1月14日説教「異邦人のペンテコステ」

2024年1月14日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:イザヤ書32章15~20節

    使徒言行録10章44~48節

説教題:「異邦人のペンテコステ」

 カイサリアに駐留するローマ軍の兵士コルネリウスとその一家が洗礼を受けてキリスト者となったという出来事が、使徒言行録10章1節から11章8節まで書かれています。これは一つの出来事としては使徒言行録では最も長い記述になっています。また、同じ場面が何度も繰り返して記録されています。この出来事が初代教会にとって非常に重要な意味を持っていたということを示しています。

旧約聖書では、神はイスラエルの民を選ばれ、この民をとおして救いのみわざをなさいましたが、新約聖書に至って、主イエスがこの世においでくださったことによって、神の救いのみわざは全世界のすべての民、すべての人々へと拡大されていったのですが、その大きな変革と言うか、転換と言うか、しかしそれは本来の神のご計画であったのですが、その大きな転換が初代教会の中でどのように行われていったのかということを、わたしたちはここから知ることができます。

 前回学んだ10章34節から43節までの、コルネリウスの家での使徒ペトロの説教を少し振り返ってみましょう。この説教は、使徒言行録に記されているいくつかのペトロの説教の中でユダヤ人以外の異邦人を対象にした唯一の説教です。ペトロの説教は、2章に書かれていたペンテコステの日の説教をはじめとして、すべてはユダヤ人を対象にしていましたが、ここでの異邦人を対象にした説教では、少しの変化が見られます。ペトロの説教の中心は、主イエス・キリストの十字架の死と復活の福音であることは彼の説教のすべてに共通していましたが、42節からは、主イエスの救いのみわざが全世界のすべての人を対象にしていることが語られています。

 【42~43節】。まず42節では、ペトロをはじめとして主イエスに選ばれた12弟子たちは、主イエスの救いのみわざを宣べ伝える証し人として、この世へと派遣されているその使命について語られています。実は、これこそが神によって先に選ばれたイスラエルの民・ユダヤ人全体の使命なのです。イスラエルも12弟子も、何らかのすぐれた点があったから神に選ばれたのではありませんでした。小さな奴隷の民、貧しい一人一人であったにもかかわらず、神の愛と憐みによって先に選ばれ、神の救いにあずかる恵みを与えられているのです。それは、先に選ばればれた人たちが他の人々に神の救いの恵みの証し人となるためです。ここに集められているわたしたち一人一人にとっても、事情は同じです。

 42節で語られているもう一つのことは、ペトロたちが語るように命じられた内容は、主イエス・キリストが「生きている者と死んだ者との審判者」として父なる神によって定められているということです。わたしたちが『使徒信条』で告白しているように、主イエスは「十字架で死んで、三日目に復活し、天に昇って、全能の父なる神の右に座しておられます。そこから来て、生きている者と死んでいる者とを審かれます」。全世界のすべての人が、終わりの日の審判の前に立たされるのです。

 それとともに、43節では、主イエスを信じる人はだれでもみな主イエスのみ名によって罪をゆるされるという福音が、すでに旧約聖書の中で預言者たちによって預言されていたということが語られています。

 このようにして、ペトロの異邦人に対する説教は、主イエスの十字架と復活の福音が、今や全世界のすべての民、すべての人に宣べ伝えられているということが高らかに宣言されているのです。主イエスの十字架と復活の福音は、それを聞いて信じる人には罪のゆるしと救いを与え、信じない人には永遠の裁きと滅びをもたらすのです。そのことにおいては、ユダヤ人であるか異邦人であるかの区別はもはやなくなったのです。

 では、このペトロの説教を聞いて、コルネリウスとその一族はどのように応答したのかについて、44節以下を読んでいきましょう。

 【44~46節a】。この44節以下の出来事は、「異邦人のペンテコステ」と言われます。2章に書かれていた、エルサレムでの弟子たちとユダヤ人の上に聖霊が注がれ、最初の教会が誕生したのと同様に、ここでは異邦人の上に聖霊が注がれ、カイサリアに異邦人教会が誕生したからです。

 44節に「ペトロが……なおも話し続けていると」と書かれているのは、彼の説教が中断されたようにして、彼ら一同の上に聖霊が降ったことを表現しているように思われます。でも、ペトロの説教が中途半端で、未完成であったというのではありません。ペトロは語るべきことを語り、一同は聞くべきことを聞いたのですが、そのような人間の行為をはるかに超えた力をもって聖霊なる神が働かれたということをここでは強調していると思われます。「主イエスを信じる者はだれでもその名によって罪のゆるしが受けられる」との43節のペテロの説教がすぐに成就したのです。主イエスの福音が語られるところでは、その語られたみ言葉と共に聖霊が働き、人間の能力や願いをもはるかに越えて、聖霊が救いのみわざをなしてくださるからです。

 この時に起こった異邦人のペンテコステを、2章に書かれていたユダヤ人のペンテコステと比較しながらみていきましょう。最初に、ペンテコステが起こった場所ですが、2章ではエルサレム市内にある主イエスの弟子の一人の家でした。ここでは、エルサレムから北へ80キロほどの地中海沿岸の都市カイサリアにあるローマ軍の百人隊長コルネリウスの家です。聖霊は場所が変わり、時代が変化しても、常に変わらず、み言葉と共に働いてくださいます。

