10月13日(日)説教「神のかたちに似せて創造された人間」

2019年10月13日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:創世記1章26~31節

   エフェソの信徒への手紙4章17~24節

説教題:「神のかたちに似せて創造された人間」

 神は天地創造の第6日目に、すべての被造物の最後として人間を創造されました。神は人間が生きるために必要な舞台をすべて整えてから、人間を被造世界の頂点として、全被造物の冠として、創造されました。そこには、人間に対する神の深い愛と特別な配慮があるように思われます。そして、このことの中に、わたしたちがきょうの礼拝で学ぼうとしている神の像、すなわち、人間が神のお姿に似せて創造されたというキリスト教教理の中心的な意味が含まれています。

 創世記1章26~27節にこのように書かれています。【26~27節】。このみ言葉から、キリスト教会は「神の像」という教理を形成しました。ラテン語では「イマゴ・デイ」と言います。「神の像、イマゴ・デイ」の教理は、神の創造に関する教理である創造論の中での重要な教えであるだけでなく、人間の罪に関する教えである堕罪論、あるいは、人間の救いに関する教え、救済論とも深く関連しています。それらとの関連を考えながら、神の像、人間が神のお姿に似せて創造されたとはどういうことなのかをご一緒に学んでいきましょう。

 まず、27節に「創造された」という言葉が3回続けて用いられていることに注目しましょう。以前にも1章1節で学びましたように、「創造する」、ヘブライ語で「バーラー」という言葉は、神が主語のときにしか用いられない特別な用語であり、これは、神がみ言葉をお語りになることによって、その創造的な力強い命のみ言葉によって、無から有を呼び出だすようにして、死から命を生み出すようにして創造されることを強調しています。これは、神だけがなさる、なすことがお出来になる、特別な創造のみわざのことです。人間やこの世のものには限界があり、不可能があります。けれども、神にはできないことは一つもありません。神のみ言葉には不可能はありません。神がお語りになるとそのようになり、神がなさることはすべて完全です。神は全能であり、永遠であり、完全です。わたしたちはそのような神のみ言葉を信じるようにと招かれているのです。

 その特別な用語である創造するという言葉が、1章1節の後しばらく保留されていたのですが、この日、第6日目の人間創造の日に、3回も続けて用いられるということから、わたしたちはここからも人間創造に対する神の特別なみ心を読み取ることができます。第6日目の人間創造によって、神の創造のみわざは最終目的に達したと言えます。

 次に、26、27節に、「かたどり」と「似せて」という言葉が用いられています。しかも、「かたどって」が3回も続けて用いられています。非常に強調されています。人間だけが、他の被造物ではなくてただ人間だけが、神にかたどって、神に似せて創造されたということが何重にも強調されているのです。ここでもまた、人間創造に対する神の特別なみ心が言い表されているのです。では、その神の像とは何か。それを探っていきましょう。

 「かたどって」と「似せて」は、元のヘブライ語でも違った言葉ですが、両者の意味の違いがあるのかどうかについては、意見が分かれます。わたくしは違いはないと考えてよいと思いますが、ローマ・カトリック教会では違うと考えます。そして、そのことが人間の罪と救いの教理にも微妙に影響してきます。神のみ言葉に背いて罪を犯した人間は、神の像をどの程度失ったのか、またそれをどのようにして回復するのかという議論が展開されます。このことについては、後ほど触れることにします。

 では、神の像とは具体的に何か。どのような点で、人間は神に似ているのか。そこに神のどのようなみ心があるのか? 2千年のキリスト教会の歴史の中で、またそれ以前のユダヤ教、イスラエル宗教の中で、多くの学者が、さまざまな角度から、この問いに対する答えを見いだそうと研究を重ねてきました。ある学者が数えたところによれば、その答えは二百数十にものぼると言います。皆さんも是非考えてみてください。わたしたち人間が他の生き物とは違って、ただ人間だけが神のかたちに似せて創造されている、その人間だけに備えられている神のかたちとは何か?

 その答えは大きく二つの種類に分類できます。一つは、外見上の姿、形、あるいは目に見えるかたちでの人間の能力において神に似ている点。二つには、精神的、抽象的な意味での類似点。前者の代表的な答えのいくつかを紹介してみましょう。ある人は、人間が二本の足で立って歩く、二足歩行の姿が神に似ていると考えました。あるいは、頭があり、手と足が二本あり、目、耳、鼻、それらの体の機能をうまく使いながら細かい運動や作業をする能力があること、道具を器用に活用できる能力、あるいはまた、複雑な言語で互いに情報を交信したり、高度な文化や技術、科学を発達させる能力があることを挙げる人もいます。

 けれども、それらの外見上の類似点は、確かに人間にだけ与えられている優れた能力であることは認められるとしても、それが神のかたちであると言うには決定的な説得力に欠けると言わざるを得ません。なぜなら、そもそも聖書で証しされている神は、人間の目に見られる何らかの形を持っておられる神ではなく、また、モーセの十戒の第二戒で、神の存在を刻んだ像で表現してはならないと命じられているからです。神ご自身の外形は人間にはわからないのですから、神と人間の外見上の類似点は比較されようがありません。

 二つ目の精神的、抽象的な類似点で第一に挙げられるのは、人間には理性や悟性が備わっているということです。他の生き物はすべて本能のままに行動するのに対して、人間は本能を理性でコントロールし、自分と周囲とを総合的に判断して行動することができる、この点において人間は神に似ていると考えます。あるいは、だれかを、何かを愛する、同情する、悲しみや喜びを表現する、感情や心を持っている、等々。そういったことも、他の生き物にはない、人間独自の優れた点であると言えるかもしれません。しかし、まだ決定的な答えであるとの確証はありません。

 近年の神学者は、今まで挙げたような哲学的、動物学的なアプローチではなく、聖書のみ言葉そのものから理解しようとしています。28節に、【28節】と書かれています。ここから、人間が他の被造物、宇宙や自然界、生き物を治め、統治する務めを神から委託されていることに注目して、神が人間をも含めたすべての被造物を治めておられ、それらの主権者であられるように、人間はこの地上にあって、天の神からその統治権を委託されている、それが神のかたちであると理解することができます。詩編8編の詩人もそのようにとらえていたと推測できます。【4~9節】(840ページ)。人間は地上での神の代理者として、神が創造されたこの世界を神のみ心に適って治めるという尊い使命、課題を与えられているのです。それによって、人間は天地万物を創造された神の栄光をこの世界で具体的にあらわし、証ししていく務めを果たすのです。

 もう一つの近年の神学者の理解を紹介します。それは、27節のみ言葉そのものの中に答えを見いだすことができると考えます。つまり、神のかたちに、神に似せて創造されたとは、すなわち、男と女とに創造されたことであると理解します。神は人間を男だけではなく、また女だけでもなく、男と女という、一対の人間として創造された、それが神のかたちであるという理解です。神ご自身、孤独な存在ではなく、父なる神、子なる神、聖霊なる神として、三位一体なる神として、ご自身の中で豊かな交わりを持っておられるように、人間もまた一人の個としての人間ではなく、互いに交わりを持ち、共に生きる人間として、連帯的人間として創造されている。しかも、男と女という違った性質をもった人間が、その違いを保有しつつ、その違いを認め合いつつ、尊重し合いながら共に生きる連帯的人間として生きる。そこに、神のかたち、神の像があるとその神学者は言います。この理解にわたしたちは最も共感できます。

 以上、神の像とはなにかという問いに対する答えをいくつか紹介してきました。それらのいずれもが、人間がいかに神の大きな愛と深いご配慮によって、他のすべての生き物よりもはるかに勝る者として創造されているかを強調し、表現しようとしていることが分かります。人間はサルや犬と同じものとして創造されたのではありません。空の鳥や野の花と同じものとして創造されたのでもありません。主イエスご自身が福音書の山上の説教で教えられたように、それらのすべてよりもはるかに価値あるものとして創造されているのです。それらよりもはるかに大きな神の愛と恵みとを与えられているのです。実に、神のみ子の十字架の尊い血によって贖い取られた人間たちなのです。わたしたちはそのことを知らされ、そのことを神に感謝し、ただ神の義と神の真理とを求めて生きるように、神が他のすべての必要を満たしてくださることを信じ、神の国の到来を信じて生きるようにと招かれているのです。

 では最後に、神の像の教理を人間の罪、堕罪論、また人間の救い、救済論との関連で少し考えてみたいと思います。ローマ・カトリック教会は、26節の「神にかたどって」と「神に似せて」とを区別して理解します。前者は、人間に生まれながらに与えられている特別なもの、それが他の生き物と人間とを区別しているのですが、たとえば理性とか、知性とかであり、これは罪によっても人間から失われていない。後者は、神との霊的な交わりを可能にするものであり、またそれによって形造られる神に似た姿のこと、これは罪によって失われたが、神を信じて洗礼を受けることにより回復されると教えています。

 そこから、人間が救われるためには主イエス・キリストの福音を信じることと同時に、人間の良きわざもまた必要であると教えます。罪によっても神の像の一部は失われていないと理解することによって、どこかに人間の可能性を残そうとする意図が感じられます。

 それに対して、宗教改革者は両者を区別せず、罪によって神の像は完全に失われてしまったと考えました。人類全体が、また一人の人間全体が、全的に堕落していると理解しました。それゆえに、人間の中には救いのかけらもなく、ただ神の恵みによってのみ、主イエス・キリストの十字架の福音を信じる信仰によってのみ救われるという、福音信仰を確立したのです。人間に少しの可能性を残すことによってではなく、主イエス・キリストの福音にすべての救いの恵みがあるとすることによってこそ、確かで完全な救いがあると、宗教改革は教えました。わたしたちの教会はその信仰を受け継いでいます。

 新約聖書では、罪によって神の像を完全に失ってしまった人間は、まことの神の像であられる主イエス・キリストによって、神に似たものとされると教えられています。コリントの信徒への手紙二4章4節では、キリストは神の似姿であるとあり、またコロサイの信徒への手紙1章15節でも、み子は見えない神の姿であると書かれています。神の像はみ子主イエス・キリストにこそ最も鮮やかに現わされました。わたしたちは主イエス・キリストを救い主と信じる信仰によって、主イエスのお姿に似たもの(ローマの信徒への手紙8章29節)とされていき、エフェソの信徒への手紙4章24節で教えられているように、「神にかたどって造られた新しい人」に再創造さていくのです。

 ここにおいてこそ、人間が神の像に似せて創造されたことの神のみ心と意図がはっきりしたように思われます。すなわち、わたしたちが神を礼拝し、神のみ言葉を信じ、主イエス・キリストの福音によって救われているという福音を聞いて信じることがゆるされている、これこそが人間に与えられている神の像であり、最も尊い神の賜物というべきです。

(祈り)

10月6日説教 「マリアとエリサベトの出会い」

2019年10月6日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:イザヤ書40章1~11節

    ルカによる福音書1章39~45節

説教題:「マリアとエリサベトの出会い」

 ルカによる福音書1章39節以下には、マリアとエリサベトの出会いの場面が描かれています。36節によれば、二人は親類関係にありました。それ以上に二人を結びつけ、接近させているものがあります。それは、二人とも、神の奇跡によって母になろうとしていることです。神からの特別の恵みによって、やがて母になろうとしている二人の婦人、年老いたエリサベトと若いおとめマリアが、ここで出会っているのです。いや、それだけではありません。一人の人間と一人の人間とが出会っているというだけではなく、ここではもっと別の何かが、目には見えないけれど、何か特別なものが、特別なことが出会っているのです。

 キリスト教美術の中で、何人かの画家によって、この二人の出会いの場面が非常に感動的に描かれているのを、わたしたちは見ることができます。世界史の中では、歴史を大きく変えた偉大な出会いというものもありました。それらと比較すれば、マリアとエリサベトの出会いは、世界史を直接に動かす力など全くない、ごく小さな、目立たない出会いであるように思われます。そうであるのに、それらの画家たちはこの二人の婦人たちの出会いを、輝かしい光の中で、非常に感動的に描いています。この二人の婦人たちの出会いの中に、何が隠されているのでしょうか。わたしたちはそれをきょうの聖書のみ言葉から聞き取っていきたいと思います。

 【39~40節】。「このころ」とは、26節の「六か月目に」と関連しています。つまり、洗礼者ヨハネの父となる年老いた祭司ザカリアが、「あなたは男の子を生む。その名をヨハネと名づけなさい」という神の約束のみ言葉を聞き、妻エリサベトが身ごもってから6か月目に、今度はガリラヤ地方のナザレの町に住むおとめマリアが、「あなたは男の子を生む。その名をイエスと名づけなさい」という神の約束のみ言葉を聞いて、その胎内に新しい命を宿し始めた、そのころにということです。

 「マリアは出かけて、急いで」とは、マリアの堅い決断と即座に行動したことを言い表しています。彼女はなぜにこれほどまでに急いでいるのでしょうか。それは、神がお示しくださるしるしを見るためです。【36~37節】。マリアは神の約束のみ言葉を直ちに信じることができませんでした。34節でマリアはこのように言います。【34節】。神の奇跡はだれにとっても信じることが困難です。けれども、信じることができなかったマリアに、神はしるしをお与えくださいます。マリアの信仰を助けてくださいます。それゆえに、マリアはしるしを見るために急ぐのです。自分に語られた神の約束のみ言葉を信じることができるために、「お言葉どおり、この身に成るように」(38節参照)、この信仰への道を彼女は急いでいるのです。

