9月27日説教「聖霊降臨の日」

2020年9月27日(日)午前10時30分 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:申命記16章9~12節

    使徒言行録2章1~4節

説教題:「聖霊降臨の日」

 使徒言行録2章には、五旬祭の日に、弟子たちの群れに聖霊が注がれて、エルサレムに世界最初の教会が誕生した時のことが描かれています。ここから、新しい神の救いの歴史が始まります。ある人はそれを「教会の時、聖霊の時、また福音宣教の時」と名づけています。わたしたちは今、その教会の時、聖霊の時、福音宣教の時に生きているのです。

神が天地万物の創造によってお始めになった世界と人間の救いの歴史は、イスラエルの民の選びと契約によって具体化されました。旧約聖書はその救いの歴史を語っています。そして今や、主イエス・キリストの十字架の死と復活によって、神の救いの歴史はいわば最終段階に入り、最後の完成に向かって前進していくということを新約聖書は語っています。それが、ペンテコステの日の聖霊降臨と教会の誕生と教会の民による福音宣教として展開されていくことになったのです。

 ここに至る道のりを簡単に振り返ってみましょう。主イエスはユダヤ人の過ぎ越しの祭りの時、金曜日に十字架につけられ死なれました。しかし、三日後の日曜日の朝に死の墓から復活されました。復活された主イエスは、40日間にわたって復活されたお姿を弟子たちに現わされました。これを復活の顕現と言います。40日目に、主イエスは弟子たちが見ている前で天に引き上げられました。これが昇天です。そして、それから10日間、弟子たちは主イエスが約束された聖霊降臨の時を祈りつつ待ちました。そのお約束どおり、ユダヤ人の五旬祭の日に、すなわち過ぎ越しの祭りの翌日から数えて50日目の祭りである、小麦の初穂を神にささげる初穂の祭り・七週の祭りとも言われるペンテコステに、祈りつつ待っていた弟子たちの群れの上に聖霊が注がれ、エルサレム教会が誕生したということになります。

 この道のりを確認して分かる重要ないくつかの点を挙げてみましょう。一つには、主イエスの十字架の死と復活によって成就された神の救いのみわざは、主イエスの地上でのお働きの終わりである昇天の後にもなおも継続される、しかも、一つの民族だけでなく、全世界的な広がりで、全人類のための救いのみわざとして、継続されるということです。主イエスは1章8節で、弟子たちにこうお命じになりました。【8節】。イスラエルだけでなく、全人類のすべての人が、エルサレムから遠く離れている東の果てに住むわたしたち一人一人もまた、神の救いへと招きいれられているということです。

 第二点は、主イエスは天に昇られ、父なる神の右に座しておられますが、その天から、父なる神と共に聖霊なる神を派遣され、聖霊なる神によってご自身の救いのみわざを継続されるということです。主イエスはヨハネ福音書14章16節、また25節以下でこのように約束されました。【16~17節a,25~26節】。聖霊は主イエスとは別の弁護者・助け主、いわば第二の弁護者・助け主として、常に弟子たちと共にいてくださり、またすべての人と共にいてくださり、主イエスの救いのみわざを継続される神です。そのようにして、今こそ、父なる神と、み子なる神・主イエス・キリストと、聖霊なる神との三位一体なる神が、わたしたちの救いのためにお働きくださる時が到来したのです。

 そして第三に、主イエスの十字架の死と聖霊降臨が、ユダヤ人の祭りである過ぎ越しの祭りと五旬祭・初穂をささげる祭りと関連づけられているという点です。過ぎ越しの祭りはイスラエルの民が奴隷の家エジプトから救い出されたことを祝う祭りです。それが、わたしたちすべての人間を罪の奴隷から救い出す主イエスの十字架と密接に関連しています。それとともに、五旬祭・ペンテコステはイスラエルの民が約束の地カナンに入って最初に収穫する小麦の初穂を神にささげる祭りであったように、ペンテコステのこの日には弟子たちが聖霊に満たされて語った説教によって、主イエスを救い主と信じた人たちが洗礼を授けられ、聖霊の賜物を授けられ、神の新しい救いの民である教会へと招きいれられ、その救われた人間の魂の初穂を神におささげする日となったのです。今や、全世界の教会において、主イエス・キリストの十字架の血によって贖われ、救われた人の魂が神の国の収穫の初穂として神にささげられるようになったのです。

 では次に、ペンテコステの日の出来事はわたしたちに何を教えているのかを使徒言行録2章1~4節のみ言葉から聞き取っていきましょう。1節で「五旬祭の日が来て」と訳されている箇所は、本来は「満ちて」という言葉です。月日が巡ってその日がやってきたということではなく、神の救いのご計画の時が満ちて、主イエスが弟子たちに約束された時が満ちて、今や神が教会の時、聖霊の時、福音宣教の時を開始されるその時が満ちてという意味が込められています。主イエスの約束のみ言葉を信じて、祈りつつ待ち望む信仰者は決して空しい時を過ごすのはありません。神がその時を満たしてくださいます。

 1節の続きで、「一同が一つになって集まっていると」と書かれていますが、ここでは一つの群れとしてのつながりが三つの言葉で強調されています。「一同」「一つになって」「集まって」、4節でも「一同は」とあるように、ここにはすでに聖霊なる神のお働きが語られているのです。聖霊は人々を一つの群れ、共同体として結びつけます。この日、エルサレムで一つになって集まっていた人たちとは、1章15節に書かれていた120人ほどの兄弟姉妹たちで、その人たちの名前の一部が13節から紹介されていました。ペトロを始めとした主イエスの弟子たちは十字架の時にはみな逃げ去って散り散りになりました。主イエスの母マリアと家族はだれもが主イエスの宣教活動には批判的でしたし、参加もしませんでした。そのような人たちが今一つに集められているのです。ここにはすでに聖霊のお働きがあります。罪ゆえに神から離れていた人間、また罪ゆえに互いに分断され、地に散らされていた人間たちが、今聖霊によって一つに集められ、固く結ばれ、一つの群れとされるのです。

 中世始めの偉大な神学者アウグスチヌスは聖霊を愛のきずなと名づけました。聖霊は父なる神とみ子なる神・主イエス・キリストを結びくけるきずなであり、神と罪びとであるわたしたちを結びつけるきずなであり、また罪ゆえに互いに分断され、孤立化されている人間同士を結びつけるきずなです。

今の時、感染症の蔓延のためにお互いが社会的距離を保つことが求められていますが、このような時にこそ、わたしたち信仰者は聖霊によって固く結ばれ、一つとされている、聖霊による愛の交わりを与えられているということを強く覚えたいと思います。

 3節には、別の聖霊のお働きが語られています。まず、「一人一人の上にとどまった」という言葉から、聖霊は互いを固く結びつける働きをしますが、それと同時に、一人一人にふさわしい賜物をお与えくださるということが暗示されています。みんなを一つに結びつけて、個性も違いもなくするというのではなく、聖霊は一人一人の上に注がれ、その人その人にふさわしく、それぞれに違った賜物を分け与えつつ、その全体が調和を保ち、一つの群れとして成長していくようになる、それが教会で働かれる聖霊の特徴です。

 使徒パウロは手紙の中でそのことをしばしば語っています。コリントの信徒への手紙一12章4節以下を読んでみましょう。【4~11節】(315ページ)。教会員一人一人に与えられている種々の賜物はみな聖霊なる神から与えられた霊の賜物です。その賜物はそれぞれ違いますが、みな一つの主キリストの体なる教会を建てていくために用いられ、ささげられます。そのようにして、教会は一つの群れとして成長していくのです。

 パウロの書簡からも明らかなように、聖霊の賜物は特に言葉に関連していることが分かります。使徒言行録では、聖霊が「炎のような舌が別れ別れに現れ」と表現されているのはそのことです。神を賛美する言葉、主イエス・キリストの福音を語る言葉、祈りの言葉、悲しんでいる人を励ます言葉、孤独な人に優しく語りかける言葉、わたしたち一人一人にそのような言葉の賜物が与えられているのです。

 続けて4節には、ペンテコステの日に弟子たちに与えられた舌の賜物、言葉の賜物について語られています。【4節】。弟子たちに与えられた言葉の賜物は、具体的には5節以下に記されている奇跡、すなわち、多くの国々の言葉によって弟子たちが神の偉大なみわざを語るという奇跡となって現れ、また14節以下に記されているペトロの説教となって語られました。弟子たちに与えられたこのような言葉の賜物によって、この日エルサレムで3千人ほどの人が洗礼を受け、世界最初の教会がここに誕生したのです。そしてそれ以来、聖霊なる神はいつの時代にも、世界中至る所で、言葉の賜物を始めとして多くの賜物を信仰者にお与えくださり、主キリストの体なる教会を建てるために働いておられます。今日もそのお働きは続けられています。

 最後に、少し戻って2節の「天から」という言葉に注目したいと思います。聖霊は、天におられる父なる神と、天に昇られ父なる神の右に座しておられる主イエス・キリストから派遣される霊であるということを前にお話ししました。聖霊は天から与えられます。天から与えられる恵み、力、賜物です。それは本来人間に備わっている能力とか、人間が努力して勝ち得た技術とかでは全くありませんし、あるいはまた人間の感情とか熱意とかでもありません。それは徹頭徹尾、天から、神から、主イエス・キリストから与えられる霊であり、霊の賜物です。

 したがって、だれもそれを誇ることはできませんし、それを自分だけのものにすることもゆるされません。主なる神の栄光と、主キリストの福音宣教と、教会の群れの成長のために用いられ、ささげられるべきものです。そうである時に、わたしたちの教会とわたしたち一人一人の信仰生活が豊かな実りを結ぶことになるのです。

(執り成しの祈り)

〇天の神よ、わたしたちに聖霊の賜物をお与えください。わたしたちの教会を聖霊の賜物で満たしてください。

〇天の神よ、この地にあなたのみ心が行われますように。すべての人が主なる神

であるあなたを恐れ、あなたのみ前にひれ伏すものとなりますように。あなたから離れて、この世界が滅びへと向かうことが決してありませんように。

〇願はくは、主よ、日本と、アジアと、世界に、まことの平和を与えてください。争いではなく共存を、奪い合いではなく分かち合いを、憎しみや怒りではなく愛とゆるしをお与えください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

9月27日説教「聖霊降臨の日」

2020年9月27日(日)午前10時30分 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:申命記16章9~12節

    使徒言行録2章1~4節

説教題:「聖霊降臨の日」

 使徒言行録2章には、五旬祭の日に、弟子たちの群れに聖霊が注がれて、エルサレムに世界最初の教会が誕生した時のことが描かれています。ここから、新しい神の救いの歴史が始まります。ある人はそれを「教会の時、聖霊の時、また福音宣教の時」と名づけています。わたしたちは今、その教会の時、聖霊の時、福音宣教の時に生きているのです。

神が天地万物の創造によってお始めになった世界と人間の救いの歴史は、イスラエルの民の選びと契約によって具体化されました。旧約聖書はその救いの歴史を語っています。そして今や、主イエス・キリストの十字架の死と復活によって、神の救いの歴史はいわば最終段階に入り、最後の完成に向かって前進していくということを新約聖書は語っています。それが、ペンテコステの日の聖霊降臨と教会の誕生と教会の民による福音宣教として展開されていくことになったのです。

 ここに至る道のりを簡単に振り返ってみましょう。主イエスはユダヤ人の過ぎ越しの祭りの時、金曜日に十字架につけられ死なれました。しかし、三日後の日曜日の朝に死の墓から復活されました。復活された主イエスは、40日間にわたって復活されたお姿を弟子たちに現わされました。これを復活の顕現と言います。40日目に、主イエスは弟子たちが見ている前で天に引き上げられました。これが昇天です。そして、それから10日間、弟子たちは主イエスが約束された聖霊降臨の時を祈りつつ待ちました。そのお約束どおり、ユダヤ人の五旬祭の日に、すなわち過ぎ越しの祭りの翌日から数えて50日目の祭りである、小麦の初穂を神にささげる初穂の祭り・七週の祭りとも言われるペンテコステに、祈りつつ待っていた弟子たちの群れの上に聖霊が注がれ、エルサレム教会が誕生したということになります。

 この道のりを確認して分かる重要ないくつかの点を挙げてみましょう。一つには、主イエスの十字架の死と復活によって成就された神の救いのみわざは、主イエスの地上でのお働きの終わりである昇天の後にもなおも継続される、しかも、一つの民族だけでなく、全世界的な広がりで、全人類のための救いのみわざとして、継続されるということです。主イエスは1章8節で、弟子たちにこうお命じになりました。【8節】。イスラエルだけでなく、全人類のすべての人が、エルサレムから遠く離れている東の果てに住むわたしたち一人一人もまた、神の救いへと招きいれられているということです。

 第二点は、主イエスは天に昇られ、父なる神の右に座しておられますが、その天から、父なる神と共に聖霊なる神を派遣され、聖霊なる神によってご自身の救いのみわざを継続されるということです。主イエスはヨハネ福音書14章16節、また25節以下でこのように約束されました。【16~17節a,25~26節】。聖霊は主イエスとは別の弁護者・助け主、いわば第二の弁護者・助け主として、常に弟子たちと共にいてくださり、またすべての人と共にいてくださり、主イエスの救いのみわざを継続される神です。そのようにして、今こそ、父なる神と、み子なる神・主イエス・キリストと、聖霊なる神との三位一体なる神が、わたしたちの救いのためにお働きくださる時が到来したのです。

