6月25日説教「放蕩息子のたとえ」

2023年6月25日(日) 秋田教会主日礼拝説教(小泉典彦長老)

聖 書:詩編136編12節

    ルカによる福音書15章11~32節

説教題:「放蕩息子のたとえ」

 本日は、先ほど読んでいただいた、ルカによる福音書15章からご一緒に聖書の御言葉を聞きたいと思います。この聖書の箇所は、冒頭の見出しにもありますように、「放蕩息子」のたとえ として、聖書の中でも最も知られている箇所のひとつです。日曜学校の子どもたちの礼拝でもよく取り上げられる、イエスさまが話してくださったたとえ話です。今日の説教題も「放蕩息子のたとえ」としました。しかしこの箇所の主人公は、ゆるされた息子ではなく、深い慈愛で迎えてくれた父親です。

ルカによる福音書15章は、4~7節では「見失った羊」のたとえ・8~10節では「無くした銀貨」のたとえ・そして今日の箇所11~32節の「放蕩息子」のたとえの三つのたとえ話で構成されています。「見失った羊」・「無くした銀貨」・

「放蕩息子」に対する神さまの「失われたものへの配慮」が示されています。そしてそれら三つのたとえ話の共通点は、~友達や近所の人々を呼び集めて喜ぶ。今日のたとえでは祝宴を開いて喜ぶのです。~すなわち、失われたものを回復した時の大きな喜びであります。一人の罪人の悔い改めに対する神様の喜びであります。

さてそれでは、イエスさまがこの三つのたとえを話された時の状況をみてみましょう。15章1節以下、「徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。【2節】すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。【3節】そこで、イエスは次のたとえを話された。

◎放蕩息子のたとえ話

 イエスさまは多くのたとえ話をなさいましたが、中でもこの「放蕩息子」のたとえ話は、最も有名であると言ってよいでしょう。このたとえ話はたいへんわかりやすいものです。読んでいるだけで情景が目に浮かぶかのようです。まさに、どうしようもない放蕩息子の姿が見えてきます。さっそくお話を振り返ってみましょう。

 まず15章11節、「ある人に息子が二人いた」という言葉から始まっています。この「ある人」というのは、神さまのことをたとえていると言えるでしょう。そしてその息子のうち、弟のほうが父親に「お父さん、私がいただくことになっている財産の分け前をください」と要求します。「私がいただくことになっている財産」と言っていますが、財産はふつうは死んでから相続のために分けるのが普通です。しかしそれを今くれ、と言うわけですから、ずいぶん厚かましいお願いです。

 ところがこの父親は、腹を立てて拒否するかと思いきや、二人の息子に分けてやります。そうすると、弟息子はその財産を売り払ってお金に換え、遠い国に行ってしまいます。そしてそこで放蕩の限りを尽くして、財産をすべて使い果たしてしまいます。今でもときどき、会社のお金や役所の積立金を横領してギャンブルに使い、捕まるというニュースがあったりしますが、人間一度は思う存分お金を使ってみたいと思うのかもしれません。しかし遊ぶ金というものは、あっと言う間に無くなるもののようです。

 その地方にひどい飢饉が起こったとあります。飢饉が起きると、弱い人から死んでいく時代ですから、それこそ死に直面することとなります。もうなりふり構っていられません。ある人の所に身を寄せたところ、豚の世話をさせられたとあります。豚は、旧約聖書の律法では穢れた動物であり、ユダヤ人は飼いません。だからこれは、外国の異邦人の所であることが分かります。しかし豚のエサである「いなご豆」さえももらえなかったというのです。「いなご豆」とは、イスラエルでは、木に生えており。空豆のようなさやに入っているそうです。昔から家畜のエサとして、今ではヘルシーな健康食品の食材としても使われます。

 【17節】「そこで彼は我に返って言った」とあります。我に返るということはどういうことでしょうか。原語では「自分自身に帰る」という意味になっています。すなわち、本来の自分自身に帰った、ということでしょう。本当の自分自身を取り戻したということです。では、本当の自分自身とは何か?‥‥それがまさにここのポイントです。

