9月10日説教「ヤコブの子どもたちの二度目のエジプト訪問」

2023年9月10日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:創世記43章1~34節

    ローマの信徒への手紙13章8~10節

説教題:「ヤコブの子どもたちの二度目のエジプト訪問」

 兄弟たちによってエジプトに売り渡された族長ヤコブの子どもヨセフは、エジプト王ファラオが見た夢を解き明かし、7年間の大豊作のあとにやってくる7年間の大飢饉に備えて、エジプトの倉庫に穀物を蓄えさせるという知恵をファラオに示しました。それによって、彼はエジプトの総理大臣に任命さることになりました。ヨセフの夢解きの知恵と、その夢によって、将来の飢饉のために備えるという知恵もまた、主なる神から与えられたものでした。神は異教の地エジプトに売り飛ばされたヨセフと共にいてくださり、ヨセフを祝福し、彼の信仰を導き、やがてヨセフによってヤコブの家族全員を飢饉から救うことへと導かれました。それによって、のちの民イスラエルと教会をお用いになって、全世界のすべての人々を罪から救われるという大いなる救いのみわざを前進させてくださったのだということを、わたしたちは創世記のみ言葉から教えられます。

 42章では、世界を襲った大飢饉のために、カナン地方のヤコブ一家にも食物が途絶え、ヤコブの子どもたちがエジプトのヨセフのもとへ穀物を買うためにでかけたことが書かれていました。彼らはそれがヨセフとは知らずに、エジプトの大臣の前にひれ伏して、穀物を分けてくれるようにお願いしました。この第一回目のエジプト訪問によって、ヨセフが子どものころに見た夢、すなわち、37章7節に書かれていた夢、ヨセフの兄弟たちがみんな彼の周りに集まって、彼の前にひれ伏すという夢が、一部、実現することになりました。

 でも、それはまだ一部でした。12番目の子ども、ヨセフの弟で、ヨセフと同じ母ラケルから生まれた子、ベニヤミンはその時エジプトに同行してはいなかったからです。と言うのも、父ヤコブが末の子ベニヤミンを特別にかわいがり、かつてヨセフを失ったように、このたびはベニヤミンを失うかもしれないと、エジプト行きを認めなかったからでした。

 ヨセフが見た夢、それは神のみ心であり、神の救いのご計画なのですが、それが完全に実現されるためには、ベニヤミンが欠けています。また、それとの関連で、ヨセフにとって、また創世記全体に貫かれている神の救いのご計画で、どうしても解決されなければならない問題、それは父ヤコブと最愛の妻ラケルとの間にようやくにして生まれた年寄子であるヨセフとベニヤミンに対する偏った父の愛、偏愛が克服されなければならないということです。

 そして、実は、この二つのことが、43章に書かれている二度目のエジプト訪問のテーマでもあるのだということに、わたしたちは気づかされます。その二つのことに注目しながら、43章を読んでいきましょう。

 【1~2節】。世界的な大飢饉が7年間も続くことになります。パレスチナ地方のヤコブ一家にもその影響は及びました。エジプトから買い求めてきた穀物は1年もすれば食べつくしてしまいます。父ヤコブは、彼はこの章では新しい名前であるイスラエルとして6節、8節、11節に書かれていますが、彼は年老いてはいましたが、族長として、また一家の長として、その一族や家族が一人も飢饉で死ぬことがないようにと、気をつかっています。それは単に一族、一家の長としての責任からくる配慮であるのではありません。彼は、アブラハム、イサクから受け継いだ神との契約を忘れてはいません。神はこう言われました。「わたしはあなたとあなたの子孫とを永遠に祝福する。わたしはあなたの子孫の数を増し加え、空の星、海の砂ほどに増やし、あなたの子孫にこの地を永久の所有として受け継がせる」と。ヤコブはこの神の約束のみ言葉を信じるがゆえに、毎年繰り返される飢饉という試練の中にあっても、冷静に、また希望をもって家族と一族のために行動することができたのです。

 けれども、ヤコブには人間的な弱さがありました。末の息子ベニヤミンに対する特別な、偏った愛から、彼はまだ解放されてはいませんでした。かつて、おなじ偏愛から、ヨセフを特別にかわいがったために、兄たちの憎しみを買い、エジプトに売り飛ばされました。兄たちはヨセフは野獣にかみ殺されたと父には報告していました。ヤコブはヨセフに続いて最愛の子ベニヤミンをも失うこと恐れて、最初のエジプト行きには同行させませんでした。

 ところが、3節以下で、ユダが発言します。彼はこう言います。「最初のエジプト訪問の際に、自分たちの身の上をエジプトの責任者に話したところ、その人は次に来るときには末の子も一緒でなければならないと厳しく命じました。だから、ぜひベニヤミンを連れて行かせてください。もし、ベニヤミンにもしものことがあったら、自分が全責任を負いますから」と。