 そして第三に、主イエスの十字架の死と聖霊降臨が、ユダヤ人の祭りである過ぎ越しの祭りと五旬祭・初穂をささげる祭りと関連づけられているという点です。過ぎ越しの祭りはイスラエルの民が奴隷の家エジプトから救い出されたことを祝う祭りです。それが、わたしたちすべての人間を罪の奴隷から救い出す主イエスの十字架と密接に関連しています。それとともに、五旬祭・ペンテコステはイスラエルの民が約束の地カナンに入って最初に収穫する小麦の初穂を神にささげる祭りであったように、ペンテコステのこの日には弟子たちが聖霊に満たされて語った説教によって、主イエスを救い主と信じた人たちが洗礼を授けられ、聖霊の賜物を授けられ、神の新しい救いの民である教会へと招きいれられ、その救われた人間の魂の初穂を神におささげする日となったのです。今や、全世界の教会において、主イエス・キリストの十字架の血によって贖われ、救われた人の魂が神の国の収穫の初穂として神にささげられるようになったのです。

 では次に、ペンテコステの日の出来事はわたしたちに何を教えているのかを使徒言行録2章1~4節のみ言葉から聞き取っていきましょう。1節で「五旬祭の日が来て」と訳されている箇所は、本来は「満ちて」という言葉です。月日が巡ってその日がやってきたということではなく、神の救いのご計画の時が満ちて、主イエスが弟子たちに約束された時が満ちて、今や神が教会の時、聖霊の時、福音宣教の時を開始されるその時が満ちてという意味が込められています。主イエスの約束のみ言葉を信じて、祈りつつ待ち望む信仰者は決して空しい時を過ごすのはありません。神がその時を満たしてくださいます。

 1節の続きで、「一同が一つになって集まっていると」と書かれていますが、ここでは一つの群れとしてのつながりが三つの言葉で強調されています。「一同」「一つになって」「集まって」、4節でも「一同は」とあるように、ここにはすでに聖霊なる神のお働きが語られているのです。聖霊は人々を一つの群れ、共同体として結びつけます。この日、エルサレムで一つになって集まっていた人たちとは、1章15節に書かれていた120人ほどの兄弟姉妹たちで、その人たちの名前の一部が13節から紹介されていました。ペトロを始めとした主イエスの弟子たちは十字架の時にはみな逃げ去って散り散りになりました。主イエスの母マリアと家族はだれもが主イエスの宣教活動には批判的でしたし、参加もしませんでした。そのような人たちが今一つに集められているのです。ここにはすでに聖霊のお働きがあります。罪ゆえに神から離れていた人間、また罪ゆえに互いに分断され、地に散らされていた人間たちが、今聖霊によって一つに集められ、固く結ばれ、一つの群れとされるのです。

 中世始めの偉大な神学者アウグスチヌスは聖霊を愛のきずなと名づけました。聖霊は父なる神とみ子なる神・主イエス・キリストを結びくけるきずなであり、神と罪びとであるわたしたちを結びつけるきずなであり、また罪ゆえに互いに分断され、孤立化されている人間同士を結びつけるきずなです。

今の時、感染症の蔓延のためにお互いが社会的距離を保つことが求められていますが、このような時にこそ、わたしたち信仰者は聖霊によって固く結ばれ、一つとされている、聖霊による愛の交わりを与えられているということを強く覚えたいと思います。

 3節には、別の聖霊のお働きが語られています。まず、「一人一人の上にとどまった」という言葉から、聖霊は互いを固く結びつける働きをしますが、それと同時に、一人一人にふさわしい賜物をお与えくださるということが暗示されています。みんなを一つに結びつけて、個性も違いもなくするというのではなく、聖霊は一人一人の上に注がれ、その人その人にふさわしく、それぞれに違った賜物を分け与えつつ、その全体が調和を保ち、一つの群れとして成長していくようになる、それが教会で働かれる聖霊の特徴です。

 使徒パウロは手紙の中でそのことをしばしば語っています。コリントの信徒への手紙一12章4節以下を読んでみましょう。【4~11節】(315ページ)。教会員一人一人に与えられている種々の賜物はみな聖霊なる神から与えられた霊の賜物です。その賜物はそれぞれ違いますが、みな一つの主キリストの体なる教会を建てていくために用いられ、ささげられます。そのようにして、教会は一つの群れとして成長していくのです。

 パウロの書簡からも明らかなように、聖霊の賜物は特に言葉に関連していることが分かります。使徒言行録では、聖霊が「炎のような舌が別れ別れに現れ」と表現されているのはそのことです。神を賛美する言葉、主イエス・キリストの福音を語る言葉、祈りの言葉、悲しんでいる人を励ます言葉、孤独な人に優しく語りかける言葉、わたしたち一人一人にそのような言葉の賜物が与えられているのです。

 続けて4節には、ペンテコステの日に弟子たちに与えられた舌の賜物、言葉の賜物について語られています。【4節】。弟子たちに与えられた言葉の賜物は、具体的には5節以下に記されている奇跡、すなわち、多くの国々の言葉によって弟子たちが神の偉大なみわざを語るという奇跡となって現れ、また14節以下に記されているペトロの説教となって語られました。弟子たちに与えられたこのような言葉の賜物によって、この日エルサレムで3千人ほどの人が洗礼を受け、世界最初の教会がここに誕生したのです。そしてそれ以来、聖霊なる神はいつの時代にも、世界中至る所で、言葉の賜物を始めとして多くの賜物を信仰者にお与えくださり、主キリストの体なる教会を建てるために働いておられます。今日もそのお働きは続けられています。

 最後に、少し戻って2節の「天から」という言葉に注目したいと思います。聖霊は、天におられる父なる神と、天に昇られ父なる神の右に座しておられる主イエス・キリストから派遣される霊であるということを前にお話ししました。聖霊は天から与えられます。天から与えられる恵み、力、賜物です。それは本来人間に備わっている能力とか、人間が努力して勝ち得た技術とかでは全くありませんし、あるいはまた人間の感情とか熱意とかでもありません。それは徹頭徹尾、天から、神から、主イエス・キリストから与えられる霊であり、霊の賜物です。

 したがって、だれもそれを誇ることはできませんし、それを自分だけのものにすることもゆるされません。主なる神の栄光と、主キリストの福音宣教と、教会の群れの成長のために用いられ、ささげられるべきものです。そうである時に、わたしたちの教会とわたしたち一人一人の信仰生活が豊かな実りを結ぶことになるのです。

(執り成しの祈り)

〇天の神よ、わたしたちに聖霊の賜物をお与えください。わたしたちの教会を聖霊の賜物で満たしてください。

〇天の神よ、この地にあなたのみ心が行われますように。すべての人が主なる神

であるあなたを恐れ、あなたのみ前にひれ伏すものとなりますように。あなたから離れて、この世界が滅びへと向かうことが決してありませんように。

〇願はくは、主よ、日本と、アジアと、世界に、まことの平和を与えてください。争いではなく共存を、奪い合いではなく分かち合いを、憎しみや怒りではなく愛とゆるしをお与えください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

9月20日説教「神の国の福音を告げ知らせる主イエス」

2020年9月20日(日)午前10時30分 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:イザヤ書40章3~11節

    ルカによる福音書4章38~44節

説教題:「神の国の福音を告げ知らせる主イエス」

 主イエスのガリラヤ伝道の拠点は、ガリラヤ湖北西の湖岸の町カファルナウムでした。主イエスは安息日にこの町の会堂で説教され、また悪霊にとりつかれた人から悪霊を追い出し、彼をいやされました。主イエスは安息日の主として、神の権威あるみ言葉を語られ、またそのみ言葉の力で悪霊に勝利されたということがルカ福音書4章31節以下に書かれていました。

 次の38節にはこうに書かれています。【38節】。主イエスは安息日の礼拝を終えて、シモンの家にお入りになりました。シモンとは5章で主イエスの12弟子の一人となるシモン・ペトロのことです。シモンはこの家で奥さんの母と同居していたようです。のちにはこの家が主イエス一行のガリラヤ伝道期間の宿となったのではないかと推測されています。奥さんの母は高熱が長く続く病気で苦しんでいました。たぶんマラリアのような病気だったと思われます。主イエスはこの家でしゅうとめの病気をいやされ、またその日の夕方からは多くの病気の人をいやされたということがここには書かれています。

 ここでまず初めに注目したいことは、主イエスは安息日の礼拝で神の権威あるみ言葉を説教され、またその力あるみ言葉によって悪霊に勝利されましたが、礼拝が終わって会堂を出てからも、シモンの家でもまた安息日の主として働かれたということです。礼拝が終われば、主イエスのお働きが終わり、どこかでくつろがれるというのではありませんでした。主イエスは安息日の会堂でも、礼拝が終わってからの家々でも、安息日の主として、メシア・キリスト・救い主として、神の救いのみわざをなし続けられます。それだけではありません。40節に「日が暮れると」とありますが、安息日の日没から次の日が始まります。新しい一日が始まります。安息日の翌日にも、主イエスはなおもお働きになります。その日にも、またその次の日にも、いつでも、毎日、主イエスはわたしたちの主として、救い主として、家々で、町々で、至る所で、すべての人の救い主として、神の救いのみわざをなし続けられるのです。主イエスは主の日の礼拝で主であるのみならず、礼拝堂を出てからのすべての時にも、家でも、職場でも、すべての場所でも、わたしたちの主であり続けられるのです。

 主イエスはシモンの家に入られました。彼のしゅうとめが高い熱で苦しんでいたと書かれていますが、苦しんでいたのは彼女だけではなく、おそらくシモンも彼の妻も苦しんでいたのだと思います。家族のだれかが重い病気になることはその家族全体にとって大きな痛みです。そのような家庭の中に主イエスが入って来られました。主イエスがその家庭の主となられます。その時、わたしたちは家族の重荷や痛みのすべてを主イエスに委ねることだできます。もし、自分の力で、家族だけの力でその重荷や痛みに耐えねばならないのだとしたら、時としてわたしたちは疲れ、絶望してしまうほかにないでしょう。けれども、わたしたちはそれを主イエスにお委ねすることができます。主イエスがわたしたちに代わってその重荷を負われ、その痛みを引き受けてくださいます。

 「人々は彼女のことをイエスに頼んだ」とあります。それまでおそらく医者や祈祷師などに頼って病気のいやしを願ったことでしょう。しかし、その願いは果たされませんでした。ところが、今や彼らの願いを聞き入れてくださる救い主がこの家に入って来られました。【39節】。主イエスは病める人の枕もとに立たれます。その病をいやす救い主として。主イエスはすべての病める人の枕もとにも立っておられます。その人の救い主として。

 ここでも、主イエスがお語りになるみ言葉の権威と力が強調されています。悪霊を追い出し支配された主イエスは、すべての病をも支配され、その病から解放されます。わたしたちはこのような主イエスのみ言葉を信じて、自分のすべての重荷やわずらい、病や苦しみを主イエスにお委ねすることができるのです。

 「彼女はすぐに起き上がって一同をもてなした」。彼女がいやされたのは、いやされた健康な体で彼女自身が楽しむためではありませんでした。主イエスにお仕えし、すべての人に仕えるためでした。このことをわたしたちは見逃してはなりません。わたしたちが主イエスと出会い、主イエスの福音を聞いて救われ、あるいは病がいやされるのも、同じ目的を目指しています。また、同じ目的を目指して生きることこそが、本当の意味で救われ、いやされたことになるのです。「一同をもてなした」と書かれています。もしかしたらここには、のちになって主イエスと12人の弟子たちがガリラヤ伝道の期間中にシモンの家としゅうとめが主イエスの一行をもてなすようになったことをあらかじめ予想しているのかもしれません。

 40節からは安息日の翌日のことが書かれています。安息日には歩く距離が制限され、また病人を運ぶことは安息日に禁じられている労働と見なされていましたので、夕方、日没になって安息日が終わってから、いろんな病気に苦しむ多くの人たちが主イエスのもとに、家族や友人に連れられてやって来ました。主イエスはその一人一人に手を置かれ、いやされました。安息日の救い主・主イエスは他のすべての日々にもすべての人にとっての、すべての病める人にとっての救い主であられます。主イエスはいつでも、どこでも、だれでも、病める人、いやされなければならない人、救いを必要としている人がいる所では、昼も夜も、休みなく働かれます。

 【41節】。33節以下で悪霊に取りつかれた人の場合にもそうであったように、悪霊は人間以上の能力を持っていて、主イエスがメシア・キリスト・救い主であることを、この時点ですでに見抜いていました。「主イエスが神のみ子であり、メシア・キリストである」という信仰告白こそがわたしたちの信仰告白の中心であることは言うまでもないことですが、そのことをユダヤ人のだれ一人としてまだ悟っておらず、信じていなかったこの初期のころに、悪霊がすでに知っていたということは、驚くべきことでありまた注目すべきことです。けれども、悪霊は主イエスが自分たちを滅ぼすほどの権威と力とを持っていることを知って恐れているだけです。それは本当の信仰告白ではありません。主イエスは悪霊の真実の信仰を伴わない偽りの信仰告白をおゆるしにはなりませんでした。主イエスは悪霊を支配しておられます。

