1月21日説教「神は万事を益としてくださった」

2024年1月21日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:創世記50章1~26節

    ローマの信徒への手紙8章26~30節

説教題:「神は万事を益としてくださった」

 2019年4月28日から、わたしたちは創世記を主の日の礼拝で読み始めました。それから5年近くをかけ、きょうは創世記の最後の章、50章を読みました。その中で、わたしたちは次のような非常に印象深いみ言葉を聞きました。【19~20節】。

 このみ言葉は37章から始まったヨセフ物語のまとめであり、結論であると言えます。それだけでなく、12章からの族長アブラハム・イサク・ヤコブの全生涯と、創世記全体のまとめでもあり、さらには旧約聖書と新約聖書全体を貫いている主題であり真理であり、聖書全体において神がご計画しておられる救いの歴史のすべてを語っているみ言葉であり、そしてまたこれこそがイスラエルとの民とわたしたち教会の民の信仰の中心であると言ってもよいでしょう。

 使徒パウロは、ローマの信徒への手紙8章28節以下で、この神の救いのご計画が最終的に主イエス・キリストによって、完全に成就したと語っています。【28節】(285ページ)。創世記50章でヨセフが語った言葉、「あなたがたはわたしに悪を企んだが、神はそれを善に変えてくださり、多くの民の命を救ってくださった」。そして、パウロが語った言葉、「神を愛する者たち、ご計画にしたがって召された者たちには、万事が益となるように働くということを、わたしたちは知っている」。神はそのようにして、旧約聖書においても新約聖書においても、人間たちの罪の歴史の中で、神の永遠の救いのご計画を確実に進めておられます。

 それゆえに、パウロがローマの信徒への手紙で続けて語っているように、どのような艱難も苦しみも剣も、死ですらも、主キリストにあってわたしたちに注がれている神の強い愛から、わたしたちを引き離すことはできないし、したがって、それらを恐れる必要はなく、わたしたちはそれらすべてにおいて勝ち得て余りあるのだということを確信することができるのです。

 わたしたちが創世記を読み始めたとき、1章3、4節にこのように書かれていました。「神は言われた。『光あれ』。こうして光があった。神は光を見て、良しとされた」。そして、31節にはこうありました。「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった」。神が創造されたすべてのものは、神のみ心にかなった良きものでした。人間アダムとエヴァはことさらに神に似せて、神と共に歩む者として創造されたのでした。

 けれども、わたしたちはすぐにも、創世記3章で人間の罪と堕落について聞くのです。罪を犯した人間は神から姿を隠して生きねばならず、神の裁きを受けて額に汗して働き、ついには土に帰る、死すべき者となったのでした。しかし神はそれでもなお、人間を求めてやまず、「アダムよ、どこのいるのか」呼びかけてくださると聖書は語ります。

 創世記4章のカインとアベルの兄弟殺しの物語、7章からのノアの大洪水の物語、そしてまた11章のバベルの塔の物語と、人間の罪の歴史は続きました。けれどもまた、神はそのような罪の人間とこの世界とを決してお見捨てになることなく、なおも愛と憐みとをもって救いのみわざをなし続けてこられたことを、わたしたちは読みました。

 創世記12章からのアブラハム、イサク、ヤコブの族長物語では、神の救いのご計画はより一層明確な神の契約として族長たちに受け継がれていきました。時に、彼らが疑ったり、道をそれたり、失敗したり、悪意や欺きによって争い合ったりした時にも、神はそれらのすべてをお用いになって、そのすべてを益にしてくださって、永遠の祝福と救いへと彼らを導かれたということを、わたしたちは何度も確認してきました。ヨセフが創世記50章20節で告白しているとおりです。

 わたしたちはここから一気に約2千年のイスラエルの歴史を飛び越えて、新約聖書へと目を移すとき、まさに主イエス・キリストの十字架においてこそ、その救いの真理が最もよくあてはまるということに気づかされます。「あなたがたはわたしに悪を企んだが、神はそれを善に変えてくださり、多くの民を救ってくださった」という救いの真理が、主イエス・キリストの十字架においてこそ最終的に成就され、神の永遠の救いのご計画がその最終目的に達したのです。すなわち、罪のない神のみ子が罪びとたちの悪意によって十字架に引き渡されるという、人間の罪のわざの頂点を、神はその罪のわざをもお用いになり、全人類の罪を贖うという、救いのみわざの頂点に変えたもうたのです。神は確かに愛する信仰者のために万事を益としてくださいました。

 さて、創世記50章は父ヤコブの死のために泣くヨセフの場面に始まり、ヨセフ自身の死の場面で終わります。この章には、何度も人間の死と葬りについて、またそれを嘆き悲しむ人間の姿が語られています。人間についての一つの物語の終わりが死であり、葬りであり、嘆き悲しむことであるということは、いつの世も変わらず、わたしたちすべてにも当てはまります。

しかし、ここでもまたわたしたちはその中で語られている20節のみ言葉を思い起こすべきです。「神はそれを善に変え、多くの民の命を救ってくださった」。神は人間の死と悲しみを越えて、そこでもまた救いのみわざをなしてくださるにだということをわたしたちは信じてよいし、信じるべきです。そしてまた、わたしたちはここにおいても、主イエス・キリストにおいてこそ、そのことが成就され、完成されたということを知っています。わたしたちが『使徒信条』によって、「主は、十字架につけられ、死んで葬られ、三日目に死者のうちから復活し」と告白しているとおりです。

