5月22日説教「種をまく人のたとえ」

2022年5月22日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:詩編1編1~6節

    ルカによる福音書8章9~15節

説教題:「種をまく人のたとえ」

 ルカ福音書8章4節以下の「種をまく人のたとえ」の個所を、前回に引き続いて学んでいくことにします。4節から15節までの全体の構造を確認しておきましょう。4~8節では、主イエスがお語りになった「種をまく人のたとえ」、9~10節では、主イエスがたとえを用いて語ることの意味について、11~15節では、主イエスご自身による「種をまく人のたとえ」の解説が語られています。この構造は共観福音書(マタイ、マルコ、ルカ福音書)に共通しています。ルカ福音書はマタイ、マルコ福音書よりも半分ほどに短縮されています。

きょうはまず、主イエスが神の国の福音を、たとえを用いて語ることの意味について学びます。【9~10節】。9節の弟子たちの問いに対する主イエスのお答えは、直接には11節に続いています。11節に、「このたとえの意味はこうである」とあるからです。主イエスはたとえの意味を説明される前に、たとえを用いて語ることの意味、あるいはその目的について10節で語っておられます。「種をまく人のたとえ」だけでなく、他のすべてのたとえにもこの原則は適用されます。では、主イエスが神の国の福音を多くのたとえを用いて語るのはなぜなのか。けれども、わたしたちが主イエスのお答えからそのことを理解するのは必ずしも簡単ではないように思われます。

というのは、何かの真理についてより分かりやすく、初心者にも理解できるために、身近かな例やたとえを用いて語る、それがたとえで語ることの意味であり目的であると多くの人は考えます。ところが、主イエスのお答えは違っています。「彼らが見ても見えず、聞いても理解できない」ようになるためであると主イエスは言われるからです。これはどういうことでしょうか。主イエスのお答えには大きな謎が隠されているように思われます。その謎を読み解いていきましょう。

ここで問題となる第一点は、主イエスが十二弟子たちと他の人々とをここで区別していることです。十二弟子たちは主イエスと常に共にいて、神の国の秘密について何度も聞き、それを悟ることが許されているが、群衆はそうではないからたとえで語るのだと主イエスは説明しておられます。しかし、実際にはどうかと言えば、9節で弟子たちは「このたとえはどういう意味か」と質問しています。マルコ福音書4章13節には、「このたとえが分からないのか。では、どうしてほかのたとえが理解できるだろうか」という弟子たちに対する主イエスの叱責の言葉が記されています。弟子たちもまた、主イエスの期待に背いて、このたとえを十分に理解してはいなかったことが分かります。主イエスがお語りになった神の国のたとえが大きな謎であるのは、弟子たちにとっても同様であると言えます。

ここで主イエスが十二弟子と群衆とを区別しておられるのは、弟子たちが神の国の福音をより深く理解できるとか、ファリサイ派が考えたように、弟子たちの方が群衆よりも神の国に近い所にいるという理由によるのではありません。むしろ、弟子たちの無理解を強調するためであったと言うべきでしょう。彼らは主イエスに選ばれ、主イエスと常に共にいて、親しく御言葉を聞く機会が与えられていたにもかかわらず、彼らもまた群衆と同じに、神の国の奥義、その秘密を正しく理解することができていなかったのだと言うべきでしょう。

次に、謎の核心に迫りましょう。10節後半のみ言葉は二重かぎかっこで囲まれていて、これが旧約聖書からの引用であることを暗示しています。マタイ福音書13章ではっきりとこれがイザヤ書6章の預言であると明記されています。その個所を読んでみましょう。【13~15節】(24ページ)。イザヤ書のこの預言は、「心をかたくなにするメッセージ」と言われます。イザヤが神のみ言葉を語れば語るほどに、イスラエルの人々は心をかたくなにして、自分たちの罪に気づこうとせず、悔い改めることをしない、そしてついに、神の厳しい裁きを受けて、国は滅び、民は異教の国に捕らわれの身となるということが、イザヤ書では記されています。

そのように、主イエスが神の国の福音について、その奥義・秘密についてたとえを用いてお語りになることによって、だれもがその内容をよく理解し、神の国の福音を受け入れて救われるようになるのかと言えば、そうではなく、むしろそれによって主イエスの説教を聞いた人の目が見えなくされ、その心がかたくなにされ、弟子たちも群衆も、同じように救いから遠い所に立っていることが明らかにされるのだと主イエスは言われるのです。主イエスの説教によって神の国の福音がたとえで分かりやすく語られたとしても、それで神の国の秘密がだれにでも理解でき、信じることができるようになるのではなく、まただれもが救われるようになるというのでもありません。説教の内容が分かりやすいということと、説教を聞いて救われるということは同じではありません。

主イエスがここで問題にしておられることを二つの側面から見ていきましょう。一つは、神の国が今やわたしたちのすぐ近くに到来し、種をまく農夫の所にも、台所に立つ主婦にも、道を歩く旅人にも、すべての人に近づいて来ているということです。主イエスがこの世界の日常的な出来事や行動をたとえに用いて神の国の秘密を語られたことによって、神の国という、地から遠く離れた天の父なる神のご支配が、だれでもが経験し、生きているこの現実に関係づけられ、わたしたち一人一人の現実と密接にかかわる事柄となった、神の国がわたしの身近になった、わたしの生き方に直接かかわる事柄となったのです。今やわたしたちはわたしのすぐ近くに来ている神の国、神の恵みのご支配に対して、態度表明をするべく迫られているということです。