 祭司ザカリアの住まいはエルサレム郊外の山里にありました。エルサレム神殿での務めがあるときには、そこから出かけていきます。マリアが住むガリラヤのナザレからエルサレムまでは、直線距離で100キロメートル余り、ヨルダン川の東側を迂回して通る通常の道のりだとどんなに急いでも4、5日はかかるでしょう。マリアにとっては大変な道のりです。けれども、マリアは少しもためらわずに、すぐに決断して立ち上がり、大急ぎで目的地へと向かいます。神が彼女をそこへとお招きになるからです。そこに、彼女が見るべきもう一つの神の奇跡があるからです。そしてそのしるしを見て、彼女に語られた神の約束のみ言葉が確かであることを信じるために、彼女の身に今起こっている奇跡が確かであることを確認するために、彼女は急ぐのです。

 マリアはザカリアの家に入ってエリサベトにあいさつします。彼女たちの出会いとあいさつは、単に親類同士が久しぶりに顔を合わせたというのではなく、神によって導かれている出会い、神によって固く結びつけられている二人の出会いであり、あいさつです。そのとき、全く不思議なことが起こりました。41節以下を読んでみましょう。【41~45節】。ここで起こっている不思議なこと、母になろうとしている二人の婦人の感動的な出会い、いや、それだけではありません。二人の胎内に宿っている二つの新しい命の不思議な、感動的な、驚くべき出会い。ここでは何が起こっているのでしょうか。その意味を更に探っていきましょう。

 この二人の婦人の出会いの意味を、ルカによる福音書がこれまでに記してきた物語全体の中で考えてみましょう。わたしたちはこれまで二人の子どもの誕生予告について聞いてきました。5~25節では、洗礼者ヨハネの誕生予告が、そして26~38節では、主イエスの誕生予告が語られていました。この二つの誕生予告が、きょうの39節以下に記されているマリアとエリサベトの、二人の母となるべき婦人の出会いによって、ここで一つに結び合わされているということに、わたしたちは気づかされるのです。

 この二つの誕生予告は、一つは、エルサレム郊外に住む、長い間子どもが与えられなかった年老いた夫婦、ザカリアとエリサベトに与えられた約束であり、もう一つは、ガリラヤのナザレに住む、まだ一緒になっていない婚約者、ヨセフとマリアに与えられた約束であって、エリサベトとマリアが親戚関係にあったということのほかには、何一つ結びつきがない、二つの別々の誕生予告と思われていたのですが、その二つの誕生予告が今ここでマリアとエリサベトが出会うということによって、いやそれのみか、二人の胎内に宿っている新しい二つの命の感動的な、不思議な出会いをすることによって、一つに結合されているのです。二つの誕生予告が一つの神の救いのみわざであるということが、二人の母となろうとしている婦人の出会いによって、目に見える形で明らかにされたているのです。すなわち、神がわたしたち全人類を罪と死と滅びから救い出すためにこの世にお遣わしになるメシア・キリスト・救い主のために道を備える先駆者となる洗礼者ヨハネの誕生予告と、その先駆者によって整えられた道を通ってこの世においでになり、神の永遠の救いのみわざを成就されるメシア・キリスト・救い主なる主イエスの誕生予告とが、今ここで一つに結ばれ、神の一つの救いのみわざがこのようにして開始されたということを告げ知らせているのです。二人の母となるべく選ばれたマリアとエリサベトは、共にこの神の救いのみわざのために用いられ、仕えているのです。そのことこそが、この二人の婦人を固く結びつけているのであり、ここでの美しく、感動的な出会いを経験させているのです。

 この特別な出会いの意味を更に探ってみましょう。ここで出会っている二人の婦人、マリアとエリサベトは共に神の奇跡によって母になろうとしているということに注目しましょう。ここでは、神の特別な恵みをいただいて、神の奇跡によって、胎内に子どもを宿している二人の婦人が出会っています。あるいは、こう言ってもよいでしょう。ここでは、神の恵みと神の恵みとが出会っている、神の奇跡と神の奇跡とが出会っているのだと。

 人間と人間との出会い、美しく、感動的な出会いは、このようにして起こるのです。共に神の恵みと祝福とを受けている者同士の出会い、共に神の奇跡を体験している者同士の出会い、共に神の救いのみわざのために仕えている者同士の出会い、そして、共に神の約束のみ言葉の成就を信じ、待ち望んでいる者同士の出会い、ここにこそ、人間として最も感動的で、真実な出会いがあるのです。

 そのような出会いは、わたしたちの礼拝においてこそ実現しているのだということを、まず覚えたいと思います。わたしたちは主の日ごとにこの世から選び出され、礼拝に集められ、礼拝の民の中に加えられます。共に神の選びと招きとを受け、神の恵みを与えられ、神の憐れみによって罪ゆるされた者としてここに集まっています。共に神のみ言葉を聞き、讃美歌を歌い、祈りをささげています。共に一つの主の食卓を囲み、聖霊なる神の交わりの中に一つとされています。礼拝でのこのような交わり、出会いこそが、わたしたちの真実な出会いの原点なのです。この礼拝で神と出会うこと、わたしたちの唯一の救い主であられる主イエス・キリストと出会うこと、そして共に神の救いの恵みに招き入れられている兄弟姉妹として交わり、出会うこと、これがわたしたちの真実の出会いの原点であり、中心なのです。

 マリアとエリサベトの出会いの更に大きな、最も重要な意味は、ここでは、神の奇跡によって母になろうとしている二人の婦人が出会っているだけでなく、二人の胎内に宿っている主イエスと洗礼者ヨハネとが出会っているということです。その不思議な出会いについて41節でこのように語られています。【41節a】。これは何という不思議な、驚くべき出会いでしょうか。

 このときにはエリサベトの胎内の子どもは6カ月になっていますから、胎動が感じられる、おなかの中の赤ちゃんが動くということは、わたしたちもよく知っています。けれども、今ここで起こっておることは、一般的な胎動ではもちろんありません。マリアのあいさつの声をエリサベトが聞いたときに、エリサベトの胎内の子どもにまでその声が届いたということのようです。いやもっと的確に言うとすれば、ここではマリアの胎内の子どもとエリサベトの胎内の子どもが出会っているのです。メシア・キリスト・救い主であられる主イエスと、メシアのために道を整える先駆者である洗礼者ヨハネとが出会っているのだと言うべきです。これが、マリアとエリサベトの出会いの中心的な意味です。

 洗礼者ヨハネは、神が旧約聖書の民イスラエルに約束された全世界のメシア・キリスト・救い主の到来を、最も近くで預言し、その救い主のために道を備える先駆者です。主イエスは旧約聖書の約束の成就そのものであられ、長く待ち望まれていたメシア・キリスト・救い主であられます。そのヨハネと主イエスとがここでは出会っているのです。あるいはこう言ってもよいでしょう。ここでは、預言と成就とが出会っているのだと。旧約聖書と新約聖書とが出会っているのだと。そして、待降節・アドヴェントと降誕日・クリスマスが出会っているのだと。エリサベトの胎内でその子が喜び踊ったのは、このような偉大な神の救いのみわざが起こっているからなのです。

 エリサベトは聖霊に満たされてマリアを祝福する言葉を語ります。エリサベトはマリアよりもずっと年上ですが、彼女は最大級の言葉でマリアをほめたたえています。けれども、ここからローマ・カトリック教会がマリアを特別視して、聖母マリアとして崇拝したり、マリアに関するさまざまな根拠のない教理を創り出していったことについては、宗教改革以来、わたしたちプロテスタント教会は異議を唱えざるを得ません。マリアがどんな理由からほめたたえられているのかを正しく読み取らなければなりません。

 それは42節にはっきりと書かれているように、マリアが女性の中で祝福された方であるのは、マリア自身の何らかの特質や能力によるのでは全くなく、それはひとえにマリアの胎の実が、すなわち主イエスが祝福されたお方であるからにほかなりません。また。45節に書かれているように、マリアが幸いな人であるのは、マリア自身に何らかの優れた点があったからでは全くなく、それはひとえに、マリアが神のみ言葉を信じ、従順に従ったからにほかなりません。重要なことは、神が約束のみ言葉をマリアに語ってくださり、神がそのみ言葉を確かに成就されたということにあるのです。

 「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」。このみ言葉は、きょうの礼拝に招かれているわたしたち一人ひとりにも語られています。わたしたちが本当に幸いな人となり、幸いな人生を歩むことができるのは、主なる神のみ言葉を聞き、その成就を信じつつ、主イエスが再び来たりたもう日を待ち望むことによってです。

(祈り)

9月29日(日)説教「主キリストにある生と死」

2019年9月29日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:イザヤ書40章1~11節

    フィリピの信徒への手紙1章19~26節

説教題:「主キリストにある生と死」

 パウロの「獄中書簡」また「喜びの書簡」と言われるフィリピの信徒への手紙を続けて学んでいますが、1章18節に「喜ぶ」という言葉が2度用いられています。この二つの「喜ぶ」という動詞は日本語の翻訳でははっきりしませんが、文法的に言えば、前の喜ぶは現在形で、今喜んでいるという意味で、後の方は未来形で、これからもずっと喜び続けるであろうという意味です。4節で最初に出てきた「喜び」は名詞形ですが、「いつも喜びをもって祈っている」と言われています。

これらの3つの「喜ぶ、喜び」の言葉の用い方からも推測できるように、パウロがこの手紙で語っている喜びは、わたしたちが日常で感じる喜びとは何か違う、特別な喜びであるように思われます。パウロの喜びは、いつでも、どのようなときでも、変わることのない喜びであり、今がどのように困難であれ、これからどんな困難が予想されるとしても、それでもなおも決して変わらない喜びなのです。つまり、パウロの周囲を取り巻いている現実やパウロ自身の現実には全く左右されない喜びなのです。その喜びは、わたしたちがすでに聞いてきたように、この地上でわたしたちが経験したり見たり聞いたりしている喜びではなく、天から、天の父なる神から与えられる喜びなのであり、したがってその喜びは、地上のいかなるものによっても変化したり消えたりすることがない永遠の喜びなのです。

そのようなパウロの特別な喜びを、きょうの礼拝で朗読された19節以下のみ言葉からも、わたしたちは聞くことができます。18節の前の方の今喜んでいることの内容は、18節までに書かれていたことを指し、後の方のこれからも喜ぶであろうと言われていることの内容は19節以下で書かれていることを指すと考えられます。

そのような理解から、ある翻訳では、18節の最後の文章「これからも喜びます」、直訳すると「それだけでなく、わたしは喜ぶであろう」となりますが、ここから新しい段落にしているものがあります。ちなみに、今日の聖書につけられている章や節の区分、段落などは、最終的には宗教改革時代に定着しましたが、元来のヘブライ語とギリシャ語の原典にはそれらはありませんでした。日本語訳の口語訳聖書でも新共同訳聖書でも18節のところに段落はつけていませんが、英語やその他の翻訳では、「それだけでなく、わたしは喜ぶであろう。というのは……」から新しい段落が始まるようにしているものがいくつかあります。

では、前の方の、今喜んでいることの内容を、前回学んだ箇所ですが、それをもう一度確認しておきましょう。一つは、パウロが迫害を受けて捕らえられ、公の裁判が開かれることになり、パウロが証言台に立つことによって、その町の役人たちや市民たちの多くが、主キリストの福音について聞く機会が与えられた、そのことをパウロは喜んでいるというのです。第二には、パウロが獄に拘束されるようになったために、他の伝道者の中には、自分たちの伝道の機会と範囲がより広げられるチャンスだと考え、パウロに対する競争心をより強くしている人もいるが、パウロはそのことをも喜ぶと言います。いずれの場合も、パウロ自身にとっては、とても喜びであるはずのないことが、しかしそれにもかかわらず、主キリストの福音の前進になっているのだから、わたしは喜んでいる、とパウロは言うのです。パウロの喜びは、彼自身が今経験している迫害、束縛、苦難、恐れ、不安、彼に対する妬みや敵対心、それらのすべてを超えて、それらのすべてを貫いて、彼を喜びで満たしています。それが、天の神から与えられている主イエス・キリストの福音からくる喜びなのです。

次に、後の方の「それだけでなく、わたしは喜ぶであろう」の内容は、19節の「というのは」以下によって説明されています。ここには、これから将来にわたってもパウロが喜び続けることの理由が書かれています。その理由は、「このことがわたしの救いになる」からです。このこととは、パウロの投獄が予想に反して福音の前進になったということ、それがパウロ自身の救いになるからだというのです。パウロの投獄と福音の前進、それが彼自身の救いになることとはどのように結びつくのでしょうか。

そのことを考えるうえで重要なポイントは、「あなたがたの祈り」です。フィリピ教会は獄中のパウロのために熱心に祈り、また支援の物資を送り届けるために教会員のエパフロディトを派遣しました。パウロもまたフィリピ教会のためにいつも祈っていることが4節と9節に書かれていました。パウロとフィリピ教会とは祈りによって固く結ばれています。そこには聖霊なる神が働くからです。キリスト者の祈りには聖霊なる神が執り成してくださり、祈りの霊と祈りの言葉とを授け、祈りが確かに聞かれるという確信をお与えくださり、さらには祈りによる交わりを与え、時と場所を超えて祈る群れを一つに結びつけてくださいます。獄中にあるパウロとフィリピの町にある教会とが祈りによって一つに結び合わされ、それによってフィリピ教会はパウロの福音宣教の働きに具体的に参加しているのです。福音宣教によって迫害され、獄につながれ、この世の悪しき勢力と信仰の戦いをしているパウロの戦いに、フィリピ教会も共に祈りによって参戦しているのです。ある人は、「祈りは、使徒パウロと教会との共同戦線である」と言っています。パウロは30節でこのように言います。【30節】。