 次の42節以下は、わたしたちがきょう学んできた38節以下と密接に関連しています。【42節】。主イエスはおそらく一晩中、多くの病気の人たちをいやされ、朝になって「人里離れた所へ行かれた」とあります。人里離れた所とは、荒れ野、砂漠地帯を意味しています。何のためでしょうか。疲れた体を休めるためでしょうか。並行個所のマルコ福音書1章35節には、はっきりと祈るためであったと書かれています。ルカ福音書でもこのあとに、主イエスが人々から離れて山に登られ、一人で祈られるお姿をしばしば見ることができます。主イエスは多くの悩める人たちのために寝る間も惜しんでお働きになりますが、主イエスにとってそれ以上に大切な時間は、お一人で父なる神と対面し、祈ることでした。主イエスは父なる神のみ心なしには、何をもなさいません。父なる神からいただくみ言葉の権威と力によって、また聖霊によって、主イエスはすべての救いのみわざをなさいます。それゆえに、父なる神への祈りこそが主イエスのお働きの源なのです。

 ここにはもう一つの意図があったように思われます。それは人々から一時遠ざかるということです。人々は病気の人たちのいやしを求めて主イエスのもとへとやって来ます。主イエスはその人たちをおいやしになります。けれども、主イエスはその人たちを避けて、その人たちから遠ざかろうとしておられるのです。人々は主イエスを自分たちのそばに引き留めようとしていますが、主イエスは43節でこのようにお答えになりました。【43~44節】。

ここで二つのことが明らかになります。一つには、人々は主イエスのお働き、救いのみわざを誤解する恐れがあったということです。彼らは病気に苦しむ人を連れてきて、主イエスにいやしてもらうことを願っていました。自分たちの願いをかなえてもらうことが彼らの主たる目的でした。もちろん、主イエスは救い主として人々を苦しめていたすべての悪しき霊と病に勝利されます。人々をそれらの支配から解放されます。イザヤ書61章で預言されていたように、「貧しい人が福音を聞かされ、捕らわれている人が解放され、圧迫されている人が自由を与えられる」(4章18節以下参照)ために、主イエスは父なる神から派遣されたのです。しかし、病気のいやしを求めてくる人たちは、主イエスがメシア・キリスト・救い主であるということを十分に信じないまま、ただいやしの奇跡だけを求めてやって来ます。それを見た人たちも、主イエスのいやしの奇跡だけを期待するようになっていきます。主イエスは人々のこのような誤解を解かなければなりません。そのために、主イエスはひとたび人々から遠ざかり、主なる神のもとへと逃れます。父なる神のみ心が何であるのかをはっきりと確かめるためです。

それとともに、主イエスは43節でご自身の主たる目的をはっきりとお語りになりました。それは、神の国の福音を多くの町々村々で告げ知らせることです。このために主イエスはこの世へと派遣されたのです。主イエスのすべての説教、いやしの奇跡、あるいは他の様々な奇跡も、神の国の福音を全世界に宣べ伝えるためなのです。そのために、主イエスは十字架への道を進み行かれました。主イエスの神の国の福音宣教の使命、務めは十字架によってその最終目的に達し、成就するのです。

わたしたちはここで、福音書を読むにあたっての、最も基本的で重要な姿勢を確認しておかなければなりません。それは、福音書に書かれているすべてのことは、福音書だけでなく他の聖書もそうなのですが、主イエスの十字架の光の下で読まなければならないということです。特に、病気のいやしや他の奇跡のみわざは十字架の光なしには正しく理解されません。多くの人は奇跡だけに目を奪われて、十字架を見ようとはしません。奇跡は神の国の福音の目に見えるしるしです。重要なのはしるしではなく、神の国の福音、十字架の福音そのものです。

主イエスは十字架の死によって、すべての悪しき霊や悪や罪を打ち破り、それらに勝利され、神の新しいご支配である神の国を開始されました。そして、信じる人たちの罪をゆるし、神の国の民の一員としてお招きくださるのです。

(執り成しの祈り)

〇天の神よ、わたしたちをすべての悪と罪から解放してくださり、主キリストに

ある自由へとお招きください。そして、喜んで神と隣人のために仕える人にしてください。

〇天の神よ、この地にあなたのみ心が行われますように。すべての人が主なる神

であるあなたを恐れ、あなたのみ前にひれ伏すものとなりますように。あなたから離れて、この世界が滅びへと向かうことが決してありませんように。

〇願はくは、主よ、日本と、アジアと、世界に、まことの平和を与えてください。争いではなく共存を、奪い合いではなく分かち合いを、憎しみや怒りではなく愛とゆるしをお与えください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

9月13日説教「神の祝福と契約」

2020年9月13日(日)午前10時30分 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:創世記9章1~17節

    ローマの信徒への手紙3章21~26節

説教題:「神の祝福と契約」

 創世記8章の終わりに書かれていたように、大洪水のあと地が乾いた時、神はノアに箱舟から出るように命じました。ノアは神に命じられたとおりに、彼の家族、動物たちと一緒に箱舟を出ました。大洪水のあと、新しい世界に住むノアとその子孫との第一歩は、神の言葉によって始められました。創世記6章から9章に描かれている大洪水物語りの中でノアの態度で一貫していること、すなわちノアは一言も言葉を発せず、ただ主なる神だけが語り、ノアは黙々として神の言葉に聞き従う、このノアの姿勢は、当然洪水以後も貫かれます。そのノアが、箱舟から出てまず最初にしたことは、祭壇を築いて神を礼拝することでした。神礼拝こそが、新しい世界で生きるノアとその子孫の生きる基本であると聖書は教えています。きょうの主の日に、わたしたちが教会に集い、神を礼拝することから新しい一週の歩みを開始するということは、この聖書の教えに従うことなのです。

 ではさらに、大洪水以後の新しい世界に住んでいるわたしたちがどのように生きるべきなのかを9章のみ言葉から聞いていきましょう。【1節】。これは創世記1章28節のみ言葉とほとんど同じです。神が最初に人間を創造された時、人間アダムに祝福のみ言葉を語られたように、大洪水以後の新しい世界においても、ノアとその家族に同じように祝福の言葉をお語りになります。人間に対する神の祝福の言葉は、神の厳しい裁きのあとでもなおも失われることありません。神は大洪水以後も、人間が生み、増え、地に広がることを望んでおられます。神は大洪水以後も人間の命の主であられます。ノアの大洪水以後のすべての人間の命には、この神の祝福と恵みがあります。あるいはこう言うこともできるでしょう。人間はこの神の祝福がなければ、その命をながらえることも、増やすこともできないのだと。

 次の2節も1章28節で語られていた内容と一致します。【2節】。人間は大洪水以後も、神が創られたすべての生き物と被造世界全体を造り主なる神のみ心に従って治め、管理する務めを神から託されています。人間はここでもすべての被造物のかしらであり頂点であるという、その立場は失っていません。

 ただ、ここでは新しい内容が付け加えられています。【3節】。大洪水前の人間は1章29節に書かれていたように、穀物や果実が食物として与えられていましたが、洪水後は動物の肉が新たな食物として与えられました。なぜこのような変更がなされたのかについては書かれていませんが、ただはっきりしていることは、これは神の許可であり、神から与えられた恵みだということです。人間は自分の欲望のままに動物の命を奪ってよいということではなく、動物の肉を食べてよいということではありません。それは神から与えられた許可なのであり、賜物なのです。すべての生き物の命の主は神のみであるということを決して忘れてはなりません。

したがって、全く無条件で人間が肉を食べてもよいとされているわけではありません。神は制限を設けられます。【4節】。血には命があると考えられていました。命はすべて神のものであり、神にお返ししなければなりません。それゆえに、人間は肉を血を含んだままで食べてはならないと命じられています。人間は動物の肉を食べることは許されていますが、その場合でもすべての命が本来神に属するものであるということを忘れてはなりません。

そのことは、ことさら人間の命に当てはまります。【5~7節】。神はここで人間の命が特別に神のものであるということを強調しています。すべての生き物の命がそうであるように、いやそれ以上に、人間の命は神の所有であり、神のみ手の中にあるのです。神は人間の命をご自身のみ手をもって守られます。もし人間の命を奪うものがあれば、神ご自身が報復されると言われています。

人間の命の尊厳性とか、不可侵性というのは、人間自身の中にその理由があるのではなく、神にあります。神が人間に命を与え、しかも人間をご自身のかたちに似せて創造されたゆえに、人間の命は限りなく尊く、重く、だれもそれを侵害してはならないのです。

ここでは、人間の命はただ人間の命だけによって賠償され、償われ、支払われるということが強調されています。これは、人間の命は他のいかなるものによっても代用されない、取り変えられないほどに尊く、値が高く、かけがえのないものであるということを強調しているのです。人間の命は、例えば何か経済的な価値観で測られたり、商取引の対象にされたり、他の何かと取り換えることは決してできません。人間の命はそれ自体で人間の命ほどに尊く、他と比べ物にならないほどに値が高いということです。

問題となるのは6節のみ言葉です。【6節a】。これを、殺人者には人間の手によってその人を殺してもよいという神からの委託と理解し、後の死刑制度を容認するものと単純にとらえてよいかどうか議論されています。あるいは、この個所からもっと積極的な意味を読み取って、わたしたち人間が他者の命をかけがえのない尊いものとして守り、保護すべきであり、もし他者の命が奪われるような時には、それに抵抗し、その命を取り戻すために努めるべきことを教えていると理解する人もいます。いずれにせよ、このみ言葉から、人間が人間の命を自由に操作することができるという結論を読み取ることはすべきではありません。ここで言われている中心的なことは、神はすべての人間の命をみ手に握っておられ、見守っておられるということです。

わたしたちはここで、さらにこう付け加えなければなりません。人間の命は神のみ子主イエス・キリストの十字架の血によって贖い取られた命であるゆえに、その命はより一層限りなく尊く、重いものであるのだと。主イエスはご自身の神のみ子としての汚れなき尊き御血をもって、わたしたちを罪の奴隷から買い戻してくださいました。それゆえに、わたしたちは人間の命を、自分の命をも他人の命をも、他の何ものにも勝って尊く、重いものとして、それを守り、助け、支え、養うべきであり、もしそれを軽視したり傷つけたり、奪い取ったりするならば、それは神ご自身に対する重大な罪なのだということを忘れてはなりません。

8節からは、神がノアとのちの子孫、全人類と結ばれた契約のことが語られています。これはノアの契約と呼ばれています。ノアの契約は、聖書の中に書かれている神が人間と結ばれた最初の契約です。このあとの主な契約を挙げてみましょう。創世記12章以下には神が族長アブラハムと結ばれた契約、すなわち、神はアブラハムとその子孫とを祝福され、その子孫を増やすという契約、これをアブラハム契約と言います。次には、出エジプト記20章以下で神がシナイ山でモーセを通してイスラエルの民と結ばれた契約、すなわち、神はイスラエルの民を選ばれ、この民をご自身の民とされるという契約、これをシナイ契約と言います。さらには、サムエル記上7章で神が預言者ナタンを通してダビデと結ばれた契約、すなわち、神はダビデの王位をその子孫に継がせ、ダビデの王座は永遠に続くであろうという契約、これをダビデ契約と言います。これらの旧約聖書のすべての契約は、やがて主イエス・キリストによってすべてが完全に成就され、新しい契約、すなわち新約聖書の名前のもとになった新約となりました。すなわち、神がご自身のみ子なる主イエス・キリストの十字架の血によって全人類と結んでくださった救いの契約です。創世記9章のノアの契約もこの主イエス・キリストの十字架による契約を目指しているのです。

では、ノアの契約の内容を見ていきましょう。まず、神とノアとの契約は神が立てる契約であるということが何度も強調されている点に注目したいと思います。9節「わたしはあなたたちと契約を立てる」、10節も主語は神です。「わたしが地のすべての獣と契約を立てる」。11節「わたしがあなたたちと契約を立てたならば」、12節「わたしが立てる契約のしるしは」、14節、16節、17節でも、すべて神が主語、神が契約を立てると言われています。

一般的に契約とは、AとBとが相互に約束事を決め、相互にその約束を守り、実行することを誓い合うのですが、神の契約の場合には、最初のノアの契約もそうですが、アブラハム契約もダビデ契約もシナイ契約も、そしてまた新しい契約でも、すべて神が立て、神が締結され、神がその約束を守られ、そして実行されるという点に大きな特徴があります。ノアとその家族は、またわたしたちすべての人間はその神の契約に招きいれられていると言うべきでしょう。ここに、神がお立てくださった契約の最も大きな恵みがあるのです。たとえ人間たちがその契約を忘れたり、それに違反したりすることがあっても、神は常にこれをみ心に留められ、思い起こされ、契約を実行するために人間たちを呼び求め続けられるのです。

ノアの契約の中心は11節と15節に繰り返されています。【11節、15節】。神はノアの時代に起こしたような大洪水によっては、地とそこに住む生き物をことごとく滅ぼすようなことは二度と決してなさらないと言われます。それは神の固い決意です。洪水後も、人間は生まれながらにして罪と悪に染まっていると、8章21節に書かれていました。しかしながら、どれほどに人間の罪が地に満ちても、再び大洪水を超すことはなさらないと言われます。神は忍耐をもって罪と悪に満ちたこの世が滅びることがないように支え、見守っていてくださるのです。