 【1~3節】。ヨセフの父ヤコブの葬りの準備は、ヤコブ一族が寄留していたエジプトの流儀で行われました。エジプトでは死者をミイラにして長く保存する習慣がありました。死者が同じ肉体をまとって墓から出てくると考えられていたからです。エジプトの王たちが自分の体をミイラにしてピラミッド型の大きな墓に葬らせた歴史的遺産を今日わたしたちは目にすることができます。

 しかし、ヤコブの体に薬を塗ったのは、ミイラにしてエジプトの墓に葬るためではありませんでした。4節以下に詳しく書かれているように、彼の体を神の約束の地カナンにあるアブラハムの墓に葬るために、それまで保存しておくための処置でした。ヤコブの体はエジプト流儀で処理され、彼の葬儀もエジプトの王と同じほどの国葬級の盛大な規模で行なわれましたが、それは彼がエジプト人になって、エジプトの墓に葬られるためではありませんでした。ヤコブは寄留の地エジプトで死んだのですが、しかし彼は神に選ばれた民の一人であり、神の約束のみ言葉を信じて生き、そして死んだ、信仰者であることを決してやめることはありません。ヤコブは、父祖アブラハム、イサクと同様に、神の契約の民の一人として、神の祝福を受け継ぎ、神の約束の地を受け継ぐ信仰者として、カナンの地に葬られました。ヤコブの死によっても、神の約束のみ言葉は決して効力を失うのではありません。ヤコブの死を越えて、神の契約はなおも成就へと向かっていきます。

 前の章、49章29節以下で、ヤコブは死の前にその信仰を告白し、息子たちに自分をカナンの地にあるアブラハムの墓に葬るように命じていました。ヨセフはその父の遺言をエジプト王ファラオに告げ、王の許可をもらって父を葬るためにカナンへの旅に出ます。50章4節から14節までに、その様子が詳しく描かれています。ヨセフはエジプトに来てから長くこの地に住み、エジプトではファラオに次ぐ最高の位についたとしても、彼もまた父ヤコブの信仰を受け継ぎ、父ヤコブの命令に従っています。否、それ以上に、神の約束のみ言葉に聞き従っているのです。そして、アブラハムがカナンの地で妻サラを葬るために購入したマムレの墓に父を葬りました。

 次に、【15~21節】。父ヤコブの死は彼の子どもたちに数十年前の弟ヤコブに対する罪を呼び起こしました。37章に書かれていたように、兄たちが父にかわいがられていた弟ヨセフをねたみ、彼をエジプトの商人たちに売りとばしたということが、ヤコブ物語の始まりでした。最後の章で、そのことがもう一度思い起こされています。父ヤコブが死んで、ヨセフが自分の権威を自由に発揮できるようになったら、ユセフは自分たちに復讐するかもしれないと兄たちは恐れました。

 16節以下で、兄たちがヨセフに、父が死ぬ前にこのように言っていたと告げていますが、それについてはこれまで何も書かれていませんでしたから、もしかしたら、何とかして弟ヨセフにゆるしてもらおうとする兄たちの作り話であったのではないかと想像する注解者もいます。そうであるとしても、17節後半の言葉は真実です。「どうか、あなたの父の神に仕える僕たちの咎を赦してください」と兄たちは言います。父の遺言だから赦してほしいと願っているだけではありません。互いに一人の神に仕える僕たちであるゆえに、互いにゆるし合わなければならないのであり、また事実ゆるし合うことができるのです。肉による父と子、兄弟たちというつながりによるだけではなく、それ以上に強い信仰によるつながりがあるゆえに、互いにゆるし合い、和解し、真に一つの信仰者の群れとされるのです。一人の主なる神ゆえに、その神を信じる信仰のゆえに、その神に共に仕える僕たちであり、一つの群れであるゆえに、わたしたちもまた互いにゆるし合う者たちとされているのです。主キリストがこの弱い兄弟のためにも死んでくださったゆえに、わたしたちは互いにゆるし合い、受け入れ合うことができるのであり、そうするように招かれているのです。

 ここにこそ、人間同士の真の和解が成立します。神が唯一の主なる神として信じられ、礼拝されるところに、すべての信仰者がこの神の僕として仕え、また互いに仕え合うところに、真の和解が与えられます。19節以下のヨセフの兄たちに対する寛容なゆるしの言葉も、その根底にあるのは主なる神への信仰です。主なる神がすべての人間たちの罪や悪や欺きや憎しみをも越えて、それらを貫いて、あるいはそれらをお用いになって、すべてを善に変え、すべてを益とされ、ご自身の救いのみわざをなしてくださるという信仰こそが、ゆるしの思いを生み出し、和解を生み出していくのです。

 22節からはヨセフの死と彼が最後に言い残した遺言が書かれています。【24~25節】。ヨセフの死によってヨセフ物語の主題が終わるのではありません。神と族長たちとの契約、神の約束のみ言葉が消えてしまうのではありません。神の救いのみわざ、神の救いの歴史はなおも続けられます。わたしたちは次回からは、創世記に続く出エジプト記を読んでいくことになります。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、あなたの永遠なる救いのみわざは、人間たちの罪やつまずきや不信仰によっても、とどまることはありません。この世界のさまざまな争いや混乱、わざわいや困窮によっても、あなたの救いの恵みは失われることはありません。どうか、この苦悩する世界を顧み、救ってください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

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