主イエスがたとえで神の国の奥義をお語りになることのもう一つの重要なポイントは、神の国の奥義・秘密を悟ることをしない、あるいはできない、人間の無知と罪と、また悔い改めることをしない人間のかたくなさのことです。「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われる主イエスの招きのみ言葉を聞いても、それを受け入れず、なおも自分が好む道を進もうとし、罪を悔い改めることをしない人間のかたくなさが、ここでは問題にされているのです。

主イエスがたとえで神の国の福音をお語りになることによって、神の国の福音がわたしの問題、わたしの課題となり、わたしがそれに対してはっきりと態度表明をするように迫られます。その時、神からの一方的な恵みとして差し出される神の国の福音を受け入れるに値しないわたしの罪が明らかにされるのです。神の国の福音を聞くよりも、自分の欲望や傲慢な声に耳を傾けようとしている自分の罪とかたくなさに気づかされるのです。深い罪の自覚と悔い改めなしには、だれも主イエスがお語りになる神の国のたとえを聞くことはできません。

そこで、わたしたちは主イエスがお語りになったこの理由、目的を基準にして、11節以下のたとえの解説を読んでいくことが必要です。前回にも確認したように、このたとえの中心は神のみ言葉の種をまかれる主イエスご自身です。主イエスは天の父なる神のみもとから地に下って来られ、人間のお姿となられてこの世においでになりました。そして、日夜、至る所に神の国の福音を、み言葉の種をまかれます。主イエスの奇跡のみわざを見るために集まってきた人々にも、重い病気で病んでいる人たちにも、きょう一日の生活にあくせくしている人たちにも、宗教的・政治的権威に寄りすがっている人たちにも、主イエスはすべての人に迫り来る神の国について語られ、神の国の福音へとお招きになりました。そのことがたとえの中心点です。

11節からの主イエスの解説では、どちらかと言えば、種をまく人よりはまかれた土地の違いの方に重点が移っているように思われるかもしれません。しかし、それは読む側のわたしたち自身の偏見や差別的価値判断からくる誤った理解なのです。この個所を読んで、わたしたちはすぐにあの人は道端のようだとか、わたしは石地のようだ、この人は茨のようだ、こんな人が良い土地のことだなどと考え、人や自分をその枠に当てはめることをしがちです。そして、ある時には他の人を裁き、またある時には自分を弁護するのです。

しかし、ここで語られている重点はあくまでも種をまく人であり、そしてまかれた種のことです。11節に「種は神の言葉である」と説明されており、12節と13節、14節、そして15節に、「御言葉を聞く」と繰り返されています。種をまく人はあらゆる場所に種をまき、すべての人に神の国の福音を語り、多くの人がそれを聞くことができるようにと働きます。多くの種が芽を出さず、語っても語っても聞かれず、種まきの労苦が無駄に終わるとしても、あるいは、み言葉に対する抵抗や反撃が予想されるとしても、種まきはすべての人にみ言葉の種をまき、神の国の福音を語るのです。

第二に強調されている点は、み言葉の種が持っている生命力です。み言葉の種がこの地にまかれると、そこにある変化が生じます。道端にまかれると、悪魔の激しい攻撃にあいます。石地にまかれると、み言葉のための試練や迫害が起こります。茨の中にまかれると、この世の思い煩いや富の誘惑、欲望が心に入り込み、み言葉に抵抗します。これらはみな、神のみ言葉そのものが持っている偉大な力と生命力によって引き起こされる現象です。神のみ言葉が持つ力と生命力は、この世のものではなく、神から来る力、生命力であるゆえに、この世を支配しているサタンや罪の力、悪しき欲望からの抵抗と攻撃を受けざるを得ません。教会の説教者が語る言葉が、この世のものであるならば、この世から時に歓迎されもし、そのような激しい抵抗や攻撃を受けることはないのかもしれません。しかし、神のみ言葉は罪に支配されているこの世を破壊し、変革していく力を持っていますから、多くの抵抗や反撃を受けざるを得ません。けれども、ついには神のみ言葉の種は良い地に落ち、聞かれ、信じられ、豊かな実りをつけるのです。「良い土地に落ちたのは、立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人たちである」(15節)。神のみ言葉を語る教会はこのような主イエスの約束を与えられているのです。

ここで教えられる第三の点は、わたしたちはここでもまた自らの罪とかたくなさ、弱さと愚かさによって、何としばしば神の命のみ言葉を無駄にしているかを告白しなければならないということです。神のみ言葉の力と生命力とを信じないために、わたしたちは何としばしば罪の誘惑に屈し、迫害を恐れ、おのれの欲望に敗北してしまっていることでしょうか。み言葉の種をまく務めをおろそかにしていることでしょうか。

 主イエスはこのようなわたしたちのために十字架で死んでくださったことを思い起こすべきです。ヨハネによる福音書12章23、24節で主イエスはこのように言われました。「人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」。主イエスはわたしたちの中にみ言葉の種が深く根付くために、わたしたちに豊かな収穫を得させるために、そしてまた、わたしたちがみ言葉の種をまく務めを大胆に果たしていくことができるために、十字架で死んでくださったのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、あなたの命のみ言葉をわたしたちにも与えてください。そのみ言葉によって生きる者としてください。どうか、全世界のすべての人が、朽ちるパンのために生きるのではなく、あなたの命のみ言葉によってまことの命を生きる者たちとしてください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

