8月11日(日)説教「共に恵みにあずかる者たち」

2019年8月11日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:詩編98編1~9節

    フィリピの信徒への手紙1章3~11節

説教題:「共に恵みにあずかる者たち」

 使徒パウロの「喜びの書簡」また「獄中書簡」と言われるフィリピの信徒への手紙を続けて学んでいます。きょうは1章7節からです。【7節】。パウロは3節からの手紙の本文の冒頭で、神への感謝と喜びの祈りをささげています。その感謝と喜びの第一の理由は、5節に書かれているように、フィリピの教会が主イエス・キリストの福音にあずかっているからです。パウロがこの町に最初に福音を宣べ伝え、教会の基礎を築いてからこの時に至るまで、フィリピの教会は主キリストの福音によって生きてきました。これからも主キリストの福音を聞きつつ、生きていきます。主キリストの福音によって罪ゆるされている民として、来るべき神の国に招き入れられているとの約束を信じつつ生きていきます。神は必ずや、その約束を成就してくださるでしょう。そのことを感謝し、喜びつつ、パウロはフィリピ教会が終わりの日に完成される神の国を待ち望みつつ生きていくようにと、執り成しの祈りをささげているのです。

 続いて7節では、その感謝と喜びのもう一つの理由を語ります。それは、パウロとフィリピ教会の人たちが共に恵みにあずかる者たちであるということです。7節の翻訳で少し触れておきたい点があります。新共同訳では省略されていますが、7節後半には「わたしの」という言葉があります。これをどこにつなげるかで翻訳が違ってきます。。「共に」にかけると「わたしと共に」ということが強調されていることになります。「恵み」にかけると「わたしの恵み」ということが強調されます。いずれの理解も可能ですが、ここでパウロがあえて「わたしの」という言葉を付け加えた意図を確認しておくことが重要です。

 つまり、ここで強調されている「わたし」パウロはどういう人物なのか、今どのような状況にあるのかということを考えながら、そのパウロとフィリピ教会との密接な関係がここでは語られているのです。

 では、「わたしと共に」という点を強調して考えるとどうなるでしょうか。パウロは今獄にとらわれています。主キリストの福音に反対するユダヤ人の迫害か、あるいはローマ政府の権力による迫害かはわかりませんし、囚われている場所がどこかもはっきりしていませんが、パウロは今自由を奪われ、鎖でつながれています。フィリピ教会とは何百キロも離れています。けれども、そうであるにもかかわらず、パウロとフィリピ教会は共にいるのだということをパウロは強調するのです。しかも、獄にとらわれているこのわたしと、あなたがたは今共にいるのだというのです。

 ここではいくつかの内容が考えられます。一つには、キリスト者はどこにいても一つの主キリストの教会に聖霊によって連なっている聖徒たちの交わりの中にあるという信仰です。これは「使徒信条」でも告白されています。より具体的には、フィリピ教会が獄にとらわれているパウロのために日夜祈っている、パウロも彼らのために祈っている、共に祈りによって一つに結ばれている、互いに祈りによって、パウロとフィリピ教会が同じ体験、同じ時間を共有し合っているということです。あるいは、フィリピ教会がパウロを支援するために援助物資を集め、教会の代表を派遣して獄中のパウロに届けるということによって、信仰にある兄弟姉妹が一つに結ばれていることを実感するということです。実は、この手紙はその感謝を伝えるためにパウロが書いたのだということが4章10節以下から推測されるのですが。そのようにして、フィリピ教会は獄中の「わたし」パウロと共にいるということがここでは強調されているのです。

 「わたしの恵み」という点に強調点を置いてみたらどうでしょうか。パウロが神から、また主イエス・キリストからいただいている恵みにフィリピ教会の人たちも共にあずかっているというのです。ここでも、いくつかの内容が考えられます。一つには、パウロの使徒としての務めに与えられている恵みのことです。パウロは復活の主イエス・キリストに出会う以前は、熱心なユダヤ教徒ファリサイ派として、キリスト教会を迫害する急先鋒に立っていましたが、主キリストと出会ってからは主キリストの福音を宣べ伝える使徒とされました。それは、全く神からの一方的な恵みによる務めでした。パウロはこの神からの大きな恵みに応えるためには、あらゆる労苦と危険と戦いをいといませんでした。

 それゆえに、今彼が迫害を受け、牢につながれているとしても、それもまた神の恵みであることをやめないとパウロは言うのです。否それのみか、わたしに与えられているその大きな神の恵みに、あなたがたフィリピの教会も共にあずかっているのだとすら言うのです。これはどういうことでしょう。前にもふれたように、フィリピ教会が獄中のパウロに援助物資を送り、それによってパウロの使徒としての務めに共にあずかっている、共に主キリストの福音宣教の働きに参画しているということが考えられます。それだけではありません。フィリピの教会はパウロが受けている迫害の苦しみ、労苦、戦いを共にすることによってパウロの使徒としての恵みの務めに共にあずかっているのだと、パウロは言うのです。1章29~30節でははっきりとこう言っています。【29~30節】。このときに、フィリピの教会が実際に迫害を経験していたのかどうかは分かりませんが、それには関係なく、彼らは今このとき、牢獄にいるパウロと共に、主キリストの福音のために共に労苦し、共に戦っているのであり、パウロの使徒としての恵みに共にあずかっているのです。主キリストの福音に仕えるキリスト者には、苦難をも共にする恵みが与えられているのであり、これほどまでの連帯性、一体性、深い交わりが与えられているのです。彼らはみなすでに来るべき神の国の民として一つにされています。

 以上のことからも推測できるように、7節の「監禁されているときも、福音を弁明し立証するときも」とは、別々の違った状況について語っているのではなく、今パウロが監禁されているこのときにこそ、福音を弁明し、立証する絶好の機会となったのだという意味に理解されます。そのことについては、12節以下で具体的に語られます。

パウロにとっては、あらゆるとき、あらゆる機会が、主キリストの福音を弁明するとき、それを立証するときでした。パウロは使徒言行録の記録によれば、計3回にわたって、世界伝道旅行に出かけましたが、その中で何度も迫害を受け、獄に捕らわれの身となりました。しかし、獄にとらわれたときには、宣教の自由、語る自由を奪われた沈黙のときでは決してありませんでした。むしろ、そのときにこそ、自分が何のために、なぜとらわれの身となっているのか、それにもかかわらず、なぜその主張と信仰とを捨てず、なぜ弱らず、くじけることをせず、より一層力を込めて、確信をもって、主キリストの福音を語ることができるのか、語るべきなのか、そのことを裁判を司っている国家の権威者たちの前で、また裁判を見ている多くの人々の前で、臆することなく、大胆に語り、証しすること、このときこそが最も力強く福音を弁明し立証する機会になるのだとパウロは考えていたのです。

使徒言行録の終わりの個所で、彼はローマ皇帝カイザルに上訴し、囚人としてローマに護送されていくことになったことが書かれています。彼がなぜローマ皇帝に上訴したのかについては使徒言行録にはっきりと書かれていませんが、わたしたちには容易に推測できます。当時の世界の中心都市であるローマ、そこに君臨していた全世界の頂点に立つカイザル、その町で、この世の王の前で、しかし世界の主はただおひとり、わたしたちのために十字架で死んでくださり、全人類の罪を永遠にゆるしてくださる、主イエス・キリスト、この方こそが唯一の主である、ローマ皇帝カイザルが主なのではない、十字架につけられた主イエス・キリストこそが全世界の唯一の主なのだということを証しするためでありました。

8節からもパウロの祈りは続きます。【8~11節】。この個所ではまず「愛」という言葉に注目したいと思います。8節の「愛の心」と9節の「愛」とはもともとは違う言葉ですが、ここでは区別する必要はないと思います。重要なことは、8節でパウロは「わたしが、キリスト・イエスの愛の心で」と言っている点です。「愛の心」とは本来はパウロ自身のフィリピ教会に対する愛の思いを言っているのですが、それを彼は「キリスト・イエスの愛の心」と言い換えているわけです。パウロがここで強調しようとしているのは、自分の愛はキリスト・イエスから出ている愛である、キリスト・イエスの愛と同じ愛であるということです。キリスト・イエスがフィリピの教会を、またパウロを、そしてすべての人を愛しておられる、そのためにご自身の尊い命を十字架におささげくださった、その愛と同じ愛をもってパウロはフィリピ教会を愛している、フィリピ教会のために祈っていると彼は言っているのです。

すべての人間の愛は主イエス・キリストの愛にその原型があり、その源があり、その手本があります。9節の「あなたがたの愛」もそうでなければなりません。9節の愛は、ギリシャ語でアガペーという言葉です。「神の愛、神は愛である」と言われるときに用いられるギリシャ語と同じです。すべての人間の愛は、この神の愛、アガペーにその源泉があります。神がその独り子であるみ子主イエス・キリストを、わたしたち罪びとたちに賜った、ここに愛がある、この神の愛によって、わたしたち人間にも愛の道が開かれたのです。それゆえに、聖書では神の愛の場合も人間の愛の場合でも同じアガペーというギリシャ語を用いています。

人間の愛は、いつでも、どれでも、不完全であり、破れており、傷ついています。そこにはどうしても人間の罪が付きまとっているからです。罪びとの愛だからです。それゆえに、わたしたちの愛は常に神の愛、主キリストの愛を出発点とし、その上に基礎づけられ、その愛を目標としていなければなりません。パウロがここで言ってるのも、そのような愛のことです。その愛の特徴を二つにまとめてみましょう。

一つは、「キリストの日に備えて」、すなわち主キリストが再び地に下って来られ、神の国を完成され、わたしたちの救いを完成される日に備えた愛、終末を目指した愛であるということです。真実の愛はこの世での完成はありませんし、それを望むこともありません。真実の愛はこの世での報いを望みませんし、この世での完成もありません。むしろ、この世では未完成であり、途中であるということを知っています。しかし、そうでありつつ、終わりの日の完成を目指しています。神の国での完成を約束されています。

もう一つのことは、真実の愛は「神の栄光と誉れ」とをたたえます。自らの満足を求めたり、他の人の称賛を求めたりすることはありません。「すべては神の栄光のために」、これがわたしたち改革教会の源泉である、宗教改革者カルヴァンのモットーでした。わたしたちの小さな愛の一つ一つも、「神の栄光と誉れ」のための愛であるようにと願います。

(祈り)

8月4日(日)説教「空と海と地の生き物の創造」

2019年8月4日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:創世記1章20~25節

    使徒言行録10章9~16節

説教題:「空と海と地の生き物の創造」

 神は六日の間に天地万物とすべての生き物と人間とを創造され、七日目に休まれました。創世記1章に書かれている神の天地創造のみ言葉を19節まで、第4日目までを読んできました。わたしたちがこれまで何度も確認してきましたように、1章の天地創造の記録は1日1日が非常に整えられた形式で書かれ、しかも論理的で、よく考え抜かれた記述になっています。「神は言われた」という言葉で1日が始まり、神が「あれ」とお命じになるとそれが存在し、神がその存在したものに名前を付け、それぞれに役割を与え、「神はそれを見て、良しとされた」という言葉が最後にあり、「夕べがあり、朝があった。第何日である」という言葉で結ばれています。

1日1日が整えられた形式で書かれているだけでなく、六日間全体の構造も前半と後半で並行関係を持っています。それを見ていきましょう。第1日目に創造された3節の光に対して、後半の最初、第4日目には14~16節で、光を発する天体、太陽と月と星々が創造されました。第2日目、6~7節の大空と水に対して、第5日目、きょうの礼拝で朗読された20~21節の大空の鳥と水の中の生き物、そして第3日目、乾いた地とそこに芽生えた植物に対して、第6日目、24~27節、地の生き物、動物たちと人間、というように、前半の3日間と後半の3日間が対応しています。

このことは、神が一日一日の創造のみわざに、また一つ一つの造られたものに深い配慮と愛とをお示しになっておられるだけではなく、全体としても秩序と知恵をもって、神によって造られた被造世界全体の調和と関連性を十分に考慮されて創造のみわざをお進めになっておられることを明らかにしています。

神はまずすべての光の根源である光そのものを創造され、次に、発光体である太陽や月、星を創造されました。最初に創造された2節の光がどういうものであるのか、わたしたちには説明がつきませんが、第4日目に創造された発光体と深く関連していることは推測できます。光とは、聖書で光という言葉が用いられるときには常にそうなのですが、目で見て感じる明るさだけでなく、その中に神から与えられるもろもろの賜物、恵みが含まれているということを教えているのです。聖書が語る光は、すべての闇と言われるものを照らして、その闇を追い払う光であり、太陽や蛍光灯の明かりでは照らすことができないこの世の暗闇や人生の暗闇を、またわたしたちの魂を照らす光なのです。さらにこの光は、わたしたちの中に隠れ潜んでいる罪を明るみに出し、またその罪を追い払う光でもあります。主イエス・キリストはそのようなすべての人を照らすまことの光であると、ヨハネによる福音書1章で言われています。

第2日目に、神は大空を造り、大空の上の水と下の水とを分けられました。この二つの水は再び一緒になることはありません。どんなに雨が降っても、海の水が空の水に届くことはありません。そして、第5日目に神は空と海にそれぞれの場所にふさわしい生き物を創造されました。空の鳥が大空の上の水でおぼれて死ぬことはなく、海の魚は水が乾いて死ぬことはありません。彼らもまた神の創造の恵みにあずかり、神の愛と配慮によって守られているのです。

