12月10日説教「神が主キリストによって告げ知らせた平和の福音」

2023年12月10日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:イザヤ書52章7~10節

    使徒言行録10章34~43節

説教題:「神が主キリストによって告げ知らせた平和の福音」

 使徒言行録10章の、異邦人コルネリウスの回心と言われる出来事を続けて読んできました。きょうは、コルネリウスの家でのペトロの説教の箇所を学びます。この説教は使徒言行録に記されているペトロのいくつかの説教の中で、異邦人に向けて語られた最初の説教です。初代教会で異邦人伝道がどのようにして始められたのかを知るうえでも、貴重な内容を含んでいます。

 ペトロの説教は、彼がどのようにして異邦人であるコルネリウスの家に説教者として招かれてきたのか、そのきっかけとなった出来事を思い起こしながら語り始めています。【34~35節】。「神が人を分け隔てなさらない」ことは、すでに28節で、コルネリウスの家に入ってすぐのあいさつの中でも語られていました。そしてこれが、10節以下に書かれていたペトロが見た幻の本来の意味なのです。今一度、彼が見た幻の本来の意味を確認しておきましょう。

 ペトロが見た幻は、旧約聖書で定められていた宗教的に汚れた動物、それゆえに食べてはならない動物と、食べてもよい清い動物の区別、いわゆる「食物規定」に関連していました。でもその本来の意味は、先に神に選ばれた民イスラエルとそうではない異邦人との区別のことであり、神がすべての食べ物が清いと言われたように、異邦人もまた今や神の選びの中に加えられ、清い民とされているということがそこで明らかにされたのです。これが、ペトロが見た幻の本来の意味であったということに、ペトロはあとで気づきました。と言うのは、主イエス・キリストの福音がイスラエルの民ユダヤ人にだけでなく、全人類に、すべての人に宣べ伝えられるようになったからです。もはや、イスラエルの民と異邦人との区別は不必要になったからです。

 だれであっても、神を恐れ、神を礼拝する人、神のみ言葉に聞き従う人を、民族の違いやその他の人間の側のあらゆる違いにかかわらず、神はすべての人を同じようにみ前にお招きくださるとペトロは語ります。天地万物を創造された主なる神はイスラエルの神であられるだけでなく、すべての民族、すべての人の神でもあられ、すべての人を罪から救い、神の国へとお招きになる唯一の主なる神です。神はそのことを人の子としてこの世にお遣わしになったみ子、主イエス・キリストの十字架と復活の福音によって明らかにされました。

 ペトロは続いて主イエス・キリストのことを語ります。【36~37】。36節では二つの重要なメッセージが語られています。一つは、「イエス・キリストこそがすべての人の主である」ということ、もう一つは、「主イエスは平和を告げ知らせた」ということです。この二つのことについて、もう少し詳しくみていきましょう。

 「イエスは主である」、これが初代教会の信仰告白の土台であり核であり、出発点であると言われています。聖書の中で一般的に用いられている「主イエス・キリスト」という表現は、その信仰告白を土台にしています。つまり、ガリラヤ地方のナザレでお生まれになったヨセフの子イエスは、全世界の唯一の主であり、神が旧約聖書で約束しておられた「油注がれたメシア・キリスト・救い主」であるという信仰がこの言葉で言い表されているのです。この「イエスは主である」という告白をもとにして、今日わたしたちが告白している『使徒信条』などの告白文章が形成されていったと考えられています。

 「主」という言葉には多くの意味が含まれます。第一には、「救い主」という意味です。キリストはギリシャ語ですが、もとのヘブライ語はメシアです。本来「油注がれた者」という意味ですが、イスラエルの民は神が油を注いだまことの王、まことの祭司、まことの預言者として、イスラエルを救ってくださるメシアを待ち望んでいました。主イエスこそがそのメシア・救い主・キリストであるという告白が「主イエス」という表現には含まれているのです。ペトロがこのあと説教の中でその主イエスの救いのみわざについて詳しく語っています。しかも、その中で重要なポイントをあらかじめ指摘しておくと、主イエスはイスラエルの民にとっての救い主であるだけでなく、全世界のすべての民、すべての人にとっての救い主であるということを、ペトロは強調しています。

 「主」という言葉のもう一つの意味は、すべての偶像の神々、偽りの神々が否定されているということ、また、人間が神に代わって自らこの世界の主として支配しようとする、人間のすべての悪しき権力が否定されているということです。主イエスのみ前にあっては、すべての偶像の神々、偽りの神々はその力と栄光を失います。人間はみな主イエスのみ前にあっては、罪の中で滅びるほかにない土くれに過ぎない者であることを知らされます。この世界にあるすべての被造物はこぞって主イエスのみ前に首(こうべ)をたれ、ひれ伏すほかにありません。

 次に、「主イエスは平和を告げ知らせた」というメッセージについてですが、これについてもペトロのこのあとの説教で詳しく語られるのですが、あらかじめポイントとなる二つのことに触れておきたいと思います。

一つは、平和とは、まず神と人間との間の平和のことです。それは、罪のゆるしによって与えられる神と人間との和解のことです。イザヤ書52章7節にはこう預言されています。

いかに美しいことか/山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。彼は

平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え/救いを告げ/あなたの神は王となられた、と/シオンに向かって呼ばわる。

 ルカによる福音書1章10節以下には、最初のクリスマスの日にその預言が成就したと書かれています。

 「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。……すると突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。『いと高みところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ』(10~14節参照)。

主イエスの十字架の福音によって人間の罪がゆるされ、神と人間との間に平和が実現したのです。

 平和のもう一つの意味は、神と人間との平和によってさらに人間と人間との間の平和もまた実現しました。人間の罪が取り除かれたところに、真の意味での人間と人間との間の平和、民族と民族との間の平和、世界全体の平和が実現するからです。共に神によって罪ゆるされている人たちとして、もはやお互いを裁き合う必要がなくなるからです。

 あるいはここには、ユダヤ人と異邦人との平和と言うことも暗示されているのかもしれません。エフェソの信徒への手紙2章11節以下では、主イエスの十字架の血によって、異邦人とユダヤ人と間の平和が与えられ、両者が一つの新しい人に造り上げられたと書かれています。主イエスの十字架の福音が、地上のすべての分断、分裂、差別、偏見を取り除き、真の和解と平和と創り出すからです。

 37節から、ペトロの説教は主イエスのご生涯とそのお働きについて進んでいきます。「あなたがたはご存じでしょう」とは、主イエスの地上でのお働きについてカイサリアの人たちがすでに聞き知っていたということです。カイサリアは地中海沿岸にありますが、南部のユダヤ地方と北部のガリラヤ地方の中間に位置していますから、もしかしたらコルネリウスの家に集まっている人の中には直接主イエスのお姿を見たことがある人もいたかもしれません。また、エルサレム教会の大迫害で市外へと散らされた一人のフィリポがすでにカイサリアにまで足を運んで福音を宣べ伝えていたと8章40節に書かれていましたから、彼から主イエスのことを聞いた人もいたでしょう。

 ペトロは38節から具体的に主イエスのお働き、救いのみわざについて説教します。【38~41節】。38節の「油注がれた者」が先ほど説明したヘブライ語でメシア、ギリシャ語でキリストです。神が旧約聖書で約束されたまことの救い主のことです。ここでは、具体的に主イエスの洗礼を指していると考えられます。主イエスが洗礼をお受けになった時に、ルカ福音書3章21、22節にこのように書かれています。「イエスが洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降(くだ)って来た」。主イエスは父なる神からの聖霊を受けて、神の力と権威を与えられ、数々のいやしの奇跡を行われ、悪霊を支配され、神の国が到来し、神の恵みのご支配が始まったことを実証されました。

 そして、39節と40節では、主イエスの十字架の死と復活、復活の顕現について語られています。ペトロの説教は、これまでユダヤ人対象に語ってきた説教がいくつかありましたが、その説教も、またここでの異邦人に向けて語られた説教でも、その中心的な内容は主イエス・キリストの十字架と復活の福音です。そのことは、対象がだれであれ、あるいは時代がどのように変わろうとも、全く変わりません。今日の教会でわたしたちが聞くべき説教も、主イエス・キリストの十字架と復活の福音です。教会の福音宣教の働きが困難な時代であれ、世の人々の好みが変化し、教会に足を向ける人が少なくなった時代であれ、あるいは高度なテクノロジーが発達し、人間の生活の多くがデジタル化されたり、宇宙に飛行船が飛び交うようになったとしても、教会が語り、聞くべき言葉は、主イエス・キリストの十字架と復活の福音以外ではありません。

 なぜならば42節以下にこのようにあるからです。【42~43節】。主イエス・キリストこそが終末の時、この世が終わり、新しい神の国が完成される時に、「生きている者と死んだ者」のすべてを最終的にお裁きになるために、再びわたしたちの前に立たれる裁き主だからです。

 また、主イエス・キリストを信じる者は、だれであれ、ユダヤ人であれ、異邦人であれ、若者であれ、老人であれ、悲しんでいる人であれ、孤独な人であれ、病や痛みや重荷に苦しむ人であれ、そのほかだれであれ、すべての人がその信仰によって罪ゆるされ、救われ、神の国での永遠の命を受け継ぐことが許されるからです。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、あなたの永遠なる救いのご計画の中にわたしたち一人一人をも招き入れていてくださいますことを覚え、心から感謝し、あなたの尊いみ名をほめたたえます。だれもあなたの救いから漏れる人はいません。主よ、どうか教会の宣教の働きを強めてください。わたしたち一人一人をも主イエスの復活の証人としてお用いください。

○主なる神よ、あなたの義と平和とによって、この世界から争いや分断、殺戮や破壊、憎しみや怒り、不安や恐れを取り除いてください。主キリストにある喜びと平安とで満たしてください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

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