ノアの契約のもう一つの特徴は、これが永遠の契約であるということです。12節には「代々とこしえにわたしが立てる契約である」と言われ、16節では「永遠の契約」と言われています。この契約は現代のわたしたちにも有効です。終わりの日に神の国が完成される時まで有効です。

ノアの契約にはしるしが伴っています。【13~15節a】。ノアの契約のしるしは虹です。虹は人間にとっての目に見えるしるしであり、神の契約の保証であるとともに、それはまた神ご自身の決意の固さ、神の決断と神の強い意志のしるしでもあります。神は二度と地を滅ぼすことはなさらないという約束をお忘れにならないためのしるしでもあるのです。大雨はいつまでも降り続くことはありません。雨の後には必ず太陽が昇り、虹が出ます。神は終わりの日に神の国が完成される日まで、この地とこの地に住むすべての生き物たちを、み手をもって守っておられます。

(執り成しの祈り)

〇主なる神様、あなたがみ子の十字架によってわたしたちと結んでくださった救いの契約に、どうかわたしたちがいつまでもとどまり続けますように。そして、多くの人々がこの契約の中に招きいれられますように。

〇天の神よ、この地にあなたのみ心が行われますように。すべての人が主なる神

であるあなたを恐れ、あなたのみ前にひれ伏すものとなりますように。あなたから離れて、この世界が滅びへと向かうことが決してありませんように。

〇願はくは、主よ、日本と、アジアと、世界に、まことの平和を与えてください。争いではなく共存を、奪い合いではなく分かち合いを、憎しみや怒りではなく愛とゆるしをお与えください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

9月6日説教「主イエスの復活の証人となる」

2020年9月6日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:詩編103編1~13節

    使徒言行録1章15~26節

説教題:「主イエスの証人になる」

 使徒言行録1章には、主イエスが天に昇られてから弟子たちに聖霊が注がれてエルサレムに最初の教会が誕生するまでの10日間のことが書かれています。主なテーマは二つあります。一つは、弟子たちが主イエスの約束のみ言葉を信じ、聖霊が注がれるまでエルサレムから離れないで、祈りつつ待っているべきであるということ。そして、神が天から聖霊を注がれる時、彼らは新しい力を受けて、主イエスの福音を全世界に宣べ伝えるようにされるということ。もう一つは、12弟子の欠けを補う補充選挙をして、やがて誕生する教会のために備えるということ。そして、主イエスが地上での宣教活動を共に担うために12人の弟子たちを選ばれたように、やがて到来する教会の時代には、新しく選ばれた使徒たち、兄弟姉妹たちが全世界に福音を宣べ伝えるために、主イエスの復活の証人として選ばれるということ。

 きょうの礼拝で朗読された1章15節以下は、その第二のテーマを語っています。12弟子のひとりであったイスカリオテのユダは、主イエスを裏切って、ユダヤ人指導者に引き渡し、主イエスを十字架刑にするための手引をしました。ユダはそのことを悔いて、自ら命を絶ち、悲惨な死を遂げました。そのことを弟子の代表ペトロは15節以下で詳しく説明しています。そこでペトロは、欠けた12番目の弟子を補充する提案をします。なぜ、ユダの代わりを補充しなければならないのか、この補充選挙の意味は何か。そのことを知るために、主イエスがどのような意図で12弟子を選ばれたのかを、すこし振り返ってみたいと思います。

ルカ福音書6章12節以下に主イエスが12弟子を選ばれたことについて書かれています。主イエスは12弟子を選ばれるにあたって、山に入って一晩中祈られたと12節に書かれています。徹夜の祈りの結果として、12弟子の選びがあるのです。12弟子の選びが主イエスの福音宣教の働きにとっていかに重要であったのかが分かります。また、12弟子として選ばれたのは、彼らが人間的に、あるいは信仰的に優れていたからではなく、主なる神のみ心に適っていたからであるということが、ここから分かります。

そのことは、続けて13節に「弟子たちを呼び集め」と書かれていることからも確認できます。徹夜で祈られ、父なる神のみ心を尋ね求められた主イエスが、弟子の一人一人をみ前に呼び集められるのです。主イエスが選び、主イエスが呼び集められます。「呼び集める」という言葉は、のちにギリシャ語で教会を意味するエクレーシアのもとになった言葉です。主イエスによる12弟子の選びは、多くの点でのちの教会の民の選びに類似しています。すなわち、わたしたちがなぜどのようにしてこの教会に集められ、この教会の一員とされているのかの原型が12弟子の選びにあるのです。

13節には「彼らを使徒と名づけられた」とあります。本来ならば、使徒言行録のこの個所で初めて用いられるべきである「使徒」という言葉を、ルカは福音書ですでに用いていたということが分かります。福音書の12弟子の選びと使徒言行録での12使徒の補充選挙とは深く関連しているのです。

使徒とは「遣わされた者」という意味です。主イエスの使者として、全権大使として、主イエスから託された福音を携え、それを宣べ伝えるのが使徒の務めです。主イエスが地上で生きておられた時には、弟子たちは主イエスと共に行動し、時に町々村々へと遣わされましたが、主イエスが復活され、天に昇られてからは、彼らはどうするのでしょうか。それが使徒言行録のきょうのみ言葉で語られます。

では、ユダが欠けたあとの弟子の補充はどのような意味を持つのかということについて考えてみましょう。まず、12という数字の象徴的な意味が受け継がれているということです。26節に、「この人が十一人の使徒の仲間に加えられることになった」と書かれています。福音書で12弟子と言われていましたが、使徒言行録では12使徒として受け継がれていきます。福音書で12弟子と言われていたのは、イスラエル12部族の象徴として、神の選びの民であるイスラエル全体から選ばれた弟子であることを意味していたと考えられています。使徒言行録の12使徒は、それを受け継ぎながら、イスラエルの民だけでなく、全世界のすべての民を象徴的に意味していると考えられます。15節には「百二十人ほどの人々」とあり、12の10陪の数の兄弟姉妹たちの集団が、全世界に広がっていく教会の民を暗示しているように思われます。

けれども、数は同じでも、その中身は全く違っています。12弟子の場合は、イスラエルの民として生まれたユダヤ人12人でしたが、12使徒の場合は、民族とかの人間の肉によるつながりの中から選ばれるのではなく、主イエスを救い主と信じる信仰によって結ばれ、神の霊によって結ばれた新しい神の家族なのです。終わりの日に完成される神の国の家族として選ばれているのです。

ところで、12弟子の補充がなされるのはこの時だけです。12章2節で12弟子の一人、ヨハネの兄弟ヤコブがヘロデ・アグリッパ一世によって殺されたことが書かれていますが、この時教会はヤコブの補充をすることはありませんでした。このあとでも、ほとんどの12弟子たちは殉教していったのですが、補充することはありませんでした。なぜなら、イスカリオテのユダは途中でつまずき、弟子としての務めを放棄し、その務めに欠けが生じたために、神のみ心が成就されるために補充されなければならなかったのですが、ヤコブを始め殉教した使徒たちは、自らの務めを、死に至るまで忠実に全うしたからです。このことは、新しく立てられた12使徒の選びと、その務めを理解するうえで大切なポイントです。

次に、弟子のリーダーであるペトロのことです。15節に、「ペトロは兄弟たちの中に立って言った」と書かれています。ペトロは12弟子のリーダーでしたが、主イエスの十字架の死と復活のあとでも、彼は12使徒の代表者として、ユダに代わる弟子の補充の提案をしています。ペトロは主イエスの十字架の直前に「わたしはあの男を知らない、わたしとあの男とは関係ない」と言って、主イエスとのかかわりを断ち切りました。彼は十字架の前でつまずきました。ひとたび信仰を失いました。けれども、復活された主イエスと出会って、ペトロはそのつまずきと失敗をゆるされ、より一層主イエスを愛する忠実な僕(しもべ)として生まれ変わりました。今やペトロは主イエスの復活の証人として、殉教の死に至るまでも忠実に仕える12使徒のリーダーとなったのです。

16節のペトロの言葉に注目したいと思います。「この聖書の言葉は実現しなければならなかったのです」と彼は言います。ここで、「ねばならない」と訳されているのと同じ言葉が22節では、「主の復活の証人になるべきです」の「べきです」と訳されています。この言葉は福音書の中では主イエスの受難予告の中で用いられています。ルカ福音書9章22節を読んでみましょう。【22節】(122ページ)。ここでは、「必ず……ことになっている」と訳されています。この言葉は「神の必然をあらわしている」とよく言われます。神がご計画しておられること、神の意図、神のみ心、それを強調して、神のみ心によって必ずそうなるということを言い表す言葉です。

そうすると、使徒言行録1章16節では、イスカリオテのユダの裏切りと彼の悲惨な死とは、旧約聖書の詩編に預言されている神のみ言葉が成就するための神のご計画、神の必然であったのだということになります。主イエスがお選びになった12弟子の一人であるユダが主イエスを裏切り、主イエスが捕らえられる手引きをしたこと、そしてユダが悲惨な死を遂げたこと、それはわたしたちにはよく理解できない衝撃的な出来事でしたが、実はそこにも目には見えない神の深いみ心が働いていたのだ。神はそのような人間の反逆やつまずきや災いを通しても、ご自身の救いのご計画を進めてくださるのだ。ペトロはそのように言うのです。

また、22節では、ユダが欠けたあとを補充して12人の使徒の数を充たすこと、そしてこの12使徒たちが主イエス・キリストの復活の証人となって、全世界に福音を宣べ伝えていく使命を果たすこと、これもまた神の永遠の救いのご計画なのだとペトロは言います。神の救いのご計画は主イエスの十字架の死と復活のあと、聖霊を注がれた12使徒たちを中心にして、全世界の教会へと継承されていく。終わりの日の神の国の完成を目指して。それは神の必然であり、神の強い意志であり、神の永遠の救いのご計画なのです。神は人間たちの罪や不従順の中を貫いて、それを超えて、ご自身の救いのみわざを前進させたもうのです。

ここでは、使徒として選ばれる条件について、主イエスと歩みを共にした人であり、主イエスの復活の証人であることが挙げられています。「主の復活の証人」という言葉は、2章32節のペトロのペンテコステの説教でも用いられており、使徒言行録の中で、また初代教会とそののちのすべての時代の教会にとって、もちろんわたしたちの信仰にとっても、非常に重要な意味を持っています。なぜなら、初代教会以来のすべての時代の教会の信仰は、彼ら復活の証人たちの証言に基づいているからです。彼ら復活の証人たち、すなわち、地上の主イエスと共に歩んだ人たち、主イエスの口から直接に神の国の福音を聞き、主イエスの奇跡のみわざを目撃し、そして主イエスの十字架の死と復活と昇天を実際に目撃し、体験した人たち、彼らの確かな証言の上にわたしたちの信仰はあるのだということです。福音書に書かれている主イエスのご生涯、十字架の死と復活、また使徒言行録に書かれている教会の誕生とその拡大、それはだれかが空想したり、創作した物語ではありません。彼ら証人たちの確かな証言なのです。

もう一つ重要なことは、「証人」という言葉、ギリシャ語では「マルトゥリア」ですが、この言葉は紀元1世紀の終わり、ロ-マ帝国によるキリスト教迫害が本格化したころには、証人という意味よりも「殉教」と意味に代わっていきました。今日、英語の「martyrマーター」はもっぱら殉教という意味になりました。キリスト教迫害の時代には、主イエスの復活の証人となるということは主イエスのために殉教するということと同じでした。その本質的な意味は、今でも変わりません。わたしたちもまた、自分の存在と命のすべてを注いで、死に至るまで忠実に、主イエス・キリストの復活の証人としての務めを果たすように託されているのです。

(執り成しの祈り)

〇主なる神よ、わたしたち一人一人が、それぞれの遣わされている場で、主イエ

ス・キリストの復活の証人として固く立つことができますように、わたしたちに聖霊を注いで、強め、励まし、導いてください。

〇天の神よ、この地にあなたのみ心が行われますように。すべての人が主なる神

であるあなたを恐れ、あなたのみ前にひれ伏すものとなりますように。あなたから離れて、この世界が滅びへと向かうことが決してありませんように。

〇願はくは、主よ、日本と、アジアと、世界に、まことの平和を与えてください。

争いではなく共存を、奪い合いではなく分かち合いを、憎しみや怒りではなく愛とゆるしをお与えください。

8月30日説教「主イエスの権威と力」

2020年8月30日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:イザヤ書55章8~11節

    ルカによる福音書4章31~37節

説教題:「主イエスの権威と力」

 ルカ福音書では、主イエスの福音宣教は故郷、ガリラヤのナザレから始まります。ある日、ナザレの会堂での安息日の説教が終わった後で、故郷の人々は主イエスの説教を聞いて憤慨し、主イエスを殺そうとしたと4章28節以下に書かれています。前回学んだ箇所の終わりの部分に少し触れてから、きょうのテキストに入っていきたいと思います。

【28~30節】。福音書の最後に描かれている主イエスの十字架の暗い影が、福音宣教の最初であるこの個所にすでに差し込んでいるのをわたしたちは気づきます。「預言者は自分の生まれ故郷では歓迎されないものだ」という古くからのことわざのように、否それ以上の深刻さと真実さとを含んで、神がこの世にメシア・救い主として派遣された神のみ子は、ご自身の民であるイスラエルからも、また全人類からも歓迎されることなく、彼らから憎まれ、拒絶されて、十字架の死へと追い込まれていく、その最初の暗い影がここに差し込んでいるのです。神の救いへの招きを拒み、なおも罪の道を突き進もうとして、罪なき神のみ子を十字架につける人間の罪が、主イエスの福音宣教のこの最初の場面ですでに明らかになっているのです。