第3日目に、神は大空の下の水を集めて乾いた地を造り、またその地から植物を芽生えさせられました。第6日目には、乾いた地を自由に動き回る動物たちを創造されました。彼らは海の水に飲み込まれてしまうことはなく、また飢えて死ぬことがないために地の植物が食べ物として与えられました。神の創造の秩序に従うならば、地は植物に占領されることなく、動物たちが植物を食べつくしてそれを枯らしてしまうこともありません。今日、ある種の動物が絶滅の危機にあると言われるのは、人間がその貪欲のために神が創造された秩序を破壊しているからにほかなりません。

わたしたちはすでに、きょうのテキストである第5日目と第6日目の内容に入っていますが、第5日目の最初の20節と、第6日目の最初の24節はいずれも「神は言われた」という言葉で始まっています。第1日目から第4日目までもすべてそうでした。神はきのうもきょうも、そしてあすも、常に語り給う神です。わたしたちは神がお語りになられるみ言葉を常に新たに聞きつつ生きる者たちです。

神はいたずらに無駄なおしゃべりをなさるためにお語りになるのではありません。すでにわたしたちが何度も確認してきたように、神は最もふさわしいときに最もふさわしいみ言葉をお語りになります。神は上の水と下の水とを分けられ、下の水は海に集められ、上の水は大空の上に集められました。そして、こうお命じになります。【20~21節】。神はそれぞれにそれぞれの場所を備えてくださり、水の中と大空に、その場所にふさわしい命を創造され、そこに生きるべき使命を与えてくださいます。ここでもまた、「神はこれを見て、良しとされた」と書かれています。これは単なる決まり文句の繰り返しではありません。「神がなされることは皆その時にかなって美しい」とコヘレトの言葉3章11節(口語訳)にあるように、神はわたしたち一人一人に、その時その時にふさわしいみ言葉をもって、わたしたちを導いてくださいます。

21節に、水の中の大きな怪物が造られたと書かれていますが、これは古代近東諸国の神話が背景になっていると考えられています。古代の人々にとっては、海は人間の力では制御できない恐るべき魔力を持っていて、海の中には巨大な竜のような怪獣がいると考えられていました。けれども、聖書ではその巨大な竜もまた神によって造られた被造物であるとされています。神はこの世界のすべての神話的な力や魔力をもご支配しておられるということが強調されています。

同じ21節に「創造された」という言葉があります。この創造するという言葉については1節で説明しましたように、ヘブル語ではバーラーですが、神が主語の時以外には用いられない特別な言葉です。その特別な意味を持つ言葉が、第5日目の海と空の生き物の創造のときになって初めて用いられています。そしてこの後には、人間の創造のときに27節では3度続けて用いられます。

では、なぜここで特別な意味を持つバーラーという言葉が用いられているのかについて少し考えてみましょう。バーラーは神の創造のみわざの中で特別な深い意味を持つ言葉として用いられるのですが、それは、創造される神と創造された被造物との強く密接な関係を言い表しています。その一つは、神が命を創造され、その命を生き物にお与えになったということです。旧約聖書の民ユダヤ人は血の中に命があると考えました。その点で、第3日目に造られた植物と第5日目に創造された海と空の生き物、さらには第6日目の地上の生き物との間には大きな違いがあります。生き物には命があり、血が流れています。命である血は造り主なる神のものです。神がその命を生き物たちにお与えになり、またその命をご自身に取り上げられるのです。生き物たちの命は、彼ら自らのものではありません。神から与えられたもの、託されたものです。したがって、その命は神のために、神のご栄光のために用いられなければなりません。

この考え方は、特にイスラエルの神礼拝の中で、神に生き物の血をささげるという儀式の中で具体化されていきました。生き物の血は最も重要な神へのささげ物であり、礼拝者が自分自身の命を神にささげることを象徴的に言い表していました。そして、その頂点に、新約聖書の中で神のみ子主イエス・キリストが十字架で流された尊い、汚れなき血があります。主イエス・キリストの十字架の血は、すべての人の罪を贖う血であり、すべての罪から洗い清める聖なる血であり、すべての人の罪を永遠にゆるす力と命とを持っているのです。

バーラーという言葉が持つもう一つの特別な意味は、22節のみ言葉と関連しています。【22節】。ここで初めて、創造されたものへの神の祝福が語られます。この祝福の意味は「産めよ、増えよ」という神のみ言葉に関連しています。つまり、命あるものがその命を次の世代に受け継いでいくこと、そこに神の祝福があるということです。神の祝福のみ言葉が新しい命を生み出し、その命を保ち、存続させるということです。

わたしたちはここで二つのことを確認しておくことが大切です。その一つは、すべての命には神の祝福があるということです。神の祝福なしにこの世に誕生する命はありません。どのように小さな命であれ、小さな生き物であれ、あるいは傷ついた命であれ、すべての命には神の尊いみ心があり、祝福があるのです。神のみ心に背いてその命を自由に処理したり、奪い取ったりすることは許されません。ましてや、人間の命にこそ、そのことが当てはまります。

第二には、すべての命は神の祝福のうちにあって次の世代へと受け継がれ、増え、広がっていくということです。命の増殖や繁殖に神の祝福があります。生き物たちはこの神の祝福のうちにあって、自ら新しい命を生み出していくことをゆるされているのです。神の祝福を忘れ去った単なる細胞分裂を繰り返すだけの増殖や繁殖が神のみ心に沿っているかどうかをよく吟味してみることが大切です。それ以上に重要なことは、わたしたち人間には神の祝福を受け継ぐ次の世代へと信仰を継承していく使命が託されているということです。

創世記12章1節以下で、神はアブラハムを祝福してこのように言われました。【1~3節】(15ページ)。この神の祝福はアブラハムの子イサクへ、イサクの子ヤコブへ、そしてヤコブの12人の子どもたちであるイスラエルの民へと受け継がれていきました。さらには、わたしたちの救い主、主イエス・キリストによって、全世界の教会の民もまた、このアブラハムに約束された神の祝福を受け継ぐようにと招かれています。

1章24節からは第6日目の創造のみわざが始まりますが、その前半では地の生き物たちが創造されます。【24~25節】。この第6日目の創造で特徴的なことは、地が、陸地が生き物たちを生み出すようにと言われていることです。これは第3日目の11、12節と共通しています。ここには、地が、大地が命の母であるという古代人の考えが反映されていると推測されます。いずれにしても、地上にある命はすべて神によって創造されたもの、神の祝福によって誕生し、増え広がっていくものであるという原則は変わりません。

25節には、まだ第6日目の途中であるのに、「神はこれを見て、良しとされた」というみ言葉が語られています。第6日目の終わりの31節ではもう一度「神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ、それは極めて良かった」と繰り返されています。つまり、第6日目には同じ言葉が2回繰り返されているのです。この日が天地創造の六日間で最も重要な日であることが、ここからもわかります。なぜならば、この日に、すべての被造物の冠としての人間が創造されるからです。その直前の25節で、この日の終わりを待たずに、「神はこれを見て、良しとされた」というみ言葉があらかじめ語られているのです。すなわち、最後の人間を創造するための舞台がすべて整ったということを、ここで確認しているのです。

最後に、わたしたちは主イエスのみ言葉のいくつかを思い起こします。主イエスはたびたび、神がお造りになった被造物に言及されました。ガリラヤ湖で魚を取っていた漁師のペトロたちに、「わたしに従ってきなさい。あなたがたを人間をとる漁師にするから」と言われました。「一粒の種が地に落ちて死ねば、多くの実を結ぶようになる」とも言われました。「空の鳥を見よ、野の花を見よ。神は彼らを養っておられる。ましてや、あなたがた人間をどれほどに気にかけ、愛しておられることか」と言われました。「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」と言われました。事実、主イエスはわたしたち罪びとを罪から救うために十字架で死んでくださったのです。

(祈り)

7月28日(日)説教「聖書―出会いの書―命の書」

2019年7月28日(日)秋田教会牧師就任記念伝道礼拝説教

聖 書:イザヤ書55章6~13節

   テモテへの手紙二3章10~17節

説教題:「聖書―出会いの書―命の書」

 聖書は「大いなる出会いの書である」と言われます。それには、二つの理由があります。一つは、聖書には神と人間との出会いについて書かれているからです。神と人間との出会いは、人間が経験する出会いの中で、最も偉大なものであるといってよいでしょう。

人間は生まれてから多くの出会いを経験して成長します。親や家族との出会い、友人、先輩との出会い、文学や絵画、芸術作品との出会いなど、多くの良き出会いの経験を与えられている人は幸いです。その人の人生は豊かになります。それ以上に、人間が神と出会うということは、その人の生き方を根本から変える大きな出会いとなるでしょう。ある哲学者は神を絶対他者であると言いました。人間の自由にはならない絶対他者である神との出会いによって、人間は自ら相対化される、それによって全く予想もできないような新しい自分というものを発見することができるのだと。

最初から少し難しいお話になってしまいましたが、大切なことは、よい出会い、真実の出会いを経験することが、わたしたちの人生をさらに豊かにするということです。

聖書の初めの書である創世記には、神がご自分の形に似せて人間を創造されたと書かれています。神と人間との形が似ているということは、近い関係にある、お互いが顔と顔とを合わせて対話ができるということです。神は最初に創造された人間アダムとエヴァと出会われました。神は人間にとって絶対他者としての存在ですが、しかし神は人間を対話の相手として、神と人間とが出会う存在として、また人間同士も互いに出会う存在として創造されたのです。それが、神の形に似せて創造されたという聖書のみ言葉の意味です。

聖書に書かれている神と人間との出会いが偉大な出会いであると言われるのは、人間が神と出会うために何らかの努力をしなければならないというのではなく、神ご自身が人間と出会うために、わたしたち人間の方に近づいて来てくださるという出会いだからです。実は、これがクリスマスの出来事の意味なのです。世の多くの宗教は、人間が神を見出す、人間の方から神に近づくという道をたどります。けれども、聖書では、キリスト教ではそうではありません。天におられる聖なる神が、絶対他者である神が、ご自身の身を低くされ、卑しくされて、地に下って来られ、この世の罪と汚れのただ中にお住まいになり、わたしたち人間と同じお姿になられ、ナザレのイエスとして、貧しい家畜小屋でお生まれになり、神に背いていたわたしたち罪びとたちと出会ってくださったという、特異な、特別な出会いなのです。

旧約聖書と新約聖書の中には、数多くの神と人間との特別な出会いの物語が書かれています。彼らは神との偉大な出会いによって、その人生が大きく変えられました。それまでは、自分や自分の周辺にいる人々のために生きていた人が、神と出会ってからは、神のために、主イエスにお仕えするために、そしてすべての隣人のために自分をささげて生きる人生へと変えられていきました。わたしたちはそれらの聖書の物語を読むことによって、神と彼らとの出会いの出来事を追体験することができます。

聖書が大いなる出会いの書であると言われるもう一つの、さらに大きな理由は、聖書の中に神と人間との出会いが多く描かれているというだけでなく、聖書のみ言葉によって、神が今、ここで、この礼拝において、わたしたち一人一人と出会ってくださるということです。そして、実はこの出会いこそが、わたしたちにとって決定的な意味を持つのです。聖書の中に描かれている神と人との出会いの物語をどれほど多く読んでも、熱心に研究しても、それだけでは神とわたしの決定的な出会いは起こりません。神が今、ここで、このわたしに、命のみ言葉をお語りくださる、救いのみ言葉を語ってくださる、わたしと対話をしてくださる、そしてここで、神とわたしの出会いが起こるのです。

神は今も、わたしたち人間を探し求め、たずね求めておられます。神は今も、様々な思い煩いや労苦や試練の中にある人と出会ってくださいます。孤独で、一人悩み苦しんでいる人と出会ってくださいます。病んでいる人や道に迷っている人、不安や恐れの中にいる人と出会ってくださいます。神から離れ、神に背いているわたしとも出会ってくださいます。そして、主イエス・キリストによる救いと平安を与えてくださるのです。わたしたちは主の日ごとの礼拝で、聖書のみ言葉をとおして、今も生きて働いておられる神との出会いを経験することができるのです。これこそが、わたしが人生の中で経験する最も偉大な出会いです。

旧約聖書の預言者イザヤは55章で、わたしたちをお招きくださる神のみ言葉を告げています。【1~3節、6~7節、11~12節】(1152ページ)。神は力強い命のみ言葉をもって、わたしたちをまことの命へと、大いなる喜びと平和へと、招いておられます。

次に、新約聖書のテモテへの手紙二3章のみ言葉に耳を傾けましょう。この手紙は、キリスト教の初期の最大の伝道者であったパウロが弟子のテモテにあてて書いた手紙です。パウロは第二回世界伝道旅行の初めころ、それは紀元49年ころと思われますが、小アジア地方のデルベという町で若いテモテと出会い、彼に洗礼を授けました。そのことについては、新約聖書の使徒言行録16章に簡単に書かれていますが、きょうの説教のテーマとの関連でパウロとテモテの出会いのことを考えてみれば、それは本当に大きな意味のある出会いであったと言えるでしょう。おそらくはまだ二十歳にもなっていなかった若いテモテが、主イエスの福音を宣べ伝えるために町にやってきた伝道者パウロと出会い、パウロの説教を聞いて主なる神との偉大な出会いを体験し、それ以来、テモテはパウロの弟子、同労者、また信仰のために共に戦う戦士となり、小アジアの小さな町、生まれ故郷を出て、パウロと共に全世界をめぐって、困難な伝道活動に加わることになったのでした。

