10月9日説教「ヤコブの子どもたち」

2022年10月9日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:創世記30章1~24節

    ローマの信徒への手紙11章25~36節

説教題:「ヤコブの兄弟たち」

 創世記29章31節から30章24節までに、ハランにいる伯父ラバンの家で働いていた20年間にヤコブに生まれた11人の子どもたちの誕生について、その名前の由来について書かれています。ヤコブはのちに32章29節で神によってイスラエルと名前を変えられますが、彼に生まれたこれらの11人の子どもと、35章18節で最後に生まれた子どもベニヤミンを加えて12人が、エジプトを脱出してからイスラエルの12部族を形成することになります。そして、やがて神の約束の地カナンに入り、その地で神の民イスラエルとして生きていくことになります。

聖書がここでそれらの子どもたちの誕生について、またその名前の由来について詳しく語っているのは、その理由によります。神に選ばれた族長アブラハム、その子イサク、その子ヤコブから、神に選ばれた民イスラエルへと神の契約、すなわちアブラハム契約が受け継がれていくのです。「わたしはお前とお前の子どもたちを永遠に祝福する。お前の子どもたちは空の星の数ほどに、海辺の砂の数ほどに増えるであろう。そして、わたしはお前とお前の子どもたちに乳と蜜が流れる麗しい地カナンを、それはわたしたちキリスト者にとっては神の国のことなのですが、その地を永遠の嗣業として与える」。この神の契約、神の約束のみ言葉が、族長からイスラエルの民へと、そして主キリストの教会の民へと受け継がれていくのです。

 29章31節以下のヤコブとレアとの間に生まれた4人の子どもについては、前回少し触れましたが、改めて31節を読んでみましょう。【29章31節】。「レアが疎んじられている」とは、30節に書いてあるように、ヤコブがラバンの二人の娘のうち姉のレアよりも妹のラケルの方を愛していたということを言います。ヤコブはラケルと結婚したいと願って、そのために7年間ラバンの家で働きましたが、ラバンに欺かれ、レアと結婚させられました。ヤコブはラケルと結婚するためにさらに7年間、働かなければなりませんでした。それでも、ヤコブは愛するラケルのために、14年間もラバンの家で一生懸命に働きました。

 それほどのラケルに対するヤコブの大きな愛に逆らうかのようにして、神はラケルをではなく、ヤコブに疎んじられていたレアの方を顧みられ、彼女に子どもを賜ったと書かれています。伯父ラバンによってだまされたヤコブは、今また神ご自身によっても拒絶されているのです。カナンの地で父母の家にいた時には、何でも自分の思いどおりに事が運び、傲慢で悪賢いヤコブでした。母と結託して、父と長男エサウとを欺いて、長男の権利をエサウから奪い取り、それによってエサウの怒りを買い、カナンから1千キロも離れたハランの地の伯父ラバンのところに逃亡してきたのでしたが、そのヤコブが今は全く自分の思いどおりにはいかず、人に欺かれ、人生の試練を経験しなければならず、神からも裁きを受けなければならなくなっているのです。ヤコブはここで神のみ前に謙遜になることを学ばなければなりません。自分の願いを達成することが重要なのではなく、神のみ心が行われることこそが、自分の生涯にとって最も大切であるのだということを学ばなければなりません。

 32節から、ヤコブとレアとの間に生まれた4人の子どもの名前書かれています。最初の子どもはルベンと名づけられました。「それは、彼女が、『主はわたしの苦しみを顧みてくださった。これからは夫もわたしを愛してくれるにちがいない』と言ったからである」と32節に説明されています。神は、ヤコブが愛したラケルよりも、疎んじられていたレアの方を顧みられます。神は苦しむ人、悲しむ人、虐げられている人を顧みられ、その人に恵みをお与えになります。それによって、神はいつくしみ深く、どんなに小さなものをも見捨てず、み心に留められる神であることをお示しになり、そのみ名があがめられるのです。