5月15日説教「復活して永遠のいのちの保証を与えた主イエス」

2022年5月15日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:詩編16編1~11節

    マルコによる福音書16章1~8節

説教題:「復活して永遠のいのちの保証を与えた主イエス」

 『日本キリスト教会信仰の告白』を続けて学んでいます。きょうは、「復活して永遠のいのちの保証を与え」という箇所を、聖書のみ言葉に聞きながら学んでいきます。

「復活して」と「保証を与え」の二つの動詞の主語は、言うまでもなく、『信仰告白』の冒頭にある「わたしたちが主と崇める神のひとりご子イエス・キリスト」です。主イエス・キリストが『信仰告白』の最初の文章すべての主語です。それだけでなく、主イエス・キリストは『信仰告白』全体の主語であり、またわたしたちの信仰と信仰生活すべての主語であられるということを、わたしたちはこれまでにも何度も確認してきました。

 「復活して永遠のいのちの保証を与え」、主イエス・キリストがこの文章の二つの動詞の主語ですが、その意味合いは少し違っています。つまり、「復活して」の方は、主イエスが死から復活されたという、もっぱら主イエスご自身に関することであるのに対して、「保証を与え」の方は、主イエスがご自身の復活によって、わたしたち信じる人たちに永遠のいのちの保証をお与えくださったという、わたしたち信仰者に関することが告白されています。

 このことは、すぐ前の文章でも同じでした。主イエスが十字架にかかられたことと、それに続いて、その主イエスの十字架によって、全人類の罪のための完全な犠牲がささげられ、わたしたちすべての罪が贖われたということが告白されていました。つまり、『信仰告白』の最初の文章では、まず主イエス・キリストのことが告白されており、主イエス・キリストがどのような方であり、何をなされたのか、そのみわざについて告白されているのですが、また同時に、そのことがわたしたちにどのような意味があるのか、主イエスのご人格と彼のみわざが、わたしたちに何をもたらすのか、それによってわたしたちの生き方がどのように変えられていくのかということが、告白されているのです。

 『日本キリスト教会信仰の告白』は『使徒信条』に前文を付けた簡単信条ですが、後半の『使徒信条』では、第二項の「主イエス・キリストを信じます」の中で主イエスの十字架の死、復活が告白され、次の第三項の「聖霊を信じます」の中で、わたしたちに与えられる「罪のゆるし」と「体の復活、永遠の命」が告白されており、それぞれの項目別に語られていましたが、前文では二つが合体した形で告白されていて、両者の結びつきがより強調されていると言ってよいでしょう。

そこで、きょうは第一に、主イエスご自身の復活について、そして第二に、それがわしたち信仰者にとってどのような意味を持つのかということ、その結びつき、結合について学んでいきたいと思います。

主イエスの復活について記録している最も古い文書はコリントの信徒への手紙15章3節以下と考えられています。そこを読んでみましょう。【15章3~5節】(320ページ)。3節の「すなわち」以下の文章が、パウロが受け取った初代教会の信仰告白だったと考えられます。その中に、「三日目に復活したこと」とそれに続いていくつかの復活の顕現について告白されています。主イエスの復活は初代教会の信仰告白の中心であったことが確認できます。

ちなみに、パウロがこの手紙を執筆したのが紀元55年ころと考えられますから、これが今日聖書として残されている文書の最も古い主イエスの復活の記録と言えます。きょうの礼拝で朗読されたマルコによる福音書16章の復活の記録は、福音書の中では一番早いのですが、おそらくはパウロの手紙よりは少し遅く、紀元60~70年ころに書かれたと考えられています。いずれも、主イエスの十字架の死、復活の出来事から2、30年後であったということになります。

では、主イエスの復活を信じる信仰は、主イエスの弟子たちにとって、初代教会にとって、どのような意味を持っていたのでしょうか。使徒言行録2章のペンテコステの時のペトロの説教からそれをさぐってみましょう。この説教は主イエスの復活からちょうど7週後、ペンテコステ・聖霊降臨日になりますが、その日の説教でペトロは繰り返して主イエスの復活のことを語っています。【2章23~24節】(216ページ)。また【31~32節】。ペトロの神殿での説教でも同じです。【3章15節】(218ページ)。

ペトロはこれらの説教で、自分たちは主イエスの復活の証人であるということを強調しています。つまり、ペンテコステの時に誕生した教会は、主イエスの復活の証人として集められた弟子たちによって建てられたということです。あるいは、そもそも教会とは主イエスの復活の証人としての使命を果たすために建てられたのだということです。主イエスの復活は、初代教会の信仰告白の中心であっただけではなく、彼らの信仰と教会の出発点、土台、基礎、またその目的でもあったと言えます。

