12月10日説教「最も小さい者こそ、最も大きい」

2023年12月3日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:詩編130編1~3節

    ルカによる福音書9章46~48節

説教題:「最も小さい者こそ、最も大きい」

 教会の暦では、きょうからアドヴェント(待降節)に入ります。アドヴェントとは、「到来、接近」を意味するラテン語に由来しています。全世界の救い主イエス・キリストの到来・接近のことです。日本語では、それを待ち望む人間の側から見て、主キリストの到来を待つ期間という意味で「待降節」と呼んでいます。

 また、教会の一年の暦は待降節から始まっています。きょうは待降節第一主日、次週から第二、第三、そしてその次の24日が降誕節(クリスマス)礼拝、その後、降誕後第一主日、第二、というように数えていきます。このように、教会の暦が待降節から始まるというのは、教会の本質を言い表しています。つまり、教会は常に待望する教会である。待ち望む信仰者たちの群れだということです。主キリストの降臨を待ち望む教会、そして、主キリストの再臨の時を待ち望む教会、神の国の完成の時を待ち望む教会、それが教会です。

 使徒パウロはそのような待ち望む信仰者と教会の特徴を、フィリピの信徒への手紙3章12以下でこう言っています。「わたしはすでにそれを得たとか、すでに完全な者となっているのでもない。ただ、何とかして捕らえようと努めている。なぜなら、自分が主キリストによって捕らえられているから。だから、なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神が主キリストによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることだ」(12~14節参照)と。わたしたちもまた特にこの待降節に、天に約束されている永遠に朽ちない宝が与えられるのを切に待ち望みながら、教会の歩みを、また一人一人の信仰の歩みを続けていきたいと願います。

 ルカによる福音書を続けて学んでいますが、きょう朗読された箇所の少しあとの51節に、【51節】と書かれています。この51節から、主イエスのエルサレムに向かう旅が始まります。と言うことは、その前の46節から50節は、主イエスのガリラヤ地方での伝道の最後になります。その締めくくりと言うべき箇所です。

 しかし、その締めくくりの箇所では、ガリラヤ伝道の成果や実りがどれだけあったかとか、弟子たちがどれほどに訓練されて、来るべき神の国に入るための備えができたかとか、そのようなことがここで語られているのではなく、きょうの箇所では、弟子たちが「自分たちの中でだれがいちばん偉いか」を論じ合っていて、主イエスにとがめられている様子と、49節以下でも主イエスのみ心に反したことを弟子たちが行なっていたことが書かれています。ここでは、ガリラヤ伝道の成果について語られているのではなく、むしろ弟子たちの未熟さ、不信仰が語られているというべきでしょう。ガリラヤ伝道も弟子たちの訓練も、いまだ未完成であり、いまだ道の途中であるということがここでは明らかにされているのです。しかしまた、そうであるからこそ、主イエスはエルサレムでのご受難と十字架の死へと向かって前進なさるのだと言わなければなりません。それによって、弟子たちの信仰もまた完成されるからです。

 【46節】。弟子たちがなぜこのようが議論をし始めたのか、その理由ははっきりしませんが、すぐ前の44節の、主イエスの2回目の受難予告との関連で考えてみると、その意図が浮かび上がってくるように思われます。主イエスは言われました。「人の子は人々の手に引き渡されようとしている」と。また、9章22節の1回目の受難予告では、【22節】と言われました。ところが、45節に書かれていたように、弟子たちにはこの主イエスのお言葉の意味がよく分かりませんでした。その意味が彼らには隠されていました。また、その本当の意味を知ることを弟子たちは恐れていたとも書かれています。

 つまり、主イエスのご受難と十字架の死を理解できず、それを正しく受け止めることができず、主イエスがこれから進もうとしておられるエルサレムへの道を恐れていた弟子たち。むしろ、その主イエスのみ心とは正反対のことを考えていた弟子たち。そのような弟子たちの無理解と不信仰をより明らかにしているのが46節から50節なのだということに気づかされるのです。

 では、そのような視点からきょうのみ言葉を学んでいきましょう。46節で「一番偉い」と翻訳されているもとのギリシャ語は「メガス」という言葉の比較級です。「メガス」は形が大きいとか、質的に豊かであるとか、あるいは社会的な地位が高いという意味でも用いられますが、きょうの箇所では大きいか小さいかが議論されているので、「偉い」という評価を抜きにして、単純に「大きい」と翻訳するのが良いと思われます。

 したがって、48節の主イエスのお言葉も、「最も小さい者こそ、最も大きい」と翻訳するべきと思われます。そうしないと、大きいか小さいかが問題になっている箇所に、人間の価値判断で偉いか偉くないかという別の評価が持ち込まれて、両者が混同されてしまうからです。後でまた触れますが、主イエスはここで、人間の目から見てどちらが偉いか、偉くないかとか、どちらが人間的に価値が高いか、低いかということを問題にしているのではなく、主なる神がその人を大きいと見てくださるのか、それとも小さいと見られるのかということが重要だからです。

