12月17日説教「ヤコブからヨセフの子どもたちへ受け継がれた神の祝福」

2023年12月17日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:創世記48章1~22節

    ヘブライ人への手紙11章17~22節

説教題:「ヤコブからヨセフの子どもたちへ受け継がれた神の祝福」

 エジプトに移住することになったヤコブ一族は、エジプト北部のゴシェンの地で、羊などの家畜を飼う民族として、400年以上の長い期間を寄留の民として過ごすことになりました。けれども、彼らはアブラハムから受け継いだ信仰を捨てることなく、エジプトの神ではなく、アブラハム、イサク、ヤコブの神、すなわち、のちのイスラエルの神、主イエス・キリストの父なる神に対する信仰を持ち続けました。彼らの400年以上にわたるエジプトでの生活については聖書は全く語っていませんし、聖書以外の資料も残ってはいませんが、エジプト王朝の絶対的な権力のもとで、なぜ、どのようにして彼らが長くその信仰を維持することができたのかを考えてみれば、それは全く驚くほかはありません。この驚きについては、説教の終わりでもう一度触れたいと思います。

 前回読んだ46章には、世界規模の激しい飢饉が2年も続いたために、ついにヤコブが一族を挙げてエジプトに移住することになったことが書かれていました。次の47章には、ヤコブがエジプトの王ファラオと会見し、ゴシェンの地、またはラメセスの地に定住する許可を得たこと、それに、ヨセフが7年間続いた飢饉の中で知恵を発揮し、エジプトの繁栄のために貢献したことが語られています。

 きょうの礼拝で朗読された48章では、死ぬ時が近づいたヤコブがヨセフの二人の子どもを祝福したこと、また次の49章ではヤコブが12人の子どもたち全員を祝福したことと、ヤコブの死について描かれています。きょうは48章と49章から、ヤコブの祝福について学んでいくことにします。

 48章8~9節を読んでみましょう。【8~9節】。また、【20節】。49章では、ヤコブの長男ルベンから始まって、末の子ベニヤミンまでの12人の子どもたち一人一人の名前を挙げてヤコブが祝福の言葉を語ったことが記され、その最後の28節に、このように書かれています。【49章28節】(91ページ)。ヤコブはこのようにして、自分の子どもたちと孫にあたるヨセフの二人の子どもを祝福しました。族長ヤコブが死の直前に子どもたちを祝福したこと、そのことの意味、意義、重要性のことをまず取り上げてみたいと思います。

 信仰者がその人生の終わりに臨んで、最後になすべきことは何でしょうか。族長イサクがそうであったように、その子ヤコブも、すでに目がかすんで見えなくなり、足腰が弱って立たなくなり、体のすべての機能が衰えてきた時に、その最後の力を振り絞って、彼が死ぬ直前になすべきこと、それは子どもたちを祝福することでした。神からの祝福を子どもたちに受け継ぐこと、床に足を伸ばし、息絶えるその直前に、歯が抜け落ちたその口から洩れる最後の言葉が、神の祝福を祈る言葉であるということ、それこそが信仰者の生涯の最後になすべきことであり、また信仰者の生涯の中でもっとも偉大なわざであるのではないでしょうか。

 なぜならば、神の祝福はヤコブの死を越えて、信仰者の死を越えて、子どもたちに、次の世代へと受け継がれていく、最も偉大な財産であるからです。49章33節にこのように書かれています。【33節】(91ページ)。子どもたちに神の祝福を受け継いで、ヤコブの生涯は全うされました。彼の生涯は、47章28節によれば、エジプトへ移住してから17年、147年であったと書かれていますが、その信仰の歩みは試練に満ちたものでした。しかしまた、アブラハム、イサクから受け継いだ神の祝福を信じ続け、多くの子どもを賜り、事実、神の祝福をいっぱいに受けた生涯でありました。彼は死にます。しかし、受け継いだ神の祝福は、また彼が子どもたちのために祈った神の祝福は、彼の死を越えて、子どもたちへ、次の世代へ、イスラエルの民へ、そしてさらに、主イエス・キリストの教会へ、わたしたちへと受け継がれていくのです。永遠に消えることのない神の祝福、それを持ち運んだヤコブの生涯、そして彼の死の直前に、その神の祝福を子どもたちへと受け渡したヤコブ、これが創世記48章と49章に貫かれている大きな主題なのです。

 では、ヤコブはどのようにして神の祝福を受け渡したのかを、もう少し詳しく見ていきましょう。ヨセフは父ヤコブが病気だと聞いて、二人の子ども、マナセとエフライムを連れて、一族が移住してきたエジプト北部のゴシェンの地へと向かいました。2節にはこのように書かれています。「イスラエル(これはヤコブの新しい名前ですが)は力を奮い起こして、寝台の上に座った」。ヤコブは残されている命のすべてを振り絞るかのように、わずかな力を奮い起こして、神の祝福の担い手としての務めを果たそうとしています。彼は言います。【3~6節】。ヤコブはここで、28章10節以下に記されていたベテルで見た夢のことを思い起こしています。彼はその時、兄エサウから逃れて家を出、一人孤独な旅をしていました。ある夜に、神が夢に現れ、彼を祝福され、約束のみ言葉をお語りになったことを思い起こしています。そして今、彼が地上の旅路を終えようとしている、その最後の時に思い起こしているのが、彼自身の数々の失敗とか成功のことではなく、彼が経験した喜びや悲しみのことでもなく、あのベテルでの神の祝福の恵みなのです。その神の祝福こそが、彼のこれまでの全生涯を貫いていた揺るがない真実であり、彼の生涯を満たす永遠の真理であることを、彼は今告白しているのです。