ナザレの会堂で主イエスが朗読されたイザヤ書61章の解放の福音、主なる神の恵みを告げる福音が、イスラエルと全人類の罪からの解放であり、神の恵みによって罪のゆるしを告げる福音であるということが、ここですでに明確にされています。そして次の31節からのカファルナウムでの教えと悪霊につかれた人のいやしのみわざは、主イエスの罪のゆるしの福音の最初の具体的な実例であると言えます。

【31~32節】。主イエスは故郷であるガリラヤのナザレからガリラヤ湖畔のカファルナウムの町に移動されました。故郷から追い出され、町の中にお姿を隠すためでしょうか。いや、そうではありません。この町でも、福音を語るため、救いのみわざを続けるためです。たとえ、だれからも歓迎されなくても、命の危険にさらされても、主イエスの福音宣教のお働きは中断されることはありません。神の国が完成される日まで続けられます。

カファルナウムを起点にして見れば、ナザレは南西40キロメートルにある山間の村です。カファルナウムは海水面よりも低く、マイナス210メートルの低地にあるので、「ナザレから下って」と表現されていると思われます。このあと、カファルナウムは主イエスのガリラヤ地方伝道の拠点になります。38節では弟子のシモン・ペトロの家に入られたとありますが、主イエスはガリラヤ伝道の期間中、この家を宿にしておられたと推測されています。

主イエスはナザレの会堂でもそうであったように、カファルナウムの会堂でも単に礼拝の会衆の一人として参加しておられたのではありません。あるいはまた、単に旧約聖書のみ言葉を解きあかす説教者として語られたのでもありません。主イエスは安息日に礼拝されるべき主として、また神のみ言葉を成就するメシア・救い主として、カファルナウムの会堂の中心に立っておられます。

主イエスが語られるみ言葉には権威があったと32節に書かれています。その権威はどこから来るのでしょうか。言うまでもなく、それは神から与えられた権威です。神のみ言葉である聖書を解きあかす説教者には神からの権威が与えられています。説教者は自分の意見や願いを語るのではなく、神のみ心、神の救いのご計画を語ります。この点において、当時の長老たちや預言者たちにも同様に神の権威が与えられています。しかし、主イエスに与えられた権威は彼らのものとは根本的に違います。彼らは、「神はこう言われた。神はこのようになさるであろう」と語りましたが、主イエスは「神の預言のみ言葉は今わたしによって成就した。神はわたしによってご自身の救いのみわざを成し遂げられる。わたしこそが神のみ言葉の成就そのものである」と語られたのです。ここに、主イエスが語られたみ言葉の権威があったのです。だれも今までそのような説教を聞いたことがありませんでした。安息日の礼拝で会堂に集まっている人々は主イエスの説教に驚きました。

その中でも、特に汚れた悪霊に取りつかれた一人の男の人が主イエスの権威を敏感に感じ取りました。【33~34節】。この男の人は「我々を」と言っています。彼にとりついている悪霊が多くなので「我々」と言っているのか、あるいは、悪霊と男の人が一緒に合体して「我々」と言っているのか、区別はできません。男の人は悪霊に全く支配され、悪霊と一体化しています。

悪霊は人間よりもはるかに勝る鋭い洞察力をもって、主イエスの本性を見抜いているのです。悪霊は、主イエスが神の権威をもって語っており、神から遣わされた神の聖者として自分たちを滅ぼしに来たのだということを、感じ取りました。それは、人間にはない、悪霊の特別な能力でした。この時には人間はまだだれも主イエスがメシア・キリストであることも来るべき神の国の主であることも悟らず、告白していなかったにもかかわらず、悪霊は人間よりも鋭い感覚と人間よりもはるかに勝った能力によって、主イエスが神から遣わされた聖者であること、悪霊を滅ぼし、神の恵みのご支配である神の国を完成させるメシアであることを、この時すでに悟っていたのです。彼らは主イエスの与えられている神の権威を直感し、自分たちがそれによって滅ぼされてしまうことを恐れているのです。

この当時の人たちは、病気の多くは汚れた霊や悪霊が人間の中に入り込んで、その人の肉体や精神を傷つけ破壊すると考えていました。汚れた霊や悪霊はサタン、悪魔と同じように、神に敵対する存在であり、信仰者を神から引き離し、自分たちの思いどおりに人間を操作しようとします。これらの悪しき霊たちは人間よりもはるかに強い力によって人間を支配し、人間を神から引き離し、罪の中に閉じ込めようとします。人間はだれも自分の力によっては、これらの悪しき霊たちに立ち向かうことはできません。それゆえに、人間はだれも自分の力では罪の奴隷から自らを解放することができないと聖書は言うのです。

したがって、悪霊たちのこの告白はある意味では正しさを含んでいたと言ってよいでしょう。けれども、主イエスは信仰を伴わない告白はおゆるしにはなりません。【35~37節】。主イエスは悪霊が信仰を伴わない偽りの信仰告白を語ることを禁じられます。悪霊を沈黙させます。それだけではありません。悪霊が、神を礼拝するこの人の中に住み、この人を支配することをおゆるしにはなりません。彼を悪霊から解放されます。主イエスが悪霊に向かって「黙れ」とお命じになると、悪霊は黙ります。「この人から出て行け」とお命じになると、悪霊は彼から出ていきます。主イエスは神から与えられた神の権威によって、悪霊に勝利されます。これが、主イエスのみ言葉の権威です。

この個所では、主イエスのみ言葉の権威が強調されていて、悪霊に取りつかれた人がいやされたということについては主なテーマとはなっていませんが、そのことについても少し取り上げてみたいと思います。この人は汚れた悪霊に取りつかれ、体も心も傷つけられ、悪霊に支配され、ほとんど人間としての姿を失ってしまっていました。けれども、彼は礼拝の群れの中にいました。主イエスと出会う機会を与えられていました。主イエスの権威あるみ言葉によって、悪霊から解放されました。そして、礼拝する群れの一員として加えられました。それまで、彼の中にいて彼を支配していた悪霊に代わって、今や主イエスが彼の中におられ、彼を支配され、彼を新しい人に造り変えられたのです。

主イエスはご自身の権威と力とに満ちたみ言葉を、あわれな病める一人の人のためにお用いになりました。彼を悪霊から解放するために、神のみ子に与えられた特別な権威と力とをお用いになったのです。ご自身の名誉とか栄のためにではなく、ご自分の楽しみとか喜びのためにではなく、ご自分を守り救うためにでもなく、一人の傷ついた貧しい人のためにお用いになりました。ここにこそ、主イエスの権威と力のもう一つの大きな特徴があります。このことは、主イエスのご生涯全体に貫かれています。主イエスがなさったいやしや奇跡のみわざ全体に貫かれています。そして特に、主イエスの十字架においてこそ、主イエスはご自身に授けられていた神のみ子としての権威と力とを、ご自身を救うためには少しもお用いにならいということが明らかになりました。主イエスはそのすべてをわたしたち罪びとを罪から救い出すためだけにお用いになり、ご自身は徹底して弱く、貧しくなられ、十字架で死んでいかれたのです。

ここでわたしたちは、すぐ前の個所で、ナザレの会堂で主イエスが朗読されたイザヤ書のみ言葉を思い起こします。【18~19節】。主イエスはこのイザヤ書の預言を朗読されたあと、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と語られましたが、そのことが今やカファルナウムの会堂で、目に見える形で現実となったのです。主イエスが神の権威と力とによってみ言葉をお語りになり、悪霊を追い出されたことによって、貧しい人が福音を聞き、捕らわれている人が解放され、圧迫されている人が自由を与えられ、今や悪霊の支配の時が終わり、主なる神の恵みのご支配の時が始まったということが、カファルナウムの会堂で現実となったのです。

主イエスの解放と救いのみ言葉によって、汚れた悪霊の支配の時が終わりました。神の恵みのご支配の時が始まりました。神の国が到来したのです。わたしたちは新しい救いの時が主イエスとともに始まったのだということを知らされました。汚れた悪霊は今なおこの世にあり、罪は今なお人間たちの中に残っていますが、しかし彼らはすでに主イエスによって敗北を宣言されているのです。主イエスのみ言葉の権威と力とによってすでに彼らに勝利しておられるのです。

そして、終わりの日、終末の時には、その戦いに最終的な決着がつけられます。その時、主イエスはすべての汚れた悪霊とサタンと罪と死とに完全に勝利され、神の国を完成されるでしょう。わたしたちはその約束を信じているがゆえに、どのような悪しき霊や罪に対しても、勇気をもって戦いを挑み、勝利を信じて、信仰の戦いを戦い抜くことができるのです。

(執り成しの祈り)

〇主なる神よ、わたしたちの日々の信仰の戦いに、あなたが共にいてくださり、

弱きわたしたちを支え、導いてください。わたしたちを苦しめるすべての悪し

き霊から、守ってください。わたしたちを誘惑するすべての罪から、救ってく

ださい。

○神よ、どうぞこの世界を憐れんでください。あなたを離れて、滅びへと向かう

ことがありませんように。特に、あなたを信じる者たちがあなたのみ怒りと裁

きを恐れ、み前に謙遜な者とされ、あなたの憐れみとゆるしとを熱心に願い求

める者とされますように。

〇主よ、わたしたちを主キリストにあって平和を造り出す者としてください。

 主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

8月23日説教「箱舟を出て神を礼拝したノア」

2020年8月23日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:創世記8章1~22節

    ローマの信徒への手紙12章1~2節

説教題:「箱舟を出て神を礼拝したノア」

 神はノアの時代に、地に住む人間たちの罪と悪が地上に満ちていることに心を痛められ、地のすべての生き物を大洪水によって滅ぼすことを決意されました。ノアは神の前に恵みを得て、人間たちの中から選ばれ、箱舟を造るように命じられました。ノアは神の命令に従順に従い、人々が食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしている間に、黙々と箱舟を造り、彼の家族と動物たち一つがいずつを連れて箱舟に入りました。神は地に大雨を降らせ、40日40夜降り続いた雨が地の表のすべての生き物を飲み込みました。ただ、箱舟の中にいたものたちだけが残りました。これは、人間の罪に対する神の大いなる裁き、審判です。

 ある神学者はこう言っています。「ノアの大洪水は、地上に罪が蔓延するのを防ぐために神が起こす、最後から二番目の大きな審判である」と。「最後から二番目」とは、最後の審判が主イエス・キリストが再臨される終わりの時、神の国が完成される時に行われるのですから、その前の審判という意味です。この指摘は、わたしたちが創世記6~9章に記されている大洪水とノアの箱舟のみ言葉を読む際に、決して見失ってはならない、重要な視点を明らかにしています。わたしたちがこの個所を読む際に、これを単なる昔ばなしや神話として読むのではなく、また古代の異常な自然現象として読むのでもなく、ここには人間の罪に対する神の厳しい裁きが、世界規模での神の審判が語られているのだということ、そしてまたこれは来るべき最後の神の大いなる審判である主イエス・キリストが再臨する終わりの時、終末の時を指し示しているのであり、その終末の到来に備えて生きるべきわたしたち信仰者の生き方を教えているのだということ、そのことをここから読み取るべきだということです。

 40日40夜降り続いた雨は、その後も150日間地にみなぎっていたと7章の最後に書かれています。だれが、どのようにして、地のすべてをその中に飲み込んだこの大洪水を終わらせることができるのでしょうか。8章1節以下を読んでいきましょう。【1~5節】。

 「神は御心に留められた」。ここから、新しい世界が、新しい出来事が開始されます。神が御心に留められるとは、神が新たな決意をもって、新しいみわざを始められることを意味します。神は人間の罪に対する大いなる裁きの中で、その裁きを超えて、今新しい救いのみわざをなそうとしておられます。神は大洪水の上に漂流する箱舟とその中にいたノアの家族とすべての生き物とをみ心に留められ、彼らによって救いのみわざを始めようとしておられます。人間の罪に心を痛められた神は、罪の人間と悪に満ちたこの地を完全にお見捨てにはなりません。なおも顧みてくださいます。そこから神の救いのみわざが始まります。

 1節で「風」と訳されている言葉は「霊」とも訳されます。風が吹くとは、神の霊の働きの具体的な現象です。神が霊の働きによって、地を覆っていた水を退けられました。そして、深遠の源と天の窓とを閉じられたので雨は降り止んだと2節に書かれています。これらの表現は、創世記1章の神の天地創造の記述と似ています。神は天地創造の初めに、混沌として闇が深淵の表にあった原始の海をご自身の霊によって支配され、そこに光を創造され、また海の水を上の水と下の水とに分かられました。その天地創造の時の偉大なみ力によって、神は洪水のあとの新しい世界を再創造されるのです。

 アララト山は現在のトルコ共和国の東に位置する標高5137メートルの山と同じ名前です。古い時代から、ここにノアの箱舟が漂着したと言い伝えられてきました。次第に水が引き、山々の頂が姿を見せ、箱舟が山の上に止まるという3節から6節にかけての日付、150日、第七の月の17日、第10の月の1日、そして40日という月日の経過は、神の怒りが次第に和らいでいく様子と、神が次第に新しい創造のみわざを進められる様子とが、重なり合って感じられます。神は着々と救いのみわざを進めておられます。