 次に、聖霊が注がれた対象は、2章では主イエスの12弟子をはじめ、主イエスに従ってきた120人ほどの信者たちとペトロの説教を聞いた数千人のユダヤ人。彼らの多くは主イエスの十字架の死と復活を実際に見た人たちでした。この10章では、先に神に選ばれた民ユダヤ人ではなく、彼らからは異邦人と呼ばれていたコルネリウスと彼の家族、彼の親族や部下たち、正確な人数は分かりませんが、27節では「大勢の人が集まっていた」と書かれていました。

 ユダヤ人は、聖霊の賜物は神に選ばれた民ユダヤ人にだけ注がれると考えていました。しかし今、ユダヤ人以外の異邦人にも聖霊が注がれたのです。45節には、ペトロと一緒に来たユダヤ人たちがそのことを実際に目撃して、大いに驚いたと書かれています。主イエスの福音がユダヤ人と異邦人の区別を取り除いたのです。主イエスの福音が全世界のすべての人に語られ、すべての人に救いの道が開かれたのです。

 三つ目に、2章では、聖霊を受けた弟子たちはいろいろな他国の言葉で主イエスの救いの出来事について語り出したと書かれていました。ここでは、「異邦人が異言を話し、また神を賛美している」と書かれています。2章と10章で起こった現象が全く同じだったのかどうかについてはよくわかりませんが、2章4節で「ほかの国の言葉で話しだした」の「言葉」と10章48節の「異言を話し」の「異言」とは同じギリシャ語ですから、同じと考えてよいのではと思われます。いずれにしても、聖霊を受けた人は人間の知恵や知識では語りえない、神から直接に与えられた言葉を語り、主イエス・キリストによってなされた神の救いのみわざを大胆に、力強く語るということにおいては一致しています。

 聖霊なる神はわたしたちに主イエス・キリストの十字架と復活の福音を語る言葉を授けてくださいます。また、聖霊はその語られた説教を聞いて信じ、救われるという恵みを与えてくださいます。それらのすべては、聖霊のお働きです。神はわたしたちの欠けの多い言葉をもお用いになって、救いのみわざをなさいます。聖霊はまた、わたしたちのかたくなで悟るに鈍い魂に働きかけ、主イエスの福音を信じる信仰へと導いてくださり、わたしたちのすべての罪をゆるし、わたしたちを罪と死と滅びから救うという驚くべきみわざをなしてくださいます。聖霊はそのようにして、わたしたちとこの世にあって、神とわたしたちとを隔てていたすべての壁や溝を取り払い、わたしたちを神との豊かな交わりの内に導き、わたしたちを神の子どもたちとしてくださるのです。

 47節以下を読みましょう。【47~48節】。異邦人にも聖霊が注がれるのを見たペトロは、彼らもまたユダヤ人と同じように、洗礼を受けキリスト者となる道へと招かれていることを悟りました.ここにおいて、ユダヤ人と異邦人との間にあった壁は取り除かれ、異邦人もまた主イエス・キリストの福音によって救われる道が完全に開かれたのです。

 2章のユダヤ人のペンテコステにおいては、ペトロの説教を聞いたユダヤ人およそ3千人が悔い改めて、洗礼を受け、罪のゆるしの恵みを与えられ、そののちに聖霊の賜物が与えられると約束されていましたが、ここでは先に聖霊の賜物が異邦人に与えられ、そののちに洗礼を受けたという順序になっています。洗礼を受けることと聖霊の賜物が与えられることの順序が逆になっています。しかし、これには本質的な違いはありません。聖霊は主イエスの福音を聞いて信じる信仰を与え、洗礼を受ける決意を与え、また洗礼を受けた信仰者の信仰生活を導かれるからです。そのすべてが聖霊のお働きだからです。

 最後に、「イエス・キリストの名によって洗礼を受ける」ということについて考えてみましょう。2章38節のエルサレムでのペンテコステの時にも、ペトロはこのように言っています。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していだたきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます」。また、8章16節でも、「人々は主イエスの名によって洗礼を受けていた」とあり、19章5節でも同じ表現が用いられています。初代教会では「主イエス・キリストの名による洗礼」が行われていたようです。のちになって、今日のように「父と子と聖霊のみ名によって」と、三位一体の神のみ名による洗礼が行なわれるようになっていきました。

 「主イエス・キリストのみ名による洗礼」の深い意味について、パウロはローマの信徒への手紙6章で、「主イエス・キリストに結ばれるための洗礼」と表現して語っています。その個所を読んでみましょう。【6章3~5節】(280ページ)。主イエス・キリストのみ名による洗礼によって、わたしたちは主イエス・キリストの十字架の死と三日目の復活にあずかり、わたしが古い罪の自分に死に、新しい復活の命に生かされるのです。

 

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、罪の中にあって死んでいたわたしたちを、あなたは主イエス・キリストの十字架と復活の福音によって新たに生かしてくださり、あなたの民として神の国へとお招きくださいますことを感謝いたします。どうか、あなたが永遠にわたしたちと共にいてください。わたしたちを日々新しい聖霊の賜物によって満たしてください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

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