8月14日説教「神の言葉によって結ばれた家族」

2022年8月14日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:申命記6章4~9節

    ルカによる福音書8章19~21節

説教題:「神の言葉によって結ばれた家族」

 きょうの礼拝で朗読されたルカによる福音書8章19節のみ言葉から、主イエスが家族を持っておられたということを、わたしたちは改めて知らされます。

【19~20節】。主イエスは神のみ子、神の独り子ですが、いわば天から舞い降りてきた天使のように忽然とこの世に現れたのではありません。主イエスは地上で肉にある家族を持っておられました。母マリアと父ヨセフの長男としてこの世に誕生され、何人かの弟たち妹たちと一緒に、一つの家庭の中でお育ちになりました。マタイ福音書13章には、父の職業が大工であり、男兄弟にはヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダがおり、妹たちもいたと書かれています。父ヨセフは主イエスが成人するころにはこの世を去っていたらしく、主イエスは父の職業を受け継ぎ、大工の仕事をして母マリアとその家族を支えていたと推測されています。

 このように、主イエスはわたしたちのだれもがそうであるように、家族を持ち、家族の一人として生きられました。職業を持ち、それによって家族を支えて生活されました。ヘブライ人への手紙が繰り返して書いているように、主イエスはわたしたち人間と同じお姿でこの世に来られ、罪をほかにしては、すべての点でわたしたち人間と同じになられ(ヘブライ人への手紙4章15節参照)ました。そのようにして、主イエスはわたしたち人間の中に入って来られ、わたしたちの家庭の中へ、わたしたちの職場の中へ、わたしたちの人生の中へと入って来られ、わたしたちと共に歩まれるメシア・救い主として、いわばわたしたちの罪のただ中へと入って来られ、罪の中にいたわたしたち一人一人を罪から救い出される救い主としてお働きになられたのです。

 ところで、ローマ・カトリック教会はマリアを崇拝する誤った信仰によって、マリアが永遠に処女であったという根拠のない説をとなえ、きょうの個所や他の福音書にも書かれている「兄弟たち」とはマリアが産んだ子ではなく、マリアの親戚の子であると説明しています。しかし、それは聖書には何の根拠もない作り話であるだけでなく、マリアを崇拝するあまり、主イエスがわたしたち人間と同じお姿でこの世においでになり、わたしたち一人一人と歩みを共にされた救い主であるという事実を薄めてしまい、主イエスの救いそのものの恵みの豊かさを小さくしていると言わなければなりません。わたしたちプロテスタント教会はマリア崇拝とそれにかかわる諸説に対しては反対しています。

 では、主イエスはそのような家族とのつながりの中で、どのように生きられたのでしょうか。また、わたしたちが今持っている家族とのつながりの中で、どのように生きるべきなのでしょうか。きょう与えられたみ言葉から聞き取っていきたいと思います。

 ルカ福音書のこの個所は、並行個所であるマタイ、マルコ福音書に比べると、半分ないしは3分の2ほどに短くなっています。マタイ福音書12章46~50節、マルコ福音書3章31~35節の方では状況がもう少し詳しく書かれていますので、それらを参考にして読んでいきましょう。

 19節で「母と兄弟たち」とあり、父ヨセフが出てきませんので、すでに世を去っていたと思われます。彼らが何のために主イエスに会いに来たのか、その理由は容易に推測できます。一家の大黒柱として働いてきた長男が、ある時に家を出て、宗教活動にのめりこみ、家に帰らなくなったとすれば、心配して家に連れ帰ろうとするのがこの世の親であり、家族でしょう。マリアと兄弟たちも同じような考えで主イエスを探しに来たのであろうと思われます。マルコ福音書3章21節には、「身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。『あの男は気が変になっている』と言われていたからである」と書かれています。

母マリアをはじめ兄弟たちはこの時にはまだ主イエスが神から遣わされたメシア・救い主であるということに気づいてはおらず、信じてもいませんでしたので、この世の家族が考えるのと同じように主イエスを見ていたのでした。わたしたちがのちに知らされるように、母マリアや兄弟たちが主イエスを救い主と信じたのは、主イエスの十字架と復活のあとであったということが、使徒言行録や使徒パウロの書簡に書かれています。主イエスの兄弟ヤコブは初代エルサレム教会の中心人物として仕えたことが知られています。

 さて、母マリアと兄弟たちが主イエスを探しに来た時、主イエスは群衆に囲まれ、神の国の福音の説教をしておられました。19節後半に「群衆のために近づくことができなかった」と書かれていますが、彼らが主イエスの説教を聞くために近づこうとしていたのではなかったということは、次の20節からも明らかです。マタイとマルコ福音書では、最初から彼らは群衆の外に立って、人をやって主イエスを呼ばせたとはっきりと書いてありますので、彼らに主イエスの説教を聞く意志が全くなかったということがここからもはっきりします。主イエスの家族は主イエスから最も離れた位置に立っています。彼らはファリサイ派や律法学者のように主イエスと論争するために近づいて来るのではありませんが、徴税人や、病める人、罪びととして非難されている人々のように救いを求めて主イエスに近づくのでもありません。群衆のように主イエスを取り囲んで主イエスの説教を聞くのでもありません。群衆の外に立って、しかも自分たちは主イエスの家族であり、最も近い関係にあると思い込んでいます。そうであるゆえに、自分たちには主イエスの説教を中断させる権利があるとさえ考えているのです。

 しかし、実は彼らが主イエスに最も近い関係にあると思っていた家族の関係、肉にある関係こそが、彼らを主イエスから、主イエスのみ言葉の説教を聞くことから遠ざけていたということをわたしたちは知らされます。人間の肉にある関係の近さが、かえってわたしたちを主イエスの福音から遠ざけることになるということを、主イエスご自身が最もよく知っておられました。

それゆえに、主イエスはマタイ福音書10章34節以下で、大胆にもこのように言われたのです。【34~39節】(19ページ)。また、19章29節ではこう言われました。【29節】(38ページ)。主イエスは神の国の福音の妨げになる家族という肉にある関係をひとたび断ち切るためにこの世においでになられました。わたしたち人間がその中でぬくぬくと安住している偽りの平和を打ち砕くために、鋭い剣を地上に投げ込まれました。わたしたちが神の国を受け継ぎ、永遠の生命を与えられるために、家族という肉の関係を、財産というこの世の朽ちるものをひとたび捨てるようにとお命じになるのです。

それは、何と厳しいお言葉でしょうか。古くから家族という血や肉によるつながりを大切にしてきたわたしたち日本人にとって、それは非常に衝撃的で、また攻撃的な言葉でもあります。明治の初期に、プロテスタント信仰が初めて日本に入ってきたころ、多くの日本人が聖書のこのみ言葉を聞いて、キリスト教は家庭を破壊する邪教であると誤解したと伝えられていますが、同じような誤解は今でも起こり得ます。

 けれども、よく考えてみれば、それはある意味では誤解ではなく、真理を含んでいるのではないでしょうか。ただ、誤解だと言えるのは、キリスト教が家族関係を破壊することだけを目的としていると考えた点については誤解だと言わなければなりませんが、主イエスが最終的に目指しておられたのは、わたしたちの肉にある関係を破壊することによって、永遠の幸いに満ちた霊による関係を築くためなのであり、偽りの平和を打ち砕くのは、真の、永遠の平和をわたしたちの間に築くためなのであるという真理を、わたしたちはそこに見いだすことができるからです。

 きょうのみ言葉の最後、21節を読みましょう。【21節】。ここに、新しい家族関係があります。神のみ言葉を共に聞き、それに聞き従い、共に神のみ言葉に生きることによって結ばれた新しい家族があります。神の家族、主イエス・キリストによる、神のみ言葉と神の霊によって固く結ばれた新しい家族がここに築かれます。そしてここにこそ、救われた者たちの本当の喜びと平安と感謝に満たされた、共に生きる交わりの生活があります。

 肉にある家族という関係には本当の救いはありません。むしろ、それは主イエス・キリストの福音による救いを妨げます。わたしたちはその肉にある家族という関係から解放されなければなりません。否、主イエス・キリストの福音がわたしたちをすべての肉の関係から自由にするのです。そして、神のみ言葉を聞くことによって一つの群れに結びつけられ、主イエスの福音によって共に生きる新しい人間関係を可能にするのです。

 主イエスは十字架におつきになり、ご自身の肉の死によって人間のすべての肉なるものの関係とその力とを滅ぼされました。そして、復活して、すべての肉なるものの支配と力とに勝利されました。この主イエスの十字架の福音を信じ、主イエスの勝利にあずかる者にとっては、肉はもはや力を持ちません。霊による関係が肉による関係に勝利しているからです。

 そして、それまでは肉にあって対立していた者たちが、霊によって兄弟姉妹とされ、神の家族とされているのです。肉にあっては破れ、傷ついていた者たちは、再び破られることのない霊の関係によって一つの群れとされるのです。わたしたちが主の日の礼拝で神のみ言葉を共に聞くことは、そのような新しい霊による関係、神の家族としての関係の基礎であり。出発点なのです。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、なたが主イエス・キリストの十字架と復活によって築いてくださったわたしたちの霊の関係を、いよいよ固くし、強くしてください。さまざまに分裂しているこの世界にあって、あなたが一つの霊によって真実の和解と一致とを与えてください。全世界のすべての国民を、霊によって結ばれた一つの神の家族としてください。

○天の神よ、病んでいる人をいやしてください。弱っている人を励ましてください。苦しんでいる人の重荷を取り去ってください。暗闇で迷っている人をまことの光で照らしてください。そして、罪の中にあるすべての人を罪から救ってください。

○日本とアジアと全世界に、まことの平和を与えてください。わたしたち一人一人を平和を造り出す人たちとしてください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

8月7日説教「平和を告げ知らせる使者」

2022年8月7日(日) 秋田教会主日礼拝(世界平和記念礼拝)

聖 書:イザヤ書52章7~10節          (駒井利則牧師)

    エフェソの信徒への手紙2章14~22節

 8月6日は広島原爆記念日、8月9日は長崎原爆記念日、8月15日は終戦記念日、少しさかのぼって6月23日は沖縄戦の組織的戦闘が終結した記念日、わたしたちは日本に住む者として、これらの記念日を覚え、平和への願いと祈りとを特に強くしています。そして、いつの時代にも思うことは、わたしたちの祈りにもかかわらず、現実のこの世界は、いつもどこかで戦いと殺戮と破壊とが絶えることなく、今もまたそうであるということを、わたしたちは認めざるを得ないのです。しかし、たとえそうであるとしても、わたしたちは一人の地球人として、それ以上に一人のキリスト者として、日本とアジアと世界に、真の平和が訪れる時が来ることを信じつつ、祈り続けるようにと神に命じられています。

主イエスはマタイ福音書5章9節の山上の説教でこう言われました。「平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる」。キリスト者はすでに主イエス・キリストによって罪ゆるされ、神の子どもたちとされているのですから、平和を実現する幸いへと招かれているということを強く覚えたいと思います。きょうの世界平和記念礼拝では、聖書で教えられている真の平和についてご一緒に聞き、平和を実現する人としての祈りをより一層強くしたいと願います。

 イザヤ書52章7節にこのように書かれています。【7節】。ここには、イスラエルの民に良い知らせを伝える使者の足の美しさが強調されています。使徒パウロはローマの信徒への手紙10章15節でこのイザヤ書のみ言葉を引用して、主イエス・キリストの福音を宣べ伝える使者の足の美しさについて語っています。きょうは旧約聖書の良い知らせを伝える使者と、新約聖書の福音を宣べ伝える使者について、そのよい知らせ、その福音の内容は何か、またそれを伝える人の足が美しいと言われているのはなぜか、そのことを聖書のみ言葉から聞き取っていきたいと思います。

 ではまず、イザヤ書の方から読んでいきましょう。7節冒頭の「いかに美しいことか」は美しさを強調していますが、ヘブライ語では「まあ」と発音します。日本語とよく似ていますね。「まあ、なんて美しいんでしょう」「これほどに美しい足はほかにはない」と言う意味です。なぜ美しいんでしょう。それは、彼の足が「良い知らせ」を運んでいるから、その人が良い知らせを伝えているからです。

 では、そのよう知らせの内容は何か。次に続いて書かれているように、それは「平和」であり「恵みの良い知らせ」であり「あなたの神は王となられた」ということです。さらに8節以下に書かれているように、「主がシオンに帰られるから」であり、「主がその民を慰め、エルサレムを贖われた」からであり、「主は聖なる御腕の力を国々の民のめに現わされたから」であり、そしてまた「すべての人がわたしたちの神の救いを仰ぐ」からであると説明されています。

 これは具体的にはバビロン捕囚からの帰還という出来事を語っていると考えられます。紀元前6世紀ころのイスラエルの歴史について少し説明しましょう。旧約聖書の民イスラエルは主なる神に選ばれ、神と契約を結び、主なるお一人の神だけを礼拝する信仰の民でしたが、やがて彼らは異国の神々をも礼拝するようになり、主なる神に背いて罪を犯したために、神の厳しい裁きを受けて、国は滅ぼされ、エルサレムの神殿は焼き払われ、王も指導者も民たちも捕虜となり、1千キロも離れたバビロンの地に捕らえ移されました。これをバビロン捕囚と言います。

 けれども、主なる神は罪のイスラエルをお見捨てにはならず、60年後には彼らを再び故郷の地イスラエルへ、神殿があったエルサレムへ(8節ではシオンと言われていますが)連れ戻すであろうという預言を、預言者イザヤの口を通してお語りになりました。その預言がイザヤ書40章から何度も繰り返して語られているのです。51章から52章のきょうの個所でもバビロン捕囚からの帰還が預言されています。そして、良い知らせを伝える者とは、このバビロン捕囚からの帰還、捕囚の地からの解放、神の救いのみわざを伝える預言者イザヤ自身のことを語っていると考えられます。