 【6~12節】。古代では、海を航海する人たちが陸地が近くにあるかどうかを知るために船から鳥を放つという習慣がありました。ノアは地が乾いたかどうかを知るために、初めにカラスを放ちましたが、地が乾くまで飛び回り、ノアのもとには戻ってきませんでした。次に、鳩を放つと、鳩は夕方ノアのもとへ帰ってきました。まだ地が乾いていなかったからです。9節の表現は帰ってきた鳩を迎えるノアの愛情あふれる姿を言い表しています。「ノアは手を差し伸べて鳩を捕え、箱舟の自分のもとに戻した」。ノアのもとへ戻って来なかったカラスとは違って、まだ地が完全に乾いていないことを知らせるために戻ってきた鳩を、ノアは優しく迎えています。それは、神が新たに与えてくださる乾いた地を待ち望むノアの信仰による待望をも暗示しているように思われます。七日待って再び放たれた鳩は、ノアの待望の時が満ちたことを知らせるために、オリーブの若葉を口にくわえて帰ってきました。ノアの待望の時はむなしく終わることはありませんでした。さらに七日後に、三度鳩を放ったところ、鳩は戻ってきませんでした。巣を作り、新しい生活を始める場所を見つけたからでしょう。

 このようにして、鳩は神の裁きによって滅ぼされるべきこの地に神が新たにお与えくださった命の誕生と、神と人間との和解を象徴する鳥となりました。また、オリーブは神の祝福、繁栄を象徴する木となりました。

 【13~19節】。ノアは箱舟の覆いを開けて、地が完全に乾いていることを自分の目で確認しました。でも、彼は自分の判断や意志で箱舟を出るのではありません。ここでも、6~9章の大洪水物語全体を貫いているノアの姿勢は維持されています。つまり、ノアは自分からは一言も語らず、自分の意志や計画によって行動することもなく、ただ主なる神だけが語り、ノアはそれに従順に聞き従うということです。16節で「あなたもあなたの妻も……皆一緒に箱舟を出なさい」、17節で「すべての動物たちを一緒に連れ出しなさい」と言われた神の命令に従って、ノアは行動します。神から与えられた新しい世界では、ノアが行動の主体となって生きるというのではなく、ノアが自分の判断や計画で新しい歩みを始めるというのではなく、まず神のみ言葉を聞き、神のみ心を尋ね求めつつ生きるべきであるということが、ここには示されています。神が大洪水のあとに新たに創造された地を人間と生き物たちに備えてくださったのです。そして、大洪水後に神から与えられた新しい地で生きる人間の第一歩は、神のみ言葉から始められるべきであるということを、わたしたちはここから知らされます。

 ノアは神の大いなる裁きの中で、沈黙しつつ、耐え忍んで、待ち続けました。神の裁きの時が終わり、新しい地へと出ていく時が来るのを、箱舟の中で待ち望みました。ノアの待望の時は決してむなしく終わることはありませんでした。今やノアは神の裁きの時が終わり、救いの時が来たことを知らされ、喜びつつ箱舟を出ました。

 【20~22節】。ノアの新しい地での新しい第一歩は、神礼拝から始まります。礼拝は救われた人の神への感謝と奉仕です。神から与えられた新しい地での感謝の生活の第一歩が礼拝です。ノア以前の人間もそうでしたが、ノア以後の人間はよりはっきりと、神礼拝こそが人間が生きる基本であるということが示されました。アダムからノアに至るまで、またノアから今日に至るまで、人間は神を礼拝して生きるべきものとして創造されているのです。そうである時に、人間は本当の意味で人間となるのです。

 「清い家畜と清い鳥」はのちの時代にレビ記11章や申命記14章で定められる規定がここでいわば先取りされています。清い、汚れている、はイスラエルの宗教的な規定であって、生き物自体の性質のことではありません。神はご自身にささげられるべき犠牲の生き物として清い生き物を定められました。それは、神が清い方であり、完全な方であることを示すために、イスラエルの民が神にささげるものも、日常で用いられるものとは違って、特別に聖別された清く完全なものでなければならないという信仰に基づいています。

 また、「焼き尽くす献げ物」とは「燔祭」とも言いますが、動物の血を抜き取った後の内臓をも含めたすべてを火で焼き尽くして、その香りと煙とを天の神にささげるという礼拝形式で、これは神への感謝と喜びと献身のすべてを神におささげして神を礼拝するということをあらわしています。天におられる神はその香ばしい香りをかいで、礼拝者の全き献身を喜び受け入れてくださいます。ノアのこの礼拝形式はのちのイスラエルン民に受け継がれていきました。

 21、22節の神のみ言葉には二つの意味が含まれています。一つは、神は二度と再びこの地を呪って、大洪水によってこの地を滅ぼすことはなさらないという神の強い決意、人間に対する固い約束です。地に四季がめぐり、雨季があり乾季があり、寒い季節があり暑い季節がある、それはこの地を顧みていてくださる神の大いなる恵みなのです。神は良い者にも悪い者にも同じように太陽を登らせてくださいます(マタイ福音書5章45節)。ノアの大洪水以後のわたしたちは、このような神の大きな恵みと慈しみ、神の憐れみと忍耐の中にあって生かされているのだということを知らされます。

 もう一つは、しかしこの地から人間の罪がぬぐい去られたのではないということ、人間は生まれながらにして罪びとであり、この地は人間たちの罪で満ちているということです。宗教改革者カルヴァンはこう言っています。「本当ならば、神は毎日大洪水を起こして人間を罰しなければならないだろう」と。しかし、神はそうなさらないと言われます。神の憐れみと忍耐は、主イエス・キリストの十字架の死と復活によって罪びとたちの救いが成就される時まで続けら、さらに主キリストの再臨の時、神の国が完成され、わたしたちの救いが完成される時にまで続けられるということを、わたしたちは新約聖書で知らされるのです。

(執り成しの祈り)

〇天の神よ、あなたの裁きの前では滅びにしか値しないわたしたちを、憐れみ、

なおも愛してくださり、み子による救いへとお招きくださったことを感謝いたします。どうか、わたしたちをあなたの恵みを感謝する真実の礼拝者としてください。

○神よ、どうぞこの世界を憐れんでください。あなたを離れて、滅びへと向かう

ことがありませんように。特に、あなたを信じる者たちがあなたのみ怒りと裁

きを恐れ、み前に謙遜な者とされ、あなたの憐れみとゆるしとを熱心に願い求

める者とされますように。

〇主よ、わたしたちを主キリストにあって平和を造り出す者としてください。

 主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

8月16日説教「主キリストにある平和-もはや戦うことを学ばない」

2020年8月16日(日) 秋田教会主日礼拝説教 「世界平和祈念礼拝」

聖 書:イザヤ書2章1~5節

    エフェソの信徒への手紙2章14~22節

説教題:「主キリストにある平和―もはや戦うことを学ばない―」

 日本の教会では、終戦記念日の8月15日前後の主の日を「平和を祈る日」とか「平和祈念礼拝」として、特別の礼拝をささげる伝統があります。日本は世界の中で唯一、しかも二度の被爆を体験した国として、戦争や核兵器の恐ろしさや悲惨さを全世界に向けて訴え、平和の尊さを語っていく使命が託されています。それとともに、アジアの諸国に多くの犠牲を強いたという戦争責任をも強く自覚しなければなりません。それだけでなく、特にわたしたちキリスト者は主イエス・キリストを全人類の救い主と信じる信仰によって、世界が主にあって和解し、一つの民とされ、真実の平和を追い求めていくために、平和の福音を語り伝えていくという務めを主から託されていることを知っています。今一つ、きょうの「世界平和祈念礼拝」でわたしたちが祈りをあつくするテーマは、今や世界至る地域へと拡大していった新型コロナウイルス感染症のことです。主なる神がこの深く病んでいる世界と一人一人とを憐れんでくださって、いやしを与えてくださるように、肉体の病だけでなく、心の病や社会全体の病をもいやし、この病に打ち勝つ希望と喜びとを与えてくださるように、切に祈ります。

 わたしたちは世界の平和のために、また感染症と戦うために、今何をなすべきでしょうか。国として、世界として、一人一人として、さまざまな課題がわたしたちの目の前に山積みされているように思われます。それを自覚しながら、しかしわたしたちは何よりもまず、神のみ心を尋ね求めるために、聖書に聞くことが最も重要であると考えます。主イエスが福音書の中で言われたように、神のみ心なしには空の鳥の一羽も地に落ちることはないし、髪の毛の一本一本もみな神に数えられているのですから(マタイ福音書10章29節以下参照)、わたしたちは主なる神のみ心を知り、主なる神のみ心を信じて祈る者となることこそが、今わたしがなすべき第一のことであると考えるからです。

 イザヤ書2章は紀元前8世紀後半にイスラエルで活動した預言者イザヤの預言ですが、この預言は彼の時代だけでなく、そののちのすべての時代にも語られている神のみ言葉として聞くべきです。2章2節の冒頭に、「終わりの日に」と書かれています。聖書で「終わりの日」とは、いわゆる終末の時のことで、神が終わりの日にはご自身のみ心を完全に成就してくださり、神の国を完成してくださる日のことであり、神の民にとっては救いが完成される日であり、すべての悪や人間の罪が取り除かれる日のことです。

 旧約聖書の民であるイスラエルはこの終末信仰を持っていました。イザヤ書の中にも終末信仰がたびたび描かれています。というよりは、イザヤ書全体が終末信仰に貫かれていると言った方がよいかもしれません。というのは、終末信仰とは、いつかやがてその終末の時が来るという信仰だけでなく、今この時も、すべての時が、その終末に向かって進んでいる。その終末と深いかかわりを持ちながらすべての時、すべての時代、そしてすべての出来事が終末の完成を目指して進行しているという信仰だからです。言い方を変えれば、預言者は終末から今を見ていると言えましょう。それが、信仰者の見方であり、とらえ方なのです。

 イザヤ書2章で預言者は終末の時にイスラエル南王国ユダとその首都エルサレムに起こるべき幻を語っています。それはまた、全世界、すべての民にも関連しています。1節には「ユダとエルサレムについて」とありますが、2節には「国々はこぞって大河のようにそこに向かい」とあり、3節では「多くの民」、4節では「主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる」、また「国は国に向かって剣を上げず」とあります。ここに描かれている終末の幻は、全世界のすべての国民と関係しているのです。旧約聖書の中でイスラエルの民が神に選ばれているのは、全世界のすべての民のいわば代表としての役割を与えられているのです。イスラエルの民は他の諸国に先立って神のみ言葉を聞き、終末の日に起こるべきことを知り、それに備えて日々を歩むべきことを学ぶのです。彼らは終末の日の証人とされているのです。これが、神に選ばれた信仰者の務めです。わたしたちはここで預言者イザヤが見た終末の幻を正しく理解し、信じ、そしてそれが終末に向かって急いでいる今のこの時代の中で何を意味するのかを、世界に向かって証しする務めへと召されているのです。

 預言者イザヤがここで見た終末の幻の中心は、全世界の民が一人の主なる神を礼拝するために神の家に集まってくるということです。【3節】。全世界の民が一人の主なる神を礼拝する時に、世界は一つの民となります。全世界のすべての人が神の道を歩み,神の教えに聞く時に、人々は一つの群れとなります。それによって、終わりの日の神の国が完成されます。

 イザヤの時代には、イスラエルの周辺ではアッシリアやエジプトなどの大国が覇権争いをし、戦争を繰り返していました。いつの時代にも、世界の諸国はその軍事的・経済的な力を誇示して、競い合い、争い合ってきました。そのようにして、世界は分断と分裂を繰り返してきました。聖書は、その根底には人間の罪があるとみています。神から離れ、神なしで、人間たちが自分の好みと欲望とに任せて、自分の道を進もうとし、自分の考えや計画を実現しようとすることから、争いと分断が生まれてくると聖書は言います。

 さらに4節にはこう続きます。【4節】。ここには、終末の時の完全で永遠の平和が預言されています。3節との関連で見ると、唯一の主なる神を全世界の国民が礼拝し、一つの民となる時に、真実で、永遠なる平和が実現するのだということです。古代の多くの国や都市がそうであったように、高く堅固な城壁をめぐらして敵の侵入を防ぐことによって平和が保たれるのではありません。今日でも、多くの国がそう考えているように、強力な武器を数多く所有し、高性能の爆撃機や軍艦を揃えることによってでもありません。そしてまた、核兵器によって武装し、相手国に恐怖を与えて攻撃を阻止することによってでもありません。何らかの思想統制やイデオロギーで国民を縛りつけることによってでもありません。そのようなことによって保たれる平和は、仮の平和であり、つかの間の平和であり、次の新しい戦いの準備でしかありません。聖書が教える平和、神から与えられる平和は、神礼拝による平和です。すべての国民が、主なる神を恐れ、主なる神のみ前にひれ伏し、一つの群れとなって、主なる神だけを唯一の主として礼拝する時に与えられる平和です。

 その平和について4節の冒頭では、主なる神が唯一の裁き主になることによって生み出される平和であると言います。主なる神が唯一の裁き主になる時に、だれもだれかを裁く必要ななくなり、国々は互いに競い合う必要がなくなり、どれが正義であるかを判定する必要もなくなり、もはやだれも戦うことを学ぶ必要はなくなり、どうしたら相手に勝利することができるかに頭を悩ます必要もなくなります。

