9月24日説教「異邦人コルネリウスが見た幻」

2023年9月24日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:イザヤ書56章1~8節

    使徒言行録10章1~8節

説教題:「異邦人コルネリウスが見た幻」

 使徒言行録10章1節から、カイサリアでの「コルネリウスの回心」と言われる出来事が始まります。これは11章18節まで続きます。使徒言行録の中で、一つの出来事としては最も長く記録されており、出来事の経過が詳しく語られ、また同じ内容が繰り返して語られています。この出来事が使徒言行録の中で非常に重要な意味を持っていることを表しています。そして、最後に11章18節には、次のようなまとめの言葉が記され、この出来事の頂点に達します。そこをあらかじめ読んでみましょう。【11章18節】。

 神は、主イエス・キリストの福音によって、先に選ばれた民イスラエルだけでなく、異邦人にまで救いのみ手を差し伸べてくださった。そして、全世界の、すべての人々に対しても、まことの命に至る悔い改めの道を、罪からの救いの道を開いてくださった。そのことが、コルネリウスとその一家、また彼の友人たちも含めて、多数の異邦人が洗礼を受け、また聖霊の賜物が与えられるということによってはっきりと示されたのです。

 異邦人の回心については、すでに8章26節以下に、エチオピアの高官がピリポから洗礼を受けたという出来事が記されていましたので、そのこと自体は新しいことではありませんが、ここでコルネリウスの回心について多くのスペースを割いて報告されていることには、理由があります。と言うのは、初代教会においては、異邦人への伝道の道が開かれたことによって、それに伴っていくつかの重要な課題が浮かび上がってくることになったからです。その課題の一つが、旧約聖書の律法の問題です。律法では、神に選ばれた聖なるものと、そうではない宗教的に汚れたものとの区別を明確に定めています。異邦人伝道においては、その区別をどのようにして乗り越えるかが大きな課題となりました。その課題を念頭に置きながら、きょうのみ言葉を読んでいきましょう。

 【1~2節】。カイサリアはエルサレムから北西約100キロメートル、地中海に面したパレスチナ地方最大の港町でした。当時は、ローマ帝国に属するユダヤ州の首都が置かれ、ローマ軍が駐留していました。カイサリアにはすでに8章40節に書かれてあったように、エルサレム教会の大迫害によって市内から追放されたフィリポが福音を宣べ伝えていました。その後のフィリポの活動についてや、この町に教会がすでにあったのかどうかについては書かれていませんが、やがてこの町に異邦人の教会が建てられていくことになる、その次第について、わたしたちはこのあとで読むことになります。

この町の駐留ローマ軍の百人隊長(百人の兵士を指揮する隊長)で、コルネリウスとう人物についての紹介が2節に詳しく書かれています。彼は「イタリア隊」と呼ばれる部隊の隊長ですから、生粋のローマ人であったと思われます。ユダヤ人から見れば、神の選びの民ではない異邦人ということになります。

でも、彼は旧約聖書のイスラエルの民、ユダヤ人の宗教、ユダヤ教の神を信じていました。異邦人でありながらイスラエルの唯一の神を信じている人を一般には「敬神家」と呼びます。正式にユダヤ教に改宗するためには、割礼の儀式を受け、洗礼を受けることが必要でしたが、敬神家は正式な改宗者ではありませんでしたが、その信仰は非常に熱心でした。

イスラエルの民・ユダヤ人は紀元前8世紀ころから世界各地に散らされていきましたが、彼らをディアスポラ・ユダヤ人と呼びますが、彼らは散らされた地で会堂を立て、旧約聖書の律法を守り、主なる神を信じる信仰を貫いていきました。彼らディアスポラ・ユダヤ人の信仰の証しによって、旧約聖書が教えている唯一神教や神の天地創造の信仰、高い倫理観や道徳心、さらに固い共同体意識が各地の教養ある人々に強い影響を与えました。それらの敬神家は、正式にユダヤ教に改宗するには至っていませんでしたが、ユダヤ人の会堂に出入りし、ユダヤ人と一緒に礼拝し、ユダヤ人と同じように律法を守り、祈りの生活をし、旧約聖書の教えを学んでいました。

 コルネリウスはそのような敬神家の一人でした。彼の家族もみなイスラエルの神を敬っていました。彼はその信仰の証しとして、貧しい人々のために施しをし、日に三度の祈りをささげ、おそらくはエルサレム神殿への巡礼も欠かさず行っていたと思われます。彼は非常に熱心な敬神家でした。けれども、彼の信仰はそのままどれほどに熱心を極めたとしても、そこには真実の救いはないのだということを、わたしたちは言わなければなりません。いや、わたしたちがそう思うよりもはるか前に、神ご自身が彼を真実の信仰へと、まことの救いへとお導きくださるために道を備えておられるのです。主なる神はこの熱心な敬神家コルネリウスが主イエス・キリストの十字架の福音によって本当の意味で救われるために、また彼の家族と彼の周囲の親しい友人たちも本当の救いを経験するために、使徒ペトロをお用いになり、そのみわざをお進めになります。

 【3~8節】。「午後3時」はユダヤ人の祈り時でした。熱心なユダヤ人は朝9時と正午と午後3時に、神に祈りをささげる習慣がありました。敬神家のコルネリウスもその習慣を守っていました。その時、神の天使が現れました。「神の天使」と「幻」は、旧約聖書以来、神が人間に現れ、語りかけられる時の啓示の手段の一つです。そこでは、神ご自身が人間と出会われ、人間に語っておられます。