 では、その預言者イザヤの足がことさらに美しいと言われている理由について考えてみましょう。それは彼自身が健脚であるとか速く走れるからという理由によるのではなく、彼が持ち運んでいる知らせ、彼がイスラエルの民に伝えるようにと神から命じられている救いの恵みが何にもまして美しく、喜ばしく、高価で尊いものであるからにほかなりません。彼が持ち運んでいる神の救いの良い知らせこそが、彼の足を強くし、たくましくし、美しく光り輝く足にしているのです。

 ここで、足は象徴的な意味を持っています。つまり、預言者の足とは彼自身、彼全体を象徴していると考えられます。彼が一人の預言者として、一人の人間として美しい、尊い存在であるということです。それは彼が神の救いのみ言葉、解放のみ言葉、平和のみ言葉を神から託されているからであり、それをイスラエルの民に語るようにと命じられているからなのです。

イザヤ書を読むと、多くの場合、人々はイザヤの預言に耳を傾けませんでした。時に、彼は民から迫害を受け、大きな苦悩を味わいました。伝説によれば、彼は民に迫害され、殉教したと伝えられています。彼の生涯は決して美しくはなく、汗と涙と労苦とに染まっていたと言えます。けれども、そうであるにもかかわらず、彼が神の救いのみ言葉を持ち運ぶ務めに忠実である時に、彼は最も美しく、最も幸いであり、最も祝福されているのです。

 7節には、「良い知らせ」、「恵みの知らせ」、「救いを告げる」などの言葉と共にで「平和を告げ」という言葉があり、これらがこの1節の中に同じ意味を持つ言葉として並べられています。イザヤ書では、また聖書では「平和」をどのように教えているのかを、これらの言葉を参考に見ていきましょう。

 ヘブライ語の平和は「シャローム」と発音します。このヘブライ語は旧約聖書では非常に重要な言葉であり、230回余り用いられています。日本語では多くは「平和」と訳されていますが、「平安」「繁栄」「健康」「和解」などとも訳され、広い意味を持っています。欠けているところがない状態、満たされている状態を言い表している言葉です。ですから、単に戦争や争いがないというだけでなく、7節のほかの言葉のように、それは良い状態のこと、神の恵みに満ちている状態、神の救いと解放が実現している状態、そして主なる神が唯一の王なる神として支配している状態、それを平和、シャロームというのです。

 わたしたちはこの点から、今日の世界の平和とは何か、世界の平和のためにわたしたちはどう祈るべきか、そして主イエスが山上の説教で教えられた平和を実現する人々とはどのような人のことかをさらに深く探っていきましょう。

 新約聖書では平和についてどう教えられているのでしょうか。エフェソの信徒への手紙2章14節では、「実に、キリストはわたしたちの平和であります」と厳かに、力強く語られています。主イエス・キリストこそが唯一の、真実の、永遠の、わたしたちすべての人たちの平和であるという意味です。また、主キリストがわたしたちのために平和を創造し、わたしたちをその平和の中に招き入れ、あらゆる意味でのわたしたちの平和の源となられたということです。

 では、その主キリストの平和はどのようにして生み出され、与えられたのかについて、この手紙は14節後半から16節で、このように説明しています。【14節b~16節】(354ページ)。

 ここで教えられている重要なポイントをいくつかにまとめてみましょう。一つは、主キリストによる平和が実現される以前は、人間はみな互いに敵意という隔ての壁を持ち、二つに分断されていた。それゆえに、人間たちの間には、この世界には、平和がなかったということがあらかじめ暗示されているのです。聖書はそれを罪と言います。1章7節にこのように書かれています。「わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪ゆるされました」。これが、神のみ子主イエス・キリストの十字架の死によって罪を贖われ、罪をゆるされたわたしたちに与えられている恵みのことです。この恵みを与えられる以前には、わたしたちはみな神と敵対し、互いにも敵対していた罪びとたちであったのです。つまり、人間社会は、この世界は、罪に支配されており、互いに敵意を持ち、互いを分断し、そこには真の意味での平和はなかったということを聖書は言っているのです。真の平和とは何かを考えるにあたって、わたしたちはまず人間の罪の現実について知らなければならないということを教えられます。

 二つ目のポイントは、罪とは人間とこの世界の分断した状態を言うのですが、その罪の源は神と人間との分断にあるということです。18節に「神と和解させ」と書かれているように、主キリストは神とわたしたち人間とを和解させるために十字架で死んでくださったのです。神と人間との間を隔てていた罪という壁、断絶、分断を取り除き、神と人間を和解させるためには、罪のない神のみ子主イエス・キリストの清く尊い十字架の血が流されなければなりませんでした。その神のみ子の血によって、わたしたちの罪が完全にあがなわれ、わたしたちは罪の奴隷から解放され、神の子どもたちをされるのです。

 神と人間との和解があるところに、人間同士の真実の和解が成立します。共に一人の主なる神によって罪ゆるされている共同体としての和解と一致、平和が与えられるのです。人間と人間の間にあった敵意という壁は取り除かれ、お互いを神からの罪のゆるしの恵みをいただいている人たちとして認め合い、一つの罪ゆるされた共同体とされるからです。

 真の平和はこのようにして、主キリストの十字架の死による罪のゆるしを土台としているということをわたしたちは教えられます。イザヤ書で教えられていたバビロン捕囚からの帰還によって与えられる平和にも、イスラエルに対する神の罪のゆるしが土台となっていたことにあらためて気づかされます。真の平和は、旧約聖書においても新約聖書においても、神による罪のゆるしの恵みの上に基礎づけられていることをわたしたちは教えられます。

 預言者イザヤはイスラエルの救いの福音を携え、それを持ち運ぶ預言者であったので「その足は何と美しいことか」と言われていました。使徒パウロがそのみ言葉を引用したとき、主イエス・キリストによるすべての人の罪のゆるしの福音を宣べ伝える人の足はそれ以上に美しいことを強調していたのです。

 最後にもう一つのことを付け加えたいと思います。イザヤ書では救いの福音、平和と並んで、主なる神が王となられたことが言われていました。神が全世界の唯一の王としてご支配されるところ、そこに世界の平和が打ち立てられます。人間一人一人が小さな王となるところには、平和は成立しません。すべての人が主なる神のみ前にひれ伏し、恐れおののき、神のみ前に罪の自分が打ち砕かれなければなりません。神への真の恐れのあるところにこそ、真の平和が実現するのです。

 わたしたちは主イエス・キリストの十字架による罪のゆるしの福音を聞き、その福音を携えて、きょうの礼拝からこの世へと派遣されます。平和の福音に生きる人として、平和の福音の証し人として、平和の福音を宣べ伝える使者として、この世界へと派遣されていくのです。

(執り成しの祈り)

○ご一緒に「世界の平和を願う祈り」をささげましょう。

【世界の平和を願う祈り】

天におられる父なる神よ、

あなたは地に住むすべてのものたちの命の主であり、

地に起こるすべての出来事の導き手であられることを信じます。

どうぞこの世界をあなたの愛と真理で満たしてください。

わたしたちを主キリストにあって平和を造り出す人としてください。

神よ、

わたしをあなたの平和の道具としてお用いください。

憎しみのあるところに愛を、争いのあるところにゆるしを、

分裂のあるところに一致を、疑いのあるところに信仰を、

絶望のあるところに希望を、闇があるところにあなたの光を、

悲しみのあるところに喜びをもたらすものとしてください。

主よ、

慰められるよりは慰めることを、

理解されるよりは理解することを、

愛されるよりは愛することを求めさせてください。

なぜならば、わたしたちは与えることによって受け取り、

ゆるすことによってゆるされ、

自分を捨てて死ぬことによって永遠の命をいただくからです。

主なる神よ、

わたしたちは今切にあなたに祈り求めます。

深く病み、傷ついているこの世界の人々を憐れんでください。

あなたのみ心によっていやしてください。

わたしたちに勇気と希望と支え合いの心をお与えください。

主イエス・キリストのみ名によってお祈りいたします。アーメン。

 「聖フランシスコの平和の祈り」から

2022年8月7日

日本キリスト教会秋田教会「世界の平和を祈念する礼拝」

7月31日説教「神の委託事業」

マタイによる福音書25:14-30「神の委託事業」 2022.7.31 神学生 熱田洋子

今日の聖書の箇所は、「ある人が旅行に出かけるとき、しもべたちを呼んで自分の財産を預けた。」というところからはじまります。この直前を見ると「あなたがたは、その日、その時を知らないのだから」いうたとえ話しがあって、その話につながって書かれています。ですから、この箇所も、天の国のたとえ話しであること、今は、天に上がられた主イエスが再び来られるのを待っている時ということができます。ここに、ある人、主人として登場するのは、主イエスのことで、しもべたちは、主イエスの弟子たちのことです。主人は出かけていて、ここにはいません、その時はわからないのですが、必ず帰って来ます。それまでの間、しもべたちだけが残されています。出かけるに当たり、主人はしもべたちに、自分の財産を預けます。主人が帰ってきた時に、それをどのように用いたのか、しもべたちは、主人の前で、清算をすることになります。その時は、弟子たち、そして、わたしたちキリスト者にとって終わりの日の審判の時です。主が来られた時に、わたしたちは、主の前に立って、キリスト者として生活してきたことを報告し、主イエスから、それが御心にかなっていたのかどうか判決を受けることになります。このたとえ話から、その時の備えとしてわたしたちに示してくれることを、ご一緒に聞いていきたいと思います。

このとき、しもべたちは主人に呼ばれて、主人からタラントンを預けられます。15節に、「それぞれの力に応じて」とありますので、主人は誰にも多すぎる要求をしていないことがわかります。そのことは、11章30節に、「わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」と言われているとおりです。

さて、このタラントンとはなんでしょうか。タラントンは神の賜物のことで様々なものがあります。わたしたちは一人ひとり、顔や姿、性格、考えていること、役割などが違っています。それと同じように、神の賜物も一人ひとりそれぞれに種々あるということです。タラントンを額の大きさでいうと、1タラントンは、当時の1日の賃金の6,000日分に相当するくらい大きいものです。ここでは、教会と弟子たちに預けられた賜物がどれほど貴重なものであるかを気づかせるために額で示されています。それらのすべては神から預けられたものですから、主人のために用いるのはもちろんのことです。そのことを知っておくことが大事です

こうして、弟子たちは主イエスからタラントンを預けられましたが、これまで従ってきた主がいない今、どのような働きをすることになるのでしょう。まず、弟子たちは、主と共にいた時のこと、主がどのような方であったのかを振り返ります。そして、主が教えてくださったことにならうことになるのです。主イエスは弟子たちと一緒にいた時に、弟子たちの足を洗ってくださったことを思い出します。そのことによって、弟子たちに、互いに足を洗い合うようにと模範を示されました。ヨハネ13章に記されています。そして、神の独り子である主イエスは、父なる神の御心にまったく従われて、罪人のわたしたちを罪から救うため十字架にかかり、わたしたちを贖ってくださいました。わたしたちを愛し、わたしたちのために命を差し出してくださった主のことを弟子たちは思い出し、主の働きである神と隣人に仕えていくのです。

み言葉に、「自分の十字架を取って、わたしに従わない者はわたしにふさわしくない」とあります。10章39節です。働きをするに当たり、弟子たちは、このみ言葉によって、主に忠実に従っていくことを心に決め、時には自分の命の危険があるかもしれないことも覚悟したことでしょう。

 その際、主イエスは、弟子たちに、単に、タラントンを残しただけではありません。それとともに、主イエスご自身が持っておられたものを弟子たちに託されます。すなわち、主イエスの御霊により助けがあること、たくさんのみ言葉によって支えられること、主の平和と平安が残されていること、主イエスの御名で祈ること、また、一人ひとりは神の子とされているので神の憐れみのうちにあることも弟子たちに与えられます。

 この時、しもべたちには進むことのできる二つの道があります。

 5タラントン預けられたしもべと2タラントン預けられたしもべは主人の意図したことをよくわかっています。それで、二人のしもべたちは、主人から預けられた賜物を働きに生かし、新しいものを作り出すことであると真剣に受け止めています。主に服従し、主が来られるのが早くても遅くても関係なく、その時のために備えようという姿が見られます。二人は早速この働きを始めます。

16節に「商売する」とありますが、ここでは必ずしも金を稼ぐことではありません。神から預けられたものを有益に用いようとするとき、そのために努力したり力を発揮することになります。そのような努力や力というような賜物は商品とみなされます。そのことによって生み出される利益は、人々を救いへと導いて神の栄光を示すものとなり、それがさらにタラントンを増やしていくことになると考えられているからです。

 一方、1タラントンを預けられた第三のしもべは、このような二人とは違って主のために働くことを拒否します。このしもべは天の国に預かりたいと願ってはいますが、主イエスのものを増やそうとせず、主イエスを崇めようともしません。また、自分が預かったものを他に与えようともしていません。思うこと、行うことが他の二人のしもべとは正反対です。

主イエスは、ご自身の働きを共に行うようにすべての人を招いておられます。その際、働きがさまざまに違っていることを主はご存じですので、一人ひとりに授けられたものを知って、それを大切にして精一杯のことを行うことがわたしたちにできることです。主は働きの大小ではなくその人の心根をご覧になっています。そう考えると、第三のしもべのように、主から預けられた賜物を自分のためだけに持っていることはその福音を無にすることで、わたしたちがそれを広く隣人に与える時にのみ主のために用いたと言えるのです。

 やがて、長い時間が経ち、主人が来て、しもべたちと清算をはじめます。ここでしもべたちは主人に忠実であったかどうかが問われます。

まず、5タラントン預かったしもべと2タラントン預かったしもべは、主人の前に、働きの実を差し出します。そうすると、主人は、二人を忠実な者とみなされます。それまで働いて稼いだ額の大きさは関係なく、報酬は倍になり、主人と一緒に喜びに招かれます。二人は主人の意図したことに従って働いた奉仕者にすぎません。預けられたものはもともと主人のものであり、忠実であったことから生み出したものも含めて主人に返すことになります。このようにしもべたちの働きは自分たちの手柄ではありません。

