同伴した医者のルカであろうと考えられます。ルカは教養のあるギリシャ人であったらしく、ルカ福音書はきれいなギリシャ語で書かれ、文学的に見ても優れていると言われています。また、時々医学の専門用語が用いられていることからも彼が医師であったことが分かります。

 きょうは1~4節の序文を学びます。【1~4節】。ここには、この福音書が書かれた動機、その材料、その内容、その目的が書かれています。まず、1節冒頭には「わたしたちの間で実現した事柄について」と書かれています。これが、この福音書の内容を意味しています。その事柄とは、もちろん主イエス・キリストによる救いの出来事のことです。神はご自身の独り子主イエス・キリストをこの世にお遣わしになられ、この主キリストの十字架の死と復活によって、わたしたち全人類のための救いのみわざを成し遂げてくださいました。ルカはその事柄をこれから書こうとしています。

 「わたしたち」とは、ルカと同時代の人たちだけを指すのではなく、ルカ以前に主イエスの地上の歩みと十字架の死と復活を共に経験し、目撃した人たち、またルカ以後のすべての時代のすべての民族の、すべての人たちをも含んでいます。主イエスの救いのみわざはそのすべての人たちにとって有効であり、意味ある出来事だからです。もちろん、きょうこの礼拝に集められているわたしたちをも含んでいます。ルカがこれから描こうとしている主イエスの救いのみわざは、わたしたち一人ひとりにとっても、救いのみ言葉であり、命のみ言葉です。「わたしたちの間で実現した事柄」とは、過去の2千年前の出来事であるのみならず、今ここで、この礼拝に集められているわたしたちの間で実現している事柄でもあるのです。それが、神のみ言葉である聖書を読むということです。

 「実現した」とは、成就した、完成したという意味も含みます。神が旧約聖書の中でイスラエルの民に対して約束された契約が、主イエス・キリストによってすべて成就しました。したがって、「実現した」の主語は神です。自然現象とか歴史の必然とかによって引き起こされた事柄ではありません。神が天地創造の初めからご計画しておられ、ご自身がお選びになった人々によって進めてこられた救いのみわざを、それらは旧約聖書に記されていますが、そのすべてが主イエス・キリストによって成就し、完成し、最後の目標に達したということなのです。

 「実現した」の主語が神であるということを確認しておくことは非常に重要です。人間はこの事柄に、主体としては全く関与していません。いやむしろ、人間は神に背き、神の救いのご計画をくつがえそうと何度も何度も神に敵対してきました。けれども、神はそのような人間たちの罪の中でご自身の救いのみわざを力強く推し進めてこられました。人間たちの罪を打ち破るようにして、神の救いのみわざは実現されました。「わたしたちの間で実現した」とは、そのような意味をも含んでいます。

 さらに、もう一つ重要なポイントは、ルカは自分で成し遂げた事柄についてこれから書こうとしているのではないということです。ルカが教養あるギリシャ人で、医師でもあったと推測されています。彼自身もその時代の中で誇りえる何がしかの働きをしていたのかもしれません。けれども、ルカはそれをこれから書くのではありません。彼自身のことではなく、主なる神が彼と全人類のために成し遂げてくださった救いのみわざについて、彼自身も信じて救われた主イエス・キリストの福音について、彼が全世界に宣べ伝えるようにと神から命令された主キリストの福音について、ルカは書くのです。

 2節からは、ルカが福音書を書くために用いた資料について言及されています。「多くの人が既に手を着けています」とあります。前にもお話ししましたように、マルコ福音書が最も早く紀元60年代に書かれていました。そのほかにもいくつもの資料がルカの手元にあったことが分かります。ルカはマルコ福音書を最も重要な資料として用いたことが、両者に共通している箇所が数多くあることからも推測できます。

 ルカはマルコ福音書やその他の多くの資料を参考にしながらも、彼自身の明確な意図をもって、3節で言われているように、「わたしもすべての事を初めから詳しく調べていますので、順序正しく書いて」、新たな福音書をしたためようと決意したと述べています。ルカはこれまでに主イエスのことを書き記してきた人たちに敬意を表しながらも、彼独自の努力を重ね、彼独自の意図と目標をもってこの福音書を書くという強い決意をここで語っています.その意図とは何であるのかについては、これからルカ福音書を読み進めていけば明らかになるのですが、あらかじめ一つのことに触れるならば、それは、主イエス・キリストの福音がユダヤ地方のエルサレムから始まり、やがて当時のローマ帝国のいたるところへと、全世界へと広がっていくという、世界的な視野をもって福音書を書くという意図を挙げることができるでしょう。

 そのことは、ルカが書いた続編である使徒言行録へと受け継がれていきました。【使徒言行録1章1~2節】(213ページ)。パレスチナの一角、エルサレムでの主イエスの十字架と復活の出来事は、やがて主イエスの弟子たち、使徒たちによって全世界へと告げ広められていくようになる、主イエスは全世界の唯一の救い主である、ローマ帝国の皇帝であれ、世界の諸国の王であれ、だれであれ、人間を罪から救うことができる救い主は、主イエス・キリスト以外にはおられない、そして、やがて全世界に主イエスを救い主と信じる人々の群れである教会が建てられるであろう、ルカはそのような世界的な視野をもってこれから新たな福音書を書こうとしているのです。