 そのようにして、主なる神から真の平和を学び、真の平和に生きることをゆるされた人たちは、もはや戦いのための武器を持つ必要がなくなります。彼らは武器を放棄するだけでなく、武器を造っていた材料を解体し、それらで新しい農具を造るようになると語られています。人の命や神によって創造された世界と自然を破壊するための道具であった武器を持つ手から、神によって祝福された大地を耕し、貧しい人々を養うための豊かな実りを収穫し、共に神に祝福された命にあずかるための農具を持つ手へと変えられていくのです。

 これは一つの比喩と理解できます。剣や槍は、わたしが自分を守るための何かであり、相手を攻撃するための何かであると理解できます。たとえば、それが言葉であったり、行動であったり、知識であったり、力や権威であったり、わたしたちは自分を守るための、あるいは時にはだれかを攻撃するための、たくさんの武器を持っています。しかし今、神からの真の平和を与えられているからには、それをすべて投げ捨て、それに代わって、相手の心を豊かに耕して神の祝福に満たすために、相手の徳を高め、神の愛で満たすために、そして重荷を負う隣人の荷を共に担うために、わたしが神の平和の証し人となるように招かれているのだということを知らされます。

 しかしまた、これは比喩であるだけではありません。神からの真の平和を与えられている人間たちと世界の国々は、人と自然を破壊する道具である武器を、大地を耕すための道具である農具に造り変えることを命じられているのです。これは非常に現実的な課題であるように思われます。どうか、考えてみてください。一機の戦闘機によって、食糧難に苦しむ人々、子どもたち何人を救うことができるでしょうか。一隻の軍艦によって、感染症を治療するための病室をいくつ増やせるでしょうか。一個の核兵器やミサイル開発に要する知識や費用を、世界の平和を造り出し、世界が共存するために用いるとしたら、どうでしょうか。全世界のすべての武器を平和共存のための道具に造り変えたら、世界はどのように変わっていくでしょうか。これは、比喩ではありません。非常に現実的で、そして緊急で、また重たい課題です。でも、それは確かに、神からの真の平和を与えられていることを知っているわたしたち、小さな、力のないわたしに託されている大きな課題なのです。

 では最後に、平和の証人としてのわたしたちの課題を果たしていくために、わたしたちにできることは何でしょうか。わたしたちの多くは社会的・政治的な力を持っていません。世界に影響力を発揮するような発信力もありません。けれども、この世界に真の平和をもたらすのは、わたしではありません。主なる神です。そして、わたしたちはこの主なる神のみ心と全能のみ力とを信じて、神に祈ることがゆるされているのです。神はわたしたちの祈りに耳を傾けてくださり、終わりの完成の時に向けてすべてを導いておられます。祈りは困難な現実、不可能と思われる現実を貫き、それを超えて、わたしたちに希望を与えます。教会の民、信仰者は祈りによって、この希望に生きる者とされているのです。

 それでは、ここでみなさんで世界の平和を願う祈りをささげましょう。お立ちいただける方はお立ちください。クリーム色のプリントをご一緒に読んで祈りをささげます。

「世界の平和を願う祈り」を祈りましょう。

天におられる父なる神よ、

あなたは地に住むすべてのものたちの命の主であり、

地に起こるすべての出来事の導き手であられることを信じます。

どうぞこの世界をあなたの愛と真理で満たしてください。

わたしたちを主キリストにあって平和を造り出す人としてください。

神よ、

わたしをあなたの平和の道具としてお用いください。

憎しみのあるところに愛を、争いのあるところにゆるしを、

分裂のあるところに一致を、疑いのあるところに信仰を、

絶望のあるところに希望を、闇があるところにあなたの光を、

悲しみのあるところに喜びをもたらすものとしてください。

主よ、

慰められるよりは慰めることを、

理解されるよりは理解することを、

愛されるよりは愛することを求めさせてください。

なぜならば、わたしたちは与えることによって受け取り、

ゆるすことによってゆるされ、

自分を捨てて死ぬことによって永遠の命をいただくからです。

主なる神よ、

わたしたちは今切にあなたに祈り求めます。

深く病み、傷ついているこの世界の人々を憐れんでください。

あなたのみ心によっていやしてください。

わたしたちに勇気と希望と支え合いの心をお与えください。

主イエス・キリストのみ名によってお祈りいたします。アーメン。

「聖フランシスコの平和の祈り」から

2020年8月16日

日本キリスト教会秋田教会「世界の平和を祈念する礼拝」

8月9日説教「祈りつつ、待ちつつ」

2020年8月9日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:ハバクク書2章1~4節

    使徒言行録1章12~14節

説教題:「祈りつつ、待ちつつ」

 使徒言行録はルカ福音書の続編として、同じ著者ルカによって書かれました。主イエス・キリストの福音とその救いのみわざは、主イエスの十字架の死と復活、そして昇天の後に、主イエスを信じる弟子たちによってさらに継続され、全世界へと広げられていきました。主イエスの救いのみわざは主イエスの死によって終わったのではなく、むしろ完成され、拡大されていくのです。

 主イエスが天に昇られ、父なる神のもとへとお帰りになる直前に、弟子たちは二つの命令と約束を主イエスから受け取りました。一つは、使徒言行録1章4~5節です。【4~5節】。もう一つは、【8節】。これは、主イエスの命令であり、また約束です。それはまた、主イエスから弟子たちに与えられた恵みでもあり、また課題でもあります。

 「エルサレムを離れるな。父の約束を待て」、これは命令です。「あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられる」、これは約束です。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける」、これは恵みです。「あなたがたは地の果てに至るまで、わたしの証人となる」、これは課題です。主イエスの命令、約束、恵み、そして課題はいつの場合でも固く結びついています。

弟子たちの場合にそうであったように、わたしたち信仰者の信仰生活にあっても、主イエスから与えられた命令と約束、また主イエスから与えられた恵みと課題は常に固く結びついています。主イエスがわたしたちに何かをお命じになる時、そこには豊かな実りの約束を伴っています。わたしたちが主イエスから与えられた大きな救いの恵みを受け取る時、その恵みはわたしたちを新しい課題と使命に生きる者とします。使徒言行録は弟子たちがどのようにして主イエスから与えられた命令と約束、恵みと課題に生きたのかを、これから描いていきます。

 【12節】。「オリーブ畑」と呼ばれる山から戻って来たと書かれています。ここから、前の場面で、主イエスが天に昇られた場所がオリーブの山であったことが分かります。オリーブ山はエルサレムの郊外の東側に広がる丘陵地帯であり、「安息日にも歩くことが許される距離」、すなわち2千キュビト、およそ800メートル余り離れていると説明されています。聖書ではこのオリーブ山は特別な意味を持っています。主イエスが汗を血のように滴らせながら徹夜の祈りをされたのはオリーブ山の一角、ゲツセマネ、すなわち油絞りの園でした。そこで、主イエスはユダヤ人指導者たちによって逮捕されました。主イエスが天に昇られた場所もそこであり、弟子たちが主イエスの命令と約束を聞いたのもオリーブ山でした。

 実は、オリーブ山は旧約聖書でメシア・救い主が現れる場所であると預言されていました。【マラキ書14章1~2節a、4節、8~9節】(1493ページ)。のちの教会は、このマラキ書のみ言葉は終末の時に主イエスが再臨される預言と理解されました。オリーブ山は主イエスの苦しみの祈りの場所であり、主イエスが罪と死に勝利されて天の父なる神のみもとへと凱旋帰国された場所であり、そして、使徒言行録1章11節に預言されているように、主イエスの救いの完成である再臨が起こる場所なのです。神はそのようにして、旧約聖書に預言されているすべての救いのみわざを主イエスによって成し遂げてくださいます。オリーブ山で起こった二つのこと、すなわち主イエスの苦しみの祈りと昇天は、すでに実現しました。三つ目のこと、すなわち主イエスの再臨も確かにそれに続きます。教会の民はそのことを信じて、主イエス・キリストの再臨の時を、神の国の完成の時を待ち望むのです。

 次に【13節】。エルサレムで弟子たちが泊まっていた家がだれの家であるのかは書かれていません。一般に二階座敷と言われるこの部屋は、多くの研究家が推測するように、主イエスと弟子たちの最後の晩餐の部屋であったと思われます。また、2章1節以下に書かれている、ペンテコステの日に聖霊が満ちた家もここであったと考えられます。おそらく、エルサレムに誕生した最初の教会はこの二階座敷で礼拝していたと推測する人もいます。この家に集まった弟子たちや主イエスを慕う人たちは、一つの固い交わりで結ばれていたことが何度も強調されています。14節では「心を合わせて」、15節でも「一つになって」、2章1節では「一同が一つになって集まっていると」と書かれています。彼等を一つに固く結びつけているものは何でしょうか。今はまだそのことは明らかになってはいませんが、聖霊です。聖霊なる神が、主イエスの十字架の死後に散らされていた弟子たちや信仰者たちを再び集め、信仰者の群れとし、一つの教会の民とするのです。2章に入ってから、そのことが明らかにされます。

 ここに、11人の弟子たちの名前が挙げられています。もちろん、ここには主イエスを裏切り自ら命を絶ったイスカリオテのユダの名はありませんが、ここに改めて11人の名が挙げられていることには意図があるように思われます。ここから、新たな弟子たちの歩み、働きが始まるからです。彼等は主イエスの地上の歩みに伴って、神の国の福音宣教に主イエスと共にお仕えしましたが、今や彼らは天におられる主イエスから派遣されて、聖霊のみ力に励まされ、主イエスの十字架の福音を全世界へと宣べ伝えるという、新しい使命に生きる者とされるのです。

 ここに書かれている弟子の名前は、ルカ福音書6章14節以下と同じですが、順序が少し違っています。その理由は、初代教会で指導的な働きをし、重んじられていたその度合いに応じて順序が変わったのであろうと推測されています。たとえば、ペトロに続いてヨハネの名が挙げられていますが、3章1節でヨハネがペトロと一緒に行動し、宣教活動をしていたことと関係していると思われます。

 いずれにしても、彼等はやがて誕生するエルサレムの初代教会を代表する働き人たち、宣教者たちとして仕えました。特に、ペトロは主イエスと共にいた時にも12弟子のリーダー的存在でしたが、初代教会においてもその指導者となりました。主イエスの十字架の時に、3度も「わたしはイエスを知らない」と言って十字架につけられる主イエスを見捨てて逃げ去ったペトロではありましたが、その失敗とつまずきにもかかわらず、主イエスによってゆるされ、再び立ち上がり、主イエスを最も愛する弟子として、主イエスのために自らの持てるすべてをささげてお仕えする僕(しもべ)へと変えられたのです。

 【14節】。ここでは婦人たちに言及されています。使徒言行録と同じ著者になるルカ福音書で指摘しましたように、ルカ福音書は「女性の書」と言われたりするほど、婦人の活動が他の福音書よりも多く描かれており、使徒言行録でも婦人たちの働きが重んじられています。ここでは主イエスの母マリア以外の名前は書かれていませんが、ルカ福音書24章10節にその幾人かの名前が挙げられています。【24章10節】(160ページ)。この婦人たちは主イエスがガリラヤ地方で福音宣教を始められた時から主イエスと一緒に行動してきた人たちでした。彼女たちは23章49節では主イエスの十字架の証人となりました。【23章49節】(159ページ)。彼女たちはまた23章55節では主イエスの葬りの証人となりました。【23章55~56節】。さらには、先ほど読んだ24章10節では主イエスの復活の証人となりました。そして、使徒言行録1章14節では、弟子たちと共に祈りつつ、神の約束と主イエスの命令を聞きつつ、聖霊の降臨を待ち望む人たちとなっており、やがて彼女たちは初代教会・エルサレム教会の重要な働き人となっていくのです。女性の社会的な地位が余り認められていなかったこの時代にあって、聖書の婦人たちは主イエスのご生涯の重要な場面で、主イエスの証人とされているのです。彼女たちは主イエスの福音に生かされ、また主イエスの福音のために生きる人たちとされているのです。。

 ここには特に、主イエスの母マリアとイエスの兄弟たちも一緒であったと書かれています。父ヨセフはここでは言及されていませんから、おそらくすでに亡くなっていたと推測されます。主イエスには何人かの男兄弟と女兄弟がいたとマタイ福音書13章56、57節に書かれています。母マリアを始め、主イエスの兄弟たちは、主イエスの十字架の前までは主イエスがメシア・キリストであると信じませんでしたが、十字架の死と復活のあとで、彼等が肉にある関係から解放された時、はじめて主イエスを救い主と信じる群に加わることができました。主イエスの十字架の死は彼ら家族にとってはどれほどか衝撃的であったことでしょう。母にとっては長男であり兄弟にとっては兄である主イエスの死に直面した彼らは、しかし、その屈辱的で痛ましい家族の死という事実を超えて、主イエスの死はまさに彼ら一人一人の救いのための死であったことを、新しい神の家族とされているということを、彼等は知らされ、信じたのです。

 11人の弟子たち、婦人たち、主イエスの家族たち、彼等は共に集まり、心を合わせ、ひたすら祈りをしていました。祈りつつ、神の約束の成就の時、主イエスのから与えられる恵みを受け取る時、聖霊が注がれる時を待っていました。ルカ福音書はまた「祈りの書」とも言われるほどに、主イエスの祈りのお姿を何度も描いています。使徒言行録では弟子たちと教会の祈りが強調されています。エルサレムに誕生した初代教会もまた祈る群れとして出発しました。