そして、そのことこそが、パウロ自身の救いになるのだと彼は言うのです。この世の悪しき力や迫害や試練によっても、主キリストの福音は決して後退せず、神の言葉はこの世のいかなる鎖によっても決してつながれず、それゆえに主キリストの教会もまた迫害や試練を乗り越えて前進していく希望が与えられている。そのことを、パウロとフィリピ教会との祈りによる共同の戦いによって証ししている。それによって、獄中のパウロの信仰はいよいよ強められ、救いの確信が与えられている。多くの教会とキリスト者にとっても、福音の前進のときとなり、福音宣教の機会となる。だから、わたしはこれからもずっと喜び続けるのだとパウロの言うのです。たとえ、この後の判決で死刑を言い渡されることになろうとも、わたしはそれを喜ぶであろうとパウロの言うのです。

【20節】。「恥をかかず」とは、神のみ前でという意味です。主キリストの僕として、証し人として、その務めを果たし得ないで、神からの恥を受け、神に裁かれ、見捨てられることが決してないようにというのが、パウロの切なる願いだというのです。もし、神のみ前で恥を受けるのならば、この世でどれほどの誉れを受けても、それが何になるでしょうか。しかしもし、人間から受ける恥を恐れて主の証し人であることをためらうならば、神からの恥を受けなければならないでしょう。わたしたちが神からの恥を受けないことを願うならば、すなわちどのようなときにも神のみ言葉の証人として語り続けるならば、人間のどのような辱めの中でも、固く立って倒れることなく、喜び続けることができるでしょう。

さらに20節の後半では、より積極的に自分の生と死、生きることと死ぬこととを通して、主キリストが崇められることこそがわたしの唯一の願いであり、希望であると言います。パウロは今生と死の瀬戸際にいます。どんな人間にとっても、生きるか死ぬかという分岐点に立たされるということは、重大で深刻な事態であることは言うまでもありません。ある人は生きることをすべてに優先させて考えます。そして、自分が生きるために、かなりのことをすることができます。人はまたある時には、生きることよりも死ぬことに意味を見いだすこともあります。彼にとって死はおそらくは何の価値もないに違いないのに、それでも生きるよりは死ぬ方がまだましだと思えるから、彼は生きることを捨てて死ぬことを選びます。かつて、生と死とを真剣に考えた劇中の人物は「生きるべきか、それとも死ぬべきか、それが問題だ」と叫びました。

しかしながら、パウロにとっての生か死かは、彼自身のための選択なのではありません。彼自身の価値判断とか、彼自身の願いとか、彼自身の利益のための選択なのではありません。彼の生と死によって主キリストが崇められること、そのことだけがパウロの切なる願いであり希望なのです。パウロの生死は、もはやここでは重要ではありません。主キリストが崇められるということの中では、彼の生死の問題はどちらでも構わない小さなことになっています。パウロが死の判決を受けて死ぬことになろうとも、あるいは無罪放免になってさらに宣教活動を続けることになろうとも、そのどちらであっても、彼にとってはどちらでも構わない。そこで主キリストのみ名が崇められ、主キリストの福音が前進すること、それがパウロにとっての最大の関心事であり、目指すべき目標なのです。

人がもし自分の名誉を守ることとか自分の正義のためとかを第一に考えている場合には、彼の生死を天秤にかけて、どちらを選ぶべきか迷うでしょう。しかし、パウロにとっては、彼の生死の二つを一緒にしても、それよりもさらに重いものがあると告白しています。それが主キリストです。パウロの生死がそれよりもはるかに大きく重い主キリストの中に包み込まれていることを、彼は知っています。だから、パウロは生きることからも死ぬことからも自由にされています。生きることへの執着からくる人間の欲望から、生きるつらさや苦しみからも、そして死の恐怖からも、生きることに絶望して死を選ぶ誘惑からも、自由にされています。主キリストにある信仰者の生と死は、人間を本当の意味で自由にするのです。

ただし、主キリストにある生と死は、どちらも意味がないから、どちらでも構わないということではありません。その逆であって、人が主キリストにあって生きることと死ぬことから自由にされたときには、その両方が共に、それまでとは違った、より積極的で大きな意味をもってくるようになります。

【21~26節】。パウロはここで生と死の二つの道のどちらを選ぶべきか迷っています。しかしそれは、どちらが自分にとって好ましいか好ましくないかということを問題にしているのではなく、またどちらも意味がないからというのでもなく、そのどちらもが有益であり、望ましい道だからです。パウロのこの迷いは、生と死のはざまに立たされている人の不安や恐れや思い煩いによる迷いではなく、喜びながらの、主キリストにある信仰者の迷いです。このような両方が共に望ましい二つの道の板挟みや迷いならば、わたしたちもぜひとも経験したいものです。

パウロは23節で、わずかに彼自身の願いを言います。彼にとっての死は、最後の終わりでも敗北でもなく、主キリストと永遠に共にいることであり、その方を望んでいると言います。たとえ獄中で殉教の死を迎えることになっても、それは彼にとって少しも恐怖ではなく、むしろ望ましいと言います。死は彼を支配していません。死は主キリストの復活によって勝利に飲み込まれてしまったからです。主キリストによって死のとげは抜かれてしまったからです。主キリストにある死は、勝利への入り口だからです。

でも、24節以下でパウロは肉のうちにとどまり、生きながらえることもまた、あなたがたのためにはもっと必要だとも言います。24節以下では、「あなたがた」という言葉が繰り返されています。パウロが自分のためにこの道を選ぶのではありません。わたしのための生ではなく、わたしのために生きるのではなく、あなたがたのために生きる生、命がここにあるのです。

主キリストにある死を信じる信仰者には、そして死の恐れや不安から解放されている人には、新しい積極的な生の道が開かれます。「生きているのはもはやわたしではない。主キリストがわたしのうちに生きておられる」(ガラテヤの信徒への手紙2章20節参照)という生があります。主キリストがわたしたちのためにお生まれになり、わたしたちのために生きられ、わたしたちのために十字架で死なれ、そしてわたしたちのために復活されたゆえに、わたしはこのよみがえられた主キリストのために生き、主キリストによって生かされている他者のために生きるという、新しい生を与えられているのです。

(祈り)

9月22日(日)説教「第七日の安息」

2019年9月22日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:創世記2章1~3節

    マタイによる福音書12章9~14節

説教題:「第七日の安息」

 神の天地創造のみわざは、第六日目の人間創造を最後に、完了しました。1章31節にこう書かれています。【31節】。これまでにも、一日の創造のみわざの終わりに、「神はこれを見て、良しとされた」と繰り返されてきましたが、ここでは「見よ、極めて良かった」と言われています。「見よ」とは、注意をうながしたり強調したりするときに用いられる言葉です。「極めて」も強調していますから、二重に強調されていることになります。

 神が創造されたすべてのものは、第一日目の光から第六日目の人間に至るまで、そのすべてが神のみ心に適い、神の良き創造のみわざであり、しかも創られたもの全体としても、構造や秩序、調和、互いの関係、あらゆる点において完璧であり、美しく、何一つとして欠点なく、不足もなく、汚れや歪み、悪もなく、「極めて良かった」と聖書は語っています。

 聖書がそのことを強調する理由は何でしょうか。また、わたしたちがそのことを信じる意義はどこにあるのでしょうか。それは、3章で人間の堕落、罪について語っている箇所でより明らかになるのですが、ここでいくつかのことを挙げておきましょう。第一に重要な点は、神は全能の神であられ、全く善であり完全であり、神には汚れとか悪とか欠点や不足というものが全くないということをわたしたちが信じるためです。したがって、神の創造のみわざはもちろん、神がなさるすべてのみわざは良きものであり、少しの欠点も不足もないということを、わたしたちが信じるためです。

 第二には、しかしながら現実にわたしたちが見たり経験したりしている現実世界では、さまざまな混乱や破れ、悪や罪があふれているとするならば、それは神以外のところから出てきたのであり、まさに人間の罪に起因しているのだということをわたしたちが知り、認め、その罪を神のみ前に告白して、悔い改め、神のゆるしを願い求める者となるためです。

 第三には、すべての被造物の頭として創造され、神のかたちに似せて創造された人間が、神から託された他の被造物を治める務めを忠実に果たすためです。この被造世界、自然、地球、宇宙全体の混乱や破壊、破れに対して、責任を自覚しつつ、神が創造された良き世界を回復するために、世界の平和を創り出し、社会秩序を正しく維持し、自然環境を守るという務めを果たすことがわたしたち人間に求められています。

 そして第四に、神が創造された良き世界を、神は終わりの日に必ずや完成させてくださることを信じ、神の国を待ち望む信仰を持ち続けるためです。「神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ、それは極めて良かった」。

 2章1節からは、第七日目について語られます。【1~3節】。ここでまず確認しておくべきことは、第七日目にも神が主語となられ、ただ神だけが行動されるということです。2節に「神は」「神は」と2度繰り返され、3節でも「神は」「神は」とあり、すべて神が主語の文章です。被造物である人間も他の生き物も、ここではまだ全く姿を現していません。何の活動もしていません。これまでの六日間にも、すべて神が主語となって、神がみ言葉をお語りになってすべてのものを創造されましたが、この第七日目にも、神が主語となられ、神が創られたすべてのものを支配しておられます。このことは、このあとで安息日について考える際に重要な意味を持ってきます。

 もう一つここで確認しておくべきことは、神の創造のみわざは第七日目で完成されるということです。1節に「完成された」とあり、2節でも「神はご自分の仕事を完成された」と書かれています。神の創造のみわざは、第七日目に神が創造のみわざを終えて休まれたことによって、またこの日を祝福され、聖別されたことによって、完成されたのです。つまり、6日間にわたって創造されたものがすべてそろって、そこに存在していたとしても、それで終わりではなく、まだ完成ではなく、神が第七日目に創造のわざを終えて休息され、その日を神の特別な日として祝福され、聖別されることによって、そのようにして初めて神の創造のみわざは完成されるのだということです。このこともまた、わたしたちが安息日の意味を考える際に深い意味を持ってきます。

 さらにもう一つのことを確認しておきたいと思います。それは、神の創造のみわざは完成したということです。1節と2節に2度「完成された」と繰り返されているように、神の創造のみわざは未完成ではなく、途中で終わったのでもなく、神がご計画なさったように、その最終目的に達したということです。神の創造のみわざは他の何かによって補われなければならないのではありません。神の創造のみわざが未熟なために、この世界に欠けや不足や歪みがあるのでもありません。1章31節でも言われていたように、神の創造のみわざは第一日目の光から始まって第六日目の人間に至るまで、すべてが神のみ心に適い、神のご栄光を現すものとして完成されているのです。

 以上3つの点をあらかじめ確認したうえで、第七日目の中心的な意味について学んでいきましょう。神は第七日目に、すべての創造のわざを終えて休まれました。2節でも3節でも「安息された」と翻訳されているように、この言葉は単に疲れたから休むとか、仕事を終えて息抜きをするという意味ではありません。わたしたちがあらかじめ確認してきたように、神はこの日、第七日目に安息されることによって、ご自身の創造のみわざを完成されたのです。ある意味では、神はこの第七日目にこそ、最も力強くみわざをなさるのです。そのみわざは「祝福する」と「聖別する」です。

 「祝福する」という言葉は1章22節と28節にもありました。22節では、空と地と海の生き物たちの命の繁殖に対して神の祝福が与えられていました。28節では、人間の命が増え広がることに対して、神の祝福が与えられていました。いずれも、神から与えられた命が満ち溢れることが神の祝福です。そこには神の特別な喜びがあり、愛があり、神から与えられた力があり、満ち足りた平安があります。神によって創造された命は、この第七日目の安息日に、神の祝福を与えられて最終的に完成するのです。命あるものは、この神の祝福なしにはその命を長らえることはできませんし、命を次の世代に受け継ぐこともできません。安息日はこの神の祝福が特別に満ち溢れる日です。

 のちの時代に、イスラエルの民は家の長男が家督権とともにこの神の祝福を受け継ぐと考えました。族長アブラハムの祝福がその子イサクに受け継がれ、イサクの祝福がその子ヤコブに受け継がれ、ヤコブの祝福がイスラエルの民へと受け継がれていきました。そして、イスラエルの民の中からお生まれになった主イエス・キリストによって、今日のすべての教会の民へと神の祝福は受け継がれています。わたしたちは安息日ごとの礼拝でその祝福を受け取るのです。

 安息日の神のみわざのもう一つは「聖別する」です。聖別とは、他のものから区別して、神にささげられるために、神のために取り分けることを言います。この第七日目は、神のための日であり、神に属する日であり、神にささげられる日だということです。この第七日目の聖別によって、それまでに創造されたすべての被造物が、いま改めて神に属するもの、神にささげられたものとされました。すべての被造物は神のために存在し、すべての命は神のために生きるのです。これによって、神の創造のみわざは最終的に完成しました。