 「自分捜し」という言葉が流行ったことがありました。自分が何をして良いか、どう生きたらよいか分からない。それで本来の自分の姿はなんだろうと、試行錯誤を続けることです。イエスさまがおっしゃる本来の自分とは何か、自分を取り戻すとはどういうことなのか?‥‥それがこのあとの放蕩息子の行動が示しています。それは、父親のもとに帰ることでした。父のもとには、有り余るほどのパンがあった。しかし今さらどの面下げて帰れるというのか。そこで帰った時に父にいう言葉を考えます。【18節】「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」。【20節】「そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。」彼は父親のもとに帰っていきます。お腹がすいて、トボトボと歩いて帰っていったことでしょう。しかも裸足で。

 さらに20節を見ると、「まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した」と書かれています。なぜまだ遠くにいたのに、父親は息子を見つけることができたのでしょうか?‥‥それは、この父親が地平線の彼方を見ていたからに他ならないと思います。そうでなければ、遠くから歩いてくる人影を発見することはできません。おそらく、この父親は、毎日毎日、今日帰ってくるか、今日帰ってくるか、と地平線の彼方をながめていたに違いありません。待っていたんです。帰ってくるのを

 そして父親のほうから駆けよって、首を抱いて接吻しました。息子が、戻ってくる前に父親に言うために考えていた言葉を言いかけます。ところが父親は、それを最後まで聞く前に、召使いたちに指示を下します。まるで、息子の言葉なんかどうでもよいという勢いです。もう、とにかくこのろくでもない息子が帰ってきたことが、うれしくて、うれしくてしかたがない‥‥という思いが伝わってきます。息子の謝罪の言葉よりも、父親の愛が前面に出ています。

 一番良い服、そして指輪、履物を。さらに肥えた子牛を屠ってごちそうを出しなさい、と。肥えた子牛というのは、たいへんなごちそうです。イスラエルでは、特別な賓客にしか出さないものだったようです。例えば創世記で、アブラハムが御使いたちをもてなした時に、肥えた子牛を屠っています。それぐらいの尋常ではない父親の歓迎ぶり、喜びようが表されています。

 なぜそこまでして、このろくでもない自分勝手だった息子を許し、喜びにあふれたのか。【24節】「死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ」という、ただそれだけの理由です。「死んでいた」というのは、父親のもとを離れていた状態を表しています。生き返った、見つかったというのは、父親のもとに帰ってきたことを指しています。すなわち、「我に返る」「立ち帰る」「本来の自分に戻る」ということは、父親のもとに戻ってくることを指しているのです。言い換えれば、神のもとに戻ってくること、信じることを指しています。
 さて、そうして弟息子を交えての宴会が始まりました。そこに一日の仕事を終えた兄が戻ってきます。そして宴会の事情を知って腹を立てます。怒りのあまり、家に入ろうとしません。つまり、弟が生きて帰ってきたことが喜びではない。父の態度に、不公平なものを感じて腹を立てたのです。そして出てきてなだめる父に向かって、不平をぶちまけます。この兄の言葉は、もっともです。たしかにその通りです。多くの人がその通りだと思わないでしょうか。しかしだからこそ、逆に、この父親の非常識さが際立ってきます。

◎分かれる感想

 今日の説教を準備するにあたり、あるミッションスクールの高校の授業で、生徒たちにこの個所を読ませ、感想を書いてもらったというエピソードを目にしました。そこでは、生徒から実にいろいろな感想が出てきたそうです。

生徒たちからは、「兄の言うことはもっともだ」と兄の肩を持つ人が多かったそうです。また、父親に対する意見も分かれました。放蕩息子をこのようにして受け入れる父親にはとても理解できない、という意見が多くありました。逆に、理解できるという意見もありました。どんな馬鹿息子でも、生きて帰ってきたらやはりうれしいのでは、という意見もあったそうです。実に様々な感想がありました。そのように多くの感想に分かれるのは、やはりこのたとえ話の中の登場人物に、自分を重ね合わせて見るからだろうと、その授業をすすめた教師は感じたそうです。