 1872年(明治5年)3月に、日本最初のプロテスタント教会として誕生したわたしたちの教会、横浜公会・日本キリスト教会(現在の横浜海岸教会ですが)も外国人宣教師たちが主催した新年の初週祈祷会から始まったということを、わたしたちは知っています。

 祈りは、神の約束のみ言葉を忍耐強く、またねばり強く待ち望む力を信仰者に与えます。祈りは、主イエスの命令に従順に聞き従い、主イエスから差し出されている救いの恵みと豊かな実りを受け取る希望と喜びを信仰者に与えます。祈りはまた、熱心に主イエスと教会とに仕え、主の福音を宣べ伝えるわたしたちの務めと決意とをより固くします。祈りは、そのようにして、あらゆる苦難や試練の中にあっても希望を失わず前進していく道をわたしたちの前に開きます。祈りは、困難な現実を打ち破り、現実を超えた希望ある未来へとわたしたちを導きます。祈りは、終わりの日のみ国の完成と主イエス・キリストの再臨の時へとわたしたちを導きます。それゆえに、わたしたちは祈りつつ、待ちつつ、そして急ぎつつ、主イエスの再臨の時まで、信仰の馳せ場を走り続けることができるのです。

(執り成しの祈り)

〇天の神よ、わたしたちの祈りを強めてください。わたしたちの祈りを弱める困

難な現実が目の前に迫っています。けれども、わたしたちのすべての祈りをお

聞きあげくださる全能の父なるあなたを信じて、祈り続ける者としてくださ

い。

○神よ、どうぞこの世界を憐れんでください。あなたを離れて、滅びへと向かう

ことがありませんように。特に、あなたを信じる者たちがあなたのみ怒りと裁

きを恐れ、み前に謙遜な者とされ、あなたの憐れみとゆるしとを熱心に願い求

める者とされますように。

〇主よ、わたしたちを主キリストにあって平和を造り出す者としてください。

 主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

8月2日説教「故郷では尊敬されなかった主イエス」

2020年8月2日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:列王記上17章8~16節

    ルカによる福音書4章16~30節

説教題:「故郷では尊敬されなかった主イエス」

 主イエスは故郷ガリラヤ地方のナザレの会堂で安息日の礼拝に出席されました。聖書朗読の役を指名された主イエスは、イザヤ書61章のみ言葉を朗読された後、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」(21節)と説教されました。主イエスは一人の礼拝者として会堂に来られたのではありませんでした。旧約聖書のみ言葉を成就するためにナザレの会堂に立っておられるのです。

22節に「皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いた」とありますが、ナザレの人たちだけでなく、すべてのイスラエルの人々にとって、主イエスのこの説教は大きな驚きでした。いまだかつて、だれもこのように説教した人はいませんでした。たとえば、旧約聖書時代の預言者たちは、まだ見ぬ未来の出来事を、だれにも知られない神の永遠のご計画を、あらかじめ神から示され、「このように語れ」と命じられて、やがて起こるべき神の救いの出来事について預言しました。そして、そののちのすべてのイスラエルの説教家たちは、「かつて預言者たちはこう語った。やがてその預言の成就の時が来るであろう。それを信じて待ちなさい」と語りました。彼らすべては約束の時、待望の時に生きていたからです。

 けれども、主イエスの説教はそれらの預言者たちや説教家たちとは根本的に違っていました。主イエスは「この預言のみ言葉は、きょうこの時、あなたがたがわたしの口からきいたこの時に、成就した。すなわち、わたしが父なる神のみ言葉を実現するメシア・キリストとしてあなたがたの前に立ち、罪のゆるしと罪の奴隷からの解放の福音を語る時、そしてあなたがたがその福音を聞き、信じる時、神の恵みがすべてを支配する新しい年、新しい国、神の国が今この時に到来したのだと主イエスは説教されたのです。主イエスは預言の成就の時の初めに立っておられます。というよりも、主イエスが預言を成就されるメシアであり、主イエスご自身が預言の成就そのものであられます。主イエスはすべてのイスラエルの民に、それのみならず全人類に、罪からの解放と、救いの恵みを与え、すべての人を永遠の命に生かすメシア・キリスト・救い主として、この時ナザレの会堂に立っておられ、今わたしたちの会堂に立っておられるのです。

 マタイ福音書とマルコ福音書は主イエスが宣教された福音を「神の国の福音」と表現しています。それに対して、ルカ福音書はイザヤ書61章の預言の成就として、貧しいに人たちや捕らわれている人たちへの解放の福音として、主の恵みの年の告知と表現しています。ルカ福音書の特徴の一つがここにあります。

 もう一つ、ここからわたしたちが学ぶべき重要なことは、礼拝における主イエスのご臨在のリアリティというとです。かつて、ナザレの会堂で主イエスが聖書を朗読された時、その時そこで旧約聖書の預言が成就したと同様に、今日、わたしたちの教会の礼拝で、主イエスの福音が語られ、聞かれた時、今この時に、ここに十字架につけられた主イエスがご臨在しておられ、主イエスの救いの出来事が今この時に、わたしたしたち一人一人に、このわたしに、現実的なリアリティをもって迫ってくる、わたしの出来事となって、わたしの救いの確かさとなり、わたしの新しい力と命となる、そのような主イエスの現臨と救いのリアリティがわたしたちの礼拝にも与えられるようにと切に願います。

 22節に書かれているナザレの人たちの反応は、彼等の信仰と不信仰との両方を語っているように思われます。一方では、主イエスの恵み深い言葉に驚いていながら、他方では主イエスにつまずいています。彼等は確かにイザヤの預言を信じていました。そして、その預言が今成就した、新しいメシアの時代が来たと感じました。その信仰は全く正しいと言えます。

 けれども、彼等はその新しいメシアの時代を来たらせる救い主が自分たちと同じ故郷に住む同じ人間であるということにつまずきました。彼等はもっと偉大な指導者を期待していたのかもしれません。もっと力と威厳に満ちた英雄を期待していたのかもしれません。彼等は、主イエスの低さ、貧しさにつまずきました。それは結局は、神が人となられたことのつまずきであり、神がご自身をいやしくされ、人のお姿でこの世においでくださったことのつまずきであり、神のみ子がヨセフとマリアの子としてお生まれになられたことのつまずきであったと言うべきでしょう。そして、それは結局は、神のみ子の十字架の死のつまずきなのです。それゆえに、彼等は主イエスから差し出された救いの恵みを受け取ることができませんでした。

 主イエスは彼等の不信仰をすぐに見抜かれ、23、24節でこのように言われました。【23~24節】。ナザレの人たちは自分たちが子どものころからよく知っている主イエスが本当にメシア・救い主として神の恵みのみ言葉を語る資格があるのならば、そのしるしとなるものを見せてほしいと願いました。しかし、しるしを見て信じる信仰は本当の信仰ではありません。主イエスはすでに荒れ野での誘惑で、「あなたが神の子ならば、そのしるしを見せてほしい」と求めた悪魔の要求を退けられました(4章3節以下参照)。また、主イエスは十字架上で、「お前が神からのメシアならば、自分を救ってみろ。そしたら信じよう」という人々の要求を退けられました。しるしを求めることは人間の不信仰であり、主イエスの福音を否定することです。ヨハネ福音書20章29節で、主イエスは疑う弟子のトマスに言われました。「わたしを見たから信じたのか。見ないで信じる人は、幸いである」と。わたしたちは見ないで信じる幸いへと導かれているのです。

 主イエスはご自身が神のみ子であることを証しされるために奇跡やしるしを一切用いませんでした。むしろ、主イエスは神のみ子としての権威も栄光も、すべてをお捨てになり、貧しい僕(しもべ)のお姿でこの世においでになられ、人々のあざけりと侮辱の中を、ご受難と十字架の死へと進まれました。主イエスは旧約聖書の預言者たちが多くそうであったように、故郷のナザレの人々からは、あるいはまた同民族のユダヤ人からは歓迎されず、むしろ迫害を受けられました。

 そこで、主イエスは25節から古い時代の預言者エリヤとエリシャの実例を挙げ、ナザレの人々の不信仰を明らかにするとともに、神のみ心が何であるのかを語っておられます。二つのポイントがあります。一つは、しるしを求めるのではなく、見ないで信じる信仰についての実例。二つには、預言者は故郷では歓迎されないということわざの本来の意味について。この二つのポイントを考えながらみていきましょう。

 エリヤはイスラエル初期の預言者で、紀元前9世紀の中頃に活動しました。エリヤとサレプタのやもめのことは列王記上17章に書かれています。イスラエル北王国の王アハブは偶像の神バアルの祭壇を造ったために、神は預言者エリヤの口を通してイスラエルに裁きを語られました。神は3年6カ月にわたって天を閉じ、雨を降らせず、地に干ばつと飢饉を起こすと言われました。その飢饉の中で、エリヤは地中海の北にあるイスラエルの隣国フェニキアの町シドンのサレプタに住む一人のやもめの所に遣わされました。エリヤは彼女に「わたしのためにパンを焼いて持ってきてくれ」と頼みます。彼女は答えました。「これがわたしと一人息子の最後の食べ物です。もしこれを食べてしまえば、わたしたちは死を待つだけです」。しかし、エリヤは答えます。「イスラエルの神、主はこう言われる。主が地に雨を降らせるまで、壷の粉は尽きることなく、瓶の油はなくならない」。彼女はその言葉を信じて、最後のパンをエリヤのために焼いたが、その後も彼女の家では幾日も食べ物に事欠かなかったという出来事です。この物語はユダヤ人であればだれもがよく知る有名な話であったので、主イエスはここでは詳しくは語る必要がなかったと思われます。

 もう一つのナアマンの物語もよく知られた話でした。これは列王記下5章に書かれている紀元前9世紀後半の出来事です。アラムの国の軍司令官ナアマンは重い皮膚病で苦しんでいる時、かつてイスラエルの捕虜として連れ帰った一人の少女から「イスラエルの預言者の所へ行けば、重い皮膚病をいやしてもらえるでしょう」と聞き、彼はその言葉を信じてイスラエルまで旅をし、預言者エリシャと出会います。エリシャはナアマンに「ヨルダン川の水で七たび身を洗いなさい」と命じます。ナアマンはその言葉を信じてヨルダン川に入ると、彼の体が清められたという出来事です。

 旧約聖書に書かれているこの二つの出来事は、信仰とは何か、また神のみ心はどこにあるのかを語る非常に重要なメッセージをわたしたちに告げています。すでに指摘したように、一つは、見ないで信じる信仰です。サレプタのやもめは、イスラエルから見れば異邦人ですが、彼女は自分と一人息子の命をつなぐ最後のパンを、預言者エリヤの言葉を信じ、イスラエルの主なる神を信じて、エリヤに提供しました。ナアマンも異邦人の軍人ですが、妻の召使であったイスラエルの少女の小さな提案を聞き、それを信じて、敵国であるイスラエルを訪ねました。彼はまた預言者エリシャの言葉を信じて、ヨルダン川に入りました。共に異邦人であり、イスラエルの信仰からは遠いと考えられていたサレプタのやもめとアラムのナアマンが、預言者の前で謙遜になり、預言者が語る神のみ言葉に従順に聞き従い、それによって神からの救いの恵みを受け取ることがゆるされたのです。そのことは、ナザレの人々の不信仰とかたくなで不従順な姿をより浮かび上がらせます。

 もう一つのこと、預言者は故郷では尊敬されないということわざについては、主イエスは別の視点から見ておられるように思われます。神はあらかじめそのことをよくご存じであられるので、預言者エリヤもエリシャも、最初からイスラエルの民のもとにではなく、異邦人のもとへと遣わされたのだということを旧約聖書は語っているということです。イスラエル全土に大飢饉が起こった時、神は預言者エリヤをイスラエルの家にではなく異邦人であるサレプタのやもめの所に遣わし、そこでご自身が恵み深い神であることを、貧しいやもめを養われる神であることをあらわされました。また、神はイスラエルの国の中で重い皮膚病で苦しむ多くの人の所に預言者エリシャを派遣したのではなく、異邦人の軍人ナアマンのもとへと遣わし、彼に対してご自身の偉大なみ力と恵みとをお示しになりました。神の救いの恵みは不信仰なイスラエルを通り抜けて、異邦人にまで及びました。

 主イエスの救いの恵みもそのようにして異邦人と全世界へと広げられていきました。神に選ばれた民であるイスラエルの不信仰とつまずきが、多くの民の救いとなったのです。神はそのようにして人間たちの不信仰をもお用いになって、救いのご計画を進めてくださいます。わたしたちもまたそのことを信じるようにと招かれています。

 (執り成しの祈り)

○主なる神よ、わたしたちの不信仰とかたくなな心とを、あなたの大きな恵みに

よって打ち砕き、わたしたちをみ前にあって従順な者としてください。

○神よ、どうぞこの世界を憐れんでください。あなたを離れて、滅びへと向かう

ことがありませんように。特に、あなたを信じる者たちがあなたのみ怒りと裁

きを恐れ、み前に謙遜な者とされ、あなたの憐れみとゆるしとを熱心に願い求

める者とされますように。

〇主よ、わたしたちを主キリストにあって平和を造り出す者としてください。

 主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。