 のちの時代、紀元前13世紀ころ、エジプトの奴隷の家から神によって導き出されたイスラエルの民はシナイ山で神と契約を結び、神の民とされたとき、神はこの第七日目をイスラエルの安息日と定められました。出エジプト記20章8節以下に記されている十戒の第三戒で、神はこのように命じられました。【8~11節】(126ページ)。10節には「主の安息日であるから」と言われています。安息日はイスラエルの民のために定められたのですが、本来は主なる神の安息日であるということがここでも忘れられていません。主なる神がこの日に主語となられ、主なる神がこの日に創造のみわざを完成され、主なる神がこの日を祝福され、聖別されるのです。主なる神がこの日に造られたすべての被造物をみ手に治め、ご支配され、命をお与えになるのです。契約の民イスラエルはこの神の安息へと招かれています。

 今日のわたしたちにとっての安息日も同様です。旧約の民イスラエルにとっての安息日は第七日目、土曜日でしたが、新しい契約の民、教会にとっての安息日は、主イエス・キリストが週の初めの日の日曜日に墓から復活されたことを記念して日曜日が新しい安息日となりましたが、この日が神ご自身の安息日であり、神のための日であり、神にささげられるべき日であるという意味はそのまま受け継がれています。日曜日はわたしたち人間が自由に用いてよい人間のための安息日なのではありません。週日に働いて、日曜日に疲れた体を休めるとか、自分の自由な時間として用いるということではありません。そこには造り主なる神はおられません。そこには祝福はありません。まことの命はありません。

 安息日は何よりの第一に主なる神のための安息日です。主なる神が安息日に人間をも含めたすべての被造物の主となられるのです。マタイによる福音書12章8節で、主イエスは「人の子は安息日の主である」と言われました。そして、続く9節以下では、主イエスは安息日の主として、病める人をいやされ、罪びとたちの罪をゆるされました。主イエスは安息日にこそわたしたち人間のために働かれます。人の子としてこの世においでになった神のみ子、主イエス・キリストこそが、安息日の主として、この日に礼拝に集められているわたしたち一人一人のために、救いのみわざと新しい創造のみわざをなしてくださいます。神の創造のみ心に背き、罪の中で死と滅びとに支配されていたわたしたちを、ご自身の汚れのない聖なる十字架の血によって罪から贖い、新しい復活の命を注ぎ込んでくださる主イエス・キリストが、わたしたちにとっての安息日の主です。

 初代教会は、十字架につけられた主イエスが週の初めの日、日曜日の朝に復活され、弟子たちに復活のお姿を現され、また次の日曜日にも弟子たちに現れてくださったという経験から、旧約聖書時代の安息日であった土曜日から日曜日に安息日を変更し、この日に礼拝をささげるようになりました。復活され、罪と死とに勝利された主イエスは、今もみ言葉と聖霊とによってわたしたちの安息日の礼拝で、わたしたちに出会ってくださいます。

 主の日ごとの安息日の礼拝は、さらに、終わりの日の永遠の安息日を目指しています。終わりの日には、わたしたちは何の妨げもなく、主なる神と永遠に共にいることがゆるされます。もはや、死もなく、悲しみも痛みも叫びもない新しい天と地とが創造されます。そのとき、永遠の安息がわたしたちに与えられるのです。

(祈り)

9月15日(日)説教「主イエス誕生の予告」

2019年9月15日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:サムエル記下7章8~17節

    ルカによる福音書1章26~38節

説教題:「主イエス誕生の予告」

 ルカによる福音書は洗礼者ヨハネの誕生と救い主、主イエスの誕生とを互いに関連づけながら語っています。きょうもそのことに注目しながら、30節以下のみ言葉を学んでいきたいと思います。【30~31節】。これは、ザカリアに告げられた洗礼者ヨハネの誕生予告の13節に対応しています。【13節】。いずれも、神の奇跡によって、神の大きな恵みによって、子どもが与えられるはずがない二人の婦人から、男の子が生まれると予告され、またその子の名前があらかじめ告げられます。

 当時の習慣によれば、生まれて8日目に、男子であれば割礼の儀式を行い、父親が名前を付けます。ところが、この二人の場合にはそうではありません。生まれる前に神によってすでにその名前が決められているのです。親は、この子が将来このような人間に成長してほしいという願いを込めて子どもに名をつけます。それと同じように、否それ以上に、ここには名づけ親であられる主なる神の強い意志と深いみ心が示されているのです。イエスという名は、「神は救いである」という意味です。神は、ご自身がイエス「神は救いである」と名づけられたご自身の独り子によって、実際に全人類を、わたしたちすべての人間を、罪と死と滅びから救い出されるというみわざを成就し、完成してくださるのです。わたしたちがこの救い主、主イエスのお名前を信じ告白するならば、この主こそがわたしの唯一の、永遠の救い主であると信じ告白するならば、わたしたち一人ひとりにも神の強い意志と深いみ心が働き、神の救いのみわざがわたしにとって現実となり、成就するのです。

 32、33節では、主イエスがどのような方であるのかが語られています。【32~33節】。この個所も15~17節と対応しています。洗礼者ヨハネの場合には、彼の先駆者としての役割、すなわち彼の後に来られるメシア・救い主のために道を整え、人々を救い主を迎えるために準備させるという役割でしたが、主イエスの場合は、彼こそが神のみ子であり、神の救いのご計画を成就し、完成されるということが強調されています。

 「いと高き方」とは神のことです。つまり、主イエスが神のみ子であると言われています。洗礼者ヨハネは「神のみ前に偉大な人」となると15節にありましたが、主イエスは神のみ子です。ヨハネは最も近くで来るべきメシアを預言し、証ししているゆえに人間の中で最も偉大な人ですが、彼は人間です。メシア・救い主ではありません。ヨハネはただひたすらに来るべきメシア・救い主を証し、このメシアのためにお仕えすることによって、彼に神から託された尊い務めを果たすことができるのです。彼はのちに、3章16節でこのように告白しています。【3章15~16節】(106ページ)。

 主イエスは神のみ子であり、神の独り子であり、その務めは、父ダビデの王座を受け継ぎ、その王国を永遠に支配するであろうと言われています。これは、主イエスこそが旧約聖書全体が預言しているメシア・救い主であり、イスラエルの民が待ち望んでいた永遠なる神の国の王であるということです。地上の王国を支配する王は、どれほどに偉大であっても、永遠であることはできません。地上の王国には終わりがあります。けれども、神の国の王である主イエスのご支配は永遠に続きます。主イエスは罪と死とに勝利する王だからです。復活して永遠の命に生きておられる王だからです。主イエスは永遠なる神の国で、神の民のために愛と救いの恵みとをもってお仕えくださり、またその民を治められます。地上の王たちは権力や武力によって民を治め、支配し、民によって仕えられることを喜びとします。けれども、神の国の王であられる主イエスは、民のためにお仕えくださることを喜びとされ、民のためにご自身の命を十字架におささげくださるほどに、ご自身の民を愛される王です。権力や武力によって支配する王国はやがて倒れます。けれども、愛によって互いに仕え合う王国は豊かに祝福され、永遠に続きます。主イエスはこのような永遠なる神の国を完成される王としてこの世においでになったのです。

 「神は彼に父ダビデの王座をくださる」と書かれているのは、いわゆる「ダビデ契約」の成就です。サムエル記下7章12~13節を読んでみましょう。【12~13節】(旧約聖書490ページ)。これが預言者ナタンによって語られた「ダビデ契約」と言われる神の契約です。旧約聖書の民イスラエルはこの神の約束を信じて、やがてダビデ王家から永遠の王であるメシア・油注がれた王・キリストが出現することを待ち望んでいました。今や、その約束の成就のときが来たのです。

 主イエスがダビデ王家に連なるダビデの子孫であるということは、母親のマリアの側から確認することはできません。36節によれば、マリアは洗礼者ヨハネの父である祭司ザカリアの妻エリサベトと親類関係にあったと書かれていますので、もしかしたらマリアも祭司家系に属していたということが考えられますが、ダビデの家系だとは言われていません。主イエスの父ヨセフは27節でダビデ家に属すると書かれていますし、3章23節以下の系図でもそうなっています。また、マタイ福音書1章の系図でもヨセフはダビデの家系に連なっています。主イエスは父ヨセフによってダビデ家に連なっているということは確認できますが、しかし、ヨセフは主イエスの誕生には人間として全く関与していませんから、つまり主イエスはマリアがまだヨセフと一緒になる前に、聖霊によって主イエスを身ごもったのですから、厳密に言えば、人間的な血縁関係としてはダビデの家系に連なっているとは言えないことになります。

 そうであるとしても、主イエスはヨセフとマリアの子としてお生まれになったと聖書は告白しています。ローマの信徒への手紙1章3節で、「御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ」とパウロは書いています。神はこのようにして、ご自身の永遠の救いのみわざを、人間の思いや肉のつながりをはるかに超えて、しかもそれをお用いになって、不思議な仕方で、実現されたのです。

 神の救いのみわざの不思議さは、ダビデ契約の実現の過程にも見ることができます。神がダビデ王とこの契約を結ばれたのは紀元前10世紀の前半、主イエス誕生のおよそ1000年前でした。しかも、ダビデ王家は紀元前587年のエルサレム滅亡で完全に途絶えてしまいました。神は切り倒され、ほとんど死にかけていたダビデの木の切り株から、奇跡によって、新しい芽を生え出させるようにして、その契約を成就されました。主イエスの誕生には、いくつもの神の奇跡が重なっています。

 では次に、主イエス誕生の中での最も大きな奇跡である「おとめマリアからの誕生」についてみていきましょう。わたしたちが礼拝で告白している『使徒信条』では、「主は聖霊によって宿り、処女(おとめ)マリアから生まれ」と告白していますが、この告白は主にルカ福音書のきょうの個所とマタイ福音書1章18節以下のみ言葉に基づいています。【ルカ福音書1章34~35節】。【マタイ福音書1章18節】(1ページ)。

いわゆる「処女降誕」という告白は主イエスの十字架の福音と密接に結びついているということを見落としてはなりません。「処女降誕」という奇跡だけを十字架の福音から切り離して取り上げても正しい理解を得ることはできません。その両者の関連を考えてみましょう。

 マリアは婚約していたヨセフと一緒になる前に聖霊によって身ごもり、神の奇跡によって、神のみ子主イエスを生むであろうと35節に予告されています。そして次の36節では、マリアの親類エリサベトも神の奇跡によってすでに身重になり、6カ月になっていると言われています。この二つの神の奇跡による子どもの誕生は、旧約聖書に記されている神の奇跡による子どもの誕生、年老いたアブラハムとサラの子イサクの誕生や、イサクの子ヤコブの誕生、あるいは預言者サムエルの誕生と共通しています。それらの子どもの誕生は、人間的には子どもが授かる可能性が全くないときに、ただ神からの一方的な憐れみと恵みによって、無から有を呼び出だし、死から命を生み出す神の奇跡のみ力による誕生でした。主イエスの誕生は、それらのイサク、ヤコブ、サムエル、そして洗礼者ヨハネという一連の神の奇跡による子どもの誕生の、いわば頂点にあるのです。

 しかも、イサクからヨハネに至る子どもの誕生は、人間の営みが全くなかったわけではありませんが、主イエスの誕生の場合には、マリアもヨセフも人間的なかかわりが全くなく、いわば100パーセント神の奇跡なのです。マリアは34節で、そのような神の奇跡に驚きをもって答えています。「どうして、そのようなことがあり得ましょうか。わたしは男の人を知りませんのに」。そこには人間の関与は一切ありません。これは神の奇跡の中の奇跡です。神は命を生み出す可能性が全くないところに、新しい命を創造し、しかも最も尊く、光輝き、すべての命の源となる命を、創造されるのです。

 このような奇跡によって誕生した人は、その命の源をすべて神に由来しているゆえに、その人の生涯全体も神のものであり、神にささげられます。これが奇跡による誕生の意味であり、目的です。その人の命は神の恵みによって与えられたのですから、その人は与えられた命を神に感謝して、神に仕える生涯を歩む者となるのです。主イエスのご生涯は、この点においても、アブラハムの子イサクから洗礼者ヨハネに至るまでの奇跡によって誕生した人たちの頂点に立っています。主イエスはそのご生涯を父なる神にお仕えし、最後にはその尊い命そのものを、わたしたち罪びとの罪をあがなうための供え物として、与え主であられる父なる神におささげになりました。

 「処女(おとめ)マリアから生まれた」という信仰告白のもう一つの重要なポイントは、主イエスは、人間の営みが一切なく、聖霊なる神のみ力によって誕生された聖なる神のみ子であるということです。この点においては、洗礼者ヨハネやイサクとは全く違っています。彼らは神の奇跡によって誕生し、生涯神に仕えましたが、しかし彼らは罪びとたちの一人でした、。生涯を神にささげ、神の救いのみわざのために仕えましたが、自らは罪びとであり、他の人を罪から救う力をもってはいませんでした。

 しかし、主イエスは聖霊なる神のみ力によって誕生された神のみ子です。聖なる、罪なき方です。わたしたち人間のすべての弱さや貧しさを知っておられ、ご自身もすべての試練や苦難を経験され、わたしたち罪びとの一人となられましたが、罪なき神のみ子として、それらのすべてに勝利されました。そのような聖なる神のみ子だけが、わたしたち人間の罪を贖い、罪から救うことができます。

 最後に、主イエス誕生の予告を聞かされたマリアの反応についてみてみましょう。【38節】。マリアにとってこの奇跡は信じがたいことでした。あり得ないことでした。しかし、そうであるにもかかわらず、マリアは神のみ言葉を信じます。ただ信仰によって、神のみ前にひれ伏し、神のみ言葉の成就を待ち望む者となりました。ここに、マリアの祝福された道があります。神の約束のみ言葉を聞きつつ、その成就に向かって進み行くマリアの幸いな信仰の歩みがあります。

(祈り)

2019年9月8日(日) 秋田教会主日礼拝説教 説教題:「福音の前進のために」

2019年9月8日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:申命記26章5~11節

    フィリピの信徒への手紙1章12~18節

説教題:「福音の前進のために」

 フィリピの信徒への手紙はパウロの獄中書簡の一つです。そのことが、きょう朗読された箇所で明らかになります。【12~14節】。パウロは今主キリストのために監禁されています。「キリストのため」とは、主イエス・キリストの福音を宣べ伝えたために迫害を受けてという意味です。主イエス・キリストが全世界の唯一の救い主であり、だれでも主イエスの十字架の福音を信じるならば、罪ゆるされ、救われ、神の国の民とされるという十字架の福音を宣べ伝えために、パウロは捕らえられ、獄につながれています。

パウロを訴えた人たち、迫害している人たちがだれであるのかは、この手紙からははっきりしませんが、使徒言行録やパウロの他の手紙から推測すれば、二つの勢力が考えられます。一つには、ユダヤ教の指導者たちです。ユダヤ教では、罪びとである人間が救われるのは、神の律法に従い、律法の一つ一つを守り、神の要求に応えることによってであると教えます。けれども、パウロが語る主キリストの福音はこうです。「だれも律法をその一つをも完全に守ることはできない。ただ主キリストの十字架の福音を信じるなら、その信仰によってすべての人は救われる。なぜならば、主キリストが罪びとたちに代わって神の律法のすべてを完全に成就されたから。それによって、信じる人をすべての罪から解放してくださったから」。このパウロが語る主キリストの福音は、ユダヤ教からみれば律法を軽んじ、神を冒涜するものだと考えられました。それが、パウロが、また初代教会がユダヤ人から迫害を受けた理由でした。主イエスご自身も同じ理由からユダヤ人指導者たちによって十字架へと引き渡されました。

もう一つは、ローマ帝国の指導者たちです。パウロが宣べ伝えている新しい宗教は、ローマ皇帝の権威を傷つけるもの、国家に反逆するものだと考えられました。「ローマ皇帝カイザルだけが全世界の主であり、すべての民はこの主のもとにひれ伏さなければならない。けれども、キリスト教はカイザル以外に主がいると教えている。国家の秩序を乱す新しい宗教は禁止されねばならない」。それがもう一つのキリスト教迫害の理由でした。パウロの時代以後、紀元1世紀の終わりからは、ローマ帝国による国家的な迫害が初代教会を大いに苦しめるようになりました。

ところで、パウロがどこの町で監禁されていたのかについても、確かなことはわかっていません。13節に「兵営全体」と書かれていますが、この兵営という言葉は、ローマの都にある皇帝の親衛隊の兵舎を指す場合も、あるいは地方都市にある総督の官邸を指す場合もあり、パウロの監禁場所がローマであるのか、エフェソかカイサリアか、特定できません。

いずれにしても、パウロはここから「わたしの身に起こったこと」を語りだします。パウロは自分が今どのような状態にあるのかをフィリピ教会のみんなに知ってもらいたいと願っています。というのは、フィリピ教会が獄中のパウロを心配して教会員のエパフロディトを派遣し、支援物資などの贈り物を届けてくれたので、それに対するお礼とともに、パウロの今の様子をフィリピ教会に伝える必要があると考えたからです。エパフロディトの派遣と贈り物については2章19節以下と4章10節以下に詳しく書かれています。

パウロはここで自分の身に起こったことを語っているのですが、しかしその内容は、パウロ自身のことというよりは、彼が宣べ伝えている主キリストの福音のことです。彼は主キリストの福音を宣べ伝えたために捕らえられ、獄につながれ、裁判を受けています。しかし、そのような彼自身の境遇のことを語ろうとしているのではなく、そのことが主キリストの福音の前進となったということ、そのことをこそパウロはフィリピ教会のみんなに知ってもらいたいのだと語っているのです。

12節の「かえって」という言葉の内容について考えてみたいと思います。パウロが当初予想していたこと、つまり、自分が獄に捕らえられることによって、福音を語る機会が失われるのではないか、福音の停滞になるのではないかという彼自身の不安や恐れに反して、しかし実際にはそのことが彼の予想に反して福音の前進となったという意味に理解できます。二つには、フィリピ教会の人たちがパウロのことを心配し、投獄されたことによって彼自身の気力や体力が低下したり、彼の福音宣教の働きが妨害されることになるのではないかという不安に反して、あるいは、一般的に、迫害を受けて獄につながれれば、だれであってもそのように思うであろうという予想に反して、「かえって」パウロの投獄が福音の前進となったとパウロは言うのです。

どうしてそのようなことが起こったのでしょうか。13~14節にその理由が書かれています。3つにまとめましょう。第一には、パウロが監禁されているのは主キリストのためであるということがローマ帝国の兵営に勤務するローマの官憲たち全員に知れ渡るようになったからです。彼らはローマ皇帝を主と崇め、ローマ皇帝に仕えている人たちです。しかしながら、今自分たちの管理下にあるこの男、パウロという人物は、ローマ皇帝以外にキリストと言われる方が全世界の主であると主張し、そのキリストのために自らの命を懸けて証しているではないか。彼らは今までに聞いたことがない、予想したこともない新しい教えに驚かざるを得ません。

第二には、兵営の外にいるこの町の人々も、パウロの裁判の席に連なり、パウロがなぜ捕らえられ、裁判を受けているのかを知ることとなったということです。エルサレムで十字架につけられ処刑された主キリストが、三日目に復活し、すべての人たちの罪の贖いとなってくださった、すべて信じる人たちに新しい永遠の命を約束していてくださるということを、この町の人々もパウロの裁判と証言によって聞くことができたのでした。

第三には、パウロが捕らえられている町の周辺に建てられている教会やその他の信仰の仲間たちが、パウロが法廷で力強く証している様子を知り、またそれによって主キリストの福音がローマ帝国の至る所で語られている事実を見て、主キリストの福音の力、広がり、豊かさを実感するようになった。そして、落胆したり、沈黙したりすることなく、以前よりももっと大胆に、勇敢に福音を語るようになったというのです。

神がなさる救いのみわざは人間の予想をくつがえし、それをはるかに超えて進みます。主キリストの福音は人間と世界のあらゆる妨害や抵抗にもかかわらず、前進していきます。神の言葉は決してつながれてはいません。

次に、15節からはもう一つの福音の前進のことが語られます。【15~18節】。この個所は前の14節と関連しています。14節で「兄弟たちの中で多くの者」と言われていたのは、「善意でキリストを宣べ伝える者」(15節)、また「愛の動機からそうする者」(16節)のことであり、数としてはその方が多いのですが、そうでない者たちもいくらかはいた。その人たちは「妬みと争いから」(15節)、「自分の利益を求めて、獄中のパウロを苦しめようという不純な動機からキリストを宣べ伝えている者たち」(17節)である。しかし、たとえそうであっても、いずれの場合にも主キリストの福音が宣べ伝えられているのであるから、わたしはそれを喜んでいる、とパウロは語っています。パウロはここで、人間たちの不純な、悪意に満ちた行動からでも、主キリストの福音はなおも力強く前進していくのだという事実を見ています。

初代教会においては、使徒パウロが福音宣教の中心的な働き人でしたが、パウロとそのグループ以外にも、エルサレム教会の指導者であった12弟子のひとりペトロや雄弁な説教家として知られていたアポロといった伝道者たちが各地を巡り歩いて福音宣教のために仕えていました。その中の一部のグループはパウロに対抗意識を持ち、自分たちの伝道の範囲を拡張しようとする熱意のあまり、ときにはパウロを敵対視したりしていたのではないかと推測されます。彼らにとっては、パウロが獄に捕らえられたことは、自分たちの勢力を広げる良い機会と考えていたようです。

そのことは、獄に捕らわれているパウロにとっては、心を痛めることであり、彼の苦しみをより大きくすることであることは言うまでもありません。同じ伝道者として、パウロに同情したり、獄中のパウロを何らかの形で支援したりすることが求められているのにもかかわらず、彼らの福音宣教の動機は妬みや争いであり、不純で悪意すら感じられます。

けれどもパウロはそのことに対して腹を立てたり、怒ったりしてはいません。彼自身の個人的な感情によってそのことをとらえてはいません。パウロはひたすらに主キリストの福音そのものに目を向けています。主キリストの福音そのものの力、その中にある命、それが持っている豊かさを信じています。そして、悪意や嫉妬から福音を宣べ伝えている人たちがいるとしても、そこで主キリストの福音が宣べ伝えられているという事実にこそ注目するのです。

もちろん、パウロは偽りの福音が語られたり、福音の真理がゆがめられる場合には、決してこれに妥協することはありませんでした。厳しくその誤りを指摘します。たとえば、この手紙の中では、【3章2節】、また【18~19節】。パウロは他の手紙の中でも、繰り返して、偽りの福音との激しい戦いをしています。

けれども、この場合には、不純な動機からであっても、あるいはそこにパウロに対する嫉妬心や競争心、または敵対心があったとしても、パウロは「それが何であろう」と言います。パウロはそのような個人的な感情に捕らわれて、彼らを批判したり、その働きをやめさせようとはしません。いや、むしろ喜んでいるのです。自分に向けられている悪意や敵意をすらも主キリストの福音のゆえに受け入れ、そのことが福音の前進になっていることを喜ぶのです。ある人はこういいます。「主キリストはその使者たち、仕え人たちよりも偉大である」と。また「主キリストの福音はその宣教者たちを超えて、みずからが圧倒的な力を発揮する真理である」と。

わたしたちもまたそのことを信じるべきであり、信じてよいのです。わたしたちが主キリストの福音のために仕えるとき、神はわたしたちの小さな奉仕をも、あるいは時として欠けや破れの多い働きをも、豊かにお用いくださいます。そのことを信じて、どんな困難や険しい道があろうとも、主キリストの福音の力と豊かさを信じ、パウロと共に喜んで福音宣教のためにお仕えしていきましょう。

(祈り)

9月1日(日)説教「人間の創造」

2019年9月1日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:創世記1章26~31節

    コロサイの信徒への手紙1章9~20節

説教題:「人間の創造」

 神の天地創造の第6日目は、創世記1章24節から始まっています。この第6日目の前半では、地の生き物たち、すなわち「家畜、這うもの、地の獣」が創造されました。そして、まだこの日の神のみわざがすべて終わっていないのに、このあとに人間の創造がさらに続くはずであるのに、25節には、これまで一日の終わりに書かれていた「神はこれを見て良しとされた」というみ言葉がすでに書かれています。あたかも、この日の前半の地の生き物の創造によって、これまでの創造のみわざが一段落したかのように、「神はこれを見て良しとされた」と書かれている理由は、前回にも少し触れましたように、これによって最後の人間創造の準備がすべて整った、人間がこの世界に登場するにふさわしい舞台がすべて整ったということを強調しているのです。神の天地万物の創造は、最後の人間創造を目指していたのであり、それによって完成するのだということを聖書は語っているのです。

 26節に「神は言われた」と書かれています。すでに、第6日目の初めである24節に「神は言われた」と書かれていました。また、同じ第6日目に、28節でも「神は彼らを祝福して言われた」、29節でも「神は言われた」と繰り返されています。第6日目には、実に4度も「神は言われた」と書かれているのです。神はこの第6日目にこそ、最も多くのみ言葉をお語りになられます。何度も語ること、多くの言葉を語ることは、特別な感情のあらわれです。神はこの第6日目に、人間が創造されるこの日に、特別の関心を、情熱を、愛を傾けておられ、最も力を込めて、最も多く、最も重要な創造のみわざをなさるのです。

 そのことは、27節に「創造する」という言葉が3度用いられていることからも確認できます。【27節】。「創造する」という言葉は1章1節にありました。【1節】。そこでもお話ししましたように、聖書原典のヘブライ語「バーラー」という言葉は神が主語の時にしか用いられません。人間が何かを造るとか何かをなすという場合には、別のヘブライ語が用いられます。「バーラー」は神の特別な創造のみわざを言い表すための専門用語だと言えます。では、それがどのような意味を持つのかをいくつかのポイントにまとめてみますと、第一には、神はみ言葉を語ることによって、何もないところに、み言葉のままに、神のみ旨とご計画によって、あるものを存在せしめ、あることを起こさせ、あることをなされる、それは神のみ言葉のままに、何一つ欠陥なく、完全に、それを完成される、それが神の創造のみわざだということです。別の言葉で言うならば、無からの創造、無から有を呼び出だし、混沌から秩序を生み出し、闇から光を生み出すみわざであると言ってよいでしょう。