ここで、この手紙の著者であるパウロがどのようにして神と出会ったのかをも思い起こしてみたいと思います。そのことは使徒言行録9章に書かれているのですが、パウロは初めは熱心なユダヤ教徒であり、キリスト教を迫害する先頭に立っていました。彼が属していたユダヤ教ファリサイ派の考えによれば、人は神の律法を忠実に守り、行うことによって、神に救われ、神の国に入ることができる。けれども、キリスト教によれば、人はみな生まれながらに神の律法の一つにも従うことができない罪びとであり、だれも律法を行うことによっては救われない。ただ、罪びとたちに代わって十字架で死んでくださり、三日目に復活された主イエス・キリストを信じるならば、その信仰によって、だれでも律法の行いなしに救われると教えている。それは、神の律法を軽んじることであり、神を冒涜することだ。そう考えて、ユダヤ教ファリサイ派の熱心な学徒であったパウロはキリスト教会を迫害していたのでした。

ところが、ある日パウロが迫害の息を弾ませてダマスコという町の入口までやってきたとき、突然に天からの、真昼の太陽の光よりも強烈な光に撃たれて地に倒れました。彼は目が見えなくなり、天からの声を聞きました。それは復活された主イエスのみ声でした。「パウロ、パウロ、なぜわたしを迫害するのか。わたしはあなたがこれからなすべきことを教えよう」。三日ののちに、彼の目が再び開かれたとき、彼はそれまで迫害していた主イエス・キリストを神のみ子であり、全世界の救い主であると宣教するキリスト教の伝道者に変えられていました。それからは、パウロはかつての同僚であったユダヤ人から迫害を受ける人になりました。迫害する人から迫害される人へと変えられました。律法によって生きる人から、主イエスの福音によって生きる人へと変えられました。

テモテとパウロ、聖書には他に多くの神と人との偉大な出会いの物語があり、人間の予想をはるかに超えた大きな人生の変化の物語があり、神によって与えれた祝福され、幸いな信仰の歩みの物語があります。

テモテへの手紙に戻りましょう。【3章14~17節】。ここには、神のみ言葉である聖書とは何か、それを読む人にどのような命と力とを与えるのか、ということが詳しく教えられています。いくつかのポイントにまとめてお話ししたいと思います。第一に重要な点は、聖書は主イエス・キリストへの信仰によってわたしたち人間を救いに導く神の知恵、神の真理であるということです。これがキリスト教の教えの中心です。キリスト教信仰の中心です。

キリスト教信仰は人間の罪と救いを問題にします。罪とは、神を失った人間の姿です。神なしで生きようとし、時に人間が自ら神のように傲慢になり、時に神を見失って暗闇をさまようほかにない人間のことです。神はこのような罪人を救うために、ご自身の独り子、主イエス・キリストをこの世に遣わしてくださいました。主イエス・キリストの十字架の死によって人間の罪を贖い、すべて信じる人をその信仰によって罪から救い、神との豊かな交わりへと導いてくださいます。聖書はこの神の救いのみわざを、救いの恵みをわたしたちに与えます。聖書以外のどのような書物も、どのような教えや知識も、わたしたちに救いの恵みを与えることはできません。また、その他のどのような方法や道によっても、人間を罪から救うことはできません。ただ、神のみ子主イエス・キリストが十字架で流された尊い、汚れなき御血潮だけが、わたしたちを罪から清め、わたしたちに新しい命を与えるのです。

したがって、わたしたちが聖書を読む場合には、聖書からこの救いの恵みを受け取ることを願って読まなければなりません。聖書を何らかの教訓の書として、文学書とか歴史書とか、あるいは哲学書として読むことも、それなりに意義あることですが、そこから救いの恵み、罪のゆるしの福音を聞き取らなければ、本当に聖書を読んだことにはなりませんし、神との真実な出会いを経験したことにもなりません。神は聖書のみ言葉をお語りくださることによって、わたしたち一人一人に救いの恵みをお与えくださり、わたしたちが罪ゆるされている神の子どもたちであることを信じるようにと導いておられます。

第二に重要な点は、聖書はわたしたちを神との交わりの中にとどめおくということです。パウロが手紙の中で弟子のテモテに繰り返して語っていることは、聖書の教えから離れるな、世の惑わしに心を奪われるな、偽りの教えを退けなさいという忠告です。紀元1世紀のパウロの時代も、今日のわたしたちの時代も、いつもそうですが、世には信仰者を誘惑する甘い言葉や美しく着飾った悪魔の力に満ちています。聖書に書かれている神のみ言葉には、それらを正しい信仰によって見抜き、判断し、それらと戦うための神からの知恵と力があります。わたしたちは誘惑の多いこの世にあって、絶えず繰り返して聖書のみ言葉を聞き続けなければなりません。そのために、信仰者は主の日、日曜日ごとに教会堂に集まり、共に聖書のみ言葉を聞き、共に神を賛美し、共に神に祈りをささげる礼拝を続けるのです。

最後に、聖書はわたしたちを喜んで神と隣人とにお仕えしていく人として造り変えます。神から離れていた罪びとは、自己中心的な生き方しかできません。自分の楽しみや自分の誉れのために、自分の幸いを求めて生きています。しかし、主イエス・キリストの福音によって罪ゆるされている人は、自己自身から解放されます。自分のためだけに生きるのではなく、わたしの罪をゆるすためにご自身の尊い命をささげつくされた主イエス・キリストのために、主イエス・キリストの福音のために、そして、主イエス・キリストに愛されているすべての隣人のために、喜んで自分をささげて生きる、新しい生き方へと導かれるのです。たとえその道が、パウロやテモテにとってそうであったように、労苦や試練に満ちた道であろうとも、あるいは自らの命をそのために犠牲にしなければならないとしても、すべては神の栄光のために、喜びと希望とをもってその道を進むための力と命とを、聖書はわたしたちに与えるのです。

(祈り)

2019年7月21日(日) 秋田教会主日礼拝説教

2019年7月21日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:創世記18章1~15節

    ルカによる福音書1章5~25節

説教題:「神の約束の成就を待ち望む」

 主イエスのために道を備える先駆者の務めを果たす洗礼者ヨハネの誕生予告から、ルカによる福音書は始まります。1章5~25節までのヨハネ誕生予告は、それに続く26~38節までの主イエスの誕生予告と、多くの点で類似点があります。そのいくつかを挙げてみると、エルサレム神殿でザカリアに語りかけるのが天使ガブリエルであり、ナザレのマリアに語りかけるのも同じ天使ガブリエルです。天使とは主なる神ご自身のことです。天におられる神が、地に住む人間に語りかけられるときに、聖書ではしばしば天使、あるいはみ使いがその役割を果たします。ガブリエルは6人いる天使長の一人であり、最も重要な神のみ言葉を告げる際に登場します。

年老いたザカリアとエリサベト夫婦に子どもが与えられるという、神の奇跡による洗礼者ヨハネの誕生も、まだ結婚前のおとめマリアに聖霊によって子どもが与えられるという、主イエスの奇跡による誕生も、いずれも主なる神が計画しておられること、主なる神がなされる救いのみわざであるということが、強調されています。

次に、二人の子どもの名前が、二人が生まれる前から神によって決められていたという点です。普通は、子どもが生まれて八日目に父親が名づける習慣でしたが、ヨハネの場合も主イエスの場合も、まだ母親となるエリサベトとマリアにその自覚が全くないときに、すでに神によって定められていました。ヨハネとは、「神は恵み深い」という意味です。イエスとは「神は救いである」という意味です。神はこの二人の人物を通して、神が実際に恵み深い方であり、イスラエルと全世界のすべての人々のために恵み深いみわざをなしたもう、また、全人類のための救いのみわざをなしたもうという固い決意を、彼らの命名によってお示しになったのです。

そのことと関連して、この二人の子どもは、その生涯と務め、働きもまた、生まれる前からすでに神によって定められているということです。ヨハネの使命については15~17節に書かれています。主イエスの使命については32~33節に書かれています。神の奇跡によって生まれた子どもは、その誕生が神によっているように、その生涯全体もまた神のためにあります。

四つ目の共通点として、神の約束を聞いたザカリアは18節で「何によって、わたしはそれを知ることができるでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年を取っています」と天使に問いかけています。マリアもまた34節で、「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに」と問いかけています。神の恵み深い約束のみ言葉を聞かされた人間は、だれであれ、それを直ちに信じることはできません。神のご計画は人間の理解をはるかに超えています。神がなさることは人間の予想をはるかに超えています。

では、きょうは洗礼者ヨハネの使命、働きについて予告されている15節から学んでいきます。「彼は主の御前に偉大な人になり」とあります。主とは、ここでは直接には神を指しています。ヨハネは主なる神のみ前にあって生きる人です。主なる神のために、主なる神から託された任務に仕えることによって、彼は偉大な人となります。彼自身が努力して立派な人になるのではありませんし、他の何かが彼を偉大にするのでもありません。さらに、主とは主イエスを暗示しているとも言えます。ヨハネは来るべきメシア・救い主である主イエスのみ前にあり、主イエスのために道を備え、主イエスを証しすることによって、偉大な人となるのです。ヨハネの誕生がそうであるように、彼の生涯は徹底して来るべきメシア・主イエス・キリストと結びつけられており、主イエスに仕えることが彼の使命です。そうであるときにこそ、彼は偉大な人となるのです。

ヨハネは「ぶどう酒や強い酒を飲まない」とあります。旧約聖書では、神のために重要な働きをする大祭司や預言者、また神に誓願を立てたナジル人は酒を断つと書かれています。彼らはお酒によって元気づけられるのではなく、神の霊、聖霊によって命と力とを与えられて、神から託された務めを果たしました。それと同じように、否それ以上に、ヨハネは「既に母の胎にいるときから聖霊に満たされている」と書かれています。ヨハネの誕生と命の根源には神の霊、聖霊があります。また彼の全生涯とその務め、その働きのすべても、神の霊、聖霊によって支えられ、導かれていると預言されています。これほどまでに徹底して、ヨハネの生涯は主なる神に依存し、主なる神のためにあり、また彼の後から誕生する主イエス・キリストのためにあるのです。そうであるときに、ヨハネはたとえ彼の生涯が試練と苦難に満ちているものであろうが、彼の命が暴虐なヘロデ王によって奪い取られることになろうが、彼は主の御前に偉大な人となり、豊かに祝福された生涯となるのです。

16節からは具体的にヨハネの使命が語られます。【16~17節】。この16、17節に3度「主」という言葉があります。「その神である主のもとに」「主に先立って行き」「主のために用意する」、これはいずれも、主なる神のことでありまた同時に主イエス・キリストのことでもあると理解すべきです。ここでも、ヨハネの生涯とその使命は、徹底して主なる神のためであり、来るべきメシア・主イエス・キリストのためであるということが強調されています。

また、ここで語られているヨハネの使命は、旧約聖書の最後の書であるマラキ書に預言されている内容が背景になっていると考えられます。マラキ書では、神が古くからイスラエルの民に約束されていた救いの完成の時が、今、間近に迫っている。神はこの世の終わりの時に、すべてを新しくして神の国を完成するメシア・救い主を世に遣わすであろうという預言が終末論的な視点で語られています。そのいくつかを読んでみましょう。【3章1~3節】(1499ページ)。【19~24節】(1501ページ)。

このマラキ書の預言で語られている預言者エリヤの務めをヨハネは果たすとルカ福音書は告げているのです。終わりの日、主の日に、神は最後の審判を行い、救いを完成される。その時神は義の太陽であるメシア・救い主をお送りくださるが、その前に、救い主のために道を整える使者として預言者エリヤを派遣する、それがヨハネであると告げています。ヨハネは、旧約聖書の預言者たちの列の最後に立って、来るべきメシア・救い主の最も近くにいて、神の約束の成就の時のすぐ前で、その成就を待ち望み、いや待ち望むだけでなく、事実その成就を彼自身も見、そしてそれを指し示し、彼の全生涯によってメシア・救い主を証しする、それがヨハネの使命です。この使命を託されているがゆえに、ヨハネは主の御前に偉大な人なのです。

ところが、ザカリアはこの神の約束のみ言葉を信じることができなかったと18節に書かれています。それもそのはず、ザカリアとエリサベトには長い間子どもが与えられず、しかも二人ともすでに年老いて、人間的には子どもを生む能力が全く失われていたからです。人間の限界と不可能性の中で、それでもなお神の奇跡を信じるということは、だれにとっても困難です。創世記18章には、90歳近くになったサラに子どもが与えられると語った神のみ使いに対して、サラは笑ったと書かれています。17章17節には、百歳になろうとしていたアブラハムも笑ったと書かれています。アブラハムとサラのこの笑いは、確かに不信仰による笑いであると言ってよいでしょうし、ザカリアが「何によって、わたしはそれを知ることができるか」と言って確かなしるしを求めたことも、彼の不信仰に由来すると言ってよいかもしれませんが、しかし、そうであるとしても、だれもアブラハムやサラ、またザカリアを責めることはできないでしょう。

神の天使は、しるしを求めるザカリアを直接に避難してはいないように思われます。【19~20節】。ここでは、ザカリアの不信仰が非難されているというよりは、ザカリアの不信仰にもかかわらず、神の約束のみ言葉が確実に成就していくであろうということが何度も強調されていることに気づきます。「わたし、ガブリエルはこの喜ばしい知らせを伝えるために遣わされたのだ」。「この事が起こる日まで」。「時が来れば実現するわたしの言葉」。神のみ言葉は一つとしてむなしく語られることはありません。神のみ言葉は人間たちの不信仰の中でも必ずや出来事を生み出し、成就します。

