9月17日説教「悪霊に取りつかれた一人息子をいやされた主イエス」

2023年9月17日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:イザヤ書42章1~7節

    ルカによる福音書9章37~42節

説教題:「悪霊に取りつかれた一人息子をいやされた主イエス」

 ルカによる福音書9章37節にこのように書かれています。【37節】。「一同」とは、28節によれば、主イエスペトロ、ヨハネ、ヤコブの三人の弟子たちです。主イエスはこの日に、この三人の弟子たちを連れて、祈るために山に登られました。すると、祈っておられるうちに、主イエスのお姿が真っ白に光輝きました。「山上の変貌」と言われる場面です。その時、旧約聖書時代の偉大な二人の預言者、モーセとエリヤが主イエスと話している様子を、弟子たちは見ました。

 この「山上の変貌」と言われる出来事は、主イエスの最後の勝利と栄光のお姿を、先取りしています。この出来事が、18節以下のペトロの信仰告白と21節以下の主イエスの第一回目の受難予告、そして主イエスの弟子たる者は日々自分の十字架を背負って主イエスに従いなさいとの勧めの箇所に続けて描かれていることには、深い意味があります。すなわち、ご受難と十字架の主イエスは、また同時に復活と栄光の勝利者なる主イエスであられるということです。あるいはこう言い換えてもよいでしょう。主イエスはご受難と十字架の死の道を通って勝利と栄光に入られるのだと。そして、主イエスの弟子であるわたしたちキリスト者もまた、主イエスと同じように、苦難と十字架の死の道を通って勝利と栄光のみ国が約束されているのだと。

 前回わたしたちがそこで確認したもう一つの点は、旧約聖書の律法を代表するモーセと、預言者を代表するエリヤが主イエスと共にいて、主イエスがエルサレムで成し遂げようとしておられる最期のことについて話し合っていたということは、主イエスがこれからエルサレムで成し遂げようとしておられる十字架の死と三日目の復活、40日目の昇天、そして50日目の聖霊降臨によって、旧約聖書で約束されていた神の律法と預言とのすべてが成就されるということが、ここであらかじめ明らかにされているのです。主イエスはその救いの完成される日に向かってなおも歩みを進めていかれます。

 その翌日、主イエスは山から入りてこられ、大勢の群衆が待っている所に再びおいでになります。山の上での主イエスの栄光のお姿は一瞬にして終わり、主イエスは再び貧しい人間のお姿で、地上で待っていた群衆の中に入られました。主イエスは天の父なる神から遣わされた人の子として、この地に住む罪びとや病める人々のただ中にお帰りになりました。そして、エルサレムでのご受難と十字架への道をお進みになられます。

 ここに至って、わたしたちはなぜ前の場面でペトロが主イエスとモーセとエリヤのために山の上に小屋を建てる提案をしたとき、それが間違った判断であったのか、その理由をはっきりと知らされます。主イエスの栄光と勝利の時はまだ来ていません。主イエスの栄光のお姿を山の上に留めておくことは、主イエスのご受難と十字架の死を回避すること、それを避けていくことになります。十字架の主イエスがなければ、栄光の主イエスもありません。それゆえに、主イエスは今なお、しばらくはこの地上にとどまり、エルサレムまでのご受難と十字架への道をお進みになるのです。今なおしばらくは、この地上の罪びとたちと病める人たちの中にとどまり続けられるのです。彼らの一人をもお見捨てにはなさいません。主イエスが山の上に留まり続けることをなさらずに、いまだ罪と悲惨の中にあるこの地上に下ってこられたのはそのためでした。

 【38節】。37節には、大勢の群衆が主イエスを出迎えたと書かれていましたが、この時点ではまだ主イエスと群衆との出会いは起こっていませんし、救いの出来事も起こりません。わたしたちが群集の中の一人として主イエスを見ているならば、そこではまだ真実の出会いは起こっていません。群衆の中から、一人飛び出して、一人で主イエスのみ前に立ち、主イエスと対話をするとき、そこに主イエスとの出会いが起こり、主イエスによる救いの道が開かれます。

 この男の人は群衆の中から飛び出し、主イエスのみ前に立ち、大声で叫びました。と言うのは、彼にはそうせずにはおれない緊急の大きな課題があったからです。今すぐに主イエスの助けを必要としていたからです。主イエス以外には、彼の願いをかなえることができないように思われたからです。

 彼はこれまでのいきさつを説明します。彼の一人息子が悪霊に取りつかれ、けいれんなどのてんかんの症状によってひどく苦しめられていたので、主イエスの弟子たちに悪霊を追い出してくれるようにお願いしたが、弟子たちにはそれができなかった。それで、主イエスに直接にお願いに上がったというのです。

まず、父親としてのこの男の人の苦悩と、その息子の悪霊による苦しみのことを考えてみましょう。父親にとってこの子は一人息子であると強調されています。イスラエル社会においては、長男はその家の全財産と信仰と神の祝福を受け継ぎます。一人息子は父にとって、その家と氏族にとっても、大切な存在です。もし、一人息子が病気で死ぬことになれば、その家に与えられている神の祝福をも失うことになります。父親は必死になって主イエスにお願いしています。