二人は「少しのものに忠実であった」と言われています。この世での業、努めは、主イエスの持っておられるものや天の国におけるものと比べると少しのものなのです。そのように少しのものでも、主は忠実であったと受け取られ、天の国のはるかに大きな喜びと祝福を与えてくださいます。小さな働きに用いられた賜物も神の栄光のために生かされていくということを覚えておきたいと思います。これは、5章15節・16節のみ言葉に、「燭台の上にあなた方の光を輝かせなさい。あなた方の立派な行いを見て、天におられるあなたがたの父を崇めるようになるためである」ということに表されています。

 一方、第三のしもべは、主人の厳しさを恐れたために働きをしなかったと言って、自分をよしとし、正しいとしています。キリスト者の義務を忘れ、それを厳しい働きとさえ呼んでいます。もとより主人が彼に財産を預けたことに感謝もありません。主を愛すること、主に服従することを嫌がり、命を脅かされるのは避けたいとして主に従おうとしない姿は、臆病なものと言われています。

 このしもべのように、わたしたちが主を愛することを忘れて主を非難するなら、主イエスが再び来られる時、わたしたちは、いのちと栄光を勝ち得るでしょうか。このしもべは、主人は厳しいと言っていますが、教会のキリスト者たちは、彼らの主が柔和で、彼の「軛は負いやすい」こと、湖で溺れ死にそうになった時には、ともにいて助けてくれることを知っています。そして、忠実なしもべたちを祝福し、彼らの働きのゆえに喜びを分かち合いさらに高い務めを授けているのですから、少しの働きでも無駄になることはないのです。

主から預けられたということは、その賜物は貴重なもので、それを十分に利用して主の働きのために生かすことをキリスト者に求められています。それは神の委託事業と言えるのではないでしょうか。神から信頼されてその事業を預けられたことを感謝して、自分のためではなく、主イエスのために働き、その結果を清算することになります。わたしたちは、主に対する愛をもって、神に仕え隣人にも忠実に倦むことなく仕えることに精一杯励みます。そのようにして神の委託に応えることになるからです。

さらに第三のしもべの言い逃れは難しいことが示されます。

第三のしもべについて詳しく書かれているのは、主に忠実でないということはどういうことで、その結果、清算のとき主の判決がどのようにくだされるのかをわたしたちに気づかせるためと考えられます。

このしもべのように、主から預けられたタラントンを地に埋めて隠すことはしてはならないのです。少なくとも銀行に持って行っていれば、利子を産んだろう、また、自分でしないなら他の人に渡して働かせることもできただろうに、と言われます。このことからも、主イエスからわたしたちの中に点された愛から出てくる愛の働きを覆い隠してはならない、おろそかにしてはならないことがわかります。み言葉に「神の戒めを守ること、これが神を愛することだからです。その戒めは難しいものではありません。」とあります。ヨハネの手紙一5章3節、訳は協会共同訳です。そのとおりです。

 そして、この不忠実なしもべにも判決が言い渡されます。他の二人の忠実なしもべに対する判決と正反対になっています。他の二人のしもべのために主人がその働きを祝福し、喜びを分かち合ったこととまったく逆に扱われていきます。第三のしもべは、預けられたものを取り上げられ、さらにそれまで持っているものまで取り上げられ、闇の中に放り出されます。忠実なしもべたちは、新たにもっと大きなものを与えられ、主人の喜びに招かれているのと比べて恐ろしいほどの違いです。主イエスは忠実なしもべたちをご自分のものとして御許に引き上げられますが、第三のしもべのように賜物を必要としないならば、その賜物まで取り上げられて、さらに天の国に入れられません。このようにならないためには、神の賜物を休んだままにしておいてはならないのです。それを生かし、わたしたちは働かなければならないということです。

このようにしもべたちに対する審判を見てくると、わたしたちキリスト者にとって、審判の時はとても大事な時としていつも備えていることが必要であることを思わされます。わたしたちは主の前で、この世でどのような生き方をしてきたのかによってさばきを受けることになるからです。主イエスがどのように判断をされるのか、聖書の中の、金持ちとラザロの話、ルカ福音書16章にありますが、その話が頭に浮かびます。ここでは、金持ちと、その門前に横たわっていた貧しく悲惨な状況のラザロが比べられます。やがて、ラザロは死んで、天の国の宴席に連れて行かれますが、一方の金持ちは死んで、陰府でさいなまれています。金持ちは、憐れみを大声で求めるのですが、金持ちに「お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。」と言われて、ラザロには慰めが与えられているのに、金持ちは、憐れみから外され、もだえ苦しむままに置かれます。この時、主イエスは、金持ちに対して、そばにいたラザロに助けが差し迫って必要だったのに、愛の働きをする機会であることに気づかず、目もくれなかったことをさばいておられるのです。第三のしもべが、預けられた賜物を隠して、主の働きに用いようとしなかった姿に通じるものがあります。また、この話から、わたしたちは、もう一つ大事なことを気づかされます。天の国にはラザロにも喜びの宴席が用意されているということです。主イエスは、この世の業や働きをご覧になるだけではなく、そのようなことに関われないラザロのような一人ひとりにも目をとめておられ、そのままに天の国に迎え入れ、憐れみ、慰めを与えてくださっています。神はどのような一人をも分け隔てをなさらないで救いへ招き入れくださるのです。わたしたちにははかり知ることのできない神の恵みの深さを覚え主を崇めます。

29節に、「だれでも持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。」とは、どういうことを言っているのでしょうか。この時代、ローマ社会において、「金持ちはますます金持ちになり、貧しい人はますます貧しい人になる」と一般に言われていたようです。当時の資本主義社会では起こりえることだったのでしょう。ここでは主イエスは全く違って、わたしたちキリスト者に福音的な意味で語っておられます。わたしたちは与えられている恵みを感謝している一人ひとりです。たくさん与えられている人は、感謝が増していき、さらに恵みもより豊かになるのです。一方、恵みが感謝に価するものだと気づかなければ、感謝が乏しくなって、さらに無駄にしてしまうことになる、ということだと思われます。神からのタラントンについても、この世で多くあっても天の国では少ないものとはいえ、それは神から与えられるものです。そのことを神に感謝して生かしていくとき、タラントンは増えていくのです。

わたしたちは神からさまざまな賜物を授けられていることを感謝します。

わたしたちは神と人を愛し、神と隣人に仕えるために

わたしたちはそれぞれの賜物を十分に用いているでしょうか

わたしの持っているものは小さくて、とても役に立たないからと思って、しまっておいたりしてはいないでしょうか。

主は、今日の聖書の箇所に続く35節で「わたしが飢えていた時に食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ」、最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのだと、言われます。そして、この働きをした正しい人たちは永遠の命にあずかるのです。

一人ひとりにその人の能力に応じたタラントンを授けられています、主に忠実に従って神と隣人に仕えていくとき神の国で祝福が用意されていきます。

わたしたちには小さいと思える働きも、神に感謝して行っていくとき、忠実なものとして喜んで受け入れ祝福してくださるということをこの箇所から学んできました。

主イエスがわたしたちに与えてくださったものを、たといそれが少なかろうと多かろうと信仰深く、感謝に満ちて忠実に受け止め、主の栄光のために役立てていきたいものです。

お祈りします。

天の父なる神様。わたしたちに委ねられた賜物を感謝して、神と隣人に仕えていくことができるよう、私たち一人ひとりに聖霊を注いでください。

世界の中、戦火のもとで、また虐げられて、嘆き苦しんでいる人々の声を

主よ、お聞き入れください。各国の為政者たちが、民の命を守り、平安な生活を支えることを第一として道を選ぶように、平和への働きかけをする人たちに力を与えてください。そして平和の神のご支配が世界中にあまねく行き渡りますように。私たちの救い主、主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン

7月24日説教「ステファノの説教(四)出エジプトと荒れ野の旅」

2022年7月24日(日)秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:出エジプト記24章1~8節

    使徒言行録7章36~43節

説教題:「ステファノの説教(四)出エジプトと荒れ野の旅」

 ステファノは初代エルサレム教会で選出された7人の長老、あるいは執事の中の一人でしたが、主イエス・キリストの福音を宣べ伝えたことによってユダヤ人からの迫害を受け、石打ちの刑で処刑され、キリスト教会最初の殉教者となりました。7章2節から53節までのステファノの長い演説は、処刑される直前にユダヤ最高法院の裁判の席で語った彼の弁明ですが、その内容は彼が自分の無罪を主張するための弁明と言うよりは、主イエス・キリストの父なる神がイスラエルの民をとおしてなしてくださった救いのみわざについての説教であると言ってよいでしょう。

 アテファノの説教全体を貫いている中心的なテーマを二つにまとめることができます。一つは、アブラハムから始まる神の民、イスラエルの2千年近くの歴史を導かれたのは主なる神であり、その歴史は神の救いの歴史であったということ。もう一つは、その神の救いの歴史のすべては、神が約束されたメシア・キリスト・救い主を待ち望み、またその救い主を証しする歴史であったということ、さらに言うならば、そのイスラエルの待望と証しは、ユダヤ人たちが十字架につけて処刑した主イエス・キリストによって成就したのだという十字架の福音、これがステファノの説教の中心でした。そして、これが彼が迫害され、殉教することになった理由となったのです。

 ステファノの説教には主イエス・キリストというお名前は一度も出てきませんが、彼の説教は旧約聖書で預言され、証しされている主イエス・キリストのことを語っているのであり、またそれを聞いていたユダヤ最高法院の議員たちも自分たちが十字架で処刑したあのナザレ人イエスのことをステフアノは語っているのに違いないということをよく理解していました。

きょうは、36~43節に記されている彼の説教から主イエス・キリストの福音を聞き取っていきたいと思います。36節を読みましょう。【36節】。「この人」とは、これまでに語られてきたモーセのことです。「この人」という言葉が強調されています。前の節で言われていたように、同胞のユダヤ人が「だれが、お前を指導者や裁判官にしたのか」と言って拒み、殺そうとしたそのモーセを、神はイスラエルの「指導者また解放者」としてお選びになり、イスラエルの救いのためにお遣わしになったのであり、またそのモーセをこそ、紅海の奇跡によってイスラエルの民をエジプト軍の追っ手から救い、40年間の荒れ野の困難な旅を安全に導く指導者としてお立てになったのだという、神の驚くべき選びのみわざをステファノは強調しているのです。

 同胞のユダヤ人からは拒絶され、見捨てられたモーセを、神はお選びになられ、イスラエルの民をエジプトの奴隷の家から救い出すための指導者としてお立てになられたのです。ステファノがこのモーセの姿、モーセの使命と働きに、主イエス・キリストの預言を見ていたということは明らかです。神がご自身の民イスラエルと全世界のすべての人たちを罪の奴隷から救い出すために人間のお姿でこの世にお遣わしになられた神のみ子主イエスを、ユダヤ人の宗教的・政治的指導者であった長老たち、律法学者たちや祭司たち、またすべてのユダヤ人が、神を冒涜する者、律法と神殿を軽んじ、否定する者として裁き、十字架につけて処刑した。けれども神はその主イエスによってこそ、すべての人を救おうとされた。その主イエスの十字架の死によってこそ、すべての人の罪を贖おうとされた。モーセはこの主イエスを預言し、証ししている。そしてまた、主イエスを投げ捨てたあなたがたの背きと罪が、ここで明らかにされている。ステファノの説教はそのことを語っているのです。彼らユダヤ人指導者たちに悔い改めを迫っているのです。

 次の37節でも同じように、主イエスを十字架に引き渡したユダヤ人指導者たちの罪とかたくなさが指摘されているように思われます。【37節】。これは申命記18章15節に記されているモーセの言葉ですが、モーセはここでイスラエルの民に対してこう命じています。「わたしはイスラエルの民に対して神のみ言葉を語り伝える預言者として神に立てられたが、やがて神はあなたがたの子孫の中から一人の偉大な、最高の預言者をお立てになるであろう。あなた方はそのまことの預言者が語る神の言葉に耳を傾け、聞き従わなければならない」と。ステファノは、そのまことの預言者こそが主イエスであると語っているのです。そうであるのに、あなたがたユダヤ人は主イエスのみ言葉に聞き従わず、むしろ主イエスを投げ捨て、十字架につけて葬り去ろうとしたのではないか。そこにあなたがたの罪があるのだ、とステファノは語るのです。

 ユダヤ最高法院の裁判で、裁かれるべき被告席に立たされているステファノが主イエス・キリストの福音の証し人として立つとき、裁くべき立場にあると思い込んでいたユダヤ人指導者たちが裁かれなければならない罪びとであることが明らかにされていくのです。

 38節以下でも、モーセに聞き従わなかった当時のイスラエルの罪が語られます。【38~41節】。モーセはシナイ山で神からの十のみ言葉、十戒を授けられました。十戒は、神によってエジプトの奴隷の家から救い出されたイスラエルの民が、神の民とされ、神のみ心を行い、神を礼拝する民として生きていくための導きとなるべき道しるべです。十戒は出エジプト記20章に記されています。きょうの礼拝で朗読された24章には、十戒をはじめ20章22節からの契約の書に基づいた神とイスラエルとの契約締結の儀式が記されています。イスラエルの民はこの神との契約によって生きる民となったのです。ステファノは38節で、これを「命の言葉」と呼んでいます。命の言葉とは、神から与えられた十戒と契約の書が命を持ち、また命を与える神のみ言葉であるとともに、イスラエルの民がそのみ言葉に聞き従う時に、まことの命に生きる民とされるという意味を含んでいます。

 しかしながら、イスラエルの民はモーセの命令に聞き従わず、彼がシナイ山から帰るのが遅いのにいら立ち、モーセと神のみ言葉に導かれることを不安に思い、もっと確かな目に見える神々を造ることを欲し、アロンに金の雄牛の像を造らせたということが、出エジプト記32章以下に書かれています。神の命のみ言葉に聞き従って生きるのではなく、口のきけない、目の見えない、自ら歩くこともできない、金や銀、石や木材によって作られた偶像、死せる偽りの神々によって生きようと欲したのです。

 けれども、イスラエルの民を強いみ腕をもってエジプトの奴隷の家から救い出されたまことの神を捨て、その神の命のみ言葉に聞き従わなければ、イスラエルはまことの命を生きていくことはできません。やがて彼らは、約束の地を追われ、神礼拝の中心であった神殿をも失い、遠い異教の地バビロンに捕囚となるであろうと預言したアモスの預言が成就されることとなるのです(42~43節参照)。アモスは紀元前8世紀中ころの預言者ですが、モーセの時代、紀元前13世紀に荒れ野でモーセの命令に聞き従わなかったイスラエルの民の反逆の中に、ステファノはすでにバビロン捕囚による神の最終的な裁きを見ているのです。

 したがってまた、神が最後にお遣わしになった偉大な預言者であられる主イエスのみ言葉に聞き従わず、主イエスの神の国の福音の説教を受け入れず、主イエスの奇跡やいやしのみわざをも受け入れず、主イエスを十字架に引き渡した彼らの罪は必ずや神の厳しい裁きを受けるであろうということが、ステファノの説教では暗示されているのです。彼らもまた確かにそのことを聞き取りました。そうであるのに、彼らは自らの罪を悔い改めず、むしろ、自分たちの義を主張して、ステファノを処刑しようとするのです。

 ここでわたしたちは、ステファノが指摘している彼らユダヤ人指導者たちの罪と、その罪から救われるためのわたしたちの信仰の道を、三つの点から見ていきましょう。第一に、37節でモーセが語った神の約束についてです。「神はあなたがたの兄弟の中から、わたしのような預言者をあなたがたのために立てられる」。申命記18章ではこのあとこう続きます。「あなたがたは彼に聞き従わなければならない。彼はわたしが命じるすべてを彼らに告げるであろう」(18節参照)。

 神は最後にお遣わしになった最も偉大な預言者であられる主イエス・キリストによって、イスラエルの民に、また全世界のすべての人々に、彼らの救いのために必要なすべてのみ言葉をお語りになりました。だれであっても、主イエス・キリストがお語りになった神の国の福音、主イエスがわたしたちの救いのためになしてくださった十字架の福音を聞くならば、ただそれだけで、それを信じる信仰によって、すべての人は罪ゆるされ救われるのです。このほかに何も付け加える必要はありません。

しかし、ユダヤ人は主イエスに聞き従いませんでした。彼らは主イエスの低さと貧しさにつまずきました。彼らは軍馬にまたがった力強い英雄を期待していました。ローマ帝国の支配からイスラエルを解放し、民衆を貧しい生活から脱出させるための奇跡を行い、悪や不正義を力で打ち倒す、この世の英雄を期待していました。彼らは、十字架につけられた主イエスに対して、「自分で自分を救え、そうしたたら信じよう」と言って、十字架の主イエスをあざ笑いました。

ユダヤ人たちは主イエスの十字架の福音につまずきました。彼らは、見に見えるしるしを求めました。これが第二の点です。ステファノは40節以下で、自ら偶像を造り、目に見えるものに頼ろうとする彼らの罪について語っています。ユダヤ人のみならず、人間はみな目に見えるものを手でつかみ取ろうとします。自分で作った偶像を追い求めます。自分たちの手柄を喜び、それを誇ろうとします。けれども、この世にあるもの、目に見えるものはすべて、移り行くものであり、やがて消え去り、限りあるものであることに気づこうとしません。そのことを認めようとしません。しかし、そこには救いはありません。そこにあるものは滅び以外ではありません。この世にある者を追い求める人は、この世が滅びる時に、共に滅びるほかありません。

第三に、38節の「命の言葉」をこそわたしたちは聞き、信じなければなりません。神は最後の最も偉大な預言者、それどころか、すべての預言の成就であられる主イエスによって、わたしたちが生きるために必要な一切をお語りくださいました。わたしたちの罪のために、ご自身の汚れのない聖なる血をささげ尽くして、ご自身の神のみ子としての命を注ぎ出されて、わたしたちを罪と死と滅びから救い出され、わたしたちにまことの命をお与えくださったのです。この主イエス・キリストをわたしの唯一の救い主と信じ、この主イエスに従って生きる時に、わたしたちにまことの命が与えられます。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、滅びにしか値しないわたしたちのために、あなたが独り子をさえ惜しまぬほどに愛してくださり、罪と死と滅びとから救い出してくださいましたことを、心から感謝いたします。どうかわたしたちがみ子の十字架の血によって贖われたものにふさわしく、あなたの僕(しもべ)として、あなたのご栄光と隣人の救いのために仕えていく者としてください。

〇父なる神よ、日本とアジアと全世界のすべての国民にあなたの義と平安と救いとが与えられますように。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

7月17日説教「救いの完成される日まで」

2022年7月17日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:詩編98編1~9節

    ローマの信徒への手紙8章18~30節

説教題:「救いの完成される日まで」

  『日本キリスト教会信仰の告白』をテキストにして、わたしたちの教会の信仰の特徴について続けて学んでいます。その最初の文章は「わたしたちが主とあがめる」から始まって、その最後は、「救いの完成される日までわたしたちのために執り成してくださいます」で結ばれています。きょうはこの部分の「救いの完成される日まで」という告白について、聖書のみ言葉に導かれながら学んでいきます。

 この最初の段落のすべての文章の主語は、神の独り子、主イエス・キリストです。そのことを今一度思い起こすことが、きょう学ぶ「救いの完成される日まで」を考えるうえで、非常に重要な意味を持ちます。というのは、主イエス・キリストはまことの神として、またまことの人として、誕生から十字架の死に至るまで、わたしたちの救いのためにすべてのみわざを完全に行われただけでなく、主イエス・キリストはわたしたちの救いの完成の時に至るまで、わたしたちから片時も離れることなく、わたしたちを導き、支えてくださるということが、ここで今一度強調され、告白されているからです。

主イエス・キリストはこの『信仰告白』全体の主語です。また、わたしたちのすべての信仰生活の主語です。それのみならず、わたしが地上の歩みを終えて死を迎える時にも、否それだけでもなく、わたしの死後も、終わりの日に神の国が完成し、わたしの救いが完成されるその時に至るまで、主イエス・キリストはわたしの主語として、わたしのためにすべての救いのお働きをなさるのです。

 「救いの完成される日までわたしのために執り成してくださいます」、この告白はキリスト教教理では、終末論の領域に属します。『日本キリスト教会信仰の告白』の中で終末論に関連している箇所はほかに、「終わりの日に備えつつ、主が来られるのを待ち望みます」、それから、『使徒信条』の部分では、「そこから来て、生きている者と死んでいる者とを審かれます」という箇所でも終末論が取り扱われます。これらから明らかなように、『日本キリスト教会信仰の告白』は終末論を強調しています。終末論はわたしたちキリスト者の信仰全体を貫いている柱であり、また目指すべき目的地であると言えます。きょうは「救いの完成される日まで」という告白について、終末論の視点から学んでいくことにしましょう。

第一に確認しておくべき点は、『日本キリスト教会信仰の告白』の最初の段落が「救いの完成される日まで」という文章で結ばれているということから、この段落では、わたしたちの救い、すなわち罪のゆるしを最終的に目指しているということが、明らかになります。神の独り子である主イエス・キリストが「まことの神でありまことの人」であるという告白は、わたしたち罪びとの救いが完全であるということを語っています。主イエスが人となってこの世においでくださったことも、わたしたち罪びとの救いのためです。主イエスが十字架で死んでくださったこと、復活されたこと、それもわたしたちの救いのためです。そして最後に、今は天におられてわたしたちのために執り成しておられること、それもわたしたちの救いの完成のためです。主イエスはわたしたちの救いのために、世の初めから今に至るまで、そして世の終わりまで、神の国が完成される終末の時まで、働いておられます。主イエスはわたしがこの世に誕生した時から、否わたしの誕生以前から、今に至るまで、この後も、わたしの死の時にも、否わたしの死ののちにも、神の国でわたしの救いが完成される時まで、わたしと共におられ、わたしのために働いてくださいます。きょうの礼拝にわたしが招かれているのも、わたしの救いの完成のためなのです。

「救いの完成される日まで」という告白で次に考えるべきポイントは、わたしたちの救いがまだ完成されていないということをこの表現は意味しているということす。わたしたちの救いは、どんなに信仰深く、熱心で、霊に満たされているような人であれ、あるいはもう何十年と礼拝を続け、教会に仕えてきた人であれ、その信仰はまだ完成されていない、まだ最終目的に達していないというのです。わたしたちはみなだれでも、信仰においては未完成です。

しかしまた同時に、わたしたちの信仰は確かに最後の完成に向かっているという保証もここには含まれています。主イエスが天の父なる神の右に座しておられ、わたしたちの救いのためにいつも執り成していてくださる、そして終わりの日に、主イエスは再びこの世においでくださり、信じる者たちを天に引き上げ、神の国へと招き入れ、わたしたちの救いを完成させてくださる、その確かな保証と希望もまた同時にここでは告白されているのです。いまだ未完成である、しかし同時に、確かな完成の保証がある、この二つのことは、切り離すことはできません。その関連性を覚えながら、更に考えていきましょう。

わたしたちの救いが今はまだ完成されていない、未完である、完成の途中にあるとは、どういうことを意味するのでしょうか。そうであるとすれば、わたしたちの救いは不十分であるということになるのか、いわばわたしの一部分しか救われていないということなのか。否、そうではありません。わたしたちの救いは、主イエス・キリストの十字架の死と復活によって成就しました。主イエス・キリストの救いのみわざは完全であり、少しの不足もなく、すべての人にとって、全き救いをもたらします。まことの神でありまことの人であられる主イエス・キリストの、神のみ子としての汚れなき、尊い十字架の血はすべての人のすべての罪を永遠に贖い、信じる人に完全な救いを与える力と恵みとを持っています。わたしたちの救いのために、ほかに何かを必要とするということは全くありません。その意味では、わたしたちの救いは完全であり、何の不足も欠けもありません。

けれども、わたしたちは主イエスの救いの恵みを今はまだ信仰によって受け取っています。わたしたちは信仰によって罪ゆるされ、救われています。しかし、罪と死は今なおこの世に残っています。罪と死の支配が完全に終わったわけではなく、今なおこの世を支配しています。わたしたちは今なおこの世にあり、信仰によって罪と死の誘惑と戦い続けています。その戦いは確かに勝利に向かっている戦いではあるけれど、終わりの日に神の国が完成され、主イエス・キリストによって罪と死とが全く滅ぼされるまでは、わたしたちの信仰の戦いは続くのです。

パウロはローマの信徒への手紙8章18節以下で、終わりの日の救いの完成を目指したこの信仰の戦いについて、人間たちだけでなく、すべての被造物も共にうめき、産みの苦しみをしていると語っています。【21~25節】(284ページ)。パウロは終わりの日の完成を待ち望んでいる被造物のうめきを聞いています。彼はそれほどまでに、今はまだ未完であることを自覚しつつ、終わりの日の完成を切なる思いで待ち望んでいるのです。未完成であるからこそ、いよいよ熱心に、真剣に、終わりの日の完成を待ち望み、切望するのです。

終わりの日にみ国が完成される時には、信仰者は完全に罪の奴隷から解き放たれ、朽ちる肉の体から朽ちることのない霊の体に変えられ、神の子たちとしての栄光に入れられるのだ、その望みによって、わたしたちは今救われているのだ、この希望によって、わたしたちは終わりの日の完成を忍耐をもって待ち望むのだ、パウロはそのように語ります。

また、26節以下では、聖霊なる神が、終わりの日の完成に向かって進んでいるわたしたちのために執り成していてくださると語ります。【27節b~30節】。終わりの日にみ国が完成する時には、信仰者はみ子主イエス・キリストに似た者とされ、神のご栄光に包まれるであろうと語られています。わたしたちは日々に、わたしたちの救い主であられる主イエス・キリストに近づいていくのです。その救いの完成の時まで、聖霊なる神が、そして天におられる主イエス・キリストが、わたしたち信仰者のために絶えず執り成しておられ、わたしたちの道を終わりの日の完成へと向かわせてくださるのです。

終わりの日の救いの完成を目指す途上にあるわたしたち信仰者に対する導きと励ましのみ言葉は、聖書の中に数多くあります。フィリピの信徒への手紙3章12節以下にはこのように書かれています。【12~14節】(365ページ)。パウロはここでも、自分はまだ完全な者になったのではないと認めています。まだ、復活の体を与えられていない、まだこの世の朽ち果てるほかない肉の体に生きている、まだ最後の目標に達していないことを知っていると告白しています。けれども、主イエス・キリストの十字架と復活によって贖われ、罪の奴隷から解放され、主キリストのものとされている、主キリストによって捕らえられている、だから、終わりの日の確かな目標に向かって走り続けているのだと語っています。

キリスト者にとっては、まだ救いの完成を見ていないということは、その人の信仰を弱めたり、救いの確信をあいまいにすることは決してありません。いやむしろ、救いの完成を目指して力強く、たくましく走り続ける、勇気と希望の源なのです。最後の目標を目指して、前方へと体を向けつつ、走り続けるエネルギーとなるのです。

わたしたちの信仰と救いは、この世にあっては、なお未完成です。時として迷ったり、弱ったり、つまずくこともあるかもしれません。けれども、わたしたちは救いと信仰の完成者であられる主イエス・キリストによって捕らえられているゆえに、確かに最後の目標に向かって走り続けることができるのです。

「救いが完成される日まで」という告白について、もう一つ注目したいことは、「完成される」は受動態であるということです。聖書の中で主語が隠されていて受動態で表現される場合には、多くは神が意味上の主語と考えられます。ここでも、「完成される」の意味上の主語は神であり、神のみ子主イエス・キリストです。わたしたち信仰者が自分の救いの完成のために何らかの努力をしなければならないのではありません。わたし自身が救いを完成させなければならないのではありません。わたしたちの救いを完成してくださるのは、天地創造の初めから人間の救いのためのみわざをなし続けてこられた主なる神であり、また神の救いのみわざを実際にこの世においでくださって成就された主イエス・キリストです。

へブライ人への手紙12章2~3節を読みましょう。【2~3節】(417ページ)。この主イエス・キリストを信じ、その導きに従って歩むときに、わたしたちの信仰の歩みは確かに、終わりの日の救いの完成に向かっていくのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、わたしたちの信仰の歩みはたどたどしくあり、時として迷いや疑いに閉ざされたり、疲れ、立ち尽くしたりすることがあります。主よ、どうかわたしたちの歩みを強くしてください。主キリストがわたしたち一人一人の歩みにいつも伴ってくださり、励ましてくださり、終わりの日の完成に向かって前進させてくださいますように。

〇神よ、どうか世界にまことの和解と平和、共存と分かち合いをお与えください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

7月10日説教「長子の特権を奪い取ったヤコブ」

2022年7月10日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:創世記27章1~17節

    ヘブライ人への手紙12章14~17節

説教題:「長子の特権を奪い取ったヤコブ」

 創世記27章には、年老いたイサクの家庭の中で起こっている一連の出来事が記されています。ある聖書注解者はこれを「聖なる悲劇」と名づけています。確かに、これは悲劇と言えます。年老いた父イサクから受け継ぐべき祝福を奪い取るために、母リベカと弟息子のヤコブが結託して、父を欺き、兄を出し抜く。祝福を手に入れはしたが、兄エサウの憎しみを買って命をねらわれるようになり、ついにヤコブは家を出ることになる。家族が分断されるという結末に至る。これは家庭内で繰り広げられた悲劇であることは確かです。

 でも、これには「聖なる」というもう一つの言葉が付け加えられています。どこの家庭でも起こりえる悲劇であり、家族の分断という出来事であるのですが、しかし、そうであるにもかかわらず、これらすべての出来事の背後には主なる神がおられ、隠された神のみ手がこの家庭を導いておられる。これは神の救いの歴史、救済史の中の出来事であり、これによって神とアブラハムとの契約が継続され、神の永遠の救いのご計画が前進していくのだということを、わたしたちはあらかじめ確認しておきたいと思います。

神がアブラハムと結ばれた契約、これをアブラハム契約と言いますが、すなわち、神はアブラハムをすべて信じる人たちの祝福の源とし、彼の子孫を夜空の星の数、海の砂の数ほどに増やし、永遠にその祝福を受け継がせるであろうというアブラハム契約が、その子イサクに受け継がれ、その子ヤコブに受け継がれ、ヤコブの12人の子どもたちからなるイスラエルの民に受け継がれ、ついには、主イエス・キリストによって、全世界の主キリストを信じる教会の民へと受け継がれていくことになる、その永遠なる神の救いの歴史が、ここに描かれている家庭の悲劇をとおして、成就されていくのだということを、わたしたちはここで教えられます。神はこの家庭内の悲劇をとおして、それをお用いになって、ご自身の救いを前進されます。そして、その救いの歴史は、今日の教会の救い、わたしたち一人一人の救いと直結しているということにも気づくのです。

 27章を「聖なる悲劇」と名づけた神学者は、それによっておそらくは、こののちに起こるであろう、さらに大きな、偉大なる「聖なる悲劇」を暗示しようとしていると思われます。すなわち、アブラハム・イサク・ヤコブという族長時代から千数百年年後のエルサレムで起こった大いなる、偉大なる「聖なる悲劇」のことです。罪なき神のみ子が罪びとたちの手に渡され、十字架につけられ、殺されるというあの悲劇です。アブラハム契約の最終的な成就として神がイスラエルにお遣わしになられたメシア・キリスト・救い主を、彼らイスラエルの民は愚弄し、拒絶し、最も呪われた刑罰であった十字架刑で葬り去ろうとしたのです。

 しかし、神はこの大いなる悲劇を、「聖なる悲劇」に変えてくださいました。神はイスラエルの民の罪と背きをもお用いになられ、すべての人間たちの罪の結集であった神のみ子の十字架の死を、神はすべての国民の救いのみわざとされたのです。主イエス・キリストの十字架の福音を信じるすべての人を罪から救い、神の永遠の祝福へと、あのアブラハムに最初に約束された祝福へと招き入れると言われたアブラハム契約の成就とされたのです。主イエス・キリストの十字架の死という大いなる「聖なる悲劇」を、神はすべての信仰者の救いという大いなる福音となしたもうたのです。きょうの創世記27章のみ言葉は、そのことをわたしたちに教えています。

 箴言19章21節にこう書かれています。「人の心には多くの計らいがある。主の御旨のみが実現する」。また、詩編33編11節には、「主の企てはとこしえに立ち、御心の計らいは代々に続く」とあります。神の永遠の救いのご計画は、人間たちの罪と反逆の中でも、世界の変化の中でも、変わることなく前進していくのです。

 では、イサクの家庭内での悲劇について、その内容を見ていきましょう。ここには一つの家族、4人の人物が登場します。イサクは年老いて、目がかすんできました。それでも、父アブラハムから受け継いだ神の祝福を自分の長男に受け継がせるという、人生最後の最も大切な務めを彼は忘れてはいません。そのこともあってかどうかははっきりしませんが、いやもしかしたら彼の単なる好みからかもしれませんが、イサクは死ぬ前に長男エサウが捕らえた獲物で、おいしい肉料理が食べたい、それを食べて、長男への祝福を与えたいと願っています。【4節】。

 次は、イサクの妻リベカです。イサクが長男エサウを愛していたのに対して、リベカはずっとエサウの弟ヤコブを愛していました。物静かで、賢く、いつも家にいて自分のそばから離れないヤコブが彼女のお気に入りであり、ヤコブをずっとこれからも自分のそばに置いておくためには、長男の特権をヤコブに受け継がせたいと願っていました。

 あとは二人の子ども、兄のエサウと弟のヤコブです。兄は活動的で、野原で狩りをするのが好きでした。でも、少し、軽はずみで、思慮が浅いところがありました。ヤコブは、生まれた時からその強い性格が現れ、双子として先に生まれた兄エサウのかかとをつかんで生まれ、兄エサウを出し抜いて長男の権利を手に入れようとしたことがこれまでにもありました。

 この4人が一つの家族を形成していました。ところが、27章で描かれているそれぞれの場面を見てみると、家族4人が一緒に対話している場面は全くないことに気づきます。すべての場面が二人だけの対話で進められています。1~4節は、父イサクと長男エサウとの対話です。死期が近づいてことを悟った父と、父の死後に長男として父からの祝福を受け継ぎ、家の財産をも相続するはずになっているエサウとの静かな対話、しかしまた深刻さを含んだ対話です。

 次の5~17節は、母リベカと弟息子イサクとの対話です。リベカはイサクとエサウとの対話を盗み聞きしていました。そうさせてはならないと、自分が愛する弟息子のヤコブに長男の権利を横取りするための相談をしています。それは、恐ろしい計略です。夫であるイサクをだまして、弟ヤコブに変装させ、兄エサウととり違いさせようとする計略です。それは当時の慣習や、それだけでなく神の選びの順序をすらも、自分の願いどおりに変えてしまおうとする悪しき策略です。11~13節の二人の対話を読んでみましょう。【11~13節】。リベカの計略は目がかすんできた夫イサクを欺くだけでなく、神をも欺くことであると、彼女は気づいているかのようです。

 18~29節の場面は、父イサクと弟息子ヤコブとの対話です。これは実際に父を欺く対話です。ヤコブは、兄エサウが獲物をとって帰るよりの先に、母リベカが調理した肉料理を持ち、兄のにおいが染みついた兄の晴れ着を着て、体には兄エサウの毛深さを偽装するための子ヤギの毛皮を巻きつけて、父の枕辺に近づきます。この偽装計画を立てたのは母リベカですが、ヤコブ自身もそれに主体的にかかわっています。【20節】。ヤコブはだました父を説得させるために神を利用しています。ついに、父はそれが兄のエサウだと勘違いして、あるいはだまされてと言うべきでしょうが、弟のイサクを祝福します。

人間たちの欺きと偽りが、彼らの計画どおりに進んでいきます。27節以下の祝福の言葉を読んでみましょう。【27~29節】。祝福すべき相手が違っていることを知っているわたしたちには、この祝福の言葉は何か空々しいと思えるかもしれませんが、しかしこれは父が神の権威のもとで、神の契約の言葉として語っている祝福の言葉であることは確かです。人間たちの欺きとだまし合いの中でも、神の祝福は失われることはありません。神の祝福は人間たちの罪の中でも、確かに語られ、受け継がれていくのです。

 30~40節は、狩りから帰ったエサウと父イサクとの対話です。エサウは父の好きな肉料理を作って、父のところに運びます。けれども、父はすでに長男に与えるべき祝福を弟のヤコブに与えてしまったことを知らせます。34節からは、そのことを知ったエサウの悲痛な叫びが書かれています。【34~37節】。エサウには神の祝福はもはや残されてはいません。彼は神の契約の民としての祝福を失ってしまいました。36章によれば、エサウはその後、神の約束の地から離れ、パレスチナ南部のセイルの山地に住むエドム人の先祖になったと伝えられています。

 41~46節は、再びリベカとヤコブの対話です。夫であり父であるイサクを欺き、偽って長男の祝福を奪い取るために共謀したリベカとヤコブ。そのことには成功したが、その結果として自分たちの罪を刈り取らなければならなくなり、現実から逃避して、家族が引き裂かれる結果とならざるを得なくされたリベカとヤコブ。しかし、ここではもはや二人の対話は成り立たなくなっています。母だけが一方的に語ります。【42~45節】。母リベカは自分が仕組んだ偽装と欺きによる行為によって、二人の息子を同時に失ってしまうかもしれないという危機感を抱いています。それを回避するためには、しばらくイサクを遠くの地に逃亡させるほかにないと考えました。44節に「しばらく」、45節には「そのうちに」と書かれていますが、リベカは数年もすればその時が来るであろうと思っていたのかもしれませんが、実際にはヤコブの逃亡期間は20年となり、母は愛する息子ヤコブの顔を二度と見ることができなくなるということは、この時点ではまだだれも気づいてはいませんでした。

 以上のように、それぞれの場面は4人のうち2人の対話で進められていくのですが、家族みんなでの話し合いは一度もありません。自分の利益のことしか考えない人間たちの集団は、家族であれ、親しいグループであれ、国家であれ、そこには群れ全体を結びつける真理はなく、分断と偽り、欺きがあるだけです。それが罪に支配されている人間集団、この世界の現実です。

 けれども、神はこの罪の世界を決してお見捨てにはなりません。その中で、ご自身の救いのご計画を進めてくださいます。神の選びは、人間たちの偽りや妬みや争いの中でも、確かに行われていきます。その確かな選びによって、神はご自身の救いのご計画を確実に進めておられます。どんな人間たちの罪や偽りや欺きによっても、神の契約は神ご自身によって固く守られ、神の救いのご計画は確実におし進められていくのです。わたしたちはそのことを信じ、どんな困難な時にも、どんなに人間たちの罪が世界を暗闇で覆いつくしても、なおも神の真理と救いのみ心を信じ、その神にお仕えしていくことができるのです。神は主イエス・キリストの福音によって、必ずや人間たちの罪に勝利され、分断と争いを取り去り、ついには世界を一つの救われた民としてくださることを信じつつ。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、あなたの永遠に変わらない真理と救いのみ心をすべての人たちに知らせてください。わたしたちの中にある傲慢やうそ偽り、憎しみや争いを、主イエス・キリストの福音によって取り除いてください。世界にまことの平和と共存をお与えください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

7月3日説教「燭台の上に置かれたともし火」

2022年7月3日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:イザヤ書60章1~7節

    ルカによる福音書8章16~18節

説教題:「燭台の上に置かれたともし火」

 きょうの礼拝で朗読されたルカによる福音書8章16~18節の3つの節は、いずれもルカ福音書の他の個所とマタイ、マルコ福音書に、違った分脈の中に、ほとんど同じ文章で出てきます。たとえば、16節の燭台の上に置かれたともし火のたとえは、ルカ福音書11章33節にも同じように書かれています。【11章33節】(129ページ)。でも、ここでは少し違った文脈で、わたしたちの体のともし火と言われています。また、マタイ福音書5章の「山上の説教」では「地の塩、世の光」の比喩との関連で「ともし火のたとえ」が語られています。その個所を読んでみましょう。【マタイ福音書5章13~16節】(6ページ)。

 次の17節と18節も、ほとんど同じみ言葉がルカ福音書と、マタイ、マルコ福音書に、違った文脈の中で語られています。これらのことから、主イエスはさまざまな違った文脈の中で、この3つの節のみ言葉をたびたびお語りになったということが推測できます。それは、この3つの節で語られていることが主イエスが説教された神の国の福音を理解するうえで、非常に重要な意味を持っていることを示唆しています。

 では、16節からその深い意味を読み解いていきましょう。【16節】。主イエスの時代のパレスチナ地方の一般の家では、一部屋に居間、台所、食堂があり、夜にはそこが寝室になり、その一部屋を照らすために部屋の中央に燭台を置き、その上にランプを置くと、一個のランプが部屋全体を明るく照らすという造りになっていました。そのランプを何かで覆ったり、寝台の下に置くならば、ランプはその役割を果たさず、家全体が暗くなり、生活できません。

主イエスはだれでもが日常に経験して知っているこのことをたとえに用いて、神の国の福音の真理を語っておられます。ランプのともし火、その光とは、わたしたちがすぐに気づくように、それはすべての人を照らすまことの光として、クリスマスの時にこの世に誕生された主イエスご自身を指していることは明らかです。

マタイ福音書5章の山上の説教では、先ほど読んだように、わたしたち信仰者の実存、生き方を特徴づけている「地の塩」「世の光」との関連で、「山の上にある町は、隠れることができない」というみ言葉に続いてともしびのたとえが語られています。ここでは、「地の塩」「世の光」としてこの世においでくださった主イエスに従って、その福音によって生きるわたしたち信仰者、キリスト者の生き方が教えられています。

主イエスは罪と死に支配されているこの地を滅びと腐敗から救うために、「地の塩」として働かれました。そして、最後にはご受難と十字架の死、そして三日目の復活によって、罪と死に勝利され、すべて信じる人にまことの命をお与えになりました。主イエスはまた、「世の光」として、世界を覆っていた闇を打ち破り、暗黒の地に住む人々をまことの光で照らしてくださいました。

わたしたち信仰者はその主イエスの救いの恵みにあずかり、「地の塩」「世の光」であられる主イエスを証する務めを果たすことによって、わたしたち自身もまた「地の塩」「世の光」とされ、主イエスのまことの光を反射するようにして、その光を燭台の上に高く掲げ、人々の前にその光を輝かす務めへと召されているのです。

かつては暗闇の中で死んでいたわたしが、いまや主イエスのまことに光に照らされ、わたし自身も光の子とされ、その光を高く掲げるようにと召されているわたし、それはどんなにか光栄ある、尊い務めであることでしょうか。しかし、それは決してわたしの名誉のためであるのではありません。マタイ福音書で教えられているように、天の父なる神が崇められるため、神の栄光のためです。

次の17節を読みましょう。【17節】。このみ言葉も、ルカ福音書では12章2節、マタイ福音書では10章26節、マルコ福音書では4章22節に、それぞれ違った文脈の中で語られています。それらの個所をも参考にしながら、このみ言葉が持つ深い意味をさぐっていきましょう。

第一には、ここでもまた主イエスが語られた神の国の福音との関連で語られていると理解されます。主イエスが神の国の福音を説教されたことによって、それまでは隠されていた神の国の真理が、すなわち、神がイスラエルだけでなく全世界のすべての国民の唯一の主として、愛と恵みと救いとをもってご支配される新しい時、神の国の時が今始まったことが明らかにされたということです。旧約聖書の民イスラエルには約束として、預言として語られていた神の国、神の恵みと愛のご支配が今や成就した。全世界のすべての人が、新しい神の恵みのご支配の中に招き入れられている。救いの恵みを差し出されている。律法によらず、人の功績によらず、ただ一方的に差し出されている神の救いに恵みを信じる信仰によって、すべての人は罪ゆるされ、救われる。主イエスがお語りになった神の国の福音は、そのことをすべての人に公にし、すべての人の目の前に明らかに差し出したのです。

17節のみ言葉は、そのような神の救いのみ心を明らかにするとともに、その福音を聞き、み言葉の光に照らされたわたしたち人間の中に隠されていたものをも明らかにします。いつも神のみ心に背いているわたしの罪が、神と隣人を愛することをせず、自己中心的で、傲慢で、悔い改めることをしないわたしの罪が、神のみ言葉を聞いても信じないわたしの不信仰が、神の招きを受けながらかたくなに自らの中に閉じこもっている不従順なわたしの罪が、その時同時に明らかにされます。神のみ言葉の前では、わたしの貧しさや破れがすべて明らかにされます。神のみ言葉の光の前では、何も隠れることができません。わたしたちはそのようなみ言葉を聞き、恐れつつ、また謙遜になって、「主よ、我を憐れみ給え。わたしを罪より救い給え。わたしを新しい人に造り変えてください。あなたのみ言葉に聞いて、信じ、従順に従っていく者としてください」と祈り求めるほかにありません。

17節のみ言葉は、これからのちに明らかにされる内容をも含んでいます。この時点ではまだ、主イエスが神から遣わされたメシア・キリスト・救い主であるということはすべての人の目には隠されていました。当時の民衆は、イスラエルがローマ帝国の支配から解放されることを待ち望んでいました。たくましい軍馬にまたがって、武力でイスラエルの独立を勝ち取る政治的メシアを期待していた彼らには、主イエスが十字架につけられるメシアであることは隠されていました。一切を捨てて主イエスに従った12弟子たちにも、主イエスが苦難の僕として十字架への道を進み行かれることはまだ隠されていました。

しかし、やがてそのすべてが明らかにされます。主イエスがわたしたちの罪をご自身に引き受けられ、わたしたちの罪のために苦しみを受けられ、十字架にご自身の尊い命をおささげになることによって、わたしたちを罪の奴隷から贖い出し、救われるメシアであることが、すべての人に明らかにされます。神がわたしたち罪びとたちを愛され、ご自身の独り子さえも十字架に引き渡されるほどにわたしたちを愛された、その愛が明らかにされます。そして、その時には、わたしの罪や貧しさや破れにもかかわらず、主イエス・キリストの十字架によって、ただその十字架の福音を信じる信仰によって、わたしたちすべての人が罪ゆるされ、救われるのだということが明らかにされるのです。

もう一つのことを付け加えます。終わりの日、神の国が完成される時、主イエスが神の国の王として君臨され、信じる者たちに永遠の命をお与えくださり、わたしたちが永遠に神の国の民とされるのだということが明らかにされます。

18節で主イエスは【18節】と言われます。このみ言葉も、ルカ福音書19章26節と、マタイ福音書13章12節、および25章29節、マルコ福音書4章25節で、それぞれ違った分脈の中で語られています。それらを参考にしながらその意味を読み解いていきましょう。

まず、主イエスは「どう聞くかべきかに注意しなさい」と言われます。主イエスがお語りになった神の国の福音をわたしたちはどう聞くべきなのでしょうか。聖書に書かれている神のみ言葉を、わたしたちはどう聞くべきでしょうか。それを、神がわたしの救いのためにお語りくださった神の命のみ言葉として聞き、主イエスがお語りになった神の国の福音を、今ここで主イエスがわたしに対して、わたしの救いとまことの命のために語っておられる命のみ言葉として聞くこと、これこそがわたしたちが礼拝で神のみ言葉を聞く時の基本姿勢でなければなりません。パンなしではわたしの体の命を養うことができないように、神の命のみ言葉を聞くことなしには、わたしの魂の本当の命を養うことができないということを知り、鹿が谷川を慕いあえぐように神のみ言葉を慕い求める時、神のみ言葉は命のみ言葉としてわたしを生かすのです。

17節後半のみ言葉は、元来は一般的な原則として言われていた格言のようなものであったと推測されます。つまり、たくさんのお金を持っている人はそれを上手に活用してよりたくさんのお金を手に入れるが、持っていない人はお金の活用方法をも知らないので、持っていたわずかなお金をも失ってしまうであろうという意味で、一般に流布していたことわざであったろうと考えられます。

けれども、主イエスがこの一般的な格言を同じような意味で用いていたのかどうかは改めて吟味されなければなりません。ルカ福音書19章26節では、「ムナのたとえ」の終わりに同じみ言葉が語られています。【26節】(147ページ)。このたとえで主イエスが教えておられる内容から判断すれば、「持っている人」とは、神から与えられている賜物を神に感謝し、それを神のみ心に従って生かして用いる人のことであり、その人は神から与えれている賜物がより豊かに祝福される、より多くの賜物を神から与えられるであろうという意味に理解されます。「持っていない人」とは、神から与えられている賜物に気づかず、感謝もせず、それを神と隣人のために用いることをしなかった人のことであり、その人はすでに与えられていた神の賜物をも失ってしまうであろうという意味です。

神のみ言葉は、それを聞き、信じ、喜んで聞き従う人には、恵みを増し加え、わたしたちに豊かな実りを結ばせます。神のみ言葉はわたしの最高の知恵であり、喜びであり、わたしの足のともし火、わたしの道の光です。そのように信じ、告白する時に、神のみ言葉はわたしに豊かな命と力を与えるのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、わたしたちが朽ちる地上のパンのために生きるのではなく、永遠の命に至らせるあなたの命のみ言葉によって生きる者としてください。主なる神よ、どうかわたしたちをまことの光で照らしてください。光の子たちとして、この世にあって、主イエス・キリストを証しする者としてください。

〇主よ、願わくは、世界にまことの平和をお与えください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

6月26日説教「あなたがたは私を誰と言うか」

2022.6.26  説教 マルコによる福音書8章27~33節

 「あなたがたは私を誰と言うか」

説教 長老 柴田 理

本日与えられた御言葉は、マルコによる福音書8章27~33節です。

 その頃主イエスは弟子達を連れて、ガリラヤ湖の北の方にある、フィリポ・カイザリヤの村々を巡っていました。

 主イエスはこの頃までに主な伝道を終え、エルサレムに向かって受難への道を歩き始めます。その折り返し点での出来事を記したのが今日の箇所です。

 主イエスは道すがら、弟子達にお尋ねになります。“人々は私のことを何者と言っているか?”

主イエスは公の生活を始めてからこれまで、カナの婚礼で水を葡萄酒に変えたことを皮切りに、数々の奇跡を行っておいでになりました。足の不自由な人を歩かせ、友人達に屋根の上から吊り下ろされた中風の人を癒し、ラザロのように亡くなった人をも生き返らせました。また、山上での説教に代表されるように、人々に福音を告げ知らせました。多くの人が主イエスの権威ある言葉に驚き、癒しに感謝し、悲しみから解き放たれました。その噂はユダヤの広い地域に広がっていました。

 そのような中で、主イエスは弟子達に問われたのです。“人々は私のことを何者と言っているか”。

 弟子たちが答えます。“バプテスマのヨハネと言っている人たちがいます。エリヤだという人たちもいます。また、預言者の一人と言っている人たちもいます。”

 バプテスマのヨハネは、御存じのように主イエスを指し示し、その道を整えるために遣わされた、旧約時代最後の預言者です。

……また、主イエスをエリヤだという人たちがいました。エリヤは、ユダヤの国が北イスラエルと南ユダに分かれてしまった後の北イスラエルの預言者でした。やもめの息子を生き返らせるなどの奇跡を行い、最後は火の戦車に乗って天に上げられました。そして、世界の終わりの日、神様の御支配が完成する前に再び現れるとされていました。

 さらに、預言者の一人だという人たちもいました。

 主イエスの権威ある教えや数々の奇跡から、人々は主イエスのことをただならぬ人と捉えていたことは間違いないことです。しかしいずれにしても神の子ではなく、神の恵みを受けた優れた人と捉えていました。

さて、主イエスは弟子たちの答を聞いてさらに問います。“それではあなたがたは私を誰と言うのか”

 “ちまたにいる人たちではなく、弟子として福音を伝えるために召し出され、そば近くにいて私と行動を共にし、わたしの働きを目の当たりにしてきたあなたたちは、私を誰と言うか”、と問います。

 するとペトロが答えます。“あなたはメシアです”。新共同訳聖書では“あなたはメシアです”と訳されていますが、元のギリシャ語の聖書では“キリスト”と記されています。

 キリストとは“油注がれた者”という意味で、ヘブライ語のメシアをギリシャ語に訳したものです。王が位に就く時に、また、祭司や預言者が聖別される時に頭に油を注がれたことに由来するものです。

 主イエスの頃に人々が考えていたメシアとは、ダビデの家系に生まれ、エルサレムを踏みにじっている異邦人たちを追い出し、栄光と繁栄のうちにダビデの王国を回復してくださる方とされていました。

 そしてペトロは弟子達を代表してはっきりと“あなたこそキリストです”と告白しました。

 さて、続いて主イエスは、御自分がこれからどのような道を辿るかを弟子達にお教えになりました。 31節を読みます。“それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老・祭司長・律法学者達から排斥されて殺され、3日の後に復活することになっている、と弟子達に教え始められた”。

長老、祭司長、律法学者とは、ユダヤで最も力と権威のある議会、最高法院の構成員です。つまり、キリストである主イエスが、この世での神の代理者とも言える人々から捨てられ、殺されることを意味しています。

 これはまさに、弟子達がたった今“あなたはキリストです”と言った告白が意味するところです。主イエスは“そうだ、あなたたちの告白は正しい。その私は間もなく苦難を受け、祭司長や律法学者らによって十字架につけられ、3日目に復活する、それが父の御心である”とはっきりとお示しになったのです。

 しかしこれは、弟子達が思い描いていたキリストの姿とは全く違うものでした。

 ローマの支配にあえぐイスラエルの人々が待ち望む王としての救い主であり、イスラエルを再び甦らせるメシアが多くの苦しみを受け、最高法院によって捨てられ、殺されてしまう。しかも主イエスはそれが神の御心であるとおっしゃるのです。

 それまでの権威ある教え、5千人の食事、癒し、湖の上を歩く……これらは苦難とは無縁のように思われました。しかしローマの支配を打ち破ると期待された方は、苦難を受けて死に至る。しかもその苦難はユダヤで最も信仰深いとされた人々によって下される。それが神様のお決めになったことであって、さらに主イエスはそれらを甘んじて受け入れるつもりでいらっしゃる。

ペトロをはじめとする弟子達にとっては全く理解しがたく、受け入れられないもの、あってはならないことでした。

 弟子達は、いわば自分たちの願望に従って、イエスの終わりは当然栄光に満ちているものであり、すべてに勝利し、イスラエルを押さえつけている一切の事柄から解き放たれて王となるものと信じていたのです。

 ここでペトロは、“主イエスを脇へお連れしていさめ始めた”とあります。別の訳によると、“ペトロが彼を連れ出し、叱りつけ始めた”とされています。マタイによる福音書には、ペトロが“主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません”と、主と弟子の関係を弁えない強い口調で諫めたことが記されています。弟子達は主イエスの低さを受け入れられなかったのです。

 主イエスは振り向いて弟子たちを見て、ペトロを叱りつけました。“サタン、私の後ろに下がれ。” 私の前に立ちふさがって苦難への道を遮るのではなく、私の後ろから従ってくるように、とおっしゃるのです。