 第二には、無から有を呼び出すだけでなく、死から命を生み出す創造のみわざだということです。神のみ言葉は造られたものたちに命を与えます。生きる意味と喜びを与え、生きる目的と豊かな実りを与えます。神の創造のみわざは、繰り返し襲ってくる死の力と戦い、死に勝利し、絶えず新しい命を注ぎ込むのです。

 第三に、バーラーで言い表される神の創造のみわざは、終わりの日、神の国の完成を目指しているということです。神の創造のみわざは何一つ途中で未完のままで終わるものはありません。神は創造された被造物をそのまま放っておかれません。造られたすべてのものは神の永遠の救いのご計画の中に、神の摂理とご配慮の中に置かれ、終わりの日の完成を約束されているのです。

 これが、ヘブライ語のバーラーの意味する内容です。その言葉が、この第6日目の人間の創造の個所で連続して3回も用いられているのです。以上のことが、特別に人間の創造にあてはめられているということなのです。

 ここでわたしたちは、創世記が語っている人間創造について、最も重要な点二つをまとめておきたいと思います。一つには、人間はすべての被造物の頭として、冠として創造されたということです。第1日目の光の創造から、第2、第3、そして第6日目前半の地の生き物たちの創造に至るまでの神の創造のみわざは、最後の人間の創造を目指していたのだということ、人間の創造によって神の天地創造のみわざが完成するのだということです。ここには、多くの神のみ心とご計画、そして神の大きな愛が込められているということを、わたしたちは聖書の中から読み取ることができますが、きょうは主イエスの二つのみ言葉を思い起こしましょう。

 一つは、主イエスが山上の説教の中で教えられていることです。主イエスは弟子たちに「空の鳥をご覧なさい。野の花をご覧なさい」と言われました。「種をまくことも刈り入れもしないのに、神は空の鳥たちを養っていてくださるではないか。働きも紡ぎもしない野の花たちを神はあんなにも美しく装っていてくださるではないか。ましてや、神の特別なご配慮と大きな愛によって創造されたあなたがた人間に、神は必要なものを備えてくださらないことなどあり得ようか。だから、何を食べようか、何を着ようかと思い煩うな。まず、神の国と神の義とを求めなさい」と主イエスは教えられました(マタイ福音書6章25節以下参照)。

 また、主イエスはこうも言われました。「わたしについて来たいと者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか」(マタイ福音書16章24~26節)。神が特別な愛とご配慮とをもって創造された人間の存在と命は、全世界のすべてのものよりも重たく、尊いのです。聖書は天地創造のみ言葉によって、わたしたちにそのことを教えるのです。

 二つには、実はこの方が第一に来るべきなのですが、人間は神によって創造された者であるということです。ここにも、多くの意味と内容が含まれます。人間が神によって創造された被造物であるということによって、聖書がわたしたちに語ろうとしている第一のことは、人間は神ではないし、神にはなり得ない、神以上のものではないということです。この信仰は旧約聖書の民イスラエルから新約聖書の民教会へと受け継がれてきた人間理解の根本、基本、原点です。この人間理解が他の諸宗教の人間理解とキリスト教の人間理解との決定的な違いであると言ってよいかもしれません。聖書では、天地万物を創造された主なる神だけが唯一の神であり、他のすべては、人間を含めて、神によって造られた被造物であり、いかなる意味でもそれらのすべては神ではありません。神としての地位も力も能力も持ちません。ただ、すべてのものの創造主であられる神のみ前にひれ伏し、礼拝し、服従することによって、それぞれの存在と命とを神から与えられているものたちなのです。

 聖書はまた言います。被造物が自らの被造物としての原点から離れたり、それから何らかの意味で超え出ようとしたりすることが、罪であり、神への反逆なのであると。この後、創世記2章で描かれる最初の人アダムとエヴァの罪、いわゆる原罪から始まって、聖書に描かれるすべての罪は、みなこれと同じです。人間が創造主なる神から離れ、自ら神になろうとすること、神と同じ地位や能力を持とうと欲すること、それが罪です。

 したがってまた、そのような被造物を神として崇めたり、礼拝することは、偶像礼拝の罪です。この世界にあるすべてのものは、太陽であれ月であれ、山、川、生き物、そして人間、すべては神によって造られた被造物であり、神ではなく、礼拝の対象ではありません。聖書の創造信仰に立ってみるならば、そのような偶像礼拝は全く愚かであり、神が人間をすべての被造物の頭、冠として創造されたという大きな神の愛とご配慮とを忘れ去った、それを自ら投げ捨ててしまう人間の愚かな忘恩の罪なのです。

 人間が神の被造物であるということは、26、27節で用いられている「人」という言葉にも言い表されています。ヘブライ語では「アーダーム」ですが、この言葉はここでは人間という集合名詞として用いられています。後には、3章では、最初に創造された男の個人名として用いられます。このアーダームというヘブライ語に込められている意味については、2章6節以下で具体的に語られますが、一言で説明するならば、アーダームとは、肉なる存在、土くれに過ぎず、やがて朽ち果てるほかにない弱い者という意味が込められています。

 そのような朽ち果てるほかない肉なる存在である人間は、創造主なる神から離れてはひと時も存在することができない、生きることができないという信仰が、このアーダームという言葉には込められているのです。

 では、次に26~27節のみ言葉を読んでみましょう。【26~27節】。人間が神の形に似せて創造されたということ、男と女とに創造されたということについては、別に時を改めて学ぶことにして、きょうは神がここで「我々」と言っておられることについて考えてみましょう。神はおひとりで、唯一の方ですから、ご自分のことを「我々」と言われることはあり得ないのですが、旧約聖書ではその例がいくつかあります。それを読んでみましょう。【創世記3章22節】(5ページ)。【11章7節】(14ページ)。【イザヤ書6章8節】(1070ページ)。

 これらの個所で神がご自身のことを「我々」と言われるのはなぜなのか、いくつかの理解がありますが、興味深いものを2、3挙げてみましょう。一つは、神の尊厳性、偉大さを表しているという理解です。神を意味するヘブライ語のエローヒームもエールの複数形であるということを以前にご紹介しましたが、神はご自身の偉大さ、尊厳性を強調するために、「わたしは」と言う場合、時に複数形で「我々は」と言われると考えられます。あるいは、これは神がいます天での会議の様子を言い表しているという理解もあります。神は天において、神に仕える天使たちや天の軍勢たちを従えていると考えられ、その天上での会議で神が厳かに「我々はこのように決定する」と言われているのだという理解です。さらには、これは三位一体の神を言い表しているという理解もあります。神は父なる神として、子なる神キリストとして、聖霊なる神として、ご自身の中で豊かな交わりを持っておられるので、このような言い方をするとも考えられます。

 いずれにしても、どれにも共通していることは、神は人間を創造されるにあたって、ご自身のすべてをもって、全体をもって、ご自身のすべての愛と、力と、知恵と、意志と、決断とをもって、この人間創造というみわざに取り組んでおられるのだということが、ここから理解されます。人間は神の最高の愛と知恵の結晶として創造されたのです。人間は神の最高の意志と決断とによって創造されたのです。神によって創造されている人間一人一人には、このような神の愛と知恵と意志と決断とがあるのだということを、わたしたちは忘れてはなりません。そうであればこそ、神はこの人間を罪と死と滅びから救い出すために、ご自身の最愛のみ子を十字架に引き渡されたのだということを、わたしたちは思い起こすのです。神の人間創造のみ心は、主イエス・キリストの十字架の死にまで貫かれています。

(祈り)

8月18日(日)説教「主イエス誕生の予告」

2019年8月18日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:創世記18章1~15節

    ルカによる福音書1章26~38節

説教題:「主イエス誕生の予告」

 ルカによる福音書1章には、洗礼者ヨハネの誕生予告に続いて、26節からは主イエスの誕生予告が描かれています。順序はヨハネの誕生予告が先にありますが、そのあとに続く主イエスの誕生予告を語ることがルカ福音書の中心的な目的であることは言うまでもありません。ヨハネは主イエスの先駆者として、いわば露払いの役割を果たします。誕生物語においてそうであるだけでなく、ヨハネの生涯全体が彼の後においでになる来るべきメシア・救い主なる主イエス・キリストのために道を整え、最も近いところで主イエスの到来を預言し、最も近いところで来たり給うた主イエスを指し示し、証しする務めを持っています。

 ヨハネの誕生予告と主イエスの誕生予告は互いに関連しあっており、また共通点が多くあります。きょうはその点に注目しながら主イエスの誕生予告のみ言葉を学んでいきます。

 26節に「六か月目に」とあります。ヨハネ誕生予告があってから6か月後ということです。ヨハネの父ザカリアがエルサレム神殿でヨハネ誕生を告げる天使ガブリエルの約束のみ言葉を聞き、妻エリサベトが身ごもってから6カ月が過ぎて、マリアに主イエスの誕生が告げられたということですから、ヨハネは主イエスよりも半年早く生まれたということになります。

 ヨハネ誕生を告げるみ言葉を語ったのは19節によれば天使ガブリエルでしたが、主イエスの誕生予告を告げるのも天使ガブリエルです。ガブリエルは6人の天使長の一人で、最も重要な神のみ言葉を告げる天使と考えられています。ヨハネ誕生予告も主イエス誕生予告も、いずれもそれをお語りになったのは神です。神がみ言葉をお語りになるとき、そこに奇跡が起こります。新しい命が誕生します。神がザカリアに「あなたの妻エリザベトは男の子を産む」とお語りになると、長い間子どもがいなかった年老いた夫婦に神の奇跡によって子どもが与えられます。神がマリアに「あなたは身ごもって男の子を産む」とお語りになると、まだ結婚していないおとめに神の奇跡によって子どもが与えられます。

 神の奇跡によって子どもが授けられるという例は、旧約聖書の中にいくつかあります。アブラハムとサラの子イサクの誕生がそうでした。創世記18章でわたしたちが聞いたように、百歳のアブラハムと90歳のサラに神の奇跡によって子どもが授けられるという約束が告げられました。14節に書かれているように、主なる神に不可能なことはありません。神は無から有を呼び出だし、死から命を生み出し、不可能を可能にします。また、イサクとリベカの子どもヤコブの誕生の場合もそうでした。預言者サムエルの誕生も神の奇跡でした。そして、洗礼者ヨハネと主イエスの誕生へと続きます。聖書に記されたこれらの神の奇跡による誕生は、わたしたちに何を語っているのでしょうか。

 第一には、人間の命はすべて神から与えられたものであるということを、これらの特別な例によって聖書は明らかにしているのです。人間の一つ一つの命の誕生はみな神の奇跡なのです。

 第二には、神の奇跡によって誕生したこれらの人物は、聖書において神からの特別な使命が与えられ、その生涯を神に仕えて歩むようにされるということです。その誕生が神によって与えられたように、その生涯も神のためにあるということを、聖書はこれらの人物たちによって強調しているのです。そして、そのようにして歩む人生にこそ、神の豊かな祝福があり、神の救いのみわざのために仕えるという大きな実りが与えられるのです。

 以上のことは、イサクから洗礼者ヨハネに至る誕生と次の主イエスの誕生にも共通していますが、しかし、主イエスの誕生の場合には決定的な違いがあることを見逃すことはできません。イサクからヨハネに至る神の奇跡による誕生は、彼らの両親が年老いていたり、人間的な可能性からみれば子どもが授かることが全く考えられなかったにもかかわらず、神の奇跡によって、神からの一方的な恵みと憐れみによって、新しい命が与えられたのですが、それでもそこには人間的な営みがまだ残っていました。

ところが、主イエスの誕生の場合にはそうではありません。ルカ福音書1章27節には「いいなずけであるおとめマリア」と書かれています。また35節では「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる」と書かれています。主イエス誕生の奇跡は、百パーセント神の奇跡であり、人間的な営みが全くない、百パーセント聖霊なる神のお働き、そのみ力による誕生なのです。

イサクからヨハネに至る神の奇跡による誕生は、最終的にはこの主イエスの最も偉大な神の奇跡による誕生を預言し、指し示していると言えます。また、主イエスの奇跡による誕生によって完成しているとも言えます。神の奇跡によってその命を与えられた彼らが、その全生涯を神にささげて生きたように、否それ以上に、主イエスは父なる神から与えられたその命とご生涯を、神の救いのみわざのために、わたしたち罪びとを罪から救うために、ご自身の尊い命を十字架にささげつくされたのです。それによって、全人類のための救いを完成されたのです。

わたしたちが『使徒信条』の中で、「主は聖霊によってやどり、処女(おとめ)マリアから生まれ」と告白している意味がそこにあります。主イエスが聖霊によって、神の奇跡によって誕生されたということと、主イエスの十字架の死による救いの完成とは密接に結びついています。

では、主イエスの奇跡による誕生の予告について、さらに詳しく読んでいくことにしましょう。26節に「天使ガブリエルがナザレというガリラヤの町に神から遣わされた」と書かれています。主イエスの両親となるヨセフとマリアはこの町の出身でした。ガリラヤ地方はイスラエルの首都エルサレムから北へ100キロ以上も離れており、紀元前8世紀ころからたびたびアッシリア軍によって侵略され、外国人が多く移り住むようになったために、イザヤ書8章23節などでは、「異邦人のガリラヤ」と呼ばれて、ユダヤ人からは軽蔑されていました。同じ神に選ばれた民でありながらも、見捨てられていたガリラヤの小さな町ナザレ、そして、その町に住む貧しいおとめマリアと大工の家に生まれたヨセフが、神のみ子、救い主イエス・キリストの両親となるように選ばれたのです。