主イエスの十字架の時に、ペトロを始め弟子たちは皆主イエスを見捨てて逃げ去りました。彼らは主イエスの十字架につまずき、散らされました。けれども、復活された主イエスは、散らされた弟子たちを再び呼び集めてくださいました。主イエスを3度「知らない」と否んだペトロを、復活の主イエスは再び使徒としてお立てくださいました。そのようにして、復活された主イエスと出会った弟子たちは、罪と死の中から再び立ち上がることができたのです。主イエスの復活は弟子たちを新しい命によって生かし、教会を誕生させたのです。主イエスの復活を信じた弟子たちは、主イエスの復活から新しい命を生きる者とされ、新しい歩みを始める者とされました。主イエスの復活を土台にして建てられた教会は、主イエスの復活から生きる信仰者の群れとして、この世の朽ちゆくものや死すべきものによって生きるのではなく、罪と死とに勝利した主イエスの復活の命を土台として、そこから出発して、その復活の命を与えられている者たちとして、その復活の命の完成の時を目指して歩むのです。そのようにして、主イエス・キリストの教会は、過ぎ去り行き、滅び去るしかないこの世にあって、主イエスの復活の命、永遠の命に生かされている信仰者の群れとして、復活された主イエスを証ししていくのです。

従って、主イエスの復活の証人として生きている教会は、この世にある他のすべての人間の集団、宗教団体であれ、政治団体、趣味の団体、営利団体、地域共同体、それらすべての人間集団とはこの点において決定的に違っているということが言えます。この世のすべての人間集団は、時とともに過ぎ去り、滅び行くしかなく、罪に支配され、すべては最後の死に向かっているのに対して、教会は主イエスの十字架の死から始まり、主イエスの復活から始まっている、そして死を超える希望へと向かっている、終わりの日に再び来り給う主イエス・キリストを待ち望みながら歩む群れであるということなのです。わたしたちの教会が、「主は復活して永遠のいのちの保証を与え」と告白している第一の意味がここにあります。

さて、この観点から福音書を読んでみると、福音書は主イエスの誕生から始まり、数年間の神の国の福音の宣教活動と、主イエスの地上での最後の1週間、受難週の十字架の死と葬り、そして日曜日朝の復活という順序で描かれています。けれども、普通の人物の伝記と大きく違っている点は、その人の死をもって伝記の本文が終わるのが一般的であるのに対して、福音書ではさらに1章が、マルコによる福音書では16章が続いているということです。しかも、その1章が伝記の本文が終わって、いわばエピローグのような付け足しの1章ではなく、それも本文そのものであり、それだけでなく、その最後の章から何か新しいことが始まることを予感させるような描き方になっているというのが、主イエスのご生涯を記録した福音書の大きな特徴なのです。

マルコ福音書16章1節に、「安息日が終わると」と書かれてあり、2節には、「そして、週の初めの日の朝ごく早く、日が出るとすぐ」と書かれています。この書き方は、聖書の最初のページ、創世記1章1節の「初めに、神は天地を創造された」というみ言葉を思い起こさせます。ここから、新しい1週が始まる、新しい1日が始まる、新しい神の救いのみわざが始まる、新しい信仰の歩みが始まるということを、わたしたちに予感させます。そして、振り返って考えてみると、マルコ福音書はこの最後の章から書かれているのだということに気づかされるのです。マルコ福音書は主イエスの復活の出来事から、その復活を信じた信仰によって書かれていることに気づくのです。

さらに具体的に読んでいくと、週の初めの日、つまり日曜日の早朝に、数人の婦人たちが主イエスの亡骸(なきがら)に油を塗るために墓へと急ぎます。婦人たちは敬愛する先生である主イエスに対して、最後の奉仕をするつもりでいました。亡くなった人の体に香油を塗ることは、死者を葬るための重要な儀式でした。けれど、主イエスの場合、十字架で息を引き取られたのが金曜日の午後3時過ぎ、ユダヤ人にとっては一日は日没から始まりますから、日没の前に急いで墓に葬られました。というのは、次の日はユダヤ人の安息日であって、何の仕事もしてはならないと律法で定められていたからです。そのために、主イエスのお体に香油を塗る時間がなかったのです。

そこで、婦人たちは安息日が終わった日曜日の早朝に、やり残した奉仕をするために墓へと急いだのでした。ところが、婦人たちが墓へ行ってみると、そこには主イエスのお体がありませんでした。主イエスは婦人たちが墓に着く前にすでに復活され、墓は空になっていたのです。そのために、死者のための最後に残されていた香油塗りの奉仕をしようとしてやってきた彼女たちは、その奉仕ができませんでした。その代わりに、彼女たちは白い長い衣を着た若者、これは神の使いである天使のことですが、彼が語る神のみ言葉を聞かされます。【6~7節】。

死者のために仕えようと墓にやってきた彼女たちは、今や、死者のためにではなく、復活された主のために、今も生きておられる主イエス・キリストのために、主イエス・キリストの復活の証人として、主イエス・キリストの復活の福音を携えて、それを語り伝えるために仕える者へと変えられたのです。そのために、彼女たちは急いで墓から立ち去りました。もはや、墓へと急ぐ人たちではありません。墓を後にして、復活の福音に生きる者へと変えられたのです。

ここには、主イエスの復活を知らない人と、それを知らされた人の違いが、象徴的に描かれているように思われます。まだ主イエスの復活を知らなかった婦人たちは、死者のために奉仕しようと、墓へと向かいます。すべての人間は、そのようにして、死へと向かっていきます。死ぬべき者たちのために仕え、死のために仕えている人は、死の前では為すすべなく、くずおれるほかにありません。あの婦人たちのように、「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と言って、不安と恐れを抱きつつ、自らも墓へと急ぐほかにありません。