ザカリアは祭司の務めにあったゆえに、だれよりも早くに神の救いのみわざの喜ばしい知らせを聞くことが許されました。にもかかわらず、彼は信じることができませんでした。彼はやはり不信仰ゆえの神の裁きを受けなければならないでしょう。ザカリアが口がきけなくなり、言葉を失ったというのは、確かに神の裁きであるといってよいかもしれません。祭司であるザカリアが言葉を失うことは大きな痛手です。しかも、彼はこの日の礼拝で、組を代表して聖所に入り香を焚き、民全体の祈りを神に届け、それから神のみ旨を伺い、神から与えられる罪のゆるしと恵みと祝福の言葉を民に語らなければなりませんでした。しかし、彼は言葉を失い、その務めを果たすことができませんでした。そのことが、21節以下に書かれています。

けれども、わたしたちはここでもう一つのことを気づかされます。それは、不信仰なザカリアが言葉を失った、口をきけなくなったということは、実は神の約束のみ言葉が確かであることのしるしであるということなのです。なぜならば、信じなかったザカリアが言葉を失うことによって、いよいよ神ご自身がみ言葉をお語りになり、疑ったザカリアが祭司としての務めを果たし得なかったことによって、神ご自身がみわざを行い、み言葉を成就されるのであるとの希望がより確かになっていくからです。ザカリアはただ黙して神の約束の成就を待ち望む者とされているのです。

信じなかったザカリアは語ることができません。否、語るべきではありません。不信仰な人や信じない人は神について語るべきではありません。その人はむしろ、沈黙することによって、神ご自身に語らせるべきです。不信仰なザカリアは口がきけなくされることによって、全く無力な者とされ、それ故に、ただひたすらに神からの助けと憐れみとを待ち望むほかにない者とされ、いよいよ全能の神のみ言葉を待ち望むほかにない者とされ、神がもう一度圧倒的な力をもって彼の人生に介入される時を待ち望む者とされているのです。それは、ザカリアがのちになって64節以下で、特に67節以下のザカリアの賛歌を彼が歌うことによって、明らかにされます。ザカリアはこのようにして、年老いてから子どもが与えられるという神の奇跡と、神をほめたたえるために彼の口が再び開かれるという、二度の奇跡を経験することがゆるされるのです。

神はザカリアの不信仰を超えて、それを突き破って、またそれをお用いになって、ご自身の約束のみ言葉が確かに成就するということをお示しになりました。神のみ言葉は時が来れば必ずや成就します。ザカリアはただ黙して約束の成就を待ち望む者とされました。それは神の裁きであったと同時に、神の大きな恵みでもありました。神の約束の成就を待ち望む者は必ずやその成就を見るからです。

(祈り)

7月14日「良いわざを始め、完成される神」

2019年7月14日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:詩編98編1~9節

    フィリピの信徒への手紙1章3~11節

説 教:「良いわざを始め、完成される神」

 フィリピの信徒への手紙には二つの別名が付けられているということを、前にお話ししました。「獄中書簡」と「喜びの書簡」という名前です。本来一緒になるはずがないこの二つの名前がこの書簡につけられているのはなぜか、その秘密、その真理を探っていくことが、この手紙を読む際の一つの楽しみでもあります。きょうの礼拝で朗読された箇所に、すぐにも喜びという言葉が出てきます。そして、その喜びとはいかなるものであるのか、獄に捕らえられているパウロが、それにもかかわらず喜びと感謝に満たされているのはなぜなのかが、この最初の個所で明らかになります。

 【3~4節】。この手紙には「喜び」とか「喜びなさい」という言葉が10数回用いられていますが、その最初が4節の「喜びをもって」、次が18節の「わたしはそれを喜んでいます。これからも喜びます」、ここには続けて2度出てきます。この手紙の差出人である使徒パウロは今獄につながれています。7節にそれが暗示されていますし、12節以下でははっきりと彼が今監禁されていることが語られています。それなのに、彼は喜んでいます。なぜでしょうか。獄に捕らえられ、しかも自らが犯した何らかの犯罪とか過ちとかによってではなく、主イエス・キリストの福音を語ったがゆえにユダヤ人やギリシャ人から迫害を受けて、獄の中で鎖につながれ、自由を束縛され、もしかしたら死の判決を下されるかもしれないという不安や恐れ、孤独と絶望に閉ざされてしまいかねないような困難な状況の中で、しかもなおパウロは喜びに満たされている、神に感謝している、それはなぜなのか、わたしたちはぜひともその秘密を知りたいと願わずにおれません。

 もう一度、3節の終わりの個所を読んでみましょう。「いつも喜びをもって祈っています」。パウロの喜びは、まず第一に、祈りと結びついているということが分かります。パウロは獄中で神に祈っています。喜びと感謝をもって祈っています。祈りは、獄中のパウロをすべての束縛や不安、恐れから自由にし、解き放ちます。ここに、パウロの特別な喜びの隠された秘密、その理由があります。パウロにとって祈りは、それはわたしたちすべてのキリスト者にとっての祈りとも共通することですが、神を信じる人の祈りは、祈りの相手である神のみ力が働くときです。祈るわたしには全く力なく、可能性はなく、希望もないにもかかわらず、そうであるからこそわたしたちは神に祈るのですが、わたしたちの祈りによって主なる全能の神が立ち上がってくださり、お働きになってくださる、神のみ心が実現されていく、それが祈りです。たとえ今パウロが獄につながれ、太い鉄格子で囲まれていようとも、たとえだれかが、あるいはこの世のどのような権力が彼を抑圧しようとしても、パウロは祈りによって自由になっています。彼はどのような状況の中でも祈ることができます。祈りは彼を自由にし、彼を縛り付けているすべての束縛を断ち切り、鉄格子を打ち破り、不安や恐れを投げ捨て、そして、彼にこの世ならぬ喜びを感謝を与えているのです。

 したがって、ここからわかる第二の点は、パウロがフィリピ書でしばしば語る喜びとは、天の父なる神から与えられる喜びであるということです。この世で、パウロが努力して手に入れることができた喜びではなく、この世のだれかが、何かが彼に与えることができる喜びでもなく、むしろ、そのようなこの世の喜びがすべて失われてしまったのちにも、天の父なる神から与えられる喜び、祈りによって、全能の神から与えられる喜びなのだということです。この世でわたしたちが手にすることができる喜びといったものは、別の喜びによっておおわれてしまったり、あすになれば憂いに変わってしまったりするほかありません。もちろん、そのような喜びも天からの喜びの反映であり、神はそのような喜びをもわたしたちにお与えくださるでしょう。でも、天からの本当の喜び、どのような状況でも決して変わらず、失われることもない永遠の喜びは、この世のあらゆる束縛をも打ち破り、すべての不安や恐れからわたしたちを解放する喜びなのです。この世にある他のすべての喜びは、この天からの、神からの喜びの反映なのであり、繁栄でなければなりません。

 次に注目すべき点は、3節で「わたしは、あなたがたのことを思い起こす度に、わたしの神に感謝し」と言っていることです。パウロの感謝はまず神に向けられています。彼がこの手紙を書く主な目的は、フィリピ教会が獄中のパウロに援助の手を差し伸べたことに対するお礼を伝えるということにありました。パウロはもちろんそのことへの感謝を忘れているわけではないでしょうが、しかしパウロはそれについては手紙の終わりの個所で、4章10節以下で具体的に語ります。手紙の冒頭では、何よりもまず神に対する感謝を語っています。神こそがすべての感謝の源だからです。

 もう一つ、この3節で特徴的なことは、パウロはここで「わたしの神」と言っていることです。新約聖書でも旧約聖書でも、神を「わたしの神」と言い表す例はごくわずかしかありません。多くは、「わたしたちの神」「イスラエルの神」と言います。それは、天におられる神の尊厳や偉大さを強調していたからです。そのために、「わたしの神」と親しげに言い表すことを避けていたからです。しかし、パウロはここで大胆にも「わたしの神」と言っています。神との親密な関係を大胆に表現しています。それはおそらく、パウロが今置かれている状況と深く関連していると思われます。パウロは今、ローマかエフェソか、あるいは他の町で獄に捕らえられ、信仰の兄弟姉妹たちから隔離され、一人でやがて下されるであろう死の判決を待っています。けれども、パウロは決して一人ではありません。孤独ではありません。主なる神が、彼と共にいてくださいます。このような困難な状況の中でこそ、パウロは神の存在を身近に感じています。パウロが獄にとらわれている時にも、神はパウロの神であることをやめません。いや、たとえ彼に死の判決が下され、彼が死に赴かなければならなくなるとしても、その時にも神はパウロの神であり続けます。神はどのような時でも、「わたしの神」として、わたしの傍らにいてくださる、わたしと共にいてくださるということを、パウロは強く信じているのです。

 パウロの喜びをさらに探っていきましょう。【5節】。ここでは、パウロの喜びと感謝の源となっていることが何であるのかが、よりはっきりと書かれています。それは、フィリピの教会が主キリストの福音にあずかっているからです。「最初の日から」とは、パウロが第2回世界伝道旅行の途中に、小アジアからヨーロッパに渡って最初にフィリピの地で福音を宣べ伝えた時からということで、それは紀元48年か49年ころと思われますが、それ以来、パウロが今手紙を書いているこの時までずっと、フィリピ教会で主キリストの福音の説教がなされ、聞かれ、信じられてきた、フィリピの教会の人たちは主キリストの福音によって生き続けてきたという事実、そのことをパウロは感謝し、喜んでいるのです。

 なぜならば、主イエス・キリストの十字架の福音は、それを聞き、信じる人を、罪から救い、死と滅びの道から命と希望の道へと導くからです。パウロはローマの信徒への手紙1章16節でこう言います。「わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシャ人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです」。また、コリントの信徒への手紙一1章18節以下では次のように語ります。【18~25節】(300ページ)。主イエス・キリストの十字架の福音はわたしたちを罪と死と滅びから救い、罪ゆるされた人としての新しい人間を創造し、わたしたち一人一人を来るべき神の国の民として導くのです。これこそが、天から、神から与えられた、永遠の喜びであり、この世のすべての鎖や壁を打ち砕き、悲しみや憂いや、不安や恐れからわたしを解放する神の力なのです。パウロはフィリピ教会がこの福音を宣教し、聞き、信じていることを、何にもまして喜んでいる、神に感謝しているということを、手紙の冒頭で語っているのです。

 この喜びはフィリピ教会に与えられている喜びであり、パウロの喜びでもあります。様々な困難や迫害に苦しめられているフィリピ教会、そして今迫害のために獄に捕らわれの身となっているパウロ、その両者がこの天からの、神からの喜びによって固く結ばれているのです。その喜びはまた、今日聖書のみ言葉を読むわたしたち一人一人の礼拝者に与えられている喜びでもあります。主キリストの福音から与えられるこの罪のゆるしの喜び、救われた喜び、自由と解放の喜び、この喜びが全世界の教会の民を一つに結合しています。

 【6節】。ここでは、パウロの喜びと感謝がさらに広げられています。主キリストの福音によって与えられる喜びは、場所や地域や国を超えて、あるいはそれぞれの状況の違いを超えて、すべて福音を信じる人々を一つにする、それだけでなく、時をも超えて過去から現在へ、そして未来へ、終わりの日に至るまで、広がっていく様子を、わたしたちはここに見ることができるのです。

 「あなたがたの中で善い業を始められた方」とは神のことです。フィリピの町に最初に福音を宣べ伝え、教会の基礎を築いたのはパウロですが、またそこに集まり信仰の群れを形成したのはフィリピの人たちですが、彼らをお用いになって教会建設のわざを始められたのは、主なる神ご自身です。神はご自身が始められた救いのみわざを、途中で放棄されることはありませんし、何らかの障害によってとん挫することもありません。神がなさるみわざは必ずや成し遂げられ、完成へと至ります。詩編98編の詩人はこのように歌います。【1~3節】(935ページ)。また、イザヤ書55章8節以下にはこのように書かれています。【8~11節】(1153ページ)。

 それゆえに、パウロの喜びと感謝は時をも超えていきます。「キリスト・イエスの日」とは、世の終わりの日、終末の時、神の国が完成される日のことです。10節や2章16節では「キリストの日」と言われています。主イエス・キリストが再びこの地に下ってこられ、地にあるすべてをお裁きになり、この古い世界を終わらせ、信じる人々を天にある神の国へと引き上げてくださる日のことです。パウロの目は、過去から現在へ、そして終わりの日へと向けられています。それは、主なる神が天地創造の初めからイスラエルの選びの歴史を貫き、主イエス・キリストの十字架と復活によって成就してくださった救いの歴史を、終わりの日に完成させてくださることを固く信じているからです。

 これがパウロの終末信仰です。この終末信仰こそが、パウロの喜びと感謝の根拠です。いかなる現実によっても左右されず、むしろ現実を打ち破り、変革し、新しい道を切り開いていく力と可能性とを持った喜びです。フィリピの使徒への手紙はその喜びに満ちています。それゆえに、「獄中書簡」でありながら「喜びの書簡」と呼ばれるのです。わたしたちにもこの喜びが与えられています。

(祈り)

7月7日説教「昼と夜の創造」

2019年7月7日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:創世記1章14~19節

    使徒言行録17章22~31節

説教題:「昼と夜の創造」

 きょうの礼拝で朗読された創世記1章14~19節には、神の天地創造の第四日目のみわざについて書かれています。【14~19節】。第四日目も、「神は言われた」という14節の言葉で始まります。神がみ言葉をお語りになることから、第四日目が始まります。この日だけではありません。天地創造のこの日までの3日間も、またこの日以後のすべての日々も、「神は言われた」という言葉で始まります。それだけではありません。神の天地創造から今日に至るまでの全世界のすべての日々も、またこれ以後のすべての人にとってのすべての日々も、「神は言われた」という言葉で始まるのだということ、始められなければならないのだということを、わたしたちは知っています。人間が何かを語りだすよりも前に、人間が何かをなすよりも前に、神がまずみ言葉をお語りになる、そして人間がそれを聞く、そのようにして一日が始められるとき、15節にあるように、「そのようになった」というみ言葉を聞くことができるし、さらには、その日の終わりには、18節に書かれているように、「神はこれを見て、良しとされた」というみ言葉をも聞くことができるのだということを、わたしたちは知っています。

