1月28日説教「旧・新約聖書は神の言葉である」

2024年1月28日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

    『日本キリスト教会信仰の告白』連続講解(29回)

聖 書:詩編119編105~112節

    テモテへの手紙二3章10~17節

説教題:「旧・新約聖書は神の言葉である」

 『日本キリスト教会信仰の告白』をテキストにして、わたしたちの教会の信仰の特色について学んでいます。印刷物の3段落目、「旧・新約聖書は神の言(ことば)であり、その中で語っておられる聖霊は、主イエス・キリストを顕(あき)らかに示し、信仰と生活との誤りのない審判者です」。この告白の冒頭の箇所、「旧・新約聖書は神の言(ことば)である」について、きょうから数回にわたり、聖書のみ言葉に聞きながら学んでいくことにします。

 最初に、『信仰告白』について学び始めたときにも触れましたが、聖書と信仰告白の関係について、一般にこのように言い表します。「聖書はすべてを規範づける規範であり、信仰告白は聖書によって規範づけられた規範である」。聖書は、キリスト教会とわたしたち信仰者のすべての信仰と生活を規範づける唯一の、最高の規範であることは言うまでもありません。この文章の最後で、「信仰と生活との誤りのない審判者です」と告白しているのは、そのことです。

 信仰告白は、『日本キリスト教会信仰の告白』はもちろん、すべての信仰告白、あるいは信条と呼ばれているものは、聖書によって規範づけられています。

聖書を唯一の規範としていない信仰告白、他の何かを手本にしたり、他の何かを基準にしている文章は、それがどんなに優れた魅力的な言葉や思想、文学、哲学、あるいは神学で表現されていても、それは教会の信仰告白とは言えません。それは、健全な、また正統的な教会を立てるためには役立ちませんし、わたしたちの信仰を生み出したり、養ったりすることもできません。

 信仰告白は、聖書を唯一最高の規範とし、聖書の教え、教理、神の救いの真理を的確で明快な表現で言い表し、神の言葉である聖書に対する正しい信仰の応答として、教会の同意を得て、まとめられたものでなければなりません。そのような聖書に対する応答として、初代教会時代から今日に至るまで、多くの信仰告白、信条と呼ばれる文書が作成されてきました。

 そのようにして作成された信仰告白が、わたしたちの信仰の在り方を正しく方向付け、教会を健全に成長させ、また教会の一致を堅くするのです。

 次に、「旧・新約聖書」という表現についてですが、1953年に制定された文語文では、「新・旧約聖書」となっていたのを記憶しておられると思います。1985年の「口語文」でその順序が入れ替わりましたが、1890年(明治23年)の『(旧)日本基督教会信仰の告白』ではこう告白されていました。「新旧両約の聖書のうちに語り給う聖霊は宗教上のことにつき誤謬(あやまり)なき最上の審判者なり」。1953年の『信仰の告白』はそれを受け継いでいることが分ります。

 それが、1985年の「口語文」で「旧・新約聖書」と変更する際に議論になったこと紹介しておきます。1890年の『旧日本基督教会信仰の告白』で「新旧両約」と、新約聖書を先にした理由は、旧約聖書を軽んじていたからでは決してなく、旧約聖書を読む際には新約聖書の光の下で読まなければ、その本来の意味が理解されないのであり、新約聖書で主イエス・キリストによって預言が成就されたからこそ旧約聖書の預言が意味を持つのであって、旧約聖書だけで完結するのではない。新約聖書の成就によってこそ旧約聖書もまた完結する。そのことを強調するために、あえて歴史的な順序を逆にして「新旧」としたのでした。それが、旧日本基督教会の信仰であったし、1953年の『信仰の告白』はその理解を継承しています。これが一方の意見でした。

 他方、世界の信仰告白の中で「新・旧訳聖書」と言い表しているものは一つもないので、一般的な言い方で、「旧・新」とするのがよいのではないかという意見があり、最終的にはその意見が通りました。でも、これまでの理解が否定されたのではありません。わたしたちは旧約聖書も新約聖書も同じ神の言葉と信じ、それに優劣をつけることはありませんが、それとともに、旧約聖書はそれだけで独立してあるのではなく、新約聖書と一緒になり、両者が一つの神の言葉である聖書として理解しなければなりません。そうでなければ、旧約聖書だけを正典とするユダヤ教と同じになるからです。旧約聖書は新約聖書の光の中で、主イエス・キリストの十字架の福音の光の中で読まれなければなりません。そうである時に、旧約聖書は神とイスエルの民との古い契約の書であり、その契約が、主イエス・キリストによって立てられた新しい契約によって成就されている預言の書としての重要な役割を果たすことになるのです。

 そこで、旧約聖書と新約聖書との関係について少し付け加えておきたいと思います。旧約聖書を預言の書、新約聖書を成就の書と言い、旧約聖書の時代は待望の時、新約聖書の時代は想起の時という言い方をする場合もあります。預言と成就、また待望と想起、それは言うまでもなく、全世界の唯一のメシア・救い主なる主イエス・キリストの預言とその到来による成就のことであり、主イエス・キリストの到来を待望する時と、その主イエス・キリストの十字架と復活によって全人類の救いが成就したことを想起する時を指しています。