 ルカはパウロの第二回世界伝道旅行の途中、使徒言行録16章10節からパウロに同伴したと思われます。というのは、ここから「わたしたちは」という書き出しになっているからです。【使徒言行録16章10~11節】(245ページ)。「わたしたち」とは使徒言行録の著者であるルカとパウロの一行を指していると考えられます。この後にも、何回か「わたしたちは」という文章が出てきます。

 さて、ルカが福音書を書くにあたって用いたマルコ福音書やその他の資料は、さらにさかのぼれば、「最初から目撃して御言葉のために働いてきた人々」にその源泉があります。この人々とは、主イエスの12弟子たちや直接に主イエスの説教を聞き、奇跡のみ業を見た人たち、また特に主イエスの十字架の死と復活を目撃した人たち、そしてそれを信じた人たちを指しています。ルカ福音書だけでなく、パウロ書簡も、新約聖書のほとんどは直接に主イエスにお仕えした弟子たちによって書かれたものではありません。ルカもパウロも地上の主イエスのお姿を直接に見たことはなかったろうと思われます。でも、彼らが福音書や手紙に書いた事柄は、その出来事を直接に目撃した人たちの証言に基づいていました。架空の作り話ではありません。だれかの創作、空想でもありません。それは歴史的な出来事です。多くの証人たちが、主イエスのお姿を見て、その説教を聞いて、その軌跡のみわざを目の当たりにして、そして主イエスの十字架と復活の目撃者となり、それを神の救いのみわざと信じ、主イエスのために自らの全生涯をささげ、信仰と喜びとをもってその福音を宣べ伝えたのです。そして、資料として文字に書き記しました。聖書はそのような最初の目撃証人たちの証言という、確かな基礎、源泉を持っているのです。わたしたちはその証言を信仰をもって受け入れ、わたしの信仰とするのです。

 「御言葉のために働いた人々」とあります。彼ら最初の目撃証人たちはひたすらに御言葉に仕えました。ここで御言葉と訳されているギリシャ語は、先週の礼拝で私たちが読んだヨハネによる福音書1章1節の「初めに言(ことば)があった」という個所のギリシャ語と同じ「ロゴス」です。このロゴス・言葉は、普通の人間が語る言葉ではなく、神のみ言葉、また神のみ言葉そのものであられる主イエス・キリストを言い表しています。彼ら最初の目撃証人たちは皆、徹底して主イエスご自身のために、神のみ言葉のために働き、奉仕しました。彼らが目撃者として語ったこと、文字に記したことは、それによって自分自身が文筆家として名をあげたり、財を築くためでは全くありませんでした。彼らはみな、み言葉のために、主イエス・キリストのための奉仕者として働いたのです。それゆえに、彼らの働きは少しも無駄にならずに、全世界の教会を建てるために用いられ、多くの信仰者を罪から救うために用いられているのです。わたしたちもまたその恩恵を受けています。

 ルカ福音書は続巻の使徒言行録とともに、テオフィロという人に献呈されています。それが執筆の直積的な動機、目的になっています。テオフィロという人の素性については全く分かっていません。テオフィロというギリシャ語は「神の友」という意味を持っていますが、彼がすでに洗礼を受けてクリスチャンになっていたのか、求道者だったのかについてもわかりません。ローマ帝国の中でかなりの地位にあった人であったことがその呼び名で分かります。彼は主イエスの福音に対してよい理解を示していましたが、彼の理解がより深まり、主イエスを救い主として信じる信仰がより一層強められることを願って、ルカはこの福音書を書き、これをテオフィロに献呈すると述べています。

けれども、それだけが執筆の目的でないことは明らかです。テオフィロ一人だけでなく、彼以後の時代の、この福音書を読むすべての人が、そしてまた今この福音書を読んでいるわたしたちも、この執筆の目的は当てはまります。わたしたちが礼拝でルカによる福音書を聞くことによって、わたしたちの信仰の確信がより強められ、また求道中の方たちがこのみ言葉を聞いて、洗礼を受ける決意へと導かれること、それがこの福音書が書かれた目的であり、わたしたちが主の日ごとにささげる礼拝の目的でもあるのです。

(祈り)

4月28日(日)「初めに神がおられる」

2019年4月28日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:創世記1章1~5節

    ヨハネによる福音書1章1~5節

説教題:「初めに神がおられる」

 これからの秋田教会の主日礼拝では、旧約聖書からは創世記、新約聖書からはルカによる福音書とフィリピの信徒への手紙を取り上げ、連続講解説教として、ご一緒に神のみ言葉を聞いていきたいと思います。わたくしが説教者として最も心がけていることは、日本キリスト教会神学校の説教学の講師であられた八田良一先生(元秋田教会牧師)から繰り返して教えられたことでもありますが、説教とはひたすらに主イエス・キリストを語ること、自分自身を語るのではなく、この世の知恵を語るのでもなく、人生論を語るのでもない、その他の何か興味深いことを語るのではない、ただ愚直に、純粋に、ひたすらに、主イエス・キリストを語ることである。そのことは、5月2日に予定されている牧師就職式で誓約する内容でもあります。そこには、こうあります。「あなたは、また、福音宣教のために召された者であります。それゆえ、この世の知恵を語らず、自分自身のことを宣べず、ただ主イエス・キリストを宣べ伝え、信仰と正しい良心とをもって、雄々しく戦いなさい」。わたくしはこれに「アーメン」と答えます。