 4節の「怖くなって」と訳されている箇所は、「恐れる」という言葉です。聖書の中にしばしば書かれている、人間が神と出会う際に覚える、いわば「聖なる恐れ」のことです。罪に汚れている人間が聖なる神と真実の出会いをする際に覚えざるを得ない恐れのことです。わたしたち人間はだれもみな罪に汚れ、滅ぶべき者です。いと高きにおられる聖なる,永遠なる神、最高の裁き主なる神のみ前に立つときに、わたしたちはだれもみな恐れざるを得ません。このような聖なる恐れがなければ、そこには真実な神との出会いも起こりません。もし、神に対する聖なる恐れを失っていたら、その信仰は単なる教養とか、道徳や倫理とか、あるいはご利益主義的な信仰になってしまうでしょう。

 コルネリウスは聖なる恐れの中で、「コルネリウスよ」という呼びかけを聞き、彼は「主よ、何でしょうか」と応答します。主なる神を恐れ、そのお招きに応える時、神はわたしたち人間から恐れを取り除き、恐れに替えて喜びと感謝とをお与えくださいます。コルネリウスの場合もそうでした。

 神は彼の熱心な信仰とその証しである祈りと施しを覚えていてくださると天使は告げます。神はすべての人の信仰の歩みを、たとえそれが人々の目には隠されていても、だれにも気づかれなくても、そのすべてを見ておられ、覚えておられます。覚えるとは、よく見ておられるとか記憶にとどめておられるという意味だけでなく、神が彼の信仰の歩みとその行ない、奉仕に対して正しく報い、応えてくださるということでもあります。

 神はコルネリウスに対して、どのように報い、応えてくださるのでしょうか。彼自身はまだその恵みの大きさに気づいてはいませんが、神は彼の信仰のわざや祈りに、はるかにまさる大きな恵みをもって、お応えくださいます。コルネリウスはあとになってそのことに気づきます。すなわち、神が使徒ペトロをお用いになって、彼と彼の家族とがいまだ聞いたこともなく、見たこともないほどの限りなく大きな、豊かな救いの恵み、主イエス・キリストの十字架の福音と出会い、それによって悔改めへと導かれ、罪のゆるしを与えられ、朽ちることのない永遠の命を受けとるという、大きな恵みをもって神が応えてくださるということを、コルネリウスはやがて知ることになるのです。

 神はわたしたちの小さな、欠けの多い信仰に対しても、貧しい証しのわざや、たどたどしい祈りをもみな覚えていてくださり、それらに対してもわたしたちの願いにはるかにまさった大きな恵みをもって、お応えくださるということを、わたしたちは信じたいし、信じてよいのです。

 神の使いは、ヤッファにいるペトロを招くようにとコルネリウスに指示します。エルサレム周辺の町々に宣教活動をしていたペトロは、9章43節によればヤッファで皮なめし職人のシモンの家に滞在していたと書かれていました。ヤッファはカイサリアから地中海沿岸に沿って50キロメートルほど南にある町です。ヤッファではペトロが病気で死んだタビタを生き返らせたという奇跡について、すぐ前に書かれていました。ヤッファにはすでに信仰者の群れができていました。シモンもすでに洗礼を受け、その群れの一員だったと推測されます。

 シモンは皮なめし職人であると紹介されています。当時の社会では、皮なめしという職業は最も尊敬されない、汚れた職業と考えられていました。しかしながら、シモンは主イエス・キリストを信じる信仰という、最高に尊い宝を与えられていました。神によって罪ゆるされ、救われている、神の民の一人とされていました。そして、初代教会のリーダーである使徒ペトロに宿を提供するという名誉を与えられています。それは、何という大きな恵みであることでしょうか。

 ペトロがシモンの家に滞在していたということは、ペトロが次の9節以下で見ることになる幻と何らかの関係があるように思われます。ペトロはその幻によって、神が清められた生き物はすべて清く、それを食べても汚れることはないということを神から示され、それによって旧約聖書の律法で定められていた宗教的に清い生き物と汚れた生き物の区別が取り除かれることになるのですが、それに先立って、主イエス・キリストを信じる信仰によって、どの職業が尊いとか汚れているとかの区別が取り除かれているということを、ここではあらかじめ語られていると読むことができます。

 主イエス・キリストの福音は、職業の違いによるすべての差別を取り除きます。職業に就くキリスト者は、その職業の違いにかかわらず、すべてのキリスト者は自分の職業をとおして主なる神に仕え、主キリストの福音を証しする使命を託されています。また、主キリストの福音を信じるキリスト者にとっては、男と女の違いからくる差別はすべて取り除かれます。みな互いに主キリストによって愛され、罪ゆるされている兄弟姉妹たちとして隣人に仕えるように招かれています。主キリストの福音を信じるキリスト者にとっては、民族や言語の違い、社会制度や生活様式の違い、その他のどのような違いも、お互いを分断したり、上下関係にしたりすることはありません。みな主キリストにあってみな一つだからです。みな主キリストの救いの恵みに生かされているからです。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、あなたが主イエス・キリストの福音によってわたしたちを一つの群れとして集めてくださったことを感謝いたします.どうか、この国と、アジアの諸国と、全世界とが、主キリストの福音によって一つに結ばれ、全き平和が築かれますように。

○分断や侵略によって多くの血が流され、多くの破壊がなされている国や地域に、あなたが和平と分かち合いとを与えてください。災害や食糧難によって犠牲にされている子どもたちや弱っている人たちに、助けの手が差し伸べられますように。そして、あなたからの平安と慰めが与えられますように。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

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