まとめ①「焦点は」

 このたとえ話の焦点はどこにあるのでしょうか。それは、このたとえ話のおかしな所にあります。するとやはりそれは、この放蕩息子を受け入れる父親の、非常識なまでの愛にあると言えます。いくら何でも人が良すぎると思われます。いくら生きて帰ってきたと言っても、全部放蕩息子が悪いのですから、ここまで喜ぶとなると、いくら何でも行きすぎだと思われます。兄の言うほうが当たり前です。

 しかしイエスさまによれば、私たちの神さまは、この父親のようであるということです。「死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかった」と言って、これほどまでに喜んでくださる。すなわち、悔い改めて、神のもとに立ち帰ることが本来の人間の在り方であり、それを神さまが手放しで喜んでくださるということです。

まとめ②「私たちは誰?」

 私たち自身は、この登場人物の中の誰でしょうか。自分を兄に置き換えて考える方も多いことでしょう。「こんなにまじめに生きているのに、なんだ神さまは」というようにです。その時には喜びがありません。しかし、自分もまたこの弟のほう、つまり放蕩息子であることに気がついた時、はじめて感謝と喜びが生まれます。

 自分もまた、救われる資格のない者であった。このことに気がついた時、多くの人が、「私も放蕩息子でした」と告白します。すると大いなる喜びが生まれてきます。神さまが、ここまで喜んでくださるのですから。聖書には、神様の愛についてイエスさまが語っておられる箇所が沢山あります。今月・6月の礼拝において、すなわち今日の礼拝においても、神さまの愛についてイエスさまが語っておられます。「恵の言葉」です。ヨハネによる福音書3章16~17節(新約167)。

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。

独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。 神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」(2回繰り返し読む)この箇所を更にわかりやすく表している讃美歌があります。194番「神さまは そのひとり子を」です。これは、日曜学校で歌われる「こども讃美歌」にもあるよく知られている讃美歌の一つです。「①神さまは そのひとり子を 世のなかにくださったほど 世の人を 愛されました ②神の子を 信じるものが、 新しい いのちを受けて、いつまでも 生きるためです」(讃美歌194番を開き朗読する。)神さまの愛についてとてもわかりやすくわたしたちに語りかけてくれます。

 さて一方、私たちはしばしばこの兄のように、すなわちファリサイ派の人々や律法学者たちのように考えることもあるのではないでしょうか。「自分はこんなにいっしょうけんめい働いているのに」と。しかし父なる神さまは、信じるようになった者に対して、一緒に喜んでやれとおっしゃるでしょう。伝道の喜びはそこにあります。父なる神さまの喜びを共にするからです。

 我に返る、本来の自分自身に帰るというのは、父なる神さまの所に帰るということです。私たちは皆、父なる神さまから命を与えられたのです。父なる神さまから命を受け、出発したのです。ですから、すべての人にとって、帰るところは父なる神さまの所です。

 このたとえ話には、表に出てきませんが、父なる神がこのように喜んで迎えてくださる背景には、イエス・キリストが十字架にかかられたから、ということがあります。イエスさまが、父なる神のもとに帰る道を用意してくださったのです。神の子として迎え入れられるなんの資格もない私たちが、このようにして喜んで迎え入れられる。まことに感謝です。

(執り成しの祈り)

○主イエス・キリストの父なる神様。あなたのお名前をほめたたえます。あなたのみ言葉はいつの時代にも、命と力とを持ち、救いの恵みを多くの人たちに分かち与えてくださいます。また、あなたは世界の至る所に、そのみ言葉を語り伝えるために仕える人たちを起こしてくださいます。どうか、わたしたちをもあなたのみ言葉をつたえる者としてお用いください。

○神様、戦争や紛争で故郷や住む家を失い、放浪の生活を強いられている難民たちに、温かい落ち着いた食卓と安らかな眠りをお与えください。差別や偏見によって人権を踏みにじられている人たちに、共に生きる喜びをお与えください。重荷を負う人、病んでいる人、孤独な人、一人一人にあなたからの慰めと平安、希望をお与えください。そして、わたしたちもキリストにならい、困難を抱えている人、悲しんでいる人、病んでいる人の為に、祈りを合わせて、その方々に仕えていくことができるようにしてください。主イエス・キリストのみ名によって祈ります。      アーメン。

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