また、使徒パウロはコリントの信徒への手紙一2章1~2節でこのように書いています。「兄弟たち、わたしもそちらに行ったとき、神の秘められた計画を宣べ伝えるのに優れた言葉や知恵を用いませんでした。なぜなら、わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていたからです」。

 したがって、説教を聞く会衆は、主イエス・キリスト以外のことを期待すべきではありません。主イエス・キリストだけで、十分だとすべきです。なぜならば、主イエス・キリストの中にこそ、神がわたしたちにお語りくださることのすべてが、また、わたしたち人間が聞くべきことのすべてがあるからです。

それから、皆様に二つお願いがあります。一つは、礼拝に集まる前に、説教のテキストとなる聖書をあらかじめ読んでおいてください。あと一つは、説教者のためにぜひ祈ってください。説教者は教会員、会衆の祈りなしには講壇に立つことができないからです。

 さて、きょうは創世記を説教のテキストとして取り上げます。まず、書名について簡単にお話しします。「創世記」という書名は、旧約聖書のヘブル語からギリシャ語に翻訳された際に(それは紀元前1世紀ころに完成したと考えられています)、これを「70人訳聖書」と言いますが、それにギリシャ語でゲネシスという書名を付けたのを日本語に訳したものです。ヘブル語原典の書名は、原則としてその書の最初の言葉を付けますので、創世記の最初の言葉である「初めに」と訳されているヘブル語、「ブリーシート」がそのまま書名になっています。

 ユダヤ人の伝統的な考えによれば、創世記から始まる最初の五つの書、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記をモーセ五書、あるいは律法書と言い、モーセが書いたとされていますが、モーセ以後のことも書かれていますので、それは正確ではありません。今日の研究によれば、モーセ五書も他の旧約聖書も、紀元前10世紀ころのソロモン王の時代から数百年という長い期間にわたって書かれ、また編集されたのではないかと考えられています。

 創世記という書名は、実は1~11章までのこの書の前半の内容には適していますが、後半の12章以後は、世界の初めのことというよりは、アブラハム、イサク、ヤコブという人間の歩み、または部族の歴史が描かれています。そこで、創世記の内容から言えば、前半の1~11章では、神が天地万物を創造されたこと、最初の人間としてアダムとエヴァを創造されたこと、しかし彼らが罪を犯して神に背く者となったこと(これを原罪と言います)、その子孫たちが全地に増えていったという世界の歴史の初め、これを「原初史」あるいは「原歴史」と言いますが、それが描かれています。

後半の12章以下では、神が一人の人アブラハムをお選びになり、彼と契約を結ばれたこと、その契約がイサク、ヤコブへと受け継がれていったという族長の歴史が描かれています。この族長の歴史は、さらには出エジプト記や申命記へと続き、神がイスラエルの民をお選びになり、この民と契約を結ばれ、この民の歩みを導かれたという、旧約聖書全体の歴史へとつながっていき、やがてその契約の民の中からダビデの子孫として、ヨセフとマリアから一人の子ども、主イエスがお生まれになるという、新約聖書の歴史へとつながっていくのです。

 そして、創世記を学ぶ場合には、この前半と後半のつながりが非常に重要だということを見落としてはなりません。つまり、前半の天地創造の記録は、後半の神がお選びになった族長たちとイスラエルの民の信仰に基づいて描かれているのだということです。神が族長アブラハムをお選びになり、またエジプトで奴隷の民であったイスラエルをお選びになり、この民を奴隷の家から救い出され、約束の地カナンへと導き入れ、この民をみ言葉をもって導かれた、その主なる神こそが天地万物を創造された、この神に対してアダムとエヴァは罪を犯した、この神のみ言葉に従ってノアは箱舟を造り、救われた、そのような信仰をもって創世記前半の天地創造の記録は描かれているのです。それゆえに、今日わたしたちが創世記1章の天地創造のみ言葉を読む場合にも、主イエス・キリストの十字架と復活の福音によってわたしたちを罪から救い出してくださった神への信仰をもってこれを読まなければならないということを、まず確認しておきたいと思います。

 しばしば議論されることですが、創世記に描かれている天地創造の物語りは、今日の科学的な知識で得られる宇宙の生成や生物の発生・進化といちじるしく違っている、矛盾しているのではないかという疑問が投げかけられます。しかし、この疑問は創世記が、または聖書全体が信仰の書であるということを正しく理解していないことに由来するものです。科学には科学の使命と課題があります。聖書はわたしたちに信仰を生み出し、また信仰をもってこれを読むことを要求します。さらに言うならば、科学を研究する学者も信仰をもって聖書を読まない限りは、これを正しく理解できませんし、その人もまた信仰によって罪をゆるされなければならない罪びとであることは否定されません。したがって、わたしたちは創世記の天地創造のみ言葉を主イエス・キリストの十字架と復活の福音の光の中で読まなければなりませんし、他の旧約聖書と新約聖書もまたそのように読むべきです。その時、すべての聖書のみ言葉はわたしたちにとって救いと命を与える神の生きたみ言葉となるのです。

 では、1節を読んでみましょう。【1節】。これは、創世記の最初のみ言葉であるとともに、全聖書の最初のみ言葉でもあります。「初めに、神は」という言葉で聖書は始まります。初めに、神がおられます。聖書の初めに神がおられます。天地創造の初めに神がおられます。すべてのものの存在の初めに、すべての出来事の初めに、すべての歴史の初めに、神がおられます。まだ何もない時に、もちろん人間もいない時に、ただ神だけがおられました。そして、その神がみ心によって、天地創造と人間創造のみわざを開始されます。神はその強いご意志と永遠のご計画によって、すべてのものをみ言葉によってその存在へと召し出され、そのすべてのものに命をお与えになり、すべての歴史と歩みを開始され、それを導かれます。

 すべて存在するもの、すべて命あるものはこの神のみ手の内にあって、その存在と命とを支えられています。それゆえに、すべての出来事と歴史、現象もまた、神のみ心によって起こり、神のみ手を離れては、何一つ存在しないし、神のみ心なしには、何一つ起こることはありません。主イエスはこのように言われました。「天の父なる神のみ心なしには、あなた方の髪の毛の一筋すらも地に落ちることはない」と(マタイ福音書10章29~30節、『ハイデルベルク信仰問答』第1問参照)。天地万物を創造された神は、すべてをみ心によって導く摂理の神でもあられます。

 さらには、すべての初めにおられる神は、そのすべての終わりにもまた必ずおられます。すべてのみわざをみ心によって開始された神は、また必ずやすべてのみわざをみ心のままに完成させてくださいます。31節にこのように書かれているとおりです。【31節ab】。神がお始めになった天地創造のみわざはすべて良きみわざであり、また神がお始めになった救いの歴史はすべて良きみわざであり、それは最後の救いの完成に向かって進んでいきます。

 ヨハネによる福音書1章1節以下では、主イエス・キリストが「ことば」と言われています。ギリシャ語では「ロゴス」です。このロゴスが、人間が語る普通の言葉とは違うということを言い表すために、漢字の「言(げん)」一字で「ことば」と読ませています。【1~3節】を読んでみましょう。言葉、ロゴスである主イエス・キリストは、天地創造の初めから父なる神と共におられた、そしてその創造のみわざに父なる神と共にかかわっておられたとヨハネ福音書は語っています。そのロゴスなる主イエス・キリストが、すべての人を照らすまことの光としてこの世においでになり、わたしたちの罪のために十字架にかかられ、三日目に復活され、わたしたちの救いを成就してくださったと、ヨハネ福音書は続けて語っています。神がお始めになられた天地創造と救いのみわざは、み子、主イエス・キリストによって完成されます。

 創世記1章1節の冒頭の言葉、「初めに、神は」、ここから教えられることは、教会とわたしたちひとり一人の歴史と歩みにも示唆を与えます。天地創造の初めにおられ、創造と救いのみわざを開始され、それを完成される神は、教会とわたしたちひとり一人の歴史と歩みの初めにもおられ、それを完成させてくださいます。世界の教会の2千年の歴史と、この秋田教会の130年近くの歴史を始められた神は、今もその歴史を導き、終わりの日にそれを完成させてくださいます。

 また、神はわたしたちひとり一人の人生の歩みの初めにもわたしと共にいてくださいます。わたしがまだそのことに気づいていない時に、神はわたしをお選びになり、主キリストの救いにあずからせてくださいました。わたしのきょう一日の歩みの初めにもわたしと共におられ、わたしの生涯の終わりの日まで、否、わたしの地上の歩みが終わったのちにも、神は永遠にわたしと共にいてくださいます。

 終わりに、二つの語句について、簡単に説明します。「天地」とは、天と地の間にあるものすべてを意味します。この世界、宇宙、地下をも含めて存在するものすべてを神が創造された、すべてのものは神によって創造された被造物であると聖書は語ります。この信仰は古代においても今日においても、聖書特有の信仰です。したがって、それらの被造物は神によって創造されたものですから、神ではありません。神にはなり得ません。この信仰が聖書の唯一信仰、神は唯一であり、他はすべて偶像であり、偽りの神々であって、わたしたちが信じるべきものでも礼拝すべきものでもないという信仰の基礎になっています。太陽や月であれ星々であれ、山であれ、樹木や石、その他何であれ、もちろん人間であれ、それらは神ではありません。わたしたちを救うことはできません。ただ、天地万物をみ言葉によって創造された主なる神、この神の唯一のみ子主イエス・キリストだけが、わたしたちを罪と死から救うことがおできになります。

 次は「創造する」です。ヘブル語ではバーラーと発音します。この言葉は神が主語の時以外は用いられません。人間が主語になる時には別の動詞が用いられます。また、この言葉が用いられる場合には、何かの材料とか何かを用いる道具とかは語られません。神が「あれ」と言われるとそれがあるようになり、神が「そのようになれ」と言われるとそのようになります。神の圧倒的な力、全能の力がそこでは表現されています。無から有を呼びい出し、死から命を生み出される神のみ言葉の力が、そこでは強調されています。この命のみ言葉が、わたしの罪をゆるし、わたしの命を支え、わたしの歩みのすべてを導くのです。

(祈り)

4月21日(日)「空の墓と主イエスの復活」

2019年4月21日(日) 秋田教会主日礼拝説教(復活日)

聖 書:ヨブ記19章23~27節

    ルカによる福音書24章1~12節

説教題:「空の墓と主イエスの復活」

 主イエスは受難週の金曜日の午後3時ころに、十字架上で息を引き取られました。そして、日没までの少しの間に、アリマタヤ出身のヨセフというユダヤ最高議会の議員が、主イエスの亡骸を引き受け、自分が所有していた墓に葬りました。ユダヤ人は日没から一日が始まると考えましたから、安息日がすぐに始まります。安息日には何の仕事もしてはならないと律法で定められていました。神が六日の間に天地万物を創造され、七日目に休まれ、この日を聖なる日とされたからです。ルカによる福音書23章56節の終わりに、「婦人たちは、安息日には掟に従って休んだ」と書かれてあるとおりです。

 続いて24章1節に「週の初めの日の明け方早く」と書かれています。十字架の死から数えて三日目になります。この1節には、同じような意味の言葉が3つも重ねられています。一つは、「週の初めの日」、新しい1週が始まる日、最初の日、新しい歩み、新しい出来事が開始される日、二つ目は、「明け方」、暗い夜が終わり、新しい光が差してき始める時、やがて希望の光に包まれる時、三つめは、「早く」、だれよりも早くに起き出て、他の何かをなすよりもまずこのことをなす、そのような一日が始まるような予感がします。聖書は、まさにそのような特別な一日がこれから始まろうとしているのだと語っているのです。

 「週の初めの日の明け方早く」、この日が特別な意味を持つ一日となるということを、主イエスのご生涯を振り返りながら見てみましょう。ルカ福音書は主イエスのご生涯を、誕生から少年時代、30歳になられてからの宣教活動、地上の最後の1週間である受難週の出来事、そして十字架の死というように、人の一生を伝記のような形式で描いていますが、普通の伝記であれば、その人の死をもって本文は終わります。けれども、ルカ福音書はそうではありません。主イエスの死を伝える23章で終わるのではなく、いやむしろ、それに続く24章から、何か新しいことが始まるという予感を、新しい出来事がこれから起こるという予感を、この24章1節の書き出しから、わたしたちは覚えるのです。

 24章に何が書かれているかを知っているわたしたちは、結論を先取りしてこう言うことができるでしょう。ルカ福音書は、また他の3つの福音書もすべてそうなのですが、この24章を土台として書かれている、24章の出来事から出発してすべてが書かれているのだと。すなわち、「主イエスはこの墓の中にはおられない。復活なさったのだ」という、この事実から、このことを宣べ伝えることからキリスト教の信仰が始まったのであり、教会の歴史が始まったのであり、ルカ福音書が始まったのだと。

 誕生から始まり、死をもって終わる人間の生涯ではなく、死を超えて、死の墓を打ち破って、死に勝利する新しい命が、今主イエスと共に始まる、そのような偉大な一日が「週の初めの日の明け方早く」始まろうとしているのです。創世記1章に書かれているように、かつて天地創造の初めに、神が「光あれ」と言われると光があったように、神がご自身のみ子、主イエス・キリストによって完成される新しい創造のみわざが、救いのみわざが今始まろうとしているのです。

 旧約聖書と新約聖書の歴史から見ると、この1節冒頭の言葉はどういう意味を持つでしょうか。旧約聖書の民イスラエル・ユダヤ人は、週の最後の日、土曜日を安息日として守りました。しかし、新約聖書の民教会は、週の最初の日、主イエスが復活された日曜日を新しい安息日として、この日にすべての仕事を休み、神を礼拝する日としました。つまり、23章56節に書かれている安息日は、旧約聖書時代の最後の安息日であって、24章1節は新約聖書時代の最初の安息日の始まりを告げているのです。わたしたち教会の民は、きょうの復活日の主日だけでなく、毎週の主の日に、主イエス・キリストの復活を記念し、覚え、罪と死とに勝利された主イエス・キリストの福音を聞くために、教会の礼拝に集められているのです。人間の死では終わらない、新しい命、復活の命、罪と死とに勝利した永遠の命のみ言葉を聞くために、ここに集められているのです。

 この日の朝早くに、主イエスの墓を訪れた婦人たちは香料を携えていたと1節に書かれています。これは、主イエスの亡骸に塗るためのものです。亡くなった人の体に香油を塗ることは当時の習慣によれば死者に対する大切な務めでした。本来ならば、墓に納める前にすべきでしたが、主イエスが金曜日の午後3時過ぎに十字架上で息を引き取られてから、翌日の安息日が始まるまでに時間的余裕がなく、香油を塗ることができなかったので、婦人たちは愛し慕っていた主イエスのお体に香油を塗るという、やり残した最後の奉仕をするために、急いで、ほかのすべての用事に先立って、起きてすぐに、主イエスを納めている墓にやってきたのでした。

 ところが、2、3節にこのように書かれています。【2~3節】。彼女たちが起きるよりも前に、墓に到着するよりも前に、神がすでに新しいみわざを始めておられたのです。墓の入り口をふさいでいる石は、男の人が数人で動かせるほどの大きく重い石です。婦人たちはそれをどうやって動かすつもりだったのかと、わたしたちが心配するには及びません。彼女たちが墓に到着する以前にすでに石が墓の入り口から取り除かれていたからです。それよりも彼女たちを戸惑わせたことは、主イエスのお体が墓の中になかったことでした。4節には「そのため途方に暮れていた」と書かれています。死者のためにやり残した最後の奉仕をしようとやって来たのに、それができなくなって墓の前で途方に暮れている婦人たち、この婦人たちの姿は、死すべき者や朽ち果てるもののために生きているわたしたち人間たちの、生きる真の目標を失った姿を象徴しているように思われます。死者のための奉仕、死すべき者のための奉仕、朽ち果てるほかないこの世のもののための奉仕は、すべてこのように途方に暮れてしまうほかにありません。しかし、婦人たちは間もなく、死者のための奉仕者ではなく、罪と死に勝利されて復活された主イエスのために奉仕する者へと変えられていきます。わたしたちもまた、主イエス・キリストの復活の証人として生きる者となり、わたしの救い主である主イエス・キリストに奉仕する者として生きる者となる時にこそ、本当の意味で喜びと希望があり、確かな目標がある人生を生きることが出来るのです。

 空になった墓を見て途方に暮れていた婦人たちは、輝く衣を着た二人の人が語る言葉を聞きます。【「5~7節」】。この二人の人とは神からの使い、天使のことです。天におられる神が地に住む人間にお語りになるときに、聖書ではしばしばこのような天使の姿で現れます。ここで最も重要なことは、主イエスの復活は神のみ言葉によって告げられるということです。婦人たちが実際に見たのは、墓の入り口をふさいでいた大きな石が取り除かれていたことと、主イエスのお体が墓にはなく、墓が空になっていたことでした。主イエスのお体がどのようにして生き返ったのか、止まった心臓がどのようにして動き出したのかというようなことについては、聖書は全く語っていません。主イエスの復活に関して、人間の目で見て確認できる事柄については、どちらかというと、否定的な側面や消極的な証拠しか、聖書は提供してくれません。なぜならば、復活信仰とは、復活を告げる神のみ言葉を信じる信仰だからです。目で見えること、人間が確認できることは、復活ではなく、いわゆる蘇生です。蘇生は、いずれにしても朽ち果てるほかない肉体の生き返りに過ぎません。それは、やがて再び死を迎えるほかありません。

しかし、主イエスの復活はそうではありません。主イエスの復活は、肉から霊に変えられる復活であり、再び朽ち果てることがない霊の命への復活であり、罪と死と滅びとに完全に勝利した永遠の命への復活なのです。わたしたちはこの主イエスの復活を信じる信仰へと招かれています。ヨハネによる福音書20章29節で、「わたしを見たから信じたのか。見ないで信じる人は、幸いである」と主イエスが言われたとおりです。

それゆえに、主イエスの復活は神のみ言葉として語られ、聞かれ、信じられるほかにありません。無から有を呼びい出し、死から命を生み出される全能の父なる神のみ言葉として、わたしたちは主イエスの復活の福音を聞き、信じ、主イエスの復活の証人として立てられるのです。主イエスの墓を訪れ、空になった墓を見た婦人たちも、天使たちが告げる主イエスの復活の知らせを聞いて、信仰へと導かれました。

では、どのようにして彼女たちが復活信仰へと導かれたのかを見ていきましょう。5、6節の神のみ言葉は、まず否定的な内容から始まります。「なぜ、……ここにはおられない」と。婦人たちは亡くなった主イエスに奉仕するために墓にやってきました。彼女たちの歩みは墓に向かっていました。彼女たちの目は死者の方に向けられていました。ここにも、人間の姿が象徴的に描かれているように思われます。すべての人間の歩みは墓に向かっています。人はみな死すべき者です。その運命を変えることはだれにもできません。墓をふさいでいる重い石を取り除くことはだれにもできません。

ところが今や、墓の石が内側から取り除かれました。死者を閉じ込めておく墓が、空にされました。人間が生まれて最後には死ぬという順序が、今や主イエスによって逆転されたのです。墓から始まる命、死から始まる命が主イエスによって開かれました。墓と死に向けられていた婦人たちの目が、復活された主イエスへと向けられます。「主イエスはこの墓の中にはおられない。復活された」と告げられます。この神のみ言葉が彼女たちに復活信仰を生み出します。

さらに、神のみ言葉は7節の主イエスがなさった受難予告を思い出させます。ルカ福音書では9章22節、44節、18章33節の三度の主イエスの受難予告を伝えています。主イエスが十字架につけられる前に予告しておられた神のご計画が、今や成就したのです。主イエスは父なる神のみ心とご計画に従順に服従されることによって、わたしたち罪びとたちの罪の贖いのみわざを、救いのみわざを成就されました。主イエスの三度の受難予告で主イエスご自身が語っておられた十字架の死と三日目の復活がすべてそのとおりに成就したことを知って、彼女たちの復活信仰はより強められました。

9節に【9節】と書かれています。この婦人たちは、10節にその名前が紹介されていますが、ルカ福音書によれば最初の復活の証人となり、最初に主イエスの復活の福音を宣べ伝えた宣教者となった人たちです。彼女たちは死人のための奉仕者から復活された主イエスに仕える者へと変えられました。墓に向かう人生から、主イエスによって開かれた復活の命へと向かう人生へと変えられました。主イエス・キリストの復活の福音を聞かされているわたしたちにも、死を超えて復活の命へと向かう道が備えられているのです。

(祈り)

4月14日 説教「主イエスの十字架」

2019年4月14日(日) 秋田教会主日礼拝説教(受難週)

聖 書:イザヤ書53章1~13節

    ルカによる福音書23章32~43節

説教題:「主イエスの十字架」

 「十字架上の七つの言葉」と言われるものがあります。主イエスが十字架につけられたとき、息を引き取られる直前に十字架上でお語りになった言葉が、四つの福音書を合わせると合計で七つあります。マタイによる福音書とマルコ福音書は同じ言葉が一つ、ヨハネ福音書が三つ、そしてルカ福音書が三つです。きょう朗読された箇所の【「34節」】、【「43節」】、【「46節」】。きょうの受難週の礼拝では、この34節のみ言葉を中心にして、主イエスの十字架の意味について、ご一緒に聞いていきたいと思います。

 まず、主イエスの十字架上での七つの言葉がなぜ特別に重要なのかについて考えてみましょう。その理由の一つは、十字架上での七つの言葉が主イエスの地上のご生涯で最後に語られた言葉だからです。いわば、主イエスの遺言とも言うべき言葉だからです。しかも、十字架刑という、肉体的にも精神的にも、苦痛と屈辱との極限状態の中で、死の間際に最後の声を振り絞るかのようにして語られた言葉だからです。それゆえに、わたしたちは主イエスのそれらの言葉を、恐れおののきつつ、わたしの全存在を傾けて、わたしの命をかけて聞かなければなりません。

 もう一つの理由が考えられます。それは、主イエスが十字架上で語られた言葉が極めて少なく、また短く、それゆえに一つ一つの言葉に深く、重い意味が込められているからです。主イエスはこれまでにおよそ3年間の公の宣教活動をしてこられました。イスラエル全域の町々村々をめぐり、神の国の福音を説教してこられました。「今や、神の恵みのご支配が始まった、神の救いの時が近づいている、だから、罪を悔い改めて、神に立ち返りなさい、そうすれば、救いと新しい命が与えられる」と説教されました。福音書には、主イエスがお語りになった神の国の福音が数多く記されています。

 ところが、主イエスの裁判の時から十字架刑が執行される時までは、主イエスはほとんど口を開かれず、むしろ沈黙を守られました。イザヤ書に預言されている「苦難の僕(しもべ)」のように口を開かれませんでした。イザヤ書53章7節に次のように書かれています。「苦役を課せられ、かがみ込み、彼は口を開かなかった。屠り場にひかれる小羊のように、毛を切る者の前に物を言わない羊のように、彼は口を開かなかった」。主イエスがこの「苦難の僕」のように、父なる神への全き服従を貫かれた沈黙の中で、わずかに語られた十字架上での七つの言葉は、特別な光を放ってわたしたちに迫ってくるのです。

 では、その十字架上での七つの言葉の一つ、34節をもう一度読んでみましょう。【34節】。これは、七つの言葉の中で、時間的には最初のものではないかと推測されています。正確にその順序は分かっていませんが、34節がその最初、46節の「父よ、わたしの霊を御手に委ねます」が最後ではないかと考えられています。そうしますと、七つの言葉の最初と最後がルカ福音書に書かれていることになります。

 主イエスはここで、神を「父よ」と呼んでおられますが、これはイスラエルにおいては非常に珍しいことです。神に対して直接に「父よ」とか「わたしの父よ」と呼びかけることは、旧約聖書ではほとんど例がありません。というのも、イスラエルの民にとって神は、はるかに高い天におられる聖なる神であり、栄光と威厳に満ちた神であって、その神のみ前では人間はただ恐れおののくほかにない罪びとであって、神を親しく父よと呼ぶことは、その神の尊厳性を損なうことになり、神を冒涜することだと考えたからです。

 主イエスは初めて神を父、わが父と呼ばれました。言うまでもなく、主イエスにとっては、神はまさに、実際に、父であられます。神はわたしたち罪びとたちを罪から救うために、ご自身の独り子をこの世へとお遣わしになったのです。ヨハネ福音書3章16節に、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」と書かれているとおりです。主イエスこそが神をわが父とお呼びになることができる唯一のみ子であられ、最初の方なのです。

 それだけでなく、主イエスはわたしたちもまた神を父と呼ぶことができるようにしてくださいました。わたしたちは主イエスによって罪ゆるされ、神との親しい交わりの中に招き入れられ、神の子どもたちとされました。主イエスはわたしたちにこのように祈りなさいと教えてくださいました。「天にまします我らの父よ、み名が崇められますように。み国が来ますように。み心がなりますように」と。

 主イエスが十字架上で神を「父よ」と呼びかけられたことには、更に深い意味があります。主イエスはすべてのユダヤ人から見捨てられ、恥ずかしめとあざけりを受けて十字架につけられましたが、それでもなお、神を「父よ」と呼ぶことができるのだということ、「父よ」と呼びかけることができる神が主イエスと共におられるということ、そのことにわたしたちは気づかされます。12弟子たちからも見捨てられ、ただお一人で、肉体と精神の苦痛と渇きの中で死に行く時にも、なおも「父よ」と呼びかけることができる神が主イエスと共におられるのです。この呼びかけは、絶望と死の淵から立ち上がって、希望と命に生きることを可能にする呼びかけです。わたしたちが神を父として持ち続けるならば、わたしたちの絶望と死もまた、希望と命に変えられていくということを信じることができます。