もし人が、神なしで、神のみ言葉を聞くことなしで、自ら語り、自ら何かをなそうとするならば、それは実りのない、むなしく消え去っていくしかない一日、空虚な時になるほかないでしょう。わたしたちのきょうの一日が、わたしの生涯の日々が、満たされた時、確かな実りを約束された日々となるために、そしてすべての時が、すべての日々が、神によしとされるために、わたしたちはまず神ご自身がお語りになり、わたしがそれを聞くということが第一に重要なのだということを、覚えたいと思います。わたしが自分の生涯を終えようとするとき、「神はそれを見て、良しとされた」というみ言葉を聞くために、何よりも重要なことは、「神は言われた」というみ言葉を聞き続けることなのです。

第四日目の創造のみわざを語る際に、聖書は非常に注意深い用語を用いていることに気づかされます。14、15節の天の大空にある「光る物」、また16節の「二つの大きな光る物」のうちの「大きな方」とは、あきらかに太陽のことです。当然、「小さな方」とは月のことです。つまり神はこの四日目に、太陽と月、星々を創造されたのですが、聖書は太陽と月という言葉を直接には用いていません。これには大きな理由があります。

古代社会においては、今日でもそうですが、太陽や月は信仰の対象とされ、神として礼拝されていました。たとえば、イスラエルと様々なかたちで、隣国としての関係を持ってきたエジプトでは、太陽神「ラー」が長い間、国家の中心的な神でした。また、アブラハムの生まれ故郷であった古代メソポタミアでは、月神「シン」が礼拝されていました。その他、あらゆる国で、あらゆる時代に、太陽と月は神として崇められていました。今日でもそうです。

しかしながら、聖書では、イスラエルでは、太陽も月も、そして星々も、主なる神によって創造された被造物に過ぎず、神が大空にそれらを配置され、それらの運航と役割とを神が定め、支配しておられるのです。それらは決して神として礼拝されることはありませんし、それらが人間の運命を左右したりすることも全くあり得ません。古代エジプトやのちの中国などで発達した占星術は、イスラエルにおいては全く愚かで幼稚なものとして投げ捨てられました。このような正しい創造信仰は、わたしたちをすべての偶像礼拝から守ります。きょうの聖書の言葉の一つ一つには、それらの異教的な偶像礼拝や信仰に対する対決、否定が含まれているのです。

14~18節までのすべての文章は、神が主語です。神がお語りになり、神がみわざをなさいます。「神は言われた」で始まるこの日一日は、神がすべてお語りになり、神がすべてのみわざを行われます。神が「あれ」と命じられ、神が「そのようになれ」とお命じになるのです。

では、神は何のために、だれのためにこれらの創造のみわざをなさるのでしょうか。きょうの個所でそのことがより一層明らかになります。神は前日、三日目には、乾いた所、陸地を創造されました。海の水が陸地を覆ってしまわないように、海と陸とを分けられました。神は陸地に、草や果樹を芽生えさせられました。それは、やがて神が第六日目に創造される人間アダムをその陸地に住まわせるため、彼にその草と果樹を食物としてお与えになるためであるということを、わたしたちはのちに知らされます。神は人間アダムが生きるための舞台として陸地を整えてくださったのです。天地創造の神はその創造のみわざの初めから人間アダムを愛され、彼のために配慮してくださいます。

そのような視点から、きょうの四日目の創造について改めて読み返してみると、新たなことに気づかされます。14節に「昼と夜を分け、季節のしるし、日や年のしるしとなれ」と書かれており、15節には「地を照らせ」とあります。神によって創造された太陽と月は、人間アダムの時を刻み、季節ごとの地の実りをもたらすために仕えているのです。神の創造の世界にあっては、太陽と月は人間が礼拝する神々としての対象ではなく、むしろ人間に奉仕するために神によって創造された被造物です。主イエスは言われました。「あなたがたの天の父である神は、悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」(マタイ福音書5章45節)。「今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか」(同6章30節)。わたしたちは神が創造された被造世界を見て、そこに現わされた人間に対する神の大きな愛を知らされるのです。

16節に、「大きな方に昼を治めさせ、小さな方に夜を治めさせられた」と書かれています。神はお創りになった太陽と月とをお用いになって、昼と夜とを創造されます。神はこの日に時を創造されたといってよいでしょう。神は先に人間アダムのために彼が住む陸地を創造されましたが、この四日目には彼が生きる時を創造されました。わたしたち人間が生きる場所も生きる時間も、神から与えられたもの、神の賜物です。わたしたちはその両者を神に感謝しながら、わたしが生きる時とわたしが生きる場所を神のみ手から受け取り、神の創造のみ心に従ってそれを用いるべきです。

しかしながら、今日多くの人がそのことを忘れて、神がお創りになったこの地を、あたかも自分の手で獲得できるかのように、自分の手でさらに広げることができるかのように思い、他の人の地までを略奪し、そのために神から賜った地に多くの人間の赤い血を染み込ませてきたのではないか。あるいは、神がお創りになった時間を、あたかも自分たちの自由に管理できると思い込み、他者の時間までも金銭で買収できると考えたり、あるいは、むしろ時間の奴隷にされたりしているのではないか。そのことを反省させられます。

朝には太陽が昇り、昼の光が明るく世界を照らし、すべて命ある者たちにその光が及ぶ。夜には、月の光のもとできょうの一日を終え、小さな光が優しく人々を安らかな眠りへといざなう。そのようにして、日から日へと、夜から夜へと一日が巡っていくこと、そこに創造主なる神の尊いみ心があり、特にも人間アダムに対する深い愛と配慮があるのだということ、そのことを神に感謝して日々を歩む者でありたいと願います。

神は昼と夜とを創造されたとともに、季節をも創造されました。季節ごとの地の豊かな実り、暑さ寒さもまた、天地創造の神の賜物です。創世記8章22節で、ノアの洪水ののちに神はこう言われました。「地の続く限り、種蒔きも刈り入れも/寒さも暑さも、夏も冬も/昼も夜も、やむことはない」と。神は時と時間と季節とを創造され、それをみ心によって支配され、それぞれの時に応じて、豊かな恵みをお与えくださいます。わたしたちはまた次のようなコヘレトの言葉3章のみ言葉を思い起こします。【1~8節】(1036ページ)。神はそれらのすべての時を、わたしたちのために創造され、支配しておられるのです。

イスラエルの民にとっては、時と季節は特別に重要な意味を持っていました。それはイスラエルの礼拝と深く関係していました。イスラエルでは、春に祝われる過ぎ越しの祭りと種入れぬパンの祭りは、本来は大麦の鎌を入れる収穫祭だったと推測されています。それから50日目に祝われる五旬節・ペンテコステは小麦の収穫を感謝する祭りです。秋に祝われる仮庵の祭りはブドウの収穫を感謝する祭りです。イスラエル3大祭りは、時と季節を創造され、その季節にふさわしい実りを大地にもたらしてくださる神への感謝の礼拝なのです。そのほかに、新年の礼拝、新月の礼拝なども、時に関連した礼拝です。信仰の民にとって、時は神礼拝と密接に結びついています。

14節に、「昼と夜を分け」とあり、また18節には、「光と闇を分けさせられた」と、ここにも「分ける」という言葉が2度用いられています。同じ言葉がすでに4節、7節でも用いられておりましたし、同じような意味を持つ「呼ぶ」という言葉も何度も出てきました。分けるとは、区別すること、境界線を引くこと、両者が互いの領域を侵略しないように定めることです。どれほどに夜が長く続き、闇が深く感じられるような時があろうとも、夜がその日全体を支配することはありませんし、闇が光を永遠に追い出すこともありません。夜と昼、闇と光を創造された神は、その両者を支配しておられます。神は必ずや夜の時を終わらせ、闇を追い払われます。光の昼を来たらせたまいます。

旧約聖書の詩人たちは、試練や悩みの夜を迎える時、夜の深い暗闇を恐れながらも、必ずや神が光の朝を来たらせてくださることを信じて、「主よ、わたしは身を横たえて眠り/また目覚めます。主がわたしを支えてくださるからです」(詩編3編6節)と歌い、また、「見よ、イスラエルを守る方は/まどろむことなく、眠ることもない。主はあなたを見守る方/あなたを覆う陰、あなたの右にいます方。昼、太陽はあなたを撃つことがなく/夜、月もあなたを撃つことがない」(詩編121編4~6節)と歌いました。使徒パウロは、ローマの信徒への手紙13章11節以下で次のように書いています。これは、中世の偉大な神学者アウグスチヌスが長い放浪の旅に終止符を打ち、回心するきっかけとなったみ言葉としても有名です。【11~12節】(293ページ)。

14、15、16節で用いられている「光る物」という言葉について、もう少し触れておきたいと思います。この言葉は、古代の近東諸国で神として崇められていた太陽、月という言葉を直接に用いることを避けるために「発行体」というような意味で用いられていますが、しかし、それ自体が光を放っているとは決して言われているのではなく、創り主であられる神から与えられている光、あるいは神からの光を反射している光のような存在として描かれています。3節ですでに学びましたように、神は創造の第一日目に光を創造されました。この光は、きょうの第四日目の「光る物」とは明らかに違います。創世記1章の中では、3節の光ときょうの「光る物」との違いについては何も説明してはいません。わたくし自身もその違いについてわかりやすく説明することはできません。

それでも次のことは明らかです。新約聖書においては、主イエス・キリストがすべての人を照らすまことの光としてこの世においでくださったとヨハネ福音書1章で証しされており、また、主イエスご自身が「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」と言われたことをわたしたちは知っています。わたしたちキリスト者にとっての光とは、わたしたちの救いであり命である主イエス・キリストのことです。

(祈り)

6月30日(日)説教「恵みと平安があなたがたにあるように」

2019年6月30日(日)午前10時30分 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:民数記6章22~27節

    フィリピの使徒への手紙1章1~2節

説教題:「恵みと平安があなたがたにあるように」

 フィリピの信徒への手紙は、当時のギリシャ世界の手紙の書式にならって、手紙の差出人と受取人に続いて祝福の言葉が語られています。【2節】。手紙の冒頭で、手紙の差出人が受取人に対して祝福の言葉を書くという古代社会の習慣には、今日のわたしたちが考える以上に深い心の交流があったと思われます。今のように、交通が便利ではなく、頻繁に顔を合わせることができない時代に、また電話とかの電子による通話ができなかった時代に、遠く離れた相手に自分の願いや思いを伝える唯一の手段であった手紙に、その冒頭で、要件を書くよりも前に、まず一字一字に深い祈りと思いとを込めて祝福の言葉を書くということの重要性を、わたしたちは気づかされます。

 しかし、この手紙の差出人である使徒パウロは、単に当時の一般社会の習慣に従っているのではありません。パウロの祝福の言葉は、それは短く簡潔な文章ですが、そこにはキリスト教信仰の中心が表現されています。【2節】。ここには、パウロの信仰と神学、主イエス・キリストの福音が端的に言い表されています。

第一に重要なポイントは、この祝福の言葉は手紙を書いている人の社交辞令とか個人的な願いとかではなく、天の父なる神から、また十字架につけられ、三日目に復活され、天に昇られ、父なる神の右に座しておられる主イエス・キリストから、手紙の差出人と受取人の両者にすでに与えられている恵みと平和を感謝して受け取りなさいという、神の恵みと平和への招きなのであり、また神の恵みと平和による信仰者の深い交わりの確認というような意味も含まれているのだということです。この2節のみ言葉には、当時の一般社会での手紙の書式とは違った、パウロの、キリスト教信仰による、全く新しい意味が含まれているのだということを、わたしたちは第一に強調したいと思います。

手紙の冒頭で、相手に思いをはせて、「あなたに祝福があるように、あなたの健康が守られるように」、あるいは当時のギリシャ社会であれば、「ローマ皇帝カイザルの恩恵があるように」と祈り、願う、それが手紙を書く時の習慣でした。でも、パウロの手紙ではそれ以上です。「そうあったらいいね、そうなってほしいね」というのではなく、「すでに、父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平和が、確かに、豊かに、あなたがたに与えられている。だから、そのことを覚えて、神に感謝しなさい。また、わたしと一緒にその恵みと平和を共に分かち合いましょう」、そのようにしてパウロは、手紙の冒頭で神の恵みと平和の中へ教会の民を、わたしたちを招き入れているのです。このパウロの祝福の言葉は、祝福を祈るというよりも、祝福を与える言葉であると言うべきでしょう。

ではここで、他のパウロ書簡のあいさつと祝福の言葉を調べてみましょう。【ローマの信徒への手紙1章7節b】(273ページ)。これはフィリピの手紙と全く同じです。【コリントの信徒への手紙一1章3節】(299ページ)。これも全く同じです。実は、他のパウロ書簡でも、祝福の言葉はみな同じです。【テサロニケの使徒への手紙一1章1節c】(374ページ)。これだけがより簡潔な表現になっていますが、この手紙はパウロ書簡の中で最も早くに、紀元50年ころに書かれたと考えられていますので、これがパウロの初期のころの祝福の言葉であり、そののちにフィリピやローマの手紙のように、「神とキリストから」という言葉が付け加わっていったと推測できます。