しかし、主イエスの復活を知らされた婦人たちは、すでに墓の石が取り除かれていることを見ています。もはや、死者のために奉仕するのではなく、復活して生きておられる主イエスにお仕えするために、死から命へ向かって歩み出すのです。そこにこそ、本当の意味での生きる希望があります。主イエス・キリストの復活を信じ、そのことを告白するわたしたちは、その希望に生きることがゆるされているのです。

(執り成しの祈り)

〇わたしたちの命と死とをみ手に治めておられる全能の父なる神よ、あなたがわたしたちを死の墓から救い出し、永遠の命に至る希望へと召してくださいましたことを心から感謝いたします。わたしたちはあなたを離れては罪の中で死ぬほかありません。どうか、み子主イエスの復活を信じる信仰によって、わたしたちをまことの命の道へとお導きください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

5月8日説教「ステファノの説教(二)ヨセフからモーセへ」

2022年5月8日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:出エジプト記1章1~14節

    使徒言行録7章9~22節

説教題:「ステファノの説教(二)ヨセフからモーセへ」

 キリスト教会の最初の殉教者となったステファノが、死の直前にユダヤ最高議会の法廷で語った説教が使徒言行録7章に書かれています。ステファノの説教はアブラハムから始まる信仰の民イスラエルの2千年近くの歴史を振り返りながら、その中で神がどのようにイスラエルの救いの歴史を導かれたかについて語り、そして約束されていたメシア・救い主・イエス・キリストによってその救いの歴史を、今この時に完成されたことを語っています。それだけでなく、その裁判の席で彼を裁くべきユダヤ人指導者たちが、メシア・救い主であられる主イエス・キリストを受け入れず、十字架の刑によって殺したという、彼らの大きな罪について語っています。ここでは、被告席に立たされているステファノが主イエス・キリストの証人として語ることによって、ユダヤ人指導者たちの悔い改めることをしない罪を裁く結果となっているのです。

 7章2~8節では、族長アブラハムからその子イサクとヤコブ、彼の12人の子どもたちについて語られています。創世記12章から36章に書かれている内容をまとめています。9~16節では、ヤコブの子どもヨセフのエジプトでの生活と、そののちヤコブ一族全員がエジプトに移住したこと、これは創世記37章から終わりの50章までのまとめです。きょうはこの個所と、次の17~22節まで、モーセの誕生について語られている箇所を学びます。

 ヤコブはのちにイスラエルと改名しますが、創世記25章26節によれば、ヘブライ語のかかとを意味するアーケーブにちなんでヤコブと名づけられました。彼が双子の兄エサウのかかとをつかんで生まれてきたからです。やがて彼はその名のごとく、兄エサウウを自分のかかとでけ落とすようにして、兄と父とをだまして長男としての特権を奪い取り、父の財産と祝福とを受け継ぎました。

 ヤコブには12人の子どもが与えられましたが、年老いてから生まれた子ヨセフを父ヤコブは一番かわいがり、特別扱いしたために、他の兄弟はヨセフをねたんで、彼をエジプトに売り飛ばしました。

9~10節でステファノはこう語ります。【9~10節】。ヨセフがエジプトに売り飛ばされた原因は父ヤコブの偏愛であり、それをねたんだ他の兄弟たちの憎しみであったのですが、しかし、そこには神の隠された救いのご計画があったのであり、神がヨセフを選んでご自身の救いのご計画を進められたという、神の選びがあったのだということを、ステファノの説教が明らかにしています。そのことは、9節の「神はヨセフを離れず」という言葉で表現されています。他の兄弟たちはヨセフを捨てたけれども、しかし神は彼から離れず、彼をお見捨てにならなかったのです。父の偏愛と兄弟たちの憎しみという人間のあやまちや悪意にもかかわらず、その中を貫いて神の救いのみ心が行われていったのでした。

さらに10節では、「あらゆる苦難から助け出して、恵みと知恵とをお授けになった」と語られています。神はご自身がお選びになった信仰者と常に共にいてくださり、その人によって救いのみわざを行われます。神に選ばれるということ、また神が常に共にいてくださるということは、信仰者にとって、苦難や試練に遭わないという保証ではありません。いやむしろ、神は信仰者に苦難や試練の道を備えたもうのです。けれどもまた、その苦難と試練の道の中でもなおも、神は信仰者をお見捨てにはならず、信仰者を離れず、苦難と試練をとおして大いなる恵みを与え、救いのみわざをなしたもうのです。

わたしたちはここで、9節、10節で語られているヨセフの生涯は主イエス・キリストのご生涯を指し示していることに気づかされます。「神は彼を離れずいつも共におられた」、「あらゆる苦難から助け出された」、「恵みをお与えになった」、そして「知恵を現わされた」、これらすべては新約聖書の中で主イエスのご生涯について語られている内容と一致します。

主イエスは神のみ子であられ、神が常に共におられたゆえに、神の権威によって力強い命のみ言葉をお語りになり、罪のゆるしのみ言葉を語られ、数々の奇跡のみわざを行われました。神が主イエスと共におられたというだけでなく、主イエスはインマヌエル「神我らと共にいます」と呼ばれるメシア・救い主であられ、神はこの主イエスによってわたしたち罪びとと永遠に共にいてくださる道を開かれたのです。神はまた主イエスのご受難と十字架への道に伴われ、主イエスを死の墓から救い出され、復活の命をお与えになりました。使徒パウロがコリントの信徒への手紙一1章18節以下で書いているように、主イエスの十字架の死は救われる人にとっての神の知恵であり力であり、十字架の福音の愚かさによって、神はわたしたちをお救いくださったのです。けれども、ユダヤ人は十字架の愚かさにつまずき、主イエスを信じませんでした。