 もう一つ別の角度から「父よ」という呼びかけを見ていきましょう。主イエスはここで、神を「父よ」と呼ぶことができないような、神との関係を断ち切られるような深い淵の底から、「父よ」と呼びかけています。マタイとマルコ福音書では、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」というもう一つの十字架上での言葉を記しています。主イエスは神のみ子であられたにもかかわらず、わたしたち罪びとたちと同じ側に立たれ、神の裁きを受けて、死すべき人間のお一人となられ、十字架上での苦悩と痛みとを経験しておられるのです。わたしたち罪びとたちが受けるべき神の裁きを、わたしたちに代わってお受けになられ、神の厳しい裁きを耐え忍ばれたのです。主イエスが父なる神に見捨てられようとする、まさにその時にこそ、神は父なる神として、主イエスの最も近くにおられ、主イエスと共におられたのだということを、わたしたちはここから知らされるのです。

 「彼らをお赦しください」の「彼ら」がだれを指すのかは、はっきりと特定できません。十字架刑を直接に執行しているのはローマの兵士たちですが、彼らを指しているのは確かでしょう。十字架の周りで「十字架につけよ」と叫んでいる群衆、あざ笑っているユダヤの役人たち、さらには主イエスの裁判にかかわったユダヤ人指導者たち、最終的に十字架刑を言い渡したローマの総督ピラト、また主イエスを見捨てて逃げ去った12弟子たち、それらのすべての人たちも、この「彼ら」から除外されることはないでしょう。いや、それのみか、自分では気づかないで神から離れ、罪の道を進んでいたわたしたちすべての人間たちが、この「彼ら」に含まれると言うべきでしょう。主イエスは、それらすべての人たちのために、今十字架の上で、彼らの罪のゆるしを祈っておられるのです。主イエスは罪なき神のみ子であられたにもかかわらず、わたしたちすべての罪びとたちの罪を代わってご自身に担われ、わたしたちに代わって神の裁きをお受けになり、大きな苦痛と苦悩の中で、ご自身を十字架につけている彼らすべての人たちのために、罪のゆるしを祈っておられるのです。これは何という大きな愛であり、偉大なゆるしであることでしょうか。この大きな十字架の愛とゆるしによって、わたしたちは罪ゆるされ、救われているのです。

 後の初代教会のキリスト教教理では、使徒パウロが彼の書簡で繰り返して語っているように、主イエスの十字架の福音を信じる信仰によって、すべての人は神のみ前で義と認められ、罪ゆるされ、救われるというのがキリスト教信仰の中心ですが、そのキリスト教理が形成される以前に、主イエスご自身の口から直接に語られた十字架上での言葉そのものに、わたしたちの罪のゆるしと救いの源泉があるのです。

 「自分で何をしているのか知らないのです」とは、だから責任がない、その行為がゆるされるという意味ではありません。自分では何をしているのか分からないままに、彼らは神がこの世にお遣わしになられたメシア・キリスト・救い主を十字架につけているのです。その罪を主イエスは告白しておられるのです。実は、自分では何をしているのかわからないというのが、人間の罪の実体なのです。自分では罪に気づいていない、自分はだれかを故意に傷つけたり、損害を与えてはいない、自分では神のみ心に背いていない、自分もまた主イエスの十字架にかかわっていることに気づいていない、いやむしろ自分は正しい人間だ、まじめな人間だ、間違ったことはしていない、だから自分には主イエスの十字架は無関係だと思っていること、それが人間の罪なのです。

 罪を言い表す旧約聖書のヘブル語「ハッター」も新約聖書のギリシャ語「ハマルテア」も、いずれも本来は的を外すという意味があります。弓を一生懸命に引いて矢を放つ、しかし、その矢は的に向けられていない、的から外れた方向を向いている、それゆえに、力を込めれば込めるほどに、矢は的から遠くに飛んでいく、それが人間の罪の現実だということを聖書は語っています。わたしたち人間はみな生まれながらにして罪に傾いており、神から遠く離れている罪びとなのです。主イエスは、わたしたちの隠れ潜んでいた罪をゆるすために、今十字架上で祈っておられます。「父よ、彼らをお赦しください」と。主イエスの十字架によって罪ゆるされる時に、わたしたちは初めて自分の罪に気づかされます。

 最後に、きょうの十字架の場面でルカ福音書が繰り返して語っていることに注目したいと思います。【「35節」】。【「37節」】。【「39節」】。けれども、主イエスはそれらの要求には全くお答えにならずに、むしろその要求を否定されるかのように、ご自身が全く無力になられ、貧しくなられ、低くなられて、神のみ子としての栄光をも誉れをも、威厳をも力をも、それらのすべてを投げ捨てられて、ご自身の尊い命とすべてを、わたしたちの救いのために、十字架にささげ尽されたのです。

フィリピの信徒への手紙2章6節以下にはこのように書かれています。【6~11節】(363ページ)。ここにこそ、わたしたちの本当の救いがあります。全人類のための永遠の救いがあります。

 それゆえにこそ、主イエスの十字架の福音によって罪ゆるされ、救われ、新しい命に生かされているわたしたちもまた、主イエスのために、またわたしの隣人のために、自らをささげて生きていくことが命じられ、またそれが可能とされているのです。

(祈り)