ところで、皆さんは手紙の冒頭にどういう言葉を書きますか。相手がクリスチャンであれば、「主にあって」とか「主のみ名を賛美します」と書いておられる人が多いと思います。それでよいのですが、パウロの書簡を読んでいるわたしたちは、パウロにならって、【2節】と書いてもよいのではないでしょうか。「あなたとわたしが、神と主キリストから与えられている豊かな、確かな恵みと平和の中に招き入れられている。その恵みと平和による豊かな交わりによって結ばれている」、そのことを覚えて感謝しつつ、手紙を書くというのはどうでしょうか。

次に重要なポイントは、「恵みと平和」の源泉、それが出てくるのはどこかという点です。「わたしたちの父である神」と「主イエス・キリスト」がその源泉です。この点においても、一般社会の手紙の祝福の言葉と根本的に違っています。この世においては、得体のしれない偶像の神々とか、自然や他の被造物とか、ローマ皇帝とかのこの世の支配者や他のだれかとかがその源泉になるでしょうが、聖書においては、「恵みと平和」は、「父なる神と主イエス・キリスト」からきます。天から与えられます。地上の朽ちるほかない、過ぎ去るほかない、もろもろの恵みとか平和ではありません。それだけでなく、わたしたちが前に確認したように、恵みと平和はすでに父なる神と主イエス・キリストから豊かに、確かに与えられているということを、わたしたちは知っています。

ここでは、「わたしたちの父なる神」と「主イエス・キリスト」がどのような関係にあるのかについては、何も語られてはいません。父なる神とみ子なる神・主イエス・キリストと聖霊なる神とが、三つの位格を持つ一人の神でいますという、三位一体の教理はパウロ書簡ではまだ明確に形成されてはいません。後にキリスト教教理の中心となる三位一体論は、2世紀後半から4世紀にかけて次第に形成されていきました。三位一体という言葉そのものは聖書の中にはありませんが、それは聖書の証言とは違ったことを初代教会が勝手に創作したということではありません。福音書に記されている主イエスの教えとお働き、またパウロなどの使徒たちの証言と信仰を土台として、それらの聖書のみ言葉から導き出された結論として三位一体の教理が形成され、今日のすべての教会の中心的な教理となったのです。パウロの手紙にも三位一体論の基本があることは言うまでもありません。

きょうの個所でも、わたしたちの父なる神のほかに、もう一人の主なる神として主イエス・キリストがおられるということが言われているのではありませんし、主イエス・キリストが父なる神とは違った別の存在であるとか、別の人間であるということが言われているのでもありません。父なる神と主イエス・キリストは一体です。おひとりの神です。切り離すことはできません。パウロ書簡の他の個所では、主イエスは「神のみ子」と言われ、神は「主イエス・キリストの父である神」と呼ばれています。父なる神とそのみ子であられる主イエス・キリストから、同じ恵みと平和が一緒になってわたしたちに与えられる、父なる神とみ子なる神は一人の神であって、同じ救いのみわざのために働かれるという、三位一体論の基本をここに読み取ることができます。

旧約聖書時代からの伝統によれば、全世界の唯一の主である父なる神からすべての恵みと平和が与えられます。パウロはそれに主イエス・キリストを付け加えています。なぜでしょうか。それは、神が主イエス・キリストによって、わたしたちの父となってくださったからであり、また父としての大きな愛によって、わたしたちに恵みと平和をお与えくださったということを言い表しています。神がご自身のみ子主イエス・キリストによって、イスラエルの民のみならず、全世界のすべての人にとっての真実の、永遠の父として、その豊かな愛と憐れみによって、ご自身の恵みと平和をわたしたち一人一人にお与えくださったのです。神は主イエス・キリストによって、わたしたちのための救いのみわざを成し遂げてくださいました。それ故に、わたしたちは主イエス・キリストをわたしたちの唯一の救い主と信じ、父なる神にすべてのご栄光を帰して、礼拝をささげるのです。

恵みは、ギリシャ語ではカリスですが、当時のギリシャ社会で一般に用いられている普通のギリシャ語でした。ギリシャ人は日常のあいさつで、「カイレ」、「恵みあれ」と言って言葉を交わしました。ちなみに、今日のギリシャ語では、カリスと日を意味するメーラを合わせて、「カリメーラ」(良い日)とあいさつするそうです。日本語の「こんにちは」と同じような意味あいでしょうか。

しかし、聖書では、恵みという言葉には特別な意味がこめられました。特に、パウロ書簡では「恵み」という言葉は100回以上も用いられ、パウロの信仰と神学を特徴づける重要な言葉になっています。

では、聖書の中での恵みにはどのような意味が込められているのでしょうか。恵みとは、本来それを受けるに値しない人に、神の側から、神の憐れみによって、無償で差し出される良きもののことであり、人間はその恵みをただ感謝と恐れとをもって受け取り、その恵みの圧倒的な豊かさと力とに驚きつつ、その恵みに応えて、新しい自分となって神と隣人のために生きるようにされる、そのような恵みを言います。

パウロにとっては、その恵みは、第一には、罪びとに与えられた罪のゆるし、救いの恵みです。人間はみな罪びとであり、神の裁きを受けて死すべき者であるにもかかわらず、神のみ子主イエス・キリストが罪びとたちの罪をすべて背負ってくださり、罪びとたちに代わって十字架で神の裁きを受け、死んでくださった。ご自身の汚れなき血を贖いの供え物として、父なる神におささげくださった。それによって、すべての人の罪が贖われ、すべての人の罪がゆるされている。だれでも、主イエス・キリストの十字架の福音を信じるならば、恵みによって、一方的に神の側から差し出されている恵みによって罪がゆるされ、救われる。これが、救いの恵みです。これこそが、わたしたち人間に与えられている最も大きな、高価で、尊く、偉大な恵みです。その恵みが、わたしたちの父となってくださった神と主イエス・キリストから、わたしたちひとりひとりに与えられているのです。

次に、平和という言葉ですが、これは旧約聖書のヘブル語の伝統を受け継いでいると考えられています。ヘブル語では「シャローム」、ギリシャ語では「エイレーネー」です。当時のユダヤ人は、あいさつの言葉として「シャローム」と言っていました。今日でもそうだそうです。このシャローム「平和」という言葉も、旧約聖書と新約聖書の中では特別な意味を持つようになりました。パウロの書簡でも重要な概念としてたびたび用いられています。

旧約聖書ヘブル語のシャロームという言葉には、戦争や争いがない状態という意味のほかに、繁栄、健康、充足(満ち足りていること)などの意味があります。欠けのない状態、満たされている状態をいいます。

では、パウロはこの言葉をどのような意味で用いているのでしょうか。ローマの信徒への手紙から代表的な箇所を読んでみましょう。【5章1~2節】(279ページ)。ここでは、平和は神との正しい関係を言い表しています。10節では「神との和解」という表現もあります。罪によって神から離れ、神なしで生きていた人間、それだけでなく神と敵対して生きていた人間が、み子主イエス・キリストの死によって、罪ゆるされ、神との敵対関係が終わり、神との和解を与えられた、それが平和です。この神との平和の関係は、どのような第三者の力が外から加わっても、決して破られることのない永遠の平和です。神のみ子がご自身の死をもってわたしたちのために築いてくださった平和だからです。

もう一か所、【14章17節】(294ページ)、それに【15章13節】。5章1節でもそうでしたが、ここでも平和は義と結びつけられ、また喜びとも結びつけられています。平和は、主イエス・キリストによる罪のゆるし、救いの恵みと固く結びついています。罪ゆるされている人に与えられる神との和解、神との正しい関係、神との霊的な交わり、それゆえに与えられる平安、喜び、希望、それが平和です。この神との平和が与えられているのならば、わたしたちには何も欠けるものがありません。すべてにおいて満たされています。

 (祈り)

6月23日(日)説教「洗礼者ヨハネ誕生の予告」

2019年6月23日(日) 秋田教会主日礼拝説教6月23日(日)

聖 書:マラキ書3章1~5節

    ルカによる福音書1章5~25節

説教題:「洗礼者ヨハネ誕生の予告」

 ルカによる福音書は、主イエスの誕生に先立って、主イエスのために道を整える務めを果たす洗礼者ヨハネの誕生について記しています。ヨハネの父となるザカリアは祭司の務めについていました。祭司は、エルサレム神殿での礼拝の中で、神とイスラエルの民との仲立ちをします。ある日、彼が属していたアビヤ組が神殿での礼拝当番に当たり、彼が代表して神殿の聖所に入り、祭壇に香をたくことになりました。【8~10節】。

 香をたくのは、香の煙と香りが天に昇っていくように、礼拝者たちの祈りが一つに集められて天におられる神に届けられるということを象徴的に表していました。イスラエルの民を代表して神のみ前に立ち、神殿で香をたき、神に祈りをささげ、そして神からの祝福と救いの恵みを民に語り伝えるという祭司の務めは、大変重要で、光栄ある務めであり、ザカリアにその務めが当たったことは、最高に名誉ある、幸いなことでした。それは、単なる偶然ではありません。神の永遠のご計画でした。神がイスラエルの民のために、また全世界のすべての人々のために、そしてわたしたちのために計画しておられた救いのみわざが、この時から具体的に開始され、成就されていくことになるのです。ルカ福音書の最初に書かれているこのエルサレム神殿での出来事は、まさに神の救いの出来事が成就する初めなのです。

 では、次に【11~13節】。「主の天使」とは、み使いとも言われますが、聖書では神ご自身のことです。神は天にいます聖なる方ですから、地にある、罪にけがれた人間の目でそのお姿を直接見ることはできませんし、人間の耳で直接そのお声を聞くことはできませんので、何か他の媒介を用いて神が人間に働きかける際に、天使とかみ使いとかの姿になります。

 「ザカリアはそれを見て不安になり、恐怖の念に襲われた」と12節に書かれています。神が人間に出会われるとき、み言葉をお語りになるときに、人間は驚き、恐れるほかありません。地に住み、罪のゆえに滅びるほかない人間が、天におられる聖なる神と出会うとき、わたしたちは自らの滅びと死を自覚せざるを得ません。預言者イザヤは神殿で神と出会ったとき、「災いだ、わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者。しかも、わたしの目は/王なる万軍の主を仰ぎ見た」と叫んだことが、イザヤ書6章に書かれています。他にも、聖書の至る所に、神と出会うときの人間の恐れについて書かれています。わたしたちがクリスマスの時期に読むよく知られたみ言葉もそうです。2章9節以下がそうです。【9~11節】(103ページ)。

 神と出会うときのこの恐れは、いわば「聖なる恐れ」です。本当に恐れがいのある恐れです。神こそが、わたしたちが恐れるべき唯一のお方だからです。そして、神を恐れる人は他のいかなるものをも恐れる必要はありません。なぜならば、神は、ご自身を恐れる人に対して、「恐れるな」とお命じになるからです。最初にクリスマスのおとずれを聞いた羊飼いたちがそうであったように、またザカリアがそうであるように。「恐れることはない。ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた」と続けて13節に書かれてあるように。

 神が、ご自身を恐れる人に対して、「恐れるな」とお命じになるとき、それはわたしたちの恐れを禁じるだけではありません。神は、恐れを喜びに変えてくださいます。「恐れることはない。ザカリア……ヨハネと名付けなさい」(13節)。神はご自身を恐れる人のためにみ心を行ってくださいます。その祈りをお聞きくださいます。

 ところで、ザカリアが神に祈っていたということ、またその祈りの内容について、聖書は具体的に記していません。彼が何を祈っていたのか、彼のどのような祈りが今神によって聞かれたのか、わたしたちは二つの内容を考えることができると思います。一つは、ザカリアの家に子どもが与えられるようにとの祈りです。ザカリアとエリサベトは長い間その祈りを熱心に続けてきたと思われます。7節からそのことが予想できます。しかし今、彼ら夫婦に、人間的な可能性が全く失われたときになって、神の奇跡によって、彼ら老夫婦に子どもが与えられようとしているのです。

 もう一つの祈りは、ザカリアは祭司として、神とイスラエルの民に仕えることがその務めでしたから、彼はイスラエルの長い苦難の歴史を顧みながら、神の民イスラエルが慰められる時が来るように、イスラエルに救いの恵みが与えられるように祈っていたことも確かです。イスラエルは紀元前6世紀から、バビロニア帝国、ペルシャ帝国の支配下にあり、この時にはローマ帝国に支配されていました。神の民に信仰の自由、礼拝の自由が与えられ、神の栄光が全世界に輝き渡る時が来るようにとの祈りは、信仰深いすべてのユダヤ人の祈りでもあったのです。しかし今、その祈りが聞かれ、イスラエルと全世界の救いが成就する時が来ようとしているのです。

 ザカリアの第一の祈りが聞かれたのか、それとも第二の祈りか、ということを考えていると、実はこの二つの祈りは一つであるということに気づかされます。14節に、【14節】と書かれてあるとおりです。長く子どもがいなかったこの夫婦に男の子が与えられ、その子の誕生がその家庭に喜びと楽しみをもたらすだけでなく、多くの人もまたその子の誕生を喜ぶというのです。神はザカリアとエリサベトに与えられるヨハネという人物をとおして、彼をお用いになって、イスラエルと全世界の救いのみわざの成就を今具体的に開始されようとしておられるのです。イスラエルの民全体のための祈りが、一つの家庭のための個人的な祈りが聞かれるというかたちで成就し、また一つの家庭のための個人的な祈りが、民全体のための祈りとして聞かれ、成就するという、不思議な仕方で、今や神はザカリアの祈りにお応えになるのです。このようにして、神はわたしたちの祈りよりはるかに勝った大きな恵みをもって、わたしたちの祈りに応えてくださるのです。