 したがって、旧約聖書も新約聖書もそこで語られている中心的な内容は主イエス・キリストです。宗教改革者カルヴァンは、「わたしたちは聖書を読むとき、その中にキリストを見いだそうとする意図をもって読まなければならない」と言っています。聖書は、旧約聖書でも新約聖書でもその全ページにおいて主イエス‣キリストを証しているのです。主イエス・キリストを語っているのです。

 旧約聖書は全部で39巻、新約聖書は27巻、計66巻、これがプロテスタント教会が一致して認めている正典です。その数の覚え方ですが、3×9=27、合わせて66と覚えてください。できれば、その全巻の順序と名前も覚えてください。覚え方は「鉄道唱歌」の曲に合わせて覚える方法があります。詳しくは、日曜学校の教師にお尋ねください。

 正統的な教会はこの66巻を正典と呼び、これ以外に教会と信仰を規範づける神の言葉はありません。教会とわたしたちの信仰のすべてはこの聖書に起源を持ち、聖書からすべての命と恵みを受け取ります。わたしたちが神の真理、まことの救い、永遠の命を得ることができるのはこの聖書からだけです。また、この聖書だけで、わたしたちが聞くべき神の言葉は十分です。ほかの何かは必要ではありません。宗教改革者たちはこのことを「神の言葉のみ」と表現しました。

 今日のキリスト教の3大異端と言われるグループは、みな聖書のほかにも彼らが正典とする書物を持っています。統一教会は聖書以外に『原理講論』を持っています。ものみの塔は、創始者のラッセルという人が書いた『われらの主の再臨の目的と方法』、その他の書物があり、モルモン教は『モルモン経典』等を聖書のほかに信じています。彼ら異端的教派が聖書だけで不十分であると主張することは、そもそも聖書を神の言葉と信じていないからであり、聖書に書かれている神の言葉だけでは人間の救いには不十分であるということを認めていることにほかなりません。それはキリスト教ではありません。

 しかし、わたしたちの信仰は、聖書は神の言葉であり、神は聖書においてわたしたちの救いにとって必要なすべてのことを語っておられる。だから、この聖書からなにも何も差し引かず、この聖書に何も付け加えるべきではない。この聖書の中に神の救いと神の真理、神の命のすべてが書かれていると信じ、告白するのです。申命記4章2節で神はイスラエルの民にこのように命じておられます。「あなたたちはわたしが命じる言葉に何一つ付け加えることも、減らすこともしてはならない。わたしが命じるとおりにあなたたちの神、主の戒めを守りなさい」。神はイスラエルの民が信仰によって神の民として生きるために必要なすべての言葉を語ってくださるので、そのほかの人間の言葉や知恵に頼るべきではなく、頼る必要もないのです。

 このように、旧約聖書の民イスラエルは神がお語りになるみ言葉に聞くことによって生きる信仰の民でした。今日わたしたちが読んでいる旧約聖書が最終的に編集されたのは、バビロン捕囚期以後、紀元前5世紀以降と考えられていますが、それ以前からイスラエルの民はそれぞれの時代で、預言者や祭司たちをとおして語られる神の言葉を聞いて、生きてきました。そのことを証しする旧約聖書のみ言葉を2箇所だけ取り上げてみましょう。一つは申命記8章3節です。「主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった」。

 エジプトの奴隷の家から神の強いみ手によって導き出されたイスラエルの民は、荒れ野の40年間の困難な旅で、他に頼るべきものが何もない砂漠の生活の中で、ただひたすらに主なる神のみ言葉に聞くことによって生きるべきであり、生きることができるということを学んだのでした。

 詩編119編105節にはこのように書かれています。「あなたの御言葉は、わたしの道の光、わたしの歩みを照らす灯」。暗い闇の中を、光なしには一歩も進むことができないように、聖書で語られている神のみ言葉はわたしのたどたどしい歩みを力強く導きます。困難や迷いが多い道を、重荷を抱えて生きなければならないわたしたちの人生の歩みの中で、神のみ言葉はいつどのような時にも、わたしを導き、支え、励まし、希望を与える命のみ言葉です。神はわたしたち一人一人に聖書をとおして語ってくださいます。

 新約聖書からも2箇所読みましょう。【ペトロの手紙一1章23~25節】

(428ページ)。この世界にあるものすべては、やがて移り行き、朽ち果てていくしかありません。しかし、神はわたしたちを永遠に朽ちることなく、変わることのない生きたみ言葉によって日々養い育ててくださいます。ここに、わたしたちの本当の命があります。来るべき神の国に至る永遠の命があります。

次に、【テモテへの手紙二3章14~17節】(394ページ)。わたしたちを罪から救う信仰を与えるのは聖書のみ言葉しかありません。どんなにすぐれた文学であれ、芸術であれ、あるいは高度な技術や高価な宝石であっても、わたしたちを罪から救うことはありません。わたしたちの罪のために、罪なき神のみ子が十字架で死んでくださったという福音こそが、わたしたちを罪と死と滅びから救うのです。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、あなたの救いと命のみ言葉をわたしたちにお語りくださいましたことを感謝いたします。弱く、倒れやすく、愚かな者に、どうぞ常に必要なみ言葉をお与えください。そのみ言葉に耳を傾ける信仰をお与えください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

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