ここでのユダのベニヤミンに対する忠実で責任ある言葉と42章37節の最年長ルベンの言葉とを並べてみましょう。まず、【42章37節】。この言葉によっても、父ヤコブはベニヤミンを連れて行くことには同意しませんでした。次に、【43章9節】。父ヤコブは、このユダの言葉によって動かされました。それがなぜであったかについては、何も説明されていませんが、ルベンとユダの二人の子どもたちの弟ベニヤミンに対する愛と責任ある言葉を聞いて、自らの感情に任せた偏愛の愚かさを、ヤコブは気づかされたのだろうと思われます。また、ルベンとユダの言葉の中には、かつて父の偏愛を受けていた弟ヨセフを憎み、彼を売り飛ばそうとした兄たちの罪の告白がなされていると、読むこともできるでしょう。人間的な愛の破れが、このようにして克服されていくのです。そして、神の救いのご計画が進行されていくのです。

13、14節の父ヤコブの発言は、まさに奇跡的と言ってよいかもしれません。【13~14節】。ヤコブは末の子ベニヤミンに対する偏愛から解放されています。ルベンとユダという二人の子どもの忠実な兄弟愛に刺激されたからでしょうか。自分の命を捨てる覚悟までもって守るべき真理があることを知ったからでしょうか。それもあったでしょうが、ここでははっきりと「全能の神」が、「全能の神の憐みが」がと言われています。彼は今、全能の主なる神の憐みを知る者とされたのです。

ヤコブ自身も母の偏愛を受けて育ちました。父を欺いて兄エサウの長子の特権を奪いました。そのヤコブが、多くの試練を経験し、その中でも神に守られて、そのようにして神は彼の信仰を練り清められたのです。ただ主なる神の全能のみ力に頼り、人間のすべての欠けや破れをもお用いになってご自身の救いのご計画を進めてくださる全能の神の憐みを求める信仰者としてくださったのです。その全能の神にすべてをお委ねするヤコブとしてくださったのです。

主イエスはマタイ福音書10章37節以下で言われました。「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。自分の命を得ようとするものは、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである」。ヤコブはこの信仰に生きる決断をしたのです。

そのようにして、ヤコブの子どもたち11人による二度目のエジプト行きが実行されました。【15~16節】。ヨセフはベニヤミンが一緒なのを見て、彼らを自宅での昼食に招きました。ところが、ヨセフだとまだ気づいていない兄弟たちは、自分たちが特別扱いされているのを不安に感じました。最初のエジプト行きの時に、穀物の代金として持参した銀が自分たちの袋に戻されていたのを思い起こし、そのことがとがめられるのではないかと思ったからです。

そこで、彼らはヨセフの使いである執事にあらかじめそのことを尋ねます。執事は、彼らの袋に銀を戻したのがヨセフの命令によってしたことを知っていましたから、23節でこのように答えています。【23節】。これは族長たちの主なる神を知らない異邦人であるエジプトの執事の言葉ですが、わたしたちはここにも主なる神のお働きを見るように思います。主なる神が異邦人の口をお用いになって、ご自身の測りがたく限りない恵みと導きを語っておられるように思います。

23節の冒頭を直訳すると、「あなたがたに平安あれ。恐れるな」となります。この言葉は神ご自身がエジプト人の執事の口をお用いになって、ヤコブの子どもたちに語った言葉と読むことができます。神はご自分の民イスラエルの試練や危機の時に、しばしば同じみ言葉をお語りになりました。出エジプト記14章で、エジプトを脱出したイスラエルの民がエジプト軍に追いかけられ、行く手を海に阻まれた時に、神はモーセによってこう言われました。「恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたたちのために行われる主の救いをみなさい。……主があなたたちのために戦われる。あなたたちは静かにしていなさい」(14章13~14節参照)。また、バビロンに捕虜として連れ去られていたイスラエルの民に、神はイザヤの口をとおしてこう語られます。「ヤコブよ、あなたを創造された主は、イスラエルよ、あなたを造られた主は、今、こう言われる。恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ」(43章1~2節)。そして、罪と滅びの中を歩んでいた世界の人々に最初のクリスマスの夜に語られたみ言葉は、「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである」(ルカ福音書2章10~11節参照)。

このようにして、神は今もなお、迷ったり、悩んだり、恐れと不安の中にあるわたしたち一人一人に対して、「恐れるな。安心せよ。平安があるように。わたしはいつもあなたと共にいる」と呼びかけてくださいます。

ヨセフと11人の兄弟たちとの食事が始まりました。ヨセフはまだ自分の身を明かしていません。でも、同じ母ラケルから生まれたベニヤミンの顔を見るとこらえきれずに、別室に移って涙を流しました。このところの記述は非常に感動的です。【29~31節】。ヨセフはまだ自分の身を明かしてはいませんが、20数年ぶりの兄弟12人の再会、そしてただ一人の弟ベニヤミンとの再会がこのようにして実現しました。

これはまた、ヨセフが子どものころに見た夢の実現でもありました。26節と28節に、11人の兄弟たちがヨセフの前にひれ伏し、ヨセフを排したと繰り返されています。でも、ヨセフ自身はそのことを全く誇ってはいません。すべては神のみ心だからです。神の救いのご計画がこのようにして進められていくからです。神はお選びになった信仰者たちをお用いになって、ご計画にしたがって、万事を益となるように導いてくださるのです。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ。天地創造の初めから今に至るまで、そして終りの日にみ国が完成する日まで、あなたは永遠なる救いのご計画を進めてくださいます。主よどうぞ、今この時代にも、あなたのみ心が行なわれますように。弱っている人を励ましてください。迷っている人を導き返してください。倒れている人、壁の前でたたずんでいる人を、希望の光で照らしてください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

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