 ヨハネという名は、「神は恵み深い」という意味を持っています。ユダヤ人にはごく一般的な名前です。主イエスの12弟子の中にもガリラヤ湖の漁師でヨハネという名の人がいます。ヨハネ福音書やヨハネ書簡、ヨハネの黙示録を書いたのも、すべて同じ人かどうかは分かりませんが、ヨハネです。生まれた子どもに名前を付けるのは父親の務めでした。親はその子が、神は恵み深い方であることを信じて歩んでほしい、また神の恵みをいっぱいに受けて成長してほしいと願いながら、わが子をヨハネと名づけました。

 ところが、この場合にはそうではありません。まだその子が生まれる前から名前が決められており、しかも父ザカリアが名づけるのではなく、神ご自身が名づけ親になられたのです。ここには、親の願いに先立って、神ご自身の強い意志、み心、神のご計画があるのです。神は、ヨハネという神の奇跡によって誕生した人間をとおして、彼をお用いになって、実際に神が恵み深くあることをお示しになり、事実イスラエルと全世界に大きな救いの恵みをお与えになるのです。

 主イエスの場合にも、やがてわたしたちが学ぶように、マリアの胎内からお生まれになる前に、神によってそのお名前が決められていたということが31節に書かれています。イエス、ヘブル語ではヨシュア、すなわち「神は救いである」という意味を持つこの神のみ子によって、神は実際にご自身の救いのみわざを、旧約聖書の時代から預言されていた神の永遠の救いのみわざを、成就されたのです。

 ではここで、ヨハネ誕生の奇跡について考えてみましょう。7節に書かれていたように、ザカリアとエリサベトには子どもがなく、しかも二人ともすでに年老いていました。人間的には、あるいは医学的・科学的には子どもが与えられる可能性は全くありませんでした。人間の側からの可能性がすべて消失してしまったときに、神から与えられる奇跡によって、この老夫婦に子どもが与えられます。このような奇跡による子どもの誕生物語は、旧約聖書の中にもいくつかの例があります。その最初は、創世記に書かれているアブラハムとサラの子、イサクの誕生です。アブラハムの妻サラも子どもができない体質であったと書かれています。にもかかわらず、神はアブラハムが75歳の時、「あなたから生まれる子孫は空の星の数ほどになる。あなたの子孫は大きな国民となり、神の祝福を受け継ぐであろう」との約束をお与えになりました。その神の初めの約束から25年が過ぎて、アブラハムが100歳になり、人間的には子どもが授かる可能性は全くなくなってから、子どもイサクが神の奇跡によって生まれました。イサクと妻リベカから生まれたヤコブの場合もそうでした。サムエル記に記されている祭司で預言者のサムエルの誕生もそうでした。

 このように、神の奇跡によって生まれた子どもは、その誕生が100パーセント神の恵みであり、神の奇跡の力によるように、その子の生涯もまた100パーセント神の恵みによって生き、神のみ力によって歩むようになるのであり、その人の存在と命、その生涯と働きのすべてが神のためのものとなり、神にささげられたものとなるのです。

 ヨハネの場合もそうです。15節以下に書かれているとおりです。【15~17節】。このみ言葉の内容については次回詳しく学ぶこととしますが、15節のはじめに「彼は主の御前に偉大な人になり」とあり、また17節の終わりに「準備のできた民を主のために用意する」と書かれているように、洗礼者ヨハネは徹底してその生涯を来るべき神のメシア・救い主であられる主イエス・キリストのみ前に生きるのであり、主イエス・キリストのために生きるのであり、主イエス・キリストに彼のすべてをささげて生きるのです。それが、神の奇跡によって誕生したヨハネの生涯なのです。

 この点においても、先駆者ヨハネは来るべきメシア・救い主、主イエス・キリストの誕生とそのご生涯、そして死を指し示しています。ヨハネとイエスという名前の命名に関して、それが両者ともに本人の誕生前に神ご自身によって決められていたという類似だけでなく、両者の誕生においても、神の奇跡によるという類似があることに気づかされます。主イエスはヨセフとマリアがまだ一緒になる前に、人間の営みなしに、神の聖霊によって、おとめマリアの胎内に宿られました。これこそが純粋に100パーセント神の恵みによって、神の奇跡による誕生でした。それゆえにまた、主イエスのご生涯はすべて父なる神のための歩みであり、神にすべてをささげつくすご生涯であり、そして事実、主イエスは死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで、従順に父なる神に服従され、その命を神におささげになられました。それによって、全人類を罪から贖い、わたしたち一人一人の救いを成就してくださったのです。

 最後に、もう一度14節のみ言葉に注目したいと思います。【14節】。ヨハネの誕生がザカリアの喜び、楽しみとなり、それだけでなく多くの人たちにも喜びをもたらすと言われているこの喜びは、実はあのクリスマスの時の大きな喜び、「恐れるな。わたしは民全体に与えられる大きな喜びを告げる」と2章10節で言われている主イエス誕生の喜びの反映であるということに気づかされます。その喜びがヨセフとマリアという小さな家庭の喜びであるだけでなく、イスラエルの民に与えられる喜びであるだけでなく、全世界のすべての人々の喜びとなり、その喜びによって結び合わされた教会の群れを形成していくのです。わたしたちの教会もまた、先駆者・洗礼者ヨハネ誕生の喜びにあずかり、それ以上に、彼の後においでになるメシア・救い主・主イエス・キリスト誕生の喜びにあずかる者たちとして、ここに喜びの群れを形成しているのです。

(祈り)

6月23日(日)説教「洗礼者ヨハネ誕生の予告」

聖 書:マラキ書3章1~5節

    ルカによる福音書1章5~25節

説教題:「洗礼者ヨハネ誕生の予告」

 ルカによる福音書は、主イエスの誕生に先立って、主イエスのために道を整える務めを果たす洗礼者ヨハネの誕生について記しています。ヨハネの父となるザカリアは祭司の務めについていました。祭司は、エルサレム神殿での礼拝の中で、神とイスラエルの民との仲立ちをします。ある日、彼が属していたアビヤ組が神殿での礼拝当番に当たり、彼が代表して神殿の聖所に入り、祭壇に香をたくことになりました。【8~10節】。

 香をたくのは、香の煙と香りが天に昇っていくように、礼拝者たちの祈りが一つに集められて天におられる神に届けられるということを象徴的に表していました。イスラエルの民を代表して神のみ前に立ち、神殿で香をたき、神に祈りをささげ、そして神からの祝福と救いの恵みを民に語り伝えるという祭司の務めは、大変重要で、光栄ある務めであり、ザカリアにその務めが当たったことは、最高に名誉ある、幸いなことでした。それは、単なる偶然ではありません。神の永遠のご計画でした。神がイスラエルの民のために、また全世界のすべての人々のために、そしてわたしたちのために計画しておられた救いのみわざが、この時から具体的に開始され、成就されていくことになるのです。ルカ福音書の最初に書かれているこのエルサレム神殿での出来事は、まさに神の救いの出来事が成就する初めなのです。

 では、次に【11~13節】。「主の天使」とは、み使いとも言われますが、聖書では神ご自身のことです。神は天にいます聖なる方ですから、地にある、罪にけがれた人間の目でそのお姿を直接見ることはできませんし、人間の耳で直接そのお声を聞くことはできませんので、何か他の媒介を用いて神が人間に働きかける際に、天使とかみ使いとかの姿になります。

 「ザカリアはそれを見て不安になり、恐怖の念に襲われた」と12節に書かれています。神が人間に出会われるとき、み言葉をお語りになるときに、人間は驚き、恐れるほかありません。地に住み、罪のゆえに滅びるほかない人間が、天におられる聖なる神と出会うとき、わたしたちは自らの滅びと死を自覚せざるを得ません。預言者イザヤは神殿で神と出会ったとき、「災いだ、わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者。しかも、わたしの目は/王なる万軍の主を仰ぎ見た」と叫んだことが、イザヤ書6章に書かれています。他にも、聖書の至る所に、神と出会うときの人間の恐れについて書かれています。わたしたちがクリスマスの時期に読むよく知られたみ言葉もそうです。2章9節以下がそうです。【9~11節】(103ページ)。

 神と出会うときのこの恐れは、いわば「聖なる恐れ」です。本当に恐れがいのある恐れです。神こそが、わたしたちが恐れるべき唯一のお方だからです。そして、神を恐れる人は他のいかなるものをも恐れる必要はありません。なぜならば、神は、ご自身を恐れる人に対して、「恐れるな」とお命じになるからです。最初にクリスマスのおとずれを聞いた羊飼いたちがそうであったように、またザカリアがそうであるように。「恐れることはない。ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた」と続けて13節に書かれてあるように。

 神が、ご自身を恐れる人に対して、「恐れるな」とお命じになるとき、それはわたしたちの恐れを禁じるだけではありません。神は、恐れを喜びに変えてくださいます。「恐れることはない。ザカリア……ヨハネと名付けなさい」(13節)。神はご自身を恐れる人のためにみ心を行ってくださいます。その祈りをお聞きくださいます。

 ところで、ザカリアが神に祈っていたということ、またその祈りの内容について、聖書は具体的に記していません。彼が何を祈っていたのか、彼のどのような祈りが今神によって聞かれたのか、わたしたちは二つの内容を考えることができると思います。一つは、ザカリアの家に子どもが与えられるようにとの祈りです。ザカリアとエリサベトは長い間その祈りを熱心に続けてきたと思われます。7節からそのことが予想できます。しかし今、彼ら夫婦に、人間的な可能性が全く失われたときになって、神の奇跡によって、彼ら老夫婦に子どもが与えられようとしているのです。

 もう一つの祈りは、ザカリアは祭司として、神とイスラエルの民に仕えることがその務めでしたから、彼はイスラエルの長い苦難の歴史を顧みながら、神の民イスラエルが慰められる時が来るように、イスラエルに救いの恵みが与えられるように祈っていたことも確かです。イスラエルは紀元前6世紀から、バビロニア帝国、ペルシャ帝国の支配下にあり、この時にはローマ帝国に支配されていました。神の民に信仰の自由、礼拝の自由が与えられ、神の栄光が全世界に輝き渡る時が来るようにとの祈りは、信仰深いすべてのユダヤ人の祈りでもあったのです。しかし今、その祈りが聞かれ、イスラエルと全世界の救いが成就する時が来ようとしているのです。

 ザカリアの第一の祈りが聞かれたのか、それとも第二の祈りか、ということを考えていると、実はこの二つの祈りは一つであるということに気づかされます。14節に、【14節】と書かれてあるとおりです。長く子どもがいなかったこの夫婦に男の子が与えられ、その子の誕生がその家庭に喜びと楽しみをもたらすだけでなく、多くの人もまたその子の誕生を喜ぶというのです。神はザカリアとエリサベトに与えられるヨハネという人物をとおして、彼をお用いになって、イスラエルと全世界の救いのみわざの成就を今具体的に開始されようとしておられるのです。イスラエルの民全体のための祈りが、一つの家庭のための個人的な祈りが聞かれるというかたちで成就し、また一つの家庭のための個人的な祈りが、民全体のための祈りとして聞かれ、成就するという、不思議な仕方で、今や神はザカリアの祈りにお応えになるのです。このようにして、神はわたしたちの祈りよりはるかに勝った大きな恵みをもって、わたしたちの祈りに応えてくださるのです。

 ヨハネという名は、「神は恵み深い」という意味を持っています。ユダヤ人にはごく一般的な名前です。主イエスの12弟子の中にもガリラヤ湖の漁師でヨハネという名の人がいます。ヨハネ福音書やヨハネ書簡、ヨハネの黙示録を書いたのも、すべて同じ人かどうかは分かりませんが、ヨハネです。生まれた子どもに名前を付けるのは父親の務めでした。親はその子が、神は恵み深い方であることを信じて歩んでほしい、また神の恵みをいっぱいに受けて成長してほしいと願いながら、わが子をヨハネと名づけました。

 ところが、この場合にはそうではありません。まだその子が生まれる前から名前が決められており、しかも父ザカリアが名づけるのではなく、神ご自身が名づけ親になられたのです。ここには、親の願いに先立って、神ご自身の強い意志、み心、神のご計画があるのです。神は、ヨハネという神の奇跡によって誕生した人間をとおして、彼をお用いになって、実際に神が恵み深くあることをお示しになり、事実イスラエルと全世界に大きな救いの恵みをお与えになるのです。

 主イエスの場合にも、やがてわたしたちが学ぶように、マリアの胎内からお生まれになる前に、神によってそのお名前が決められていたということが31節に書かれています。イエス、ヘブル語ではヨシュア、すなわち「神は救いである」という意味を持つこの神のみ子によって、神は実際にご自身の救いのみわざを、旧約聖書の時代から預言されていた神の永遠の救いのみわざを、成就されたのです。

 ではここで、ヨハネ誕生の奇跡について考えてみましょう。7節に書かれていたように、ザカリアとエリサベトには子どもがなく、しかも二人ともすでに年老いていました。人間的には、あるいは医学的・科学的には子どもが与えられる可能性は全くありませんでした。人間の側からの可能性がすべて消失してしまったときに、神から与えられる奇跡によって、この老夫婦に子どもが与えられます。このような奇跡による子どもの誕生物語は、旧約聖書の中にもいくつかの例があります。その最初は、創世記に書かれているアブラハムとサラの子、イサクの誕生です。アブラハムの妻サラも子どもができない体質であったと書かれています。にもかかわらず、神はアブラハムが75歳の時、「あなたから生まれる子孫は空の星の数ほどになる。あなたの子孫は大きな国民となり、神の祝福を受け継ぐであろう」との約束をお与えになりました。その神の初めの約束から25年が過ぎて、アブラハムが100歳になり、人間的には子どもが授かる可能性は全くなくなってから、子どもイサクが神の奇跡によって生まれました。イサクと妻リベカから生まれたヤコブの場合もそうでした。サムエル記に記されている祭司で預言者のサムエルの誕生もそうでした。