ここには、神の不思議な選びがあります。神は小さなもの、貧しいもの、見捨てられているものをお選びになります。それによって、神の選びの偉大さ、豊かさ、そこに示されている神の大きな恵みと憐れみとをお示しになるためです。また、それによってイザヤ書9章に預言されているみ言葉が成就するためです。「闇の中を歩む民は、大いなる光を見/死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた」(1節)。主イエスは、罪という闇に覆われていたこの世界を照らすために、そしてすべての人を照らすまことの光として、この世においでくださいました。

27節に「ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめマリア」と書かれています。主イエスはダビデの子孫としてお生まれになったということはマタイ福音書でも、またパウロ書簡でも同じように証しされています。これは、主イエスが旧約聖書で預言され、イスラエルの民が待ち望んでいた神の約束のメシア・キリスト・救い主であるということ、またいわゆる「ダビデ契約」を神がこれによって成就されたということを示しています。

神は全世界の民の中からまずイスラエルをお選びになり、この民によって救いのみわざを始められました。紀元前10世紀の偉大な王であったダビデに神はこのように約束されました。「わたしはあなたの身から出る子孫に後を継がせ、その王国を永遠に建てるであろう」。これが、サムエル記下7章に書かれているいわゆる「ダビデ契約」です。けれども、イスラエルは神に背き、神との契約を守らなかったために、その王国は滅び、民は異郷の地に散らされ、「ダビデ契約」も忘れ去られてしまったかに見えました。ところが、今や、切り倒され、枯れかけた木の根から若枝が芽生えるようにして、ダビデの遠い子孫であるヨセフの子として、神が約束されていた永遠のみ国の王として、神のみ子なる主イエスの誕生予告が告げられるのです。神の約束のみ言葉は決して忘れ去られることはありません。神は必ずや、その約束を成就されます。27節の「ダビデ家のヨセフ」という言葉には、そのことが暗示されています。

洗礼者ヨハネの家系との関連を見てみましょう。父ザカリアはエルサレム神殿で仕える祭司の家系でした。祭司は、神と民との間に立ち、罪ある民を主なる神のみ前に導く、いわば仲保者としての務めを託されていました。ザカリアが天使ガブリエルによって「あなたの家に子どもが与えられる」との約束のみ言葉を聞いたのは、まさに彼が祭司の務めをしていた時でした。ザカリアは天使が語る神の約束を信じられなかったために、20節によれば、口がきけなくなり、神と民との仲保者としても務めを果たすことができなくされました。

そのことは何を語っているでしょうか。祭司の務めを果たすことができなかったヨハネの父ザカリア、しかしそのことは、ヨハネの後においでになる主イエスによってこそ、旧約聖書時代の祭司の務めが完全に果たされるようになるということを、あらかじめ暗示しているのです。主イエスこそが、神と全人類との間に立たれ、ご自身が十字架で流された尊い血によって、全人類の罪を洗い清め、すべての人が神のみ前に進み出ることができるようにするために、神と人との間に立たれる唯一の、完全な仲保者となられたのです。主イエスはまことの大祭司として、動物の血ではなく、ご自身の血を、すべての人の罪を永遠にあがなう清い血としてささげてくださったのです。主イエスはまことの祭司であれら、また永遠の王として神の国を支配され、さらに、ご自身が神のみ言葉そのものであられる真の預言者です。これが主キリストの3職、祭司、王、預言者職です。

28節で天使ガブリエルは「おめでとう、恵まれた方、主があなたと共におられる」とマリアに語りかけます。マリアはこの言葉に戸惑います。マリアの何が恵まれているというのか。マリアに何かすぐれた才能とか社会的な地位とか業績があったというのか。いやマリアに限らずとも、神から「あなたは恵まれている」と呼びかけられるならば、だれであれ戸惑い、恐れざるを得ません。わたしたちはみな神の恵みをいただくにふさわしくない、罪にけがれた者、不従順な者であるにすぎないからです。むしろ、神の裁きを受けて滅びざるを得ない者だからです。そうであるにもかかわらず、ここでマリアが「恵まれた人」と呼びかけられているのはなぜでしょうか。

その答えの一つはすでに28節の中に書かれています。すなわち、「主があなたと共におられる」からです。さらに、具体的には30、31節に書かれています。【30~31節】。マリアが祝福され、恵まれた人であるのは、彼女の胎内に宿った新しい命によるのだということがここからわかります。彼女が主イエスの母として選ばれたことにすべての祝福と恵みの源があるということです。彼女自身はまだそのことに気づいてはいませんが、彼女が祝福されているのは彼女の胎の実が祝福されているからです。彼女が主イエスの母として選ばれたから、ただそのことのゆえに彼女は恵まれた人であり、神に祝福された人なのです。

もしわたしたちが「わたしは恵まれた人である」とか「あなたは恵まれた人である」ということができるとすれば、それはどのような人のことなのかということを考えさせられます。大きな家に住み、高価な衣装を身にまとい、豪華な食卓を囲んでいる人のことでしょうか。立派な業績を上げ、社会地位があり、人々から称賛されている人のことでしょうか。必ずしもそうではありません。もちろんそういうこともすべては神の恵みであるのですが、しかしほとんどの人はそのことに気づかず、感謝もしません。本当に恵まれた人とは、神に顧みられている人、神がこんなわたしをもみ心にとめていてくださる、わたしと共にいてくださる、そして主イエスの救いにあずからせてくださっているということを知っている人、そのことを感謝している人、そういう人こそが恵まれた人、神に祝福された人なのです。

(祈り)

8月11日(日)説教「共に恵みにあずかる者たち」

2019年8月11日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:詩編98編1~9節

    フィリピの信徒への手紙1章3~11節

説教題:「共に恵みにあずかる者たち」

 使徒パウロの「喜びの書簡」また「獄中書簡」と言われるフィリピの信徒への手紙を続けて学んでいます。きょうは1章7節からです。【7節】。パウロは3節からの手紙の本文の冒頭で、神への感謝と喜びの祈りをささげています。その感謝と喜びの第一の理由は、5節に書かれているように、フィリピの教会が主イエス・キリストの福音にあずかっているからです。パウロがこの町に最初に福音を宣べ伝え、教会の基礎を築いてからこの時に至るまで、フィリピの教会は主キリストの福音によって生きてきました。これからも主キリストの福音を聞きつつ、生きていきます。主キリストの福音によって罪ゆるされている民として、来るべき神の国に招き入れられているとの約束を信じつつ生きていきます。神は必ずや、その約束を成就してくださるでしょう。そのことを感謝し、喜びつつ、パウロはフィリピ教会が終わりの日に完成される神の国を待ち望みつつ生きていくようにと、執り成しの祈りをささげているのです。

 続いて7節では、その感謝と喜びのもう一つの理由を語ります。それは、パウロとフィリピ教会の人たちが共に恵みにあずかる者たちであるということです。7節の翻訳で少し触れておきたい点があります。新共同訳では省略されていますが、7節後半には「わたしの」という言葉があります。これをどこにつなげるかで翻訳が違ってきます。。「共に」にかけると「わたしと共に」ということが強調されていることになります。「恵み」にかけると「わたしの恵み」ということが強調されます。いずれの理解も可能ですが、ここでパウロがあえて「わたしの」という言葉を付け加えた意図を確認しておくことが重要です。

 つまり、ここで強調されている「わたし」パウロはどういう人物なのか、今どのような状況にあるのかということを考えながら、そのパウロとフィリピ教会との密接な関係がここでは語られているのです。

 では、「わたしと共に」という点を強調して考えるとどうなるでしょうか。パウロは今獄にとらわれています。主キリストの福音に反対するユダヤ人の迫害か、あるいはローマ政府の権力による迫害かはわかりませんし、囚われている場所がどこかもはっきりしていませんが、パウロは今自由を奪われ、鎖でつながれています。フィリピ教会とは何百キロも離れています。けれども、そうであるにもかかわらず、パウロとフィリピ教会は共にいるのだということをパウロは強調するのです。しかも、獄にとらわれているこのわたしと、あなたがたは今共にいるのだというのです。

 ここではいくつかの内容が考えられます。一つには、キリスト者はどこにいても一つの主キリストの教会に聖霊によって連なっている聖徒たちの交わりの中にあるという信仰です。これは「使徒信条」でも告白されています。より具体的には、フィリピ教会が獄にとらわれているパウロのために日夜祈っている、パウロも彼らのために祈っている、共に祈りによって一つに結ばれている、互いに祈りによって、パウロとフィリピ教会が同じ体験、同じ時間を共有し合っているということです。あるいは、フィリピ教会がパウロを支援するために援助物資を集め、教会の代表を派遣して獄中のパウロに届けるということによって、信仰にある兄弟姉妹が一つに結ばれていることを実感するということです。実は、この手紙はその感謝を伝えるためにパウロが書いたのだということが4章10節以下から推測されるのですが。そのようにして、フィリピ教会は獄中の「わたし」パウロと共にいるということがここでは強調されているのです。

 「わたしの恵み」という点に強調点を置いてみたらどうでしょうか。パウロが神から、また主イエス・キリストからいただいている恵みにフィリピ教会の人たちも共にあずかっているというのです。ここでも、いくつかの内容が考えられます。一つには、パウロの使徒としての務めに与えられている恵みのことです。パウロは復活の主イエス・キリストに出会う以前は、熱心なユダヤ教徒ファリサイ派として、キリスト教会を迫害する急先鋒に立っていましたが、主キリストと出会ってからは主キリストの福音を宣べ伝える使徒とされました。それは、全く神からの一方的な恵みによる務めでした。パウロはこの神からの大きな恵みに応えるためには、あらゆる労苦と危険と戦いをいといませんでした。

 それゆえに、今彼が迫害を受け、牢につながれているとしても、それもまた神の恵みであることをやめないとパウロは言うのです。否それのみか、わたしに与えられているその大きな神の恵みに、あなたがたフィリピの教会も共にあずかっているのだとすら言うのです。これはどういうことでしょう。前にもふれたように、フィリピ教会が獄中のパウロに援助物資を送り、それによってパウロの使徒としての務めに共にあずかっている、共に主キリストの福音宣教の働きに参画しているということが考えられます。それだけではありません。フィリピの教会はパウロが受けている迫害の苦しみ、労苦、戦いを共にすることによってパウロの使徒としての恵みの務めに共にあずかっているのだと、パウロは言うのです。1章29~30節でははっきりとこう言っています。【29~30節】。このときに、フィリピの教会が実際に迫害を経験していたのかどうかは分かりませんが、それには関係なく、彼らは今このとき、牢獄にいるパウロと共に、主キリストの福音のために共に労苦し、共に戦っているのであり、パウロの使徒としての恵みに共にあずかっているのです。主キリストの福音に仕えるキリスト者には、苦難をも共にする恵みが与えられているのであり、これほどまでの連帯性、一体性、深い交わりが与えられているのです。彼らはみなすでに来るべき神の国の民として一つにされています。

 以上のことからも推測できるように、7節の「監禁されているときも、福音を弁明し立証するときも」とは、別々の違った状況について語っているのではなく、今パウロが監禁されているこのときにこそ、福音を弁明し、立証する絶好の機会となったのだという意味に理解されます。そのことについては、12節以下で具体的に語られます。

パウロにとっては、あらゆるとき、あらゆる機会が、主キリストの福音を弁明するとき、それを立証するときでした。パウロは使徒言行録の記録によれば、計3回にわたって、世界伝道旅行に出かけましたが、その中で何度も迫害を受け、獄に捕らわれの身となりました。しかし、獄にとらわれたときには、宣教の自由、語る自由を奪われた沈黙のときでは決してありませんでした。むしろ、そのときにこそ、自分が何のために、なぜとらわれの身となっているのか、それにもかかわらず、なぜその主張と信仰とを捨てず、なぜ弱らず、くじけることをせず、より一層力を込めて、確信をもって、主キリストの福音を語ることができるのか、語るべきなのか、そのことを裁判を司っている国家の権威者たちの前で、また裁判を見ている多くの人々の前で、臆することなく、大胆に語り、証しすること、このときこそが最も力強く福音を弁明し立証する機会になるのだとパウロは考えていたのです。

使徒言行録の終わりの個所で、彼はローマ皇帝カイザルに上訴し、囚人としてローマに護送されていくことになったことが書かれています。彼がなぜローマ皇帝に上訴したのかについては使徒言行録にはっきりと書かれていませんが、わたしたちには容易に推測できます。当時の世界の中心都市であるローマ、そこに君臨していた全世界の頂点に立つカイザル、その町で、この世の王の前で、しかし世界の主はただおひとり、わたしたちのために十字架で死んでくださり、全人類の罪を永遠にゆるしてくださる、主イエス・キリスト、この方こそが唯一の主である、ローマ皇帝カイザルが主なのではない、十字架につけられた主イエス・キリストこそが全世界の唯一の主なのだということを証しするためでありました。