 レアはここで神をあがめるとともに、子どもの誕生は神から与えられる恵みであり、祝福であることを告白しています。このあとの子どもの誕生も、すべて神からの賜物です。子どもの命はすべて神から与えられたもの、すべて神に属するものであるということを、聖書は繰り返して教えます。それは親の所有ではありません。国家のための命でもなく、働き手とか経済活動とかのためでもありません。神から与えられた、神のための命です。

 すべての命が神から与えられた命であることが、子どもの名前を付ける際の親の信仰告白として現わされます。ヤコブの12人の子どもたちの名前もすべて親の信仰告白です。神の恵みを感謝する信仰が子どもの名前になります。ちなみに、イエスという名前、旧約聖書のヘブライ語ではヨシアとかヨシュアとなりますが、これは「神は救いである」という意味です。もっとも、この名前は両親のヨセフとマリアが選んだのではなく、主なる神ご自身がその子が生まれる前からすでに決めていた名前でしたが、そして、事実、神はこの子、主イエスによってご自身の救のみわざを成就してくださったということを、わたしたちは知っています。

 二人目の子どもはシメオンです。「主はわたしが疎んじられていることを耳にされ、またこの子をも授けてくださった」(33節)とレアは告白します。三人目の子どもはレビ、これは「結びつく」という意味のヘブライ語に由来します。四人目はユダ、「今度こそ主をほめたたえよう」(35節)とレアが言ったように、「ほめたたえる」というヘブライ語に由来します。

 次に、30章1~2節を読みましょう。【1~2節】。この個所の理解は大きく二つに分かれます。一つは、ラケルが自分に子どもができないのはあなたに原因があるのだとヤコブを非難したのに対して、ヤコブは自分のせいではない。神がそうなさったのだと言い訳をしているという解釈です。しかし、ここでヤコブは神のみ心を理解し始めていると解釈する方が良いように思われます。ヤコブはラケルを愛していたのですから、当然ラケルに子どもが与えられることを望んでいたでしょう。自分とレアとの間には子どもが与えられているのに、愛するラケルとの間になぜ子どもができないのだろうかと悩んでいたはずです。にもかかわらず、ラケルとの間に子どもが与えられないのは、神のみ心なのだと気づき始めていたと解釈するのがよいように思います。子どもを宿らせるのも、そうでないのも、すべては神のみ心であるということが聖書の信仰です。わたしたちは祈りつつ、神のみ心を尋ね求めるのです。

 妻との間に子どもができない場合には、その家の召し使いとの間にできた子どもを妻の膝の上に置くことによって、妻の子どもとして認められたという習慣があったことは16章でも触れました。ラケルは召し使いビルハによって自分の子どもを得ようとします。ビルハはヤコブとの間に最初の子どもを産んだので、ラケルは6節でこう言います。【6節】。ビルハはまた二人目の子どもを産みました。【8節】。ダンは5人目、ナフタリは6人目の子どもになります。ラケルは召し使いビルハとヤコブとの間に生まれた二人の子どもを、神が自分たちにお与えくださった子どもたちとして感謝して受け入れます。神は人間同士の妬みや醜い争いの中でも、ご自身の救いのご計画を着々とお進めになっておられることを、わたしたちはここから知らされます。

 9節からは、レアの召し使いジルパとの間の二人の子どもの誕生が書かれています。一人はガド、これは「幸運」という意味のヘブライ語に関連しています。次はアシュル、これは「幸せ」という意味のヘブライ語に由来しています。ヤコブの7人目、8人目の子どもです。レアは「何と幸運なことか」「何と幸いなことか」と言って、レアの召し使いジルパとヤコブとの間の二人の子どもを、神から与えられた自分たちの子どもとして、感謝して受け入れます。