 このように、神の奇跡によって生まれた子どもは、その誕生が100パーセント神の恵みであり、神の奇跡の力によるように、その子の生涯もまた100パーセント神の恵みによって生き、神のみ力によって歩むようになるのであり、その人の存在と命、その生涯と働きのすべてが神のためのものとなり、神にささげられたものとなるのです。

 ヨハネの場合もそうです。15節以下に書かれているとおりです。【15~17節】。このみ言葉の内容については次回詳しく学ぶこととしますが、15節のはじめに「彼は主の御前に偉大な人になり」とあり、また17節の終わりに「準備のできた民を主のために用意する」と書かれているように、洗礼者ヨハネは徹底してその生涯を来るべき神のメシア・救い主であられる主イエス・キリストのみ前に生きるのであり、主イエス・キリストのために生きるのであり、主イエス・キリストに彼のすべてをささげて生きるのです。それが、神の奇跡によって誕生したヨハネの生涯なのです。

 この点においても、先駆者ヨハネは来るべきメシア・救い主、主イエス・キリストの誕生とそのご生涯、そして死を指し示しています。ヨハネとイエスという名前の命名に関して、それが両者ともに本人の誕生前に神ご自身によって決められていたという類似だけでなく、両者の誕生においても、神の奇跡によるという類似があることに気づかされます。主イエスはヨセフとマリアがまだ一緒になる前に、人間の営みなしに、神の聖霊によって、おとめマリアの胎内に宿られました。これこそが純粋に100パーセント神の恵みによって、神の奇跡による誕生でした。それゆえにまた、主イエスのご生涯はすべて父なる神のための歩みであり、神にすべてをささげつくすご生涯であり、そして事実、主イエスは死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで、従順に父なる神に服従され、その命を神におささげになられました。それによって、全人類を罪から贖い、わたしたち一人一人の救いを成就してくださったのです。

 最後に、もう一度14節のみ言葉に注目したいと思います。【14節】。ヨハネの誕生がザカリアの喜び、楽しみとなり、それだけでなく多くの人たちにも喜びをもたらすと言われているこの喜びは、実はあのクリスマスの時の大きな喜び、「恐れるな。わたしは民全体に与えられる大きな喜びを告げる」と2章10節で言われている主イエス誕生の喜びの反映であるということに気づかされます。その喜びがヨセフとマリアという小さな家庭の喜びであるだけでなく、イスラエルの民に与えられる喜びであるだけでなく、全世界のすべての人々の喜びとなり、その喜びによって結び合わされた教会の群れを形成していくのです。わたしたちの教会もまた、先駆者・洗礼者ヨハネ誕生の喜びにあずかり、それ以上に、彼の後においでになるメシア・救い主・主イエス・キリスト誕生の喜びにあずかる者たちとして、ここに喜びの群れを形成しているのです。

(祈り)

6月16日(日)説教「天と地を創造された神」

2019年6月16日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:創世記1章6~13節

    ヘブライ人への手紙1章1~4節

説教題:「天と地を創造された神」

 創世記1章に記されている神の天地創造のみわざは、文章の形式が非常によく整っていることが分かります。まず、「神は言われた」とあり、続いて「あれ! そのようになれ!」と言われる神の命令が語られ、次に、「あった、そのようになった」という結果が語られ、さらに「神はそれを見て良しとされた」という評価が付け加えられ、終わりに、「夕べがあり、朝があった。第何日であった」という時の区切りが書かれます。第一日目の光の創造から始まって第六日目の人間の創造に至るまで、ほぼ完全と言ってよいほどにこの形式が守られています。

 このような、リズミカルで、整っている表現は、礼拝での朗誦や交読、あるいは信仰告白や讃美歌が背景になっているのではないかと考えられています。イスラエルの礼拝の中で、長く歌い継がれ、告白されてきた伝統をここに見ることができます。2章1節以下に書かれている第七日目の安息日の規定には、まさにイスラエルの民を礼拝へとお招きになる神の最終的な意図が読み取れるように思われます。

 きょうは6~13節まで、第二日目と第三日目の創造のみわざについて学びます。わたしたち人間を真実の神礼拝へとお招きになる神のみ心を尋ねながらご一緒に読んでいきましょう。

 【6~8節】。6節の二日目の初めもまた「神は言われた」という言葉で始まります。神がみ言葉をお語りになることによって、新しい一日が始まります。神がみ言葉をお語りになることによって、新しい創造のみわざが始まります。神がみ言葉をお語りになることによって、わたしたちの救いのみわざが始まります。わたしたちの礼拝が始まります。

「そのようになった」と続けて8節に書かれています。神のみ言葉はむなしく語られることはありません。神のみ言葉は出来事を生み出していきます。神のみ言葉は救いの出来事をわたしたちのうちに引き起こします。神のみ言葉が語られることから始まる一日の歩み、一週の歩みは、決してむなしく終わることはありません。神ご自身がこの日に、この週に、わたしたち一人一人のために創造のみわざを、救いのみわざをなしてくださるからです。そして、わたしたちは神がなさったみわざを見て、「そのようになった」と感謝をもって告白することができるのです。

「水の中に大空あれ……水を分けさせられた」(6~7節)。第二日目には大空と呼ばれる天が創造されました。古代近東諸国の宇宙観によれば、地の上を覆っている空、天空は半円形のドームのような形をしていると考えられていました。神はその大空の上にある水とその下にある水とに分けられました。大空の下の水は9節以下の第三日目で海の水として集められるのですが、上の水は固い鉄板でできたドーム型の大空のうえにある貯水槽のようなものに蓄えられており、神は時に応じてその鉄板の扉を開いて地に雨を降らすと考えられていました。

ここでは、6節と7節にある「分ける」という言葉が重要な意味を持ちます。同じ言葉は4節にもありました。神は光と闇とを分け、両者が勝手に相手の領域に侵入しないように定めておられます。どのような深い闇であっても、神のみ心なしでは、闇は光に勝利することはできません。どのような長い闇が続いていたとしても、神はみ心によって闇を追い出され、光の勝利を告げられます。光も闇も神のご支配のもとにあり、神のみ心によってコントロールされているのです。それと同じように、大空の上にある水と下の水は共に神のご支配のもとに置かれています。神のみ心なしには、天の大空の上にある水は地に落ちることはなく、下の水があふれて両者が一体となることもありません。ここには、原始の混沌とした海の水を支配し、コントロールされる主なる神の偉大な力が暗示されています。そのことについては9節、10節の三日目の創造で再度触れます。

創世記7章のノアの大洪水の個所には、神が天の窓を開かれ、雨が40日40夜降り続いたと書かれています。また、列王記上17章には、預言者エリヤがイスラエルの罪に対する神の裁きを告げるために、神が3年の間地に雨を降らせないと預言したことが書かれています。さらに、大空をご支配しておられる神の慈しみについて、詩編78編23~25節にはこのように書かれています。【23~25節】(914ページ)。主イエスはマタイによる福音書5章の「敵をも愛しなさい」と勧める箇所で、天の父なる神は「悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからだ」と言われました。

神は天と天の上にある水とを支配しておられ、み心のままにそれをお用いになります。

 8節に「神は大空を天と呼ばれた」とあります。「呼ぶ」という言葉も5節ですでに出てきました。呼ぶ、あるいは名づけるとは、神の支配権と神がそれにふさわしい務め、役割を与えることを意味します。では、天とは何でしょうか。天という言葉は旧約聖書では450回近く、新約聖書では300回近く用いられています。聖書の中で重要な言葉の一つです。わたしたちが「天の父なる神よ」と祈るその天のことです。天という言葉が用いられるとき、ほとんどの場合、そこでは同時に神のことが語られています。神は天をご自身の住まいとされました。もちろん、天も神によって創造された被造物ですから、天イコール神ではなく、神は天にだけ閉じ込められる方ではありません。神は天にも地にも、地の深いところにも、至る所におられます。列王記上8章27節でイスラエルの王ソロモンは、神殿を奉献する礼拝で、「神は果たして地上にお住まいになるでしょうか。天も、天の天もあなたをお納めすることができません。わたしが建てたこの神殿など、なおさらふさわしくありません」と祈っています。

 にもかかわらず、神は天におられることを良しとされました。あえてその場所をお選びになりました。天とは、わたしたちの頭上に張り巡らされている星をちりばめた空のことであり、神がアブラハムに「空の星を見なさい。それを数えることができるなら数えてみなさい。あなたの子孫もそのようになる」と約束された空のことであり、太陽の光がそこからすべての人に注がれる空、雨がそこから落ちて地を潤す空のことであると同時に、天とはまた神が住まわれるところ、わたしたち人間が住むこの世界とは全く違っている、わたしたちの手や目や理解力が及ばない天のことでもあります。天イコール宇宙ではありません。宇宙は人間が到達可能であり、科学的な探求が可能です。しかし、聖書で言われている天は広大な宇宙よりもはるかに広く、高く、遠くの世界、領域を意味しています。わたしたち人間の考えや能力をはるかに超えている天、神がそこにお住まいになっておられる天、神がそこからすべての被造物をご覧になられ、この世界を裁かれ、この世界に住む人間たちに恵みをお与えくださる天のことでもあります。詩編104編13節には、「主は天上の宮から山々に水を注ぎ/御業の実りをもって地を満たされる」とあり。また、アモス書9章6節には、「天に高殿を設け/地の上に大空を据え/海の水を呼び集め/地の表に注がれる方。その御名は主」とあります。神は天でご自身の職務を司っておられます。

 「神は大空を天と呼ばれた」(8節)。それによって、わたしたちが神を思い描くときに、そして祈るとき、上なる大空を見上げ、そこから神の賜物を期待することができるようにされたのです。失望して頭を下げ、トボトボ歩いているときでも、大きな重荷にあえぐときでも、かしらを上に挙げ、沈んだ心を持ち上げて、天に向け、そこにおられる神を見上げることができるようにされたのです。罪を犯し、顔を地に伏せるしかないとき、恥と屈辱に目を伏せるとき、なおも天に顔を向けて、そこからお語りくださる神のゆるしのみ言葉を聞くことができるようにされたのです。天におられる神は、地上にあるどのような困難で乗り越えがたい障害物にも妨げられることなく、上から、天から、必要なものを与えたもうのです。それゆえに、わたしたちは「天にましますわれらの父よ」と祈るのです。

 9~13節は天地創造第三日目のみわざです。【9~13節】。ここでは、下の水が一つのところに集められ、陸地が作られます。2節の混沌とした原始の海の水が神によってコントロールされて上の水と下の水とに分けられ、さらには下の水が神のみ力によって一つ所に集められ、はじめて陸地が姿を現します。10節にも「呼ぶ」という言葉が2度用いられています。呼ぶ、あるいは名づけるとは、神の支配権を表し、神がそれにふさわしい務めをお与えになることを意味しています。先にも少し触れましたが、ここでは水を支配される神の偉大な力が強調されているように思われます。

古代の人々は、海には人間が制御することができない悪魔的な力があると信じていました。イスラエルにおいても、信仰者が経験する苦難や試練を大水にたとえる例が多数あります。詩編69編を開いてみましょう。【2~3節、15~16節】(901、2ページ)。詩人は大水の恐ろしさを知っています。彼自身の力とか、何か他の力によっても、だれも大水を制御することができない悪魔的な力を持っていることを知っています。それと同時に、詩人はただ神だけが大水を鎮め、支配されることを知っています。詩編93編4節にはこうあります。「大水のとどろく声よりも力強く/海に砕け散る波。さらに力強く、高くいます神」。

神が「乾いたところを地と呼び、水の集まったところを海と呼ばれた」とは、海と陸との間に神が確かな境界線を定め、海の水がその境界線を越えて陸地を覆ってしまわないように、また陸の山が海を埋め尽くしてしまわないようにされたということ、また、それぞれにふさわしい使命、役割をお与えになったという意味です。イスラエルの民はただ海の水の悪魔的な力を恐れるだけではなく、その水をも支配され、み心のままにコントロールされる神の偉大な力を信じ、その神の救いのみわざを信じました。出エジプト記14章に書かれている葦の海を二つに分けられた神の奇跡と救い、またガリラヤ湖の嵐をみ言葉によって静められた主イエスの奇跡は、そのような背景の中で起こった神の驚くべき力を強調しているのです。

三日目の後半には、地に草と果樹を芽生えさせたことが書かれています。ここでは地に特別な使命が与えられています。神は地に命じて「芽生えさせよ」と言われます。地は神がお与えくださる豊かな実りを生み出す母としての使命を与えられています。ここではまた、神が地に対して特別の関心を持っておられることをも暗示しているかのようです。神はご自身の住まいである天よりも、あるいは神がその悪魔的な力をご支配された海よりも、より大きな関心を地に対して持っておられるように思われます。神はのちに、この地の上に生き物を創造され、人間を創造され、この地の上でご自身の救いのみわざをなさいます。

三日目には「神はこれを見て、良しとされた」という言葉が10節と12節とに二度繰り返されていますが、そして実は二日目にはこの言葉が欠けているのですが、それがどういう理由によるのかはよく分かっていません。二日目に水が天の上と下とに分かられたことが、三日目になって海と陸とに分けられたことで完了するからとか、神が地に対して特別の大きな関心を寄せておられるからなどと説明されます。

いずれにしても、神がご自身が創造されたもの、すべての被造物を良しとされました。神によって創造されたものはみな良きものです。みな神のみ心によってそこにあり、みな神のみ心によって生き、みな神のみ心によってその使命、務めを与えられているのです。

(祈り)