8節からもパウロの祈りは続きます。【8~11節】。この個所ではまず「愛」という言葉に注目したいと思います。8節の「愛の心」と9節の「愛」とはもともとは違う言葉ですが、ここでは区別する必要はないと思います。重要なことは、8節でパウロは「わたしが、キリスト・イエスの愛の心で」と言っている点です。「愛の心」とは本来はパウロ自身のフィリピ教会に対する愛の思いを言っているのですが、それを彼は「キリスト・イエスの愛の心」と言い換えているわけです。パウロがここで強調しようとしているのは、自分の愛はキリスト・イエスから出ている愛である、キリスト・イエスの愛と同じ愛であるということです。キリスト・イエスがフィリピの教会を、またパウロを、そしてすべての人を愛しておられる、そのためにご自身の尊い命を十字架におささげくださった、その愛と同じ愛をもってパウロはフィリピ教会を愛している、フィリピ教会のために祈っていると彼は言っているのです。

すべての人間の愛は主イエス・キリストの愛にその原型があり、その源があり、その手本があります。9節の「あなたがたの愛」もそうでなければなりません。9節の愛は、ギリシャ語でアガペーという言葉です。「神の愛、神は愛である」と言われるときに用いられるギリシャ語と同じです。すべての人間の愛は、この神の愛、アガペーにその源泉があります。神がその独り子であるみ子主イエス・キリストを、わたしたち罪びとたちに賜った、ここに愛がある、この神の愛によって、わたしたち人間にも愛の道が開かれたのです。それゆえに、聖書では神の愛の場合も人間の愛の場合でも同じアガペーというギリシャ語を用いています。

人間の愛は、いつでも、どれでも、不完全であり、破れており、傷ついています。そこにはどうしても人間の罪が付きまとっているからです。罪びとの愛だからです。それゆえに、わたしたちの愛は常に神の愛、主キリストの愛を出発点とし、その上に基礎づけられ、その愛を目標としていなければなりません。パウロがここで言ってるのも、そのような愛のことです。その愛の特徴を二つにまとめてみましょう。

一つは、「キリストの日に備えて」、すなわち主キリストが再び地に下って来られ、神の国を完成され、わたしたちの救いを完成される日に備えた愛、終末を目指した愛であるということです。真実の愛はこの世での完成はありませんし、それを望むこともありません。真実の愛はこの世での報いを望みませんし、この世での完成もありません。むしろ、この世では未完成であり、途中であるということを知っています。しかし、そうでありつつ、終わりの日の完成を目指しています。神の国での完成を約束されています。

もう一つのことは、真実の愛は「神の栄光と誉れ」とをたたえます。自らの満足を求めたり、他の人の称賛を求めたりすることはありません。「すべては神の栄光のために」、これがわたしたち改革教会の源泉である、宗教改革者カルヴァンのモットーでした。わたしたちの小さな愛の一つ一つも、「神の栄光と誉れ」のための愛であるようにと願います。

(祈り)

8月4日(日)説教「空と海と地の生き物の創造」

2019年8月4日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:創世記1章20~25節

    使徒言行録10章9~16節

説教題:「空と海と地の生き物の創造」

 神は六日の間に天地万物とすべての生き物と人間とを創造され、七日目に休まれました。創世記1章に書かれている神の天地創造のみ言葉を19節まで、第4日目までを読んできました。わたしたちがこれまで何度も確認してきましたように、1章の天地創造の記録は1日1日が非常に整えられた形式で書かれ、しかも論理的で、よく考え抜かれた記述になっています。「神は言われた」という言葉で1日が始まり、神が「あれ」とお命じになるとそれが存在し、神がその存在したものに名前を付け、それぞれに役割を与え、「神はそれを見て、良しとされた」という言葉が最後にあり、「夕べがあり、朝があった。第何日である」という言葉で結ばれています。

1日1日が整えられた形式で書かれているだけでなく、六日間全体の構造も前半と後半で並行関係を持っています。それを見ていきましょう。第1日目に創造された3節の光に対して、後半の最初、第4日目には14~16節で、光を発する天体、太陽と月と星々が創造されました。第2日目、6~7節の大空と水に対して、第5日目、きょうの礼拝で朗読された20~21節の大空の鳥と水の中の生き物、そして第3日目、乾いた地とそこに芽生えた植物に対して、第6日目、24~27節、地の生き物、動物たちと人間、というように、前半の3日間と後半の3日間が対応しています。

このことは、神が一日一日の創造のみわざに、また一つ一つの造られたものに深い配慮と愛とをお示しになっておられるだけではなく、全体としても秩序と知恵をもって、神によって造られた被造世界全体の調和と関連性を十分に考慮されて創造のみわざをお進めになっておられることを明らかにしています。

神はまずすべての光の根源である光そのものを創造され、次に、発光体である太陽や月、星を創造されました。最初に創造された2節の光がどういうものであるのか、わたしたちには説明がつきませんが、第4日目に創造された発光体と深く関連していることは推測できます。光とは、聖書で光という言葉が用いられるときには常にそうなのですが、目で見て感じる明るさだけでなく、その中に神から与えられるもろもろの賜物、恵みが含まれているということを教えているのです。聖書が語る光は、すべての闇と言われるものを照らして、その闇を追い払う光であり、太陽や蛍光灯の明かりでは照らすことができないこの世の暗闇や人生の暗闇を、またわたしたちの魂を照らす光なのです。さらにこの光は、わたしたちの中に隠れ潜んでいる罪を明るみに出し、またその罪を追い払う光でもあります。主イエス・キリストはそのようなすべての人を照らすまことの光であると、ヨハネによる福音書1章で言われています。

第2日目に、神は大空を造り、大空の上の水と下の水とを分けられました。この二つの水は再び一緒になることはありません。どんなに雨が降っても、海の水が空の水に届くことはありません。そして、第5日目に神は空と海にそれぞれの場所にふさわしい生き物を創造されました。空の鳥が大空の上の水でおぼれて死ぬことはなく、海の魚は水が乾いて死ぬことはありません。彼らもまた神の創造の恵みにあずかり、神の愛と配慮によって守られているのです。

第3日目に、神は大空の下の水を集めて乾いた地を造り、またその地から植物を芽生えさせられました。第6日目には、乾いた地を自由に動き回る動物たちを創造されました。彼らは海の水に飲み込まれてしまうことはなく、また飢えて死ぬことがないために地の植物が食べ物として与えられました。神の創造の秩序に従うならば、地は植物に占領されることなく、動物たちが植物を食べつくしてそれを枯らしてしまうこともありません。今日、ある種の動物が絶滅の危機にあると言われるのは、人間がその貪欲のために神が創造された秩序を破壊しているからにほかなりません。

わたしたちはすでに、きょうのテキストである第5日目と第6日目の内容に入っていますが、第5日目の最初の20節と、第6日目の最初の24節はいずれも「神は言われた」という言葉で始まっています。第1日目から第4日目までもすべてそうでした。神はきのうもきょうも、そしてあすも、常に語り給う神です。わたしたちは神がお語りになられるみ言葉を常に新たに聞きつつ生きる者たちです。

神はいたずらに無駄なおしゃべりをなさるためにお語りになるのではありません。すでにわたしたちが何度も確認してきたように、神は最もふさわしいときに最もふさわしいみ言葉をお語りになります。神は上の水と下の水とを分けられ、下の水は海に集められ、上の水は大空の上に集められました。そして、こうお命じになります。【20~21節】。神はそれぞれにそれぞれの場所を備えてくださり、水の中と大空に、その場所にふさわしい命を創造され、そこに生きるべき使命を与えてくださいます。ここでもまた、「神はこれを見て、良しとされた」と書かれています。これは単なる決まり文句の繰り返しではありません。「神がなされることは皆その時にかなって美しい」とコヘレトの言葉3章11節(口語訳)にあるように、神はわたしたち一人一人に、その時その時にふさわしいみ言葉をもって、わたしたちを導いてくださいます。

21節に、水の中の大きな怪物が造られたと書かれていますが、これは古代近東諸国の神話が背景になっていると考えられています。古代の人々にとっては、海は人間の力では制御できない恐るべき魔力を持っていて、海の中には巨大な竜のような怪獣がいると考えられていました。けれども、聖書ではその巨大な竜もまた神によって造られた被造物であるとされています。神はこの世界のすべての神話的な力や魔力をもご支配しておられるということが強調されています。

同じ21節に「創造された」という言葉があります。この創造するという言葉については1節で説明しましたように、ヘブル語ではバーラーですが、神が主語の時以外には用いられない特別な言葉です。その特別な意味を持つ言葉が、第5日目の海と空の生き物の創造のときになって初めて用いられています。そしてこの後には、人間の創造のときに27節では3度続けて用いられます。

では、なぜここで特別な意味を持つバーラーという言葉が用いられているのかについて少し考えてみましょう。バーラーは神の創造のみわざの中で特別な深い意味を持つ言葉として用いられるのですが、それは、創造される神と創造された被造物との強く密接な関係を言い表しています。その一つは、神が命を創造され、その命を生き物にお与えになったということです。旧約聖書の民ユダヤ人は血の中に命があると考えました。その点で、第3日目に造られた植物と第5日目に創造された海と空の生き物、さらには第6日目の地上の生き物との間には大きな違いがあります。生き物には命があり、血が流れています。命である血は造り主なる神のものです。神がその命を生き物たちにお与えになり、またその命をご自身に取り上げられるのです。生き物たちの命は、彼ら自らのものではありません。神から与えられたもの、託されたものです。したがって、その命は神のために、神のご栄光のために用いられなければなりません。

この考え方は、特にイスラエルの神礼拝の中で、神に生き物の血をささげるという儀式の中で具体化されていきました。生き物の血は最も重要な神へのささげ物であり、礼拝者が自分自身の命を神にささげることを象徴的に言い表していました。そして、その頂点に、新約聖書の中で神のみ子主イエス・キリストが十字架で流された尊い、汚れなき血があります。主イエス・キリストの十字架の血は、すべての人の罪を贖う血であり、すべての罪から洗い清める聖なる血であり、すべての人の罪を永遠にゆるす力と命とを持っているのです。

バーラーという言葉が持つもう一つの特別な意味は、22節のみ言葉と関連しています。【22節】。ここで初めて、創造されたものへの神の祝福が語られます。この祝福の意味は「産めよ、増えよ」という神のみ言葉に関連しています。つまり、命あるものがその命を次の世代に受け継いでいくこと、そこに神の祝福があるということです。神の祝福のみ言葉が新しい命を生み出し、その命を保ち、存続させるということです。

わたしたちはここで二つのことを確認しておくことが大切です。その一つは、すべての命には神の祝福があるということです。神の祝福なしにこの世に誕生する命はありません。どのように小さな命であれ、小さな生き物であれ、あるいは傷ついた命であれ、すべての命には神の尊いみ心があり、祝福があるのです。神のみ心に背いてその命を自由に処理したり、奪い取ったりすることは許されません。ましてや、人間の命にこそ、そのことが当てはまります。

第二には、すべての命は神の祝福のうちにあって次の世代へと受け継がれ、増え、広がっていくということです。命の増殖や繁殖に神の祝福があります。生き物たちはこの神の祝福のうちにあって、自ら新しい命を生み出していくことをゆるされているのです。神の祝福を忘れ去った単なる細胞分裂を繰り返すだけの増殖や繁殖が神のみ心に沿っているかどうかをよく吟味してみることが大切です。それ以上に重要なことは、わたしたち人間には神の祝福を受け継ぐ次の世代へと信仰を継承していく使命が託されているということです。

創世記12章1節以下で、神はアブラハムを祝福してこのように言われました。【1~3節】(15ページ)。この神の祝福はアブラハムの子イサクへ、イサクの子ヤコブへ、そしてヤコブの12人の子どもたちであるイスラエルの民へと受け継がれていきました。さらには、わたしたちの救い主、主イエス・キリストによって、全世界の教会の民もまた、このアブラハムに約束された神の祝福を受け継ぐようにと招かれています。

1章24節からは第6日目の創造のみわざが始まりますが、その前半では地の生き物たちが創造されます。【24~25節】。この第6日目の創造で特徴的なことは、地が、陸地が生き物たちを生み出すようにと言われていることです。これは第3日目の11、12節と共通しています。ここには、地が、大地が命の母であるという古代人の考えが反映されていると推測されます。いずれにしても、地上にある命はすべて神によって創造されたもの、神の祝福によって誕生し、増え広がっていくものであるという原則は変わりません。

25節には、まだ第6日目の途中であるのに、「神はこれを見て、良しとされた」というみ言葉が語られています。第6日目の終わりの31節ではもう一度「神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ、それは極めて良かった」と繰り返されています。つまり、第6日目には同じ言葉が2回繰り返されているのです。この日が天地創造の六日間で最も重要な日であることが、ここからもわかります。なぜならば、この日に、すべての被造物の冠としての人間が創造されるからです。その直前の25節で、この日の終わりを待たずに、「神はこれを見て、良しとされた」というみ言葉があらかじめ語られているのです。すなわち、最後の人間を創造するための舞台がすべて整ったということを、ここで確認しているのです。

最後に、わたしたちは主イエスのみ言葉のいくつかを思い起こします。主イエスはたびたび、神がお造りになった被造物に言及されました。ガリラヤ湖で魚を取っていた漁師のペトロたちに、「わたしに従ってきなさい。あなたがたを人間をとる漁師にするから」と言われました。「一粒の種が地に落ちて死ねば、多くの実を結ぶようになる」とも言われました。「空の鳥を見よ、野の花を見よ。神は彼らを養っておられる。ましてや、あなたがた人間をどれほどに気にかけ、愛しておられることか」と言われました。「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」と言われました。事実、主イエスはわたしたち罪びとを罪から救うために十字架で死んでくださったのです。

(祈り)