病気の息子にとっては、苦しい戦いの連続です。悪霊は人間の意志や力をはるかに越えた暴力的な威力を発揮して、この子を苦しめます。この当時は、人間の重い病気や身体的・精神的障害は悪霊、あるいはサタンが働いていて、神のご支配から人間を引き離し、悪霊自身の支配下に置いている状態と考えられていました。4章31節以下に、主イエスがカファルナウムの町で安息日に会堂で悪霊に取りつかれた人を神の権威によっていやされたことが、また8章26節以下にも、ゲラサ人の地で悪霊に取りつかれた男の人を悪霊から解放されたという奇跡が記されていました。主イエスは神から遣わされたメシア・救い主として、神の権威によって悪霊を追い出され、その人を再び神の恵みのご支配の中へと招き入れられました。主イエスが悪霊を追い出されたことは、神の恵みのご支配が始まり、神の国が到来したことの目に見えるしるしでした

この父親が主イエスのみ前に立って、「わたしの子を見てやってください」とお願いをしたのは、弟子たちにはできなかったけれど、主イエスには確かに悪霊に勝利するみ力があると信じたからでした。主イエスは彼の願いをお聞きになります。

でも、その前に、主イエスは不信仰なこの時代と弟子たちの信仰の弱さを問題にされました。【41節】。9章1節によれば、12弟子たちが神の国の福音を宣教するために派遣されるにあたって、主イエスは彼らに「あらゆる悪霊に打ち勝ち、病気をいやす権能をお授けになった」とありますが、にもかかわらず弟子たちに悪霊を追い出す力がなかったということは、彼らにはまだ信仰がなかったからでしょうか。でも、ルカ福音書のこの箇所では弟子たちの不信仰は直接には非難されておらず、この時代全体がよこしまで不信仰な時代だと言われています。だから、いまだに悪霊がこの世で力を発揮し、人間を神の恵みから遠ざけているのだと、主イエスは言われるのです。

主イエスはここで、「いつまで、わたしは不信仰なあなたがたと共にこの地上に留まり、あなたがたの不信仰に耐えねばならないのか」と言われます。「いつまで」という言葉には二重の意味が含まれています。一つには,この時代の不信仰と弟子たちの不信仰がいつまでも続くかのように思われるほどに大きく、深く、信仰であるという主イエスの嘆きの大きさの強調です。しかし、もう一つには、やがてその不信仰には終わりがくる、終わりの時が定められているということです。主イエスご自身がその不信仰の時代を終わらせてくださるからです。

それはいつの時でしょうか。主イエスがこの地上で弟子たちと一緒におられる期間、邪悪でよこしまで不信仰なこの時代の人々と主イエスが共におられる期間はいつまででしょうか。主イエスがわたしたちの不信仰に耐えねばならない期間は、いったいいつまでなのでしょうか。わたしたちはこう答えます。それは,主イエスのご受難と十字架の死、そして三日目の復活によって、わたしたちを罪の支配から解放してくださる時までだと。主イエスが再びこの地上に立ってくださり、神の国を完成させてくださる終りの日までだと。

主イエスはその子どもをご自身のみ前に連れてくるようにと命じます。主イエスは悪霊に取りつかれて苦しむその子を、決してお見捨てにはなりません。そのために、栄光に包まれた山の上から罪が今なお支配しているこの地上へと下ってこられたのですから。

弟子たちにはその子をいやすことができませんでした。悪霊の支配からその子を解放する信仰がまだ足りませんでした。でも、その子を主イエスのみもとへと連れてくるための手助けはできます。それはわたしたちにもできることです。病んでいる人や苦しんでいる人、迷っている人を主イエスのみもとへと連れてくる、これが今わたしたちにできる伝道の基本です。

【42節】。悪霊、汚れた霊は人間をはるかに上回る暴力的な力で人間を支配します。人間を神の恵みから遠ざけようと、驚異的な力をふるいます。人間はそれに立ち向かうことはできません。しかし、悪霊の抵抗は主イエスのみ前に引き出され、自らの最後を知った者のあがきでしかありません。主イエスは神のみ子として、父なる神から託された権威によって悪霊、汚れた霊を叱責されます。「サタンよ、引き下がれ。この人から出ていけ」とお命じになります。

主イエスはその子どもを悪霊の支配から解放され、神の恵みのもとへと連れ戻され、父親にお返しになりました。その一人息子は長い間の悪霊の支配から解放され、主イエスを信じた父親と共に主なる神の恵みのもとへと連れ戻されたのです。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、あなたがみ子主イエス・キリストの十字架と復活の福音によって、わたしたちを罪と死の奴隷から救い出してくださり、あなたの民の一人としてわたしたちを教会の群れの中にお加えくださいました幸いを覚え、心から感謝いたします。どうか、わたしたちが再びあなたを離れて、罪の支配に屈することがありませんように。喜んであなたのみ言葉に聞き従い、忠実な僕としてあなたにお仕えする者としてください。

○主なる神よ、この世界とそこに住む人間たちを顧みてください。あなたから離れて、滅びへと向かうことがありませんように。わたしたちの間から争いや憎しみ、独善や傲慢を取り除いてください。ゆるし合ういや分かち合いの心をお与えください。あなたから与えられる義と平和で、この国を、アジアの諸国を、そして全世界を満たしてください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

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