主は弟子達の中に、自分を十字架への道から逸らそうとするサタンの誘惑を認められたのです。

 “あなたこそキリストです”と正しい告白をした弟子達でしたが、その中身はまだ極めて未熟な信仰だったのです。

 主イエスはこの後、二度にわたってご自分の死と復活を予告なさいました。しかし弟子達は霊に憑かれて発作を起こす男の子を癒すことができずに主イエスから信仰のなさを指摘されました。また自分達の中で誰が一番偉いかと議論して諭されています。さらに、ゲッセマネの園で主イエスが必死に祈っている時に3度も眠りこんでしまい、主イエスの逮捕と共に逃げ去ってしまいました。大祭司カヤファの庭ではペトロが3度主イエスを知らないと誓い、十字架の下に主立った弟子は一人もいませんでした。その上主イエスが甦られた日、弟子達はマグダラのマリアが復活を証言しても信ずることなく、おそらくエマオに行く途中に主イエスと出会った二人の弟子が復活を告げても信じることができませんでした。

 では、今を生きる私達は主イエスをどのような方と告白するのでしょうか。主は問います。“あなた方は私を誰と言うか”

私達は弟子達と同じように“あなたこそキリストです”と告白することができます。

 しかしその時、私たちはこの時の弟子たちよりもしっかりと、“あなたこそキリストで す”と告白したことの示すところを受け止め、自分のこととしていると言えるでしょうか。

 そして、主イエスが私のために、この罪の中にある私自身のために天から降りてくださり、私自身を贖ってくださるために十字架について下さり、神は私自身のために主イエスを死人の中から立ち上がらせ、永遠のいのちの保証を与えてくださり、主イエスは今も神の右にいて取りなしてくださっていることを自分自身のことと捉えた上で、“あなたこそキリストです”と告白できているでしょうか。

……主の問いかけに“あなたこそキリストです”と告白する時、人にはその告白にふさわしい生き方が求められます。告白は主に真摯に向き合った応答であり、同じくその応答として、告白と一体となった生き方へと導かれるのです。日々の生活が信仰告白になるのです。

 “あなたがたは私を誰と言うか”。“あなたこそキリストです”。では私達が主イエスをキリストと言う時、どのような生き方をするのでしょうか。

 主の日毎に教会に通い、主を褒め讃え、罪を赦されて御言葉に聴いている私達は、自分にはまあそこそこの信仰がある”と密かに自負していないでしょうか。私達の教会には牧師がいて、教会員は毎週御前に立っていると、いわゆる“心地よい敬虔さ”にんでいないでしょうか。

 ヨハネの黙示録3章15節、16節に良く知られた1節があります。“私はあなたの行いを知っている。あなたは冷たくもなく熱くもない。むしろ、冷たいか熱いかであって欲しい。熱くも冷たくもなく、生温いので私はあなたを口から吐き出そう。”

 100%の信仰には、人は地上の生涯では到達し得ません。しかし今いるところから少しでも上げて頂くために、祈り、求め続けるのです。自らの努力に拠るのではなく、導き続けていただけるように。

 主イエスは未熟な弟子達を最後までお見捨てになりませんでした。

 そして今、主イエスは世に聖霊をお送り下さっています。私達はその聖霊に自分を明け渡し、信仰が深められること、またそのことへの応答としての生き方ができるように願い求めるのです。

 さて、今日の箇所で、もう一つ気付かされることがあります。

 主イエスは弟子達に“あなた方は私を誰というか”と問われました。“ペトロ、あなたは私を誰というか”ではありません。ペトロを含む弟子達、すなわち弟子達の群れに問われたのです。

 マルコによる福音書1章によると、主イエスはガリラヤ湖の畔で初めに、後にペトロと呼ばれるシモンと、その兄弟アンドレを召し、続いてゼベダイの子ヤコブとヨハネを召しました。そして3章によると、主イエスはイスカリオテのユダを含む12人を中心となる弟子とし、使徒と名付けられました。彼等は常に主イエスと行動を共にし、また時には二人ずつ伝道に遣わされ、再び主イエスの下に帰ってくる、ひとつの群れでした。

 主イエスはこの時、一人一人の弟子ではなく、主イエスに導かれる群れとして、御自分をどのように信ずるかを問われたのです。“あなたこそキリストです”と告白したのは、ペトロ一人の信仰ではなく、弟子達の群れとしての信仰を告白したのです。

 既にお話ししましたように、弟子達はこの告白の後も、数々の失敗を繰り返します。

 しかしこのような不信仰・不服従が延々と続く弟子達に対しても、主イエスは復活した時のことについて“私はあなた方より先にガリラヤに行く”と告げました。弟子達を見捨てることなく、ガリラヤで待っていると、弟子達を招くのです。そしてペンテコステの時に聖霊をお送り下さって、三千人もの人々を召されて教会をお作りになりました。

 キリストに結ばれた、キリストによってこの世から選び出された者達の群れ、教会は今に至るまで続いています。どれほど未熟な信仰でも、主はそれを育て、その群れを御自身のために用いてくださるのです。

 そして今を生きる私達に問われることは、キリストの葡萄の木につながれた枝として“公同の教会に繋がり、日本キリスト教会の会員としてあなたは私を誰と言うか”と言うことです。そこに属するあなたの信仰は何かが問われているのです。

 洗礼式の時、洗礼を受けようとする人は牧師によって誓約を求められます。

“あなたは神を信じますか。”、“あなたは主イエスキリストを信じますか”、“あなたは聖霊を信じますか”、“父と子と聖霊の御名において洗礼されることを願いますか”。そして、“あなたは日本キリスト教会信仰の告白を誠実に受け入れ、その憲法・規則に従うことを誓約しますか”と問われます。群れとしての信仰を受け入れることが求められるのです。

 牧師や教職者を持たない教派のように、一人一人が聖書と向き合って個々人の信仰を深めるということではありません。個人としての信仰が深められることは必要ですが、私達はまず群れの信仰を受け入れ、それを土台として自分の信仰が紡がれていくのです。

 教会と言う言葉には、呼び出すという意味があります。主体は個人ではなく、呼び出され、集められた人の群れ、救われた人の群れなのです。

 主はその中に、救われた人の群れの中に私たちを置いてくださり、主の日毎にきょうだいと共に御前に立つ礼拝を通じて、説教と聖礼典を通じて、未熟な信仰を成長させてくださるのです。

“あなた方は私を誰と言うか”

 私達は教会において、日々主イエスの“あなた方は私を誰というか”という問いに真実に向き合い、“あなたこそキリストです”と告白し続けるのです。

祈りましょう。

 主なる神様、あなたの御名を褒め讃えます。

 主の日に教会に集められ、きょうだいと共にみ前に立ち、主を讃え、罪を告白し、これを赦され、御言葉に聞けますことを心から感謝いたします。

 どうか公同の教会に繋がる私達を慈しみ、終わりの日に向かって成長させてください。

 日本キリスト教会をあなたの省みの内に置いてください。大会、中会、神学校、及びそれらに伴う組織を支えるきょうだいをあなたの祝福の内においてください。新たに牧者を志すきょうだいを立ててください。

 戦争、内乱、災害、差別、病、いじめ、虐待などにより、弱さの中にあるきょうだいをお守り下さい。国々の先頭に立つ者達を御心に従わせてください。

 この週も世界があなたの御心のままにありますように。主の御名によって祈ります、アーメン。

6月19日説教「復活して永遠のいのちの保証を与えた主イエス」

2022年6月19日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:ホセア書6章1~3節

    コリントの信徒への手紙一15章12~28節

説教題:「復活して永遠のいのちの保証を与えた主イエス」

 『日本キリスト教会信仰の告白』を続けて学んでいます。きょうは前回に引き続いて、「復活して永遠の命の保証を与え」という告白について学びます。前回は、主イエスご自身の復活の出来事を中心に学びましたが、きょうは、主イエスの復活がわたしたち信仰者に永遠の命の保証を与えるということについて、聖書のみ言葉から学んでいくことにします。

 前回にも指摘したことですが、『日本キリスト教会信仰の告白』の「前文」と後半の『使徒信条』とを比較してみると、『使徒信条』では第二項目の「わたしは主イエス・キリストを信じます」の中で主イエスの十字架と復活のことが告白されており、第3項目の「わたしは聖霊を信じます」の中で、罪のゆるし、からだの復活、永遠のいのちのことが告白されています。それに対して、「前文」ではその二つの項目が一続きで告白されています。

 つまり、主イエス・キリストが人類の罪のため、すなわち、わたしたちの罪のために十字架につけられ、それによって完全な犠牲をささげてくださった、そのことがわたしたちのための罪からの贖いであったということが、同じ一つの文章の中で告白されており、主イエスの復活もそれと同じです。主イエスの復活がわたしたち信仰者に永遠の命の保証を与えるものであるということが、「復活して永遠のいのちの保証を与え」と、二つのことがあたかも一つのことであるかのように告白されています。これほどまでに、主イエスの救いのみわざとわたしたちに与えられる恵みとが密接に、また堅く、結合していることが「前文」では強調されているのです。

これは、主イエスのご生涯とそのみわざのすべてが、わたしたちのためであったことと関連しているのは言うまでもありません。主イエスの誕生、ご生涯、奇跡やいやしのみわざ、弟子たちに語られた説教、そしてご受難、十字架の死、三日目の復活、40日目の昇天、それらのすべては、わたしたち人間の罪のゆるしと救いのため、わたしたちのからだの復活のため、わたしたちの永遠の命のため、わたしたちの救いの完成のためだったのです。主イエスのご生涯全体とわたしたち信仰者の救いの恵みとは密接に結びついているのです。

 では、主イエスの復活の出来事とわたしたち信仰者の永遠の命の保証とは、どのように結ぶついているのか、その関連について聖書はどのように教えているのかをみていきましょう。

 福音書の中には、主イエスの復活とわたしたちの命の保証とが直接に関連づけられている聖句はありません。福音書は主イエスの復活の出来事で終わっているからです。主イエスの復活と聖霊降臨後、教会が誕生し、パウロの書簡になって初めて両者の関連が頻繁に語られます。では、それはパウロの信仰、パウロが考え出した神学と言うべきなのでしょうか。いや、そうではありません。主イエスの復活の出来事以前に、主イエスご自身の信仰の中にはっきりとあったということを、わたしたちは福音書の中に確認することができます。主イエスは弟子たちに繰り返して説教されました。「わたしを信じ、わたしに従ってくる人は、まことの命を得るであろう。その人は、来るべき神の国では永遠の命を受け継ぐであろう」と。

 特に、ヨハネによる福音書では、主イエスを信じる信仰と永遠の命の結びつきが強調されています。3章16節にこのように書かれています。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。また、【6章39~40節】(175ページ)。さらに、【11章25~26節】(189ページ)。

 これらは、主イエスがご自身の復活と、信仰者に与えられるであろう永遠の命を預言したみ言葉として読むことができます。主イエスはご自身の十字架の死と三日目の復活をあらかじめ弟子たちに予告されただけでなく、復活されたあとに弟子たちと信じる者たちすべてに、朽ちることのない、死によっても終わることがない、永遠の命をお与えになることをもあらかじめ約束しておられました。

 では次に、パウロの書簡を見ていきましょう。パウロの書簡では、主イエスの復活と信仰者に約束されている永遠の命とが、別々に語られるという例はほとんどなく、両者の結びつきが多くの箇所で強調されています。その代表的な個所が、きょうの礼拝で朗読されたコリントの信徒への手紙一15章です。この章全体が「復活の章」と言われていますが、ここでは主イエスの復活の出来事とそれを信じる信仰者の体の復活、永遠の命が密接に関連していること、切り離すことができないことが繰り返して語られています。

 パウロはまず3節から、彼自身が初代教会から受け継いだ信仰告白の中で、主イエスの復活と、復活された主イエスの顕現について語り、さらにはパウロ自身にも復活の主イエスが出会ってくださったことを感謝と驚きとをもって語った後で、12節以下では、主イエスの復活を信じながら、信仰者の復活はないと主張しているコリント教会の一部の人たちの誤った信仰を正すために、次のように語ります。「主イエスの復活と信仰者の体の復活とは分かちがたく結びついているのであるから、もし信仰者の体の復活を否定するなら、主イエスの復活をも否定することになるのであって、それはキリスト教会の信仰と宣教の基礎を失うことになるではないか」と、彼は熱っぽく語ります。したがって、ここでは当然、主イエスの復活と信仰者の体の復活、永遠の命との固い結びつきが強調されていることが分かります。

 もう1箇所、ローマの信徒への手紙6章を読んでみましょう。【3~8節】(280ページ)。ここでは、主イエスの死と復活が、わたしたち信仰者が古い罪の体に死に、新しい復活の命に生きること、つまり主イエスの出来事とわたしたちの信仰の体験、その二つのことが洗礼という礼典において同時に起こっていると語られています。ここでも、主イエスの復活と信仰者の永遠の命とが固く結ばれています。

 では次に、そのような両者の固い結びつきはどこから来るのでしょうか。そのことを語っている箇所を読んでみましょう。【ローマ8章11節】(284ページ)。ここでは、主イエスを死人の中から復活させられた父なる神が、またその父なる神から遣わされた霊、聖霊によって、わたしたち信仰者にもまことの命を、死に勝利した永遠の命をお与えくださるであろうと言われています。主イエスの復活とわたしたち信仰者の復活、永遠の命とを固く結びつけているのは、主イエスを死人の中から復活させられた父なる神の力であり、また聖霊なる神なのです。主イエスご自身の復活の中に、わたしたち信仰者の復活と永遠の命の約束と保証がすでに含まれていると言ってよいでしょう。主イエスはわたしたち滅びゆく者たちに永遠の命を約束するために、死の墓から三日目に復活されたのです。『日本キリスト教会信仰の告白』で「主イエスは復活して、永遠の命の保証を与え」と告白されているのは、そのことです。

 『信仰告白』の中の「保証を与え」とは、まだそれは実際には与えられていないが、やがて必ずや与えられるという確かな保証があるということを意味しています。。再び、コリントの信徒への手紙一15章に戻りましょう。20節にはこう書かれています。「しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました」。「初穂」とは、麦や野菜、果物などの最初の実りのことです。イスラエルの民は初穂を自分たちの食用にしないで、神にささげました。初穂は神からの恵みの賜物だからです。その初穂には間違いなく次の収穫が続くことを神は約束しておられます。主イエスの復活には間違いなく信じる者たちの復活が続きます。復活の初穂である主イエスの復活は、わたしたち信仰者の復活の確かな保証なのです。

 20節の「死者の中から」と「眠りについた人たち」はいずれも複数形です。主イエスお一人だけを言うのではありません。主イエスは、罪のゆえに死すべきすべての罪びとたちの中に入ってきてくださり、そのお一人となって十字架で死んでくださいました。また、主イエスは主イエスの復活を信じるすべての信仰者の代表者として、死に勝利され、復活されました。それによって、わたしたちに復活と永遠の命の確かな保証をお与えくださったのです。

 この確かな約束と保証は、終わりの時、神の国が完成し、主イエスが神の国の王として君臨され、最後の敵である死を完全に滅ぼされる時に、実現します。しかし、主イエスの復活を信じる信仰者にとっては、主イエスがすでにご自身の十字架の死と復活によって、罪と死とに対して勝利しておられることを知らされているゆえに、そして聖霊によって、復活と永遠の命の確かな保証を与えてくださっておられるゆえに、主イエスを信じる信仰者にとっては、今すでにその永遠の命に生き始めていると言えるのです。

 永遠の命とは何かということを確認しておきましょう。わたしたちはこれまでに何度も聖書のみ言葉から学んできたように、永遠の命とはこの世にある今の命が永続するということではありません。今の命は、どれほどに引き延ばしたとしても、それはいずれか滅びなければならない命です。聖書が教える永遠の命とは、この世の命の延長ではなく、全く新しく主イエス・キリストから与えられる命であり、復活され、今も、そしていつまでも生きておられる主イエス・キリストと共にある命であり、父なる神との永遠の交わりの中で生きる命のことです。主イエスがマタイによる福音書28章20節で、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と約束されたみ言葉を信じる信仰者に与えられる命のことです。

 第二には、それは死を乗り越えた命のことです。あえて言うならば、死から始まる命のことです。主イエス・キリストの十字架と共に、古い罪に支配されていたわたしが死に、主イエスの復活によってわたしが新しい命に生かされる命であり、主イエスによって罪ゆるされた命のことです。

 第三に、それは、この世に属する命ではなく、来るべき神の国に属する命のことです。ヨハネの黙示録21章3~4節でこのように語られている命です。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである」。主イエス・キリストの復活を信じるわたしたちは、この永遠の命へと招き入れられているのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、わたしたちが朽ち果てる命のためのパンだけによって生きるのではなく、永遠の命へと至らせるあなたのみ言葉を信じて生きる者としてください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

6月12日説教「ステファノの説教(三)モーセの召命」

2022年6月12日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:出エジプト記3章1~15節

    使徒言行録7章23~35節

説教題:「ステファノの説教(三) モーセの召命」

 使徒言行録はペンテコステの日に誕生した初代教会の歴史を描いています。先週の日曜日が、そのペンテコステ、弟子たちに聖霊が注がれて教会が誕生した日の礼拝でした。主イエスの誕生が紀元1年とすると、ペンテコステは紀元30年代前半の今ごろの季節になります。エルサレムに誕生した教会は、その後数十年の間に急激にパレスチナから小アジア地方、ヨーロッパ、当時の世界の中心都市ローマと、さらにその西当時世界の果てと言われていたスペインに、そしてやがて全世界へと拡大され、今日に至るまで継続されています。世界の教会の歴史はおよそ2000年、秋田教会の歴史はそのうちの近年130年間が重なっていることになります。

 使徒言行録7章に書かれているステファノの説教は、主イエスの時からさらにさかのぼり、紀元前19世紀ころのアブラハム、イサク、ヤコブの族長時代から始まって、きょうの礼拝で朗読された23節からはモーセが40歳になって、神の召命を受けてイスラエルの民をエジプトの奴隷の家から導き出す指導者として立てられることが語られています。これは、紀元前1280年ころと考えられています。

神がアブラハムとモーセをお選びになって、イスラエルの民をご自身の契約の民とされ、神の救いのみわざをお始めになったときから数えると、およそ4千年間の神の救いの歴史の中に、わたしたち秋田教会の130年の歴史が位置付けられるということになります。きょうの使徒言行録のステファノの説教を学ぶにあたって、そのような神の永遠なる救いのご計画の中にわたしたち秋田教会もまた連なっている、その中に招き入れられているということを、まず最初に覚え、そのことを神に感謝したいと思います。

 ステファノはキリスト教会最初の殉教者となった人です。7章の長い説教、これは実はユダヤ最高法院での裁判の席で被告席に立たされた彼の弁明なのですが、その説教が終わったあとすぐに、58節で彼は石打の刑で処刑されました。この説教が、彼の殉教の死直前の説教であり、彼の説教の内容そのものが殉教の死を招く直接的な原因になったのであり、これはまさに彼の命をかけた説教であり、殉教の血に直結する説教であるということを考えると、わたしたちは身の引き締まる真剣な思いとならざるを得ません。

 23節からは、モーセが40歳になってからのことが語られます。ステファノはモーセの120年の生涯を3つに区切り、誕生からエジプト王宮で育てられ、エジプトの教育を教え込まれた40年間(17~22節)と、エジプトで同胞の民イスラエル人が虐待されている現実を目撃し、事件を起こしてミディアン地方に身を隠していた40年間(23~29節)、そして出エジプトから荒れ野の40年間の旅(30節以下)にまとめています。

 23節の「40歳になったとき」と30節の「40年たったとき」は、いずれも原典のギリシャ語を直訳すると、「彼の40年間が満ちたとき」となります。ここには、神がモーセの生涯のそれぞれの40年の期間を、神が計画しておられた救いの期間と理解し、それぞれの救いの期間が神によって満たされたという理解があるように思われます。23節と30節は、17節に連続しているからです。

【17節】。モーセは生まれてすぐにファラオの命令によってナイル川に捨てられましたが、神の奇跡によって、ファラオの娘に救い上げられ、王宮で育てられ、エジプトの最高の教育を受けたこと、そこには神の見えざるみ手の働きがあったということ。エジプト人として育てられたモーセであったが、彼は決してエジプト人になったのではなく、神に選ばれた民、アブラハム、イサク、ヤコブの子孫として、神の契約の民イスラエルに連なるモーセとして、彼をとおしてなされるであろう神の救いのご計画は、この期間も着実に前進していたのだということ、そのことを17節は語っているように思われます。

そして、次の40年間も、その次の40年間も、モーセに対する神の救いのご計画が満ちる期間となることが23節と30節に予告されているのです。では、23節を読みましょう。【23節】。それは彼自身の願いというよりは、25節にあるように、「自分の手を通して神が兄弟たちを救おうとしておられる」とモーセが信じたからです。けれども、モーセも、また彼の同胞のイスラエル人も、この時点ではまだ神の本当の救いのご計画を悟ってはいませんでした。モーセは、奴隷として苦しめられていた同胞を見て、相手のエジプト人を殺すことによって同胞の民を解放できると考えていました。しかし、暴力に対して暴力をもってしても、そこには本当の救いはありません。彼が神の救いのみ心を正しく知るためには、なおしばらくの訓練の期間が必要です。

また同胞のイスラエル人は、エジプト王宮で育ったモーセを自分たちの同胞だとは認めていなかったようです。神がモーセを用いてイスラエルの民をお救いになるということは、彼らにはまだ理解されてはいませんでした。彼らはこう言ってモーセを非難しています。「だれが、お前を我々の指導者や裁判官にしたのか。きのうエジプト人を殺したように、わたしを殺そうとするのか」(27、28節)。モーセは奴隷として苦しめられていた同胞の民を救うためにエジプト人を殺したのに、そのことが同胞のイスラエル人には理解されず、受け入れられませんでした。イスラエル人がモーセを神から遣わされた自分たちの指導者として認めるためには、なおしばらくの期間が必要になります。

モーセはファラオに命をねらわれていることを知り、シナイ半島の西、ミディアン地方に逃れ、その地で祭司の職にあったエトロのもとに身を寄せ、彼の娘ツィポラと結婚をし、二人の子どもの父親となりました。ミディアン地方でのモーセのことについては出エジプト記でも詳しくは書いていませんが、この期間は彼にとっては信仰の訓練の期間であったと推測されます。また、神の召命のみ声を聞くときまでの待機の期間でもありました。神がこの第二の40年間という期間を満たしてくださるまで、モーセは信じて待ち望む必要があったのです。

次に、30~34節を読みましょう。【30~34節】。モーセがシナイの荒れ野で見た幻は「燃える柴の幻」と言われます。ステパノはその詳細を語っていませんが、柴が燃えているのにいつまでも燃え尽きることがないという不思議な幻でした。この幻は、イスラエルの民がエジプトで苦難を受け、虐待され、迫害されても、神の民であるイスラエルは決して滅亡することないということのしるしであり、また同時に、ご自身の民に対する神の情熱と愛はいつまでも変わることなく、永遠に燃え続けるということのしるしでもありました。

モーセはこの幻を見て励まされ、新たな力を与えられ、忘れかけていたエジプトにいる同胞イスラエル人を助けるという彼の使命を再び思い起こしたのでした。そして、燃える柴の中から、今度ははっきりと神のみ声を聞きました。「わたしは、あなたの先祖の神、アブラハムの神、イサク、ヤコブの神である」と。「アブラハム、イサク、ヤコブの神」という言い方は、旧約聖書でも新約聖書でも、何度も繰り返されています。この表現には二つの大きな意味があります。一つには、神が最初にアブラハムを選ばれ、彼と結ばれた契約は、その子イサク、その子ヤコブ、ヤコブの12人の子どもたち、イスラエルの民へと受け継がれ、さらにその契約は、主イエス・キリストによって全世界の教会へと受け継がれていくのであって、神の選びと契約は永遠に変わらないということが言い表されているのです。

もう一つは、本来はこちらが本質なのですが、神はアブラハムの神であり、その子イサクの神であり、ヤコブの神、イスラエルの神、主イエス・キリストの父なる神であり、教会の神であり、そしてわたしたち一人一人の神である、そのように、神は永遠なる神であり、神の愛と義と真理とは永遠に変わらず、神の救いのみわざはどのような時代の変化や状況の変化にも変わることなく、永遠に継続されていくという意味です。

使徒言行録で語られているステファノの説教の文脈で考えるならば、神が最初アブラハムに語られた契約、「わたしはお前を祝福する。お前はすべて信じる人々の祝福の基となる。わたしはお前の子孫を星の数ほどに、海の砂の数ほどに増やす。またわたしはお前とお前の子孫とにこの約束の地を嗣業として与え、神の国を受け継がせる」、この神の契約は、イスラエルの民が400年間エジプトに寄留し、そこで奴隷として虐待され、苦しめられていても、決して神はお忘れにはならない。神はエジプトで奴隷の民とされたイスラエルの神であり続け、イスラエルの民と結ばれた契約は彼らの苦難の中にあっても決して破棄されることはない。その契約は確かな成就に向かっている。神は燃える柴の中からモーセにそのようにお語りになったのです。

神はイスラエルの民の苦難をご覧になっておられ、彼らの苦悩の叫びを聞かれ、それゆえに、天におられる神が地に降って来られ、直接にご自身のみ手をもって彼らをお救いになると言われます。そのために、モーセを遣わすと言われます。ここに至って、モーセはイスラエルの民に対する神の救いのみ旨をはっきりと知らされ、同胞の民を助けたいとの彼の願いが、彼自身の願いである以上に、神の願いであり、神の強い意志であり、永遠に変わることのない神の愛と義と真理とによる救いのご計画であるということを悟るのです。ここではっきりとモーセの召命、神による招きが語られます。彼は同胞の民イスラエルの指導者として立てられます。召命には派遣が伴います。モーセはエジプトへと遣わされます。エジプト王国を支配している絶対的権力者であるファラオのもとへと遣わされます。奴隷として苦しむイスラエルの民の解放者として派遣されるのです。

最後の35節を読みましょう。【35節】。ステファノが旧約聖書の偉大な指導者モーセについて語っているのは、単に出エジプト記に記されている古い歴史をたどっているのではありません。わたしたちはここで、モーセの最初の40年間の生涯と次の40年間の生涯に、ステファノが主イエスのご生涯を重ね合わせている、ここに主イエスの預言を見ている、そして主イエスの預言が今成就していることを見ているのだ、ということに気づかされるのです。

主イエスの誕生とモーセの誕生とが重なります。エジプト王ファラオの迫害の中でモーセは誕生しました。主イエスはヘロデ大王とローマ帝国の弾圧の中で誕生しました。モーセはイスラエルの民が奴隷として苦しめられている中に派遣されました。主イエスは信仰の命を失いかけていたイスラエルの民の中へ、世界に罪が満ち、暗黒に支配されていた中へ、すべての人を罪から救うメシア・救い主として派遣されました。モーセは同胞の民には理解されず、排斥されたにもかかわらず、神に選ばれ、神に立てられ、神に派遣されました。主イエスはご自分の民ユダヤ人には受け入れられず、この世では見捨てられ、ただお一人苦難の道を歩まれ、十字架につけられ、そのようにして神の救いのみ心を成就されました。神の救いは、あらゆる人間の罪や過ち、神への無理解や抵抗にもかかわらず、今この時も前進していくのだということをわたしたちは信じるのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、わたしたちはあなたのみ前にあって、かたくなであり、無知であり、悟るに鈍くあり、悔い改めるに遅くあり、信仰の薄い者であることを告白せざるを得ません。主よ、どうぞわたしたちを憐れんでください。わたしたちをお救いください。わたしたちがあなたの愛と義と真理とによって生きる者としてください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。