さて、エジプトに渡ったヨセフは神から与えられた知恵によって、エジプト王ファラオの好意を得、宰相(総理大臣)の位につきました。その後、世界的規模の大飢饉が起こり、カナンの地に住んでいたヤコブとその一族は、ヨセフの知恵によって蓄えられた食料を求めてエジプトへとやってきました。兄たちはかつて自分たちが売り飛ばしたヨセフがエジプトでまだ生きていて、しかも宰相にまでなっていて、自分たちの目の前で穀物の販売を取り仕切っているなどと、予想もしていませんでした。最初に、兄弟たちが食料を求めてやってきたときには、ヨセフは自分の身分と過去を明かしませんでしたから、兄弟たちはヨセフとは気づきませんでしたが、二度目にやってきたときに、自分が弟のヨセフであることを打ち明け、兄たちの罪をゆるし、兄弟たちは和解しました。その後、父ヤコブと11人の子どもたちとその一族75人がみなエジプトに移住することになりました。ここまでが、創世記に書かれている族長の歴史です。

ヨセフはこのように、多くの苦難と試練の生涯をとおして、カナンの地にいた彼の家族を救う者となったのです。神が常に彼と共におられ、彼に恵みをお与えくださり、彼の道をお導きくださったからです。そのようにして、ヨセフはわたしたちすべての人間を罪から救うために苦難の道を歩まれた主イエス・キリストを指し示したのです。

次に、17節からはモーセについて語られます。出エジプト記1章以下に書かれているイスラエルの民の歴史の始まりです。ここでステファノはモーセの生涯を40年単位で3つに区分して語っています。17~22節は、誕生から40歳になるまで、23~29節は次の40年、30節からは最後の40年について語っています。

ヤコブ(後に改名してイスラエル)の12人の子どもたちとその子孫はおよそ400年間エジプトに住んでいました。神の知恵によって世界的飢饉からエジプトを救ったヨセフのことはやがて忘れ去られていきました。カナンの地から移住してきたイスラエルの子孫が次第に増えるにつれて、エジプトの王はその民族の信仰と結束の強さに恐れを感じ、彼らを奴隷として虐待するようになりました。

【17~22節】。エジプトでのイスラエルの苦難の歴史の始まりは、神の約束の実現の時が近づいていることのしるしでもあったとステファノは語ります。かつて神がアブラハムに、「あなたとあなたの子孫とにこの地を永久の所有として与える。あなたの子孫はこの地に増え広がり、わたしはあなたの子孫を代々に祝福するであろう」と約束された神のみ言葉は、400年のエジプトでの寄留の生活の間にも神はお忘れにはなりませんでした。そればかりか、今この苦難と危機の時にその約束を成就されるというのです。

「ヨセフのことを知らない別の王」、はイスラエルの子孫を虐待し、彼らの家に生まれた乳飲み子を殺すように命じました。この王がだれであるのか、エジプト側にもイスラエル側にも記録はありませんが、紀元前13世紀のエジプト第19王朝最初の王ラメセス二世ではないかという説がもっとも有力です。

この王がエジプト全国に、「ヘブライ人の家に生まれた男の子は、一人残らずナイル川に放り込め」と命令したと出エジプト記1章22節に書かれています。エジプト王ファラオの命令は絶対的な権限を持っていました。寄留の民であり、奴隷の民であったヘブライ人にとっては、その命令に逆らうすべは全くありません。イスラエルの民は寄留の地エジプトで死に絶えてしまうことになるのでしょうか。神が最初アブラハムにお与えになった約束のみ言葉、彼の子イサクとその子ヤコブへと受け継がれた神との契約はここで途絶えてしまうのでしょうか。神の救いのご計画はこれで中断してしまうのでしょうか。

しかし、そうではありませんでした。神はイスラエルの子孫が苦難や試練の中にあったときにも、絶望的な危機の時にも、なおも彼らと結ばれた契約をお忘れにならず、神がイスラエルの民によってお始めになった救いのみわざを決して中断されることはありません。神はこの時にも、イスラエルを救うために一人の人をお選びになりました。

それがモーセです。モーセの両親はこの世の権力者の命令を恐れませんでした。それは、彼らが主なる神を恐れていたからです。天地万物を無から創造された神、族長アブラハムをお選びになり、彼と永遠の契約を結ばれた神、その主なる神へのイスラエルの信仰は族長時代の数百年間とエジプトでの400年間が過ぎても、全く変わっていなかったのです。なぜなら、彼らに対する民の愛と義と救いのみ心が変わらなかったからです。この神を信じ、この神のみを恐れる信仰者にとっては、この世のいかなる権力者をも、迫害をも、恐れる必要はありません。

モーセの両親は幼な子をパピルスで編んだ小さなかごに入れ、ナイル川の岸に置きました。偶然にそれを見たファラオの娘が幼な子を引き上げ、自分の子として育てることになりました。このようにして、モーセはエジプトの宮廷で育てられ、エジプト人としての最高の教育を受け、やがてイスラエルの民をエジプトから救い出す指導者として神に用いられるのです。このようなことを一体だれが予想しえたでしょうか。このような神の隠されたみ心を一体だれが知り得たでしょうか。迫害する者たちのただ中にあって、迫害する者たちをもお用いになって、迫害する者たちの手からご自分の民を救い出す指導者モーセを準備される神を、だれが知り得たでしょうか。