 14節からは、恋なすびを巡ってのレアとラケルの駆け引きが語られます。恋なすびの正式な名称はマンドレイクと言うようですが、プラムほどの大きさの黄色い、香りが良い実で、古代から愛の妙薬と言われていたそうです。ラケルは自分に子どもが与えられないので、その恋なすびを手に入れようとして、レアと交渉をします。レアとラケルの恋なすびを巡ってのやり取りのあとで、17節にはこう書かれています。【17節】。また、【22~23節】。レアの場合にもラケルの場合にも、彼女たちに子どもが与えられたのは恋なすびの効果によるのではなく、神の顧みと恵みによるのだと聖書ははっきりと語っています。

 レアの5人目の子どもはイサカル、その名前の意味は【18節】。6人目の子どもはゼブルン、その名前の意味は【20節】。これがヤコブの9人目と10人目の子どもになります。二人の妻の争いはまだ続いていますが、神はここでもまた、疎んじられていたレアを顧みられ、豊かな恵みをお与えになり、そのようにして神の永遠の救いのみわざをお進めになっておられます。

 ヤコブが愛したラケルにはもう何年もの間子どもが与えられませんでした。30章には夫であるヤコブについてはほとんど語られてはいませんが、彼がこの間、何を思っていたかを推測することはできます。愛するラケルと結婚するために7年間伯父ラバンのために働きました。ラバンの策略によって、もう7年間働かされることになりました。それでも、愛するラケルに神は子どもをお授けにはなりません。ヤコブはここに神の裁きを見ていたに違いありません。神が信仰の試練を与え、彼の信仰を訓練しておられるということに、ヤコブは気づいていたのかもしれません。わたしたちはヤコブの20年間の逃亡生活の終わりに、兄エサウとの再会を前にした彼の告白を、ここであらかじめ聞いておきたいと思います。【32章10~13節】(55ページ)。ヤコブは20年間の試練に満ちたラバンの家での逃亡生活の中で、このことを神から学ばしめられたのです。

 その神の隠されたみ心がある程度成就された時になって、ようやくにしてラケルに子どもが与えられました。「神はラケルも御心に留め、彼女の願いを聞き入れ、その胎を開かれたので」と22節に書かれていますが、この文章の主語はすべて神です。神が御心に留めてくださいます。神が願いを聞き入れてくださいます。神が彼女の胎をお開きくださり、子どもをお授けになります。

 ラケルの最初の子、ヤコブの11人目の子どもは、ヨセフです。ヨセフの名前の意味には二つの説明があります。一つは、「すすぐ、摘み取る」というヘブライ語、もう一つは「付け加える」というヘブライ語です。どちらもヨセフという発音に似ているヘブライ語です。ラケルのもう一人の子ども、ヤコブの12人目の子ども、35章で語られるベニヤミンの誕生がここで暗示されています。

 ヨセフについて最後に少し触れておきます。創世記37章から、いわゆるヨセフ物語が始まります。ヨセフは当然のことながら両親に最もかわいがられ、ほかの子どもたちとは違って特別扱いされていましたので、兄たちの反感を買い、エジプトに売られることになります。エジプトでのヨセフの数奇な生涯が創世記の終わりの50章まで続きます。そしてついには、ヤコブ・イスラエルの他の子どもたちもみんな一緒にエジプトに移住することになり、エジプトでの400年余りの寄留の生活の後、モーセを指導者とした出エジプトへと、そして約束の地カナンでのイスラエルの信仰の歩みが続いていくことになります。神の壮大な救いの歴史はこれからもまだまだ続くのです。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、あなたが族長アブラハムをお選びになって具体的にお始めになった全世界、全人類の救いのみわざの中に、わたしたちをもお招きくださっておられますことを覚え、あなたの大いなる恵みと慈しみとを心から感謝いたします。この世界は未だ救いの完成の途中にあり、破れや痛みや苦しみの中にあります。けれども、あなたは確かにこの救いの歴史を完成させてくださることを、わたしたちは信じます。願わくは、病んでいるこの世界をあなたが憐れんでくださり、顧みてくださり、、あなたの救いのみ心を行ってください。

主イエス・キリストのみ名によって、アーメン。

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