 そのことをより深く理解するために、マタイ福音書の並行箇所を参考にしてみたいと思います。マタイ福音書18章1節にはこう書かれています。「その時、弟子たちがイエスのところに来て、『いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか』と言った」。それに対する主イエスのお答えが3節に書かれています。「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ」(3~4節参照)。

 このマタイ福音書から明らかなように、ここで問題になっているのは、天の国、すなわち神の国にはどのような人が招かれているのか、また神の国においてはどのような人が大きいとされるのかということなのです。もっとも、ルカ福音書がきょうの箇所で「神の国では」という言葉を省いているから、ルカ福音書では神の国のことが論じられているのではなく、この世でのことが言われているのだと結論づけることは間違っています。この世でのことと来るべき神の国でのことは、全く違った別々の基準で見られるのではなく、この世でどのように生きるかということと、神の国で神ご自身がどのようにそれを見てくださるのかということは密接に結びついていることだと、聖書全体が教えているからです。

 したがって、わたしたちがルカ福音書を読む場合にも、ここでは神の国のことが問題にされているのだということを常に意識していることが必要です。もう一度確認しておきますが、主イエスはここで、人間としての価値とか、この世での社会的な評価とかを問題にしておられるのでは決してないということ、神ご自身がわたしたち一人一人をどうご覧になっておられるか、神がわたしたちに何を約束しておられるのか、また実際に神の国において神がわたしたちをどのようにお迎えくださるのか、そのことがここでは重要だということです。

 では次に、【47~48節】。弟子たちは主イエスには悟られないように、隠れて、「だれがいちばん大きいか」と議論していたようです。けれども、主イエスは弟子たちの心の中にある傲慢や欲望や競争心といった、人間の罪の根源をすべて見ておられ、知っておられます。そのような人間の罪が、他者を押しのけ、あるいは犠牲にし、あるいは否定し、自分一人だけが高くに登ろうとして、ついには神をも押しのけてしまう結果に至るということを主イエスは見ておられ、知っておられます。旧約聖書以来、聖書の全巻がそのような人間の罪について語っているからです。

 そのような罪に支配されている弟子たちには、主イエスの受難予告は理解できず、受け入れることはできません。罪なき神のみ子であられながら、ご自身が罪びとの一人に数えられ、それだけでなく、すべての罪びとたちの罪をお引き受けになって、罪びとたちの手から手へと引き渡され、偽りの裁判で裁かれ、弱々しく、全く小さな、無力な存在となられて、十字架で死んでいかれる主イエスを神から遣わされたメシア・救い主と信じ、受け入れることは、罪に支配されていた弟子たちにはできません。

 そこで、主イエスは一人の子どもをお招きになります。そして、この子どもを主イエスのみ名によって受け入れる人こそが、主イエスを信じ、受け入れる信仰者であると言われ、またそのような信仰者こそが神の国に招き入れられるのだと言われました。

 「わたしの名のためにこの子供を受け入れる」とは、主イエスがこの子どもと同じ存在であることを信じる、あるいは主イエスをこの子どもと同じお方として信じ、受け入れるということを意味します。子どもは親や大人の手助けがなければ、自分で自分の衣食住を手に入れることはできず、死ぬほかにありません。全く力なく、無力で貧しく小さな存在です。その存在と命のすべてを親や大人に依存しています。主イエスはまさにそのような神のみ子であられました。天の父なる神の助けなしには何もなしえず、すべてを父なる神に依存し、父なる神に期待し、それゆえに、すべてにおいて父なる神に服従して生きるほかにない神のみ子として、主イエスはご受難と十字架への道を進まれたのです。

 主イエスがそのようにして、神のみ子として、最も小さな貧しい神の僕(しもべ)として、父なる神に全き服従をささげて十字架への道を進もうとしておられる時に、弟子たちはその道とは全く正反対の道を目指し、自らを高く、大きくしようと競い合っていたのです。けれども、主イエス・キリストの十字架はそのような人間の傲慢や欲望や競い合いのすべてを打ち砕き、その罪の道に終止符を打つのです。

 そのような主イエスを、神から遣わされたメシア・救い主として受け入れ、全人類の唯一の救い主と信じることが、わたしたちの信仰です。ご自身を全く無にされ、ご自身のすべてを父なる神にささげつくされ、そしてわたしたちのためにその命をおささげくださった主イエスこそが、わたしの救い主であると信じる信仰、主イエスの十字架の死にこそわたしの罪のゆるしと救いのすべてがあると信じる信仰、そのような信仰を主イエスは求めておられるのです。

 

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、あなたがわたしたちの罪のために、み子を十字架に引き渡され、それによってわたしたちの罪を贖い、救ってくださいましたことを感謝いたします。どうか、わたしたちをあなたのみ前で謙遜になり、悔い改める者としてください。

○主なる神よ、あなたの義と平和によってこの世界に真の和解と共存をお与えください。

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