このようにして、神はモーセを選び、彼をお立てになり、イスラエルの民を奴隷の家エジプトから救い出されたのです。モーセはこのようにして、全人類を罪の奴隷から救い出されるメシア・主イエス・キリストを指し示し、メシアのための道を備えるために仕えたのです。

(執り成しの祈り)

〇主イエス・キリストの父なる神よ、あなたがきょうわたしたち一人一人をお選びになり、それぞれの派遣された場から呼び出し、あなたのみ前に集わせ、あなたの救いのみ言葉をお聞かせくださいましたことを心から感謝いたします。どうか、あなたがみ言葉によって創造されたこの世界で、あなたのみ心が行われ、あなたの救いのみわざが成就されますように。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

5月1日説教「エサウとヤコブ - 神の選び」

2022年5月1日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:創世記25章19~34節

    ローマの信徒への手紙9章6~18節

説教題:「エサウとヤコブ―神の選び」

 創世記12章からの族長アブラハム物語りは25章5節以下に書かれている彼の死をもって、ひとまず幕を降ろすことになります。【5~10節】(38ページ)。この個所について、二つことに触れておきたいと思います。一つは、5節の「全財産をイサクに譲った」というみ言葉です。古代近東諸国では、長男が他の男兄弟の2倍の財産を相続するのが習わしでしたが、アブラハムの実の子はイサク一人ですから、彼が全財産を相続することになります。ただし、ここで重要な点は、イサクは地上の財産を受け継ぐだけではなく、父アブラハムの信仰の財産を受け継ぐのだということです。父アブラハムに与えられた神の契約を受け継ぐのです。すなわち、神の祝福と、星の数ほどの信仰の子孫と、神の約束の地とを受け継ぐのです。これこそが、彼が父から受け継ぐべき最も大切は財産なのです。地上の朽ちるほかない財産をではなく、天の父なる神から賜った信仰の財産を受け継ぐべきであること、このことは、わたしたち一人一人の信仰の家庭にとっても同様だということをまず覚えたいと思います。

 二つには、8節のみ言葉です。「アブラハムは長寿を全うし、……満ち足りて」と、彼の生涯が満たされたことが二度語られ、強調されています。これはいわば天寿を全うしたという意味ですが、より詳しく言うならば、神が彼のために用意された地上のすべての日々が今や終わり、神が彼によって計画しておられた救いのご計画が今や成就したという意味です。アブラハムの生涯を満たすのは主なる神なのです。アブラハム自身は幾度も疑い、挫折し、失敗したとしても、あるいはまた、彼にまだやり残した仕事があったとしても、彼の信仰の生涯を本当の意味で満たしてくださるのは主なる神なのです。それゆえに、アブラハムの死はそれですべてが終わってしまうのではなく、むしろ神の約束が成就される時、神のみ心が全うされる時、神の救いのみわざが前進する時となるのです。神は彼の死をとおしても、ご自身のご計画を成就されるのです。11節にこう書かれてあるとおりです。【11節】。

 アブラハムの死を超えてさらに前進される神の救いのご計画について、19節から始まるエサウとヤコブの誕生の個所を続けて読んでいきましょう。【19~21節】(39ページ)。イサクの結婚に関しては24章に長い花嫁探しの物語として描かれていましたが、彼が父アブラハムの故郷ハランからリベカを迎えて結婚したのは40歳の時でした。この二人の信仰の家庭によって、神の約束が受け継がれていくことになるのですが、すぐにも困難な問題が彼らの前に立ちふさがります。「妻に子供ができなかった」と21節に書かれています。アブラハムと妻サラの場合も、子どもが与えられず、25年間彼らは祈り続けました。イサク自身が両親の長い祈りの末に与えられた祈りの子であったのですが、彼はまた妻リベカに子どもが与えられるようにと祈る者となりました。この祈りは、イサクと妻リベカの課題であるだけでなく、彼らが担っている神の約束の成就のためでもありました。彼らは「お前の子孫を星の数ほどに増やす」と言われた神の約束の成就を共に祈りつつ待ち望む者とされたのです。

 神は彼らの祈りに応えてくださいます。彼らに子どもが与えられたのはイサクが60歳の時であったと26節に書かれていますので、彼らは20年間祈り続けたことになります。神は彼らの祈りに応えられ、ご自身の救いのご計画を推進されます。

 けれども、一つの願いが聞かれてリベカが身ごもってから、すぐにまた別の問題がやってきます。【22~23節】。「これでは、わたしはどうなるのでしょう」とのリベカの叫びは、初めて親になるリベカの不安、また胎内の子どもの異常な動きに対する不安を言い表していると思われますが、同時に、生まれ出る二人の子どもが長子の権利を巡ってその後に繰り広げるであろうさまざまな争いをも、先取りしているようにも思われます。

 リベカは「主のみ心を尋ねるために出かけた」とありますが、どこに行ったのかは分かりません。礼拝の場所か祈りの場所と思われます。困難な課題や悩み、不安を解決してくださるのは主なる神です。

 神のお答えには二つの内容が含まれています。一つは、リベカから生まれる二人の子どもは二つの民族になるということです。一つの民族は、弟ヤコブの子孫であるイスラエルの民です。もう一つは、エサウの子孫であるエドム人です。エドム人は死海(塩の海)の南方に住み着いて、その後イスラエルと長く争いを繰り広げることになります。

二つには、先に生まれた長男ではなく、後に生まれた次男がより強い民になり、兄を支配するようになるということ。この神のお答えには、驚くべき大逆転が語られています。当時の慣習からすれば長男がその家の家督権を持つのが当然で、その家全体を治める権利を有しているにもかかわらず、「兄が弟に仕えるであろう」と預言されているからです。先に生まれたエサウの子孫エドム人ではなく、後で生まれたヤコブの子孫であるイスラエルの民を神は選ばれたのです。

 ここには不思議な神の選びがあります。使徒パウロはこの神の不思議な選びについて、ローマの信徒への手紙9章で語っています。【10~13節】(286ページ)。これは神の憐れみによる選びです(16節以下参照)。人間の善悪や意志やすべてのわざに関係なく、また社会的秩序とか慣習にも関係なく、それらのすべてに先立つ、神の側からの一方的な恵みと憐れみによる選び、それが神の選びであることがここでは強調されています。それゆえに、神に選ばれた人は、神の救いのご計画のために用いられ、神の救いのみわざのために仕える者とされるのです。選ばれた人は、神への感謝と恐れとをもって、神から託された務めを担うことによって、神の選びに応えるのです。これが、アブラハムの選びでした。また、これがヤコブの選びであり、イスラエルの民の選びであり、預言者エレミヤの選びであり、そして使徒パウロの選びでもありました。

 イスラエルの選びについては、申命記7章6節以下にこのように書かれています。【6~8節】(292ページ)。この変わることのない神の永遠の愛がイスラエルの全歴史を導いていました。預言者エレミヤの選びについては、エレミヤ書1章5節にこのように書かれています。【5節】(1172ページ)。それゆえに、エレミヤはたびたびの同民族から迫害の中でも恐れることなく神のみ言葉を語り続けることができました。そして、使徒パウロの選びつついて、彼自身がガラテヤの信徒への手紙1章15節でこのように言っています。【15~15節】(343ページ)。それゆえに、パウロもまた多くの困難や試練の中で、なおも力強く主イエス・キリストの福音を語り続けることができました。

 今日のわたしたち一人一人の選びもまた同様です。わたし自身の何らかの能力とか価値によらず、ただ一方的な神の愛と憐れみによって、この貧しい者であり弱い者であるわたしが神の選びを受け、主イエス・キリストの福音へと導き入れられ、救いへと招き入れられ、神の民とされているのです。ここにこそ、わたしたちの救いの確かさがあり、救われている喜びがあり、そして福音宣教の使命を果たしていく力と希望があるのです。

 では、もう一度創世記25章に戻りましょう。23節には、双子の兄弟であるエサウとヤコブの逆転の運命が、彼らの誕生する前からすでに神によって決定されていることが語られているのですが、その後の二人の生涯は実際にどのようになっていくのでしょうか。

 【24~26節】。先に生まれた兄エサウの説明が「赤い」(これはヘブライ語ではアドモーニー)、「毛深い」(ヘブライ語ではシェーアール)となっていますが、この二つはいずれもヘブライ語の発音がエサウとは一致しません。30節で空腹だった彼が「赤いものを食べさせてほし」と願ったことや、後のエドム人の子孫となったということと関連していると思われます。ヤコブの方は、ヘブライ語のかかとを意味するアーケーブに関連づけられています。ヤコブが生まれた時に兄エサウのかかとをつかんでいたということは、この時からすでに兄エサウを長男の位置から引きずり下ろそうとしていたことをにおわせています。23節の神の預言の成就がすでにここに暗示されているように思われます。ヤコブの本来のヘブル語の意味は「主は守られる」であると考えられます。

 成長した二人の関係はどうなったでしょうか。【27~34節】。わたしたちはここに確かに23節の神の預言がその成就に向かいつつあるということを予感します。それには両親の二人の子どもたちに対する別々の愛、偏愛が大きく作用していることをわたしたちは知らされます。27章で最終的に起こるであろうエサウとヤコブの地位の大逆転がここから始まります。父イサクはエサウを愛し、母リベカはヤコブを愛しました。両親の分裂した愛、偏愛が、それは決して子どもの健全な成長にとっては良くないのですが、しかしそのような破れた人間の愛をお用いになって、あるいは人間の破れや罪をもお用いになって、神はご自身のご計画を推し進められるのです。

 狩りから帰って来たエサウは、空腹に耐えきれずに、ヤコブが調理していたレンズ豆の煮ものを、中身が何であるのかも知ろうとせず、「その赤いものを食べさせてほしい」と懇願します。そして、ヤコブの悪だくみに乗せられ長子の権利を放棄しました。ヘブライ人への手紙12章16節では、「ただ一杯の食物のために長子の権利を譲り渡したエサウのように、みだらな者や俗悪な者とならないように気をつけるべきである」と警告されているように、人間は自分の腹を満たすために神の祝福を捨て、時に人の命をも奪うのです。

 荒れ野で40日間断食をされたのちに悪魔の試みを受けられた主イエスは、「人はパンだけで生きるのではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」と言われました。わたしたちは朽ち果てるもののために生きるのではなく、永遠の命に至る神のみ言葉によってこそ生きるべきであることを、ここで改めