9月3日説教「三位一体なる神」

2023年9月3日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)
    『日本キリスト教会信仰の告白』連続講解(26回)
聖 書:申命記6章4~5節
    マタイによる福音書28章16~20節
説教題:「三位一体なる神」

 『日本キリスト教会信仰の告白』をテキストにして、わたしたちの教会の信仰の基礎と中心について学んでいます。きょうは、前文の2段落、3つ目の文章、「この三位一体なる神の恵みによらなければ、人は罪のうちに死んでいて、神の国に入ることはできません」、この告白の中の「三位一体なる神」について、聖書のみ言葉から学んでいきます。
 まず、1890年(明治23年)に制定された『(旧)日本基督教会信仰告白』との比較ですが、この『信仰告白』では「その恩(めぐみ)によるに非(あら)ざれば罪に死にたる人、神の国に入ることを得ず」となっていて、「三位一体なる神」という言葉がない以外は、今の『信仰の告白』とまったく同じです。1953年の『信仰の告白』で、なぜこの言葉が付け加えられたのかについての理由ははっきりしませんが、おそらくは古代教会と宗教改革時代からの教理的伝統を強調するためであったと推測できます。
 「三位一体」という言葉、またキリスト教の教理は、古代教会の神学者たちが様々な異端的な教えや間違った福音理解との戦いの中で、正しいキリスト教教理を形成していく段階で考え出された教理です。「三位一体」という言葉そのものは聖書の中にはありませんが、「三位一体論」という教理、教え、信仰理解は聖書の最も中心的で大切な真理であると言ってよいでしょう。
 「三位一体」という言葉を最初に用いたのは、紀元2世紀から3世紀にかけての神学者であるテルトゥリアヌスと言われています。彼は、父なる神と子なる神と聖霊なる神は三つの位格を持ちつつ、一つの実体であり、父、子、聖霊の三者は神性という一つの実体を共有すると説きました。その後、紀元4、5世紀に成立したと考えられる『アタナシオス信条』では、その全体で三位一体なる神について告白されています。それを要約すれば、「すべて信じて救われることを願う者は、唯一の神を三位において、三位を一体においてあがめなければならない。父と子と聖霊の三つの位格を持つ唯一の神を三位一体の神として信じ、礼拝しなければならない」と告白されています。
 「三位一体論」はその後も宗教改革の時代から今日にいたるまで、キリスト教会の最も重要な教え、教理として熱心に論じられてきました。すべてのプロテスタンと教会とカトリック教会が「三位一体論」を重んじています。「三位一体論」を信じるかどうかが、正統的な教会か異端かを判別する基準になっていると言ってよいでしょう。
 現在のキリスト教3大異端と言われる統一教会(世界平和統一家庭連合)、エホバの証人(ものみの塔)、モルモン教はいずれも「三位一体論」を否定します。彼らはしばしばそれを否定する理由として、「三位一体」という言葉が聖書の中にはないからだと言いますが、しかし彼らは「三位一体論」を否定することによって、聖書には書かれていないより重要な誤った教えを数多く考え出しています。たとえば、主イエスは神ではないとすることによって、彼らの教派の創設者、教祖が主イエスの代わりに神になります。また、聖霊が神ではないとすることによって、人間の努力とか精神とか、あるいは人間の信仰的な行動が聖霊なる神に代わって重要視されます。それによって、主イエスの十字架と復活の福音によって救われるという信仰だけでは不十分であり、他の何かによって主イエスの救いの不十分さを補わなければならないと主張します。しかし、それはもはやキリスト教ではありません。「三位一体論」を否定するならば、だれも正しい信仰に至ることはできませんし、真実の救いに至ることもできないのです。
 「三位一体論」は古代教会の神学者たちが聖書の中で証しされている信仰の真理から必然的に導き出された教理であり、聖書で証しされている神について、より正確に、より深く理解するための教理です。さらに言えば、神の救いのみわざをより確実に、より強力にわたしたちのものとするための教理なのです。三位一体なる神の救いのみわざは完全であり、永遠です。
 では、聖書の中で「三位一体論」はどのように証しされ、教えられているかを、聖書の主な個所を読みながら確認していきましょう。旧約聖書のイスラエルの信仰から新約聖書の教会の信仰に至るまで一貫していることは、神は唯一の神であるということです。一神教、唯一信教が聖書の教えです。ただお一人の神を信じ、この神だけを礼拝します。他の神々が多数共存しているギリシャや東洋、日本の宗教観とは根本的に違っています。
 出エジプト記20章2~3節にはこう書かれています。「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。あなたには、わたしのほかに神があってはならない」。また、申命記6章4~5節では、「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」と命じられています。神は唯一である。主なる神はただお一人である。これが旧約聖書以来の信仰の基本です。
 主イエスはマルコによる福音書12章28節位以下の箇所で、この申命記6章のみ言葉を引用しながら、「唯一の主なる神を愛し、またあなたの隣人を愛しなさい」と教えられました。使徒パウロはローマの信徒への手紙3章30節で、「実に、神は唯一だからです」と教え、コリントの信徒への手紙一8章1節以下の箇所で、「唯一の神以外にいかなる神もいない。万物はこの唯一の父なる神から出て、わたしたちはこの神へ帰って行く」と書いています。
 「三位一体論」はこの唯一神教から出発します。この唯一信教の信仰を土台にし、そのうえで、主イエス・キリストが神であり、聖霊が神であると証しされている聖書の証言とを、どのように調整し、統一させるのか。つまり、父なる神とみ子なる神、主イエス・キリストと、聖霊なる神が、いずれもまことの永遠なる神であり、しかも三つの別々の神であるのではなく、一つの神、唯一の神であるという聖書の証言をどのように言い表すかが「三位一体論」の課題になるわけです。
 では次に、三位一体なる神についての具体的な聖書箇所を読んでみましょう。マタイ福音書28章18~20節にはこうあります。【18~20節】(60ページ)。今日、わたしたちが洗礼を受ける時もこの聖句が読まれますが、ここで「父と子と聖霊」の名前と言われる場合、普通ならば三つの名前ですから、「名によって」の名は複数形にならなければなりませんが、原文のギリシャ語では単数形になっています。つまり、父なる神の名前、子なる神、キリストの名前、そして聖霊なる神の名前は三つの別々の神の三つの名前なのではなく、一人の神の一つの名前であるということが、ここには暗示されているのです。
 主イエスご自身に「三位一体なる神」という認識があったのかどうかとか、この福音書が書かれた時に、これを書いた著者にその信仰があったのかどうかということは議論の余地があると言えますが、少なくとも初代教会が「父と子と聖霊の名によって」洗礼を授けていた際に、三つの別々の神を信じていたのではなかったということは明らかです。もちろん、わたしたちの場合も同様です。父なる神とみ子なる神、主イエス・キリストと聖霊なる神が、わたしたち人類の救いのために、またわたしの救いのために、受難と、十字架の死と、復活と、昇天と、聖霊降臨とによって、一つの救いのみわざをなしてくださった、その救いのみわざは完ぺきであった、完全であり永遠であり普遍であったということを、「三位一体論」は強調しているのです。父なる神としても、み子なる神としても、聖霊なる神としても、神はいつでもだれに対してもご自身の全ご人格をフル動員され、その愛と恵みとをすべてお用いになって、わたしの救いのためにお働きくださっておられる、そのことを「三位一体論」は強調しているのです。
 新約聖書からもう一箇所を読んでみましょう。コリントの信徒への手紙二13章13節です。【13節】(341ページ)。これは、初代教会以来、全世界の教会の礼拝で用いられている祝祷のみ言葉です。わたしたちはこの三位一体なる神の祝福を受けて、この世へと派遣されていきます。礼拝から始まるわたしたち信仰者の歩みは「三位一体なる神」の祝福によって包まれており、父なる神、み子なる神、聖霊なる神が常にわたしたちの歩みに伴っていてくださるのです。パウロはここでも、他のところでも「三位一体」という言葉を用いてはおりませんが、彼の手紙の至る箇所から「三位一体なる神」のお働きを読み取ることができます。
 最期に、エフェソの信徒への手紙1章3節以下を読んでみましょう。まず、【3~5節】(352ページ)。ここでは、父なる神のお働きが天地創造から始まり、み子主イエス・キリストによってわたしたちを救いの民としてお選びくださったことが告白されています。
 次の【6~12節】。ここでは、み子主イエス・キリストの十字架の血による贖いと、救いの完成に至るまでの執り成しのお働きが告白されています。
 そして、【13~14節】。ここでは、聖霊なる神のお働きが告白されています。終りの日に、神の国が完成され、わたしたち信仰者が神の国の民として神の栄光にあずかる者とされる確かな証印として、補償として、聖霊はわたしたちに与えられています。
 このようにして、「三位一体なる神」は、父なる神として、み子なる神として、そして聖霊なる神として、そのすべてのご人格をお用いになり、わたしたち一人一人の救いの完成のためにお働きくださるのです。この「三位一体なる神」によらなければ、罪の中で死んでいる人は、本当の命を生きることはできませんし、またこの「三位一体なる神」以外の何かによっては、だれも本当の救いを与えられることはありません。したがってまた、この「三位一体なる神」によって、わたしたちすべてに確かな、そして完全な救いが与えられているのです。わたしたちは大きな感謝と喜びとをもって、「わたしは三位一体なる神を信じます」と告白するのです。

(執り成しの祈り)
○天の父なる神よ、あなたの救いのみわざは完全であり、永遠であり、普遍であることを信じます。どうか、だれもあなたの救いから漏れることがありませんように。すべての人が主キリストと聖霊によるあなたの救いに招かれますように。
主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

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