 5節はのちのイスラエルの12部族の歴史と関連しています。ヨセフ部族は、のちになってエフライム部族とマナセ部族になってイスラエル12部族を形成することになります。本来のヤコブの12人の子どもたちに対する祝福は49章に書かれています。その12人の名前を確認しておきましょう。49章3節と4節が長男ルベンに対する祝福の言葉、5節から7節はシメオンとレビ、このレビ部族はカナン定着後は祭司の務めを担うことになるので、土地の分配からは除外され、その代わりに22節から26節のヨセフ部族がエフライム族とマナセ族の二つに分けられることになります。次が、8節から12節のユダ族、このユダに対する祝福の言葉は他よりも長くなっていますが、のちになってイスラエル王国が南北に分裂した際に、ユダは南王国を形成する中心的な部族となり、この部族からダビデ王が出ることになり、さらにはダビデの末裔から主イエスがお生まれになるわけです。10節以下を読んでみましょう。【10~12節】(90ページ)。

 13節はゼブルン、14節と15節はイサカル、16節と17節はダン、20節はアシュル、21節はナフタリ、そして27節は12番めの子ベニヤミン、それぞれに対する神の祝福の言葉が語られています。このように、ヤコブ・イスラエルは神に祝福された人であり、また神の祝福を持ち運び、それをのちの世代へと受け継がせる務めを果たし、その生涯の終わりに12人の子どもたちに神の祝福を受け渡し、その祝福の言葉によって来るべきメシア,主イエス・キリストを証しし、預言しました。ヤコブはこの使命を果たすことにおいて、もっとも祝福された信仰者であったと言えます。

 もう一度48章に戻りましょう。ヤコブがヨセフの二人の子どもを祝福した時に、不思議なことが起こりました。【13~19節】。ヨセフは長男マナセの方がより大きな祝福を受けるべきだと考えて父ヤコブの右手の方に座らせました。しかし、ヤコブは自分の手を交差させて、弟のエフライムを右手で祝福したのです。ヨセフは驚いて父の右手と左手を変えようとしました。父の目がかすんできてよく見えていないと思ったからです。けれども、ヤコブはこれでよい、これは神のみ心なのだと答えます。ヤコブの肉の目は見えなくなっていましたが、彼の信仰の目ははるかかなたの神のご計画を見ていたのです。すなわち、のちになってイスラエルが南北に分かれた際には、エフライム族は北王国を形成する中心的な部族となったのです。旧約聖書では北王国はしばしばエフライムと呼ばれています。

 ここではもう一つの不思議なことが起こっています。ヤコブはかつて若いころ、兄エサウを欺き、また目がかすんで見えなくなっていた父イサクをも欺いて、長男の特権を奪い取ったことがありました。創世記27章に書かれていました。しかし今、年老いて目が見えなくなったヤコブが、信仰の目で神の永遠のご計画を見ており、自分の子どもたちとヨセフの二人の孫たちを祝福しているのです。自分の意志や悪しき策略を用いて神の祝福を奪い取ったヤコブが、今や神のみ心に完全に服従し、神の祝福を語り、それを分け与えるヤコブへと変えられているという、奇跡をわたしたちは見るのです。神の祝福はこのようにして信仰者をみ心にかなう者へと造り変えていくのです。

 最後に、説教の冒頭で言及した驚きについて考えてみましょう。宗教も文化や生活習慣も全く違う異教の地エジプトで、400年以上にわたって自分たちの信仰を持ち続けることができたのは、いったいなぜなのか。歴史的資料や神学的考察からは直接答えを得ることはできないとしても、創世記を続けて学んできて、やがてその学びを終えようとしているわたしたちは、それは族長アブラハム、イサク、ヤコブによって受け継がれてきた神の祝福なのではないか、そして特に、創世記48章と49章で何度も繰り返して語られている神の祝福こそが、それを可能にさせたのではないか。そして、その神の祝福を、異教の地、ゴシェンでも、幾世代にもわたって自分たちの子どもへと受け継いでいった彼らの信仰の歩みが、それを可能にさせたのではないだろうか。創世記を学んできたわたしたちには、そのように思えるのです。

 人は言うかもしれません。神の祝福は少しも腹の足しにはならないではないか。神の祝福は世界の経済活動に何の影響も与えず、人類の発展のために何の貢献もできないではないかと。

 しかし、神の祝福はイスラエル12部族のエジプトでの400年余りの信仰を導いたのみならず、その後のイスラエルの民の千数百年の歩みをも導き、そしてついに、全世界の救い主、主イエス・キリストの到来へと、信仰の民を導いたという事実をわたしたちは見ているのです。

 主イエスは福音書の初めで弟子たちや人々を祝福してこう言われました。「幸いなるかな、心の貧しき人たち。神の国は彼らのものなり。幸いなるかな、心の清い人たち、彼らは神を見る。幸いなるかな、平和を創り出す人たち、彼らは神の子と呼ばれる」と(マタイ福音書5章3節以下参照)。わたしたちもまた主イエスによってこの祝福の中に招き入れられているのです。主イエスの祝福のみ言葉の中にこそ、真実の救いと命とがあるのです。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、わたしたち一人一人を天からの豊かな祝福で満たしてください。全人類の救い主としてこの世にお生まれになった主イエス・キリストの救いの恵みが、この待降節の時、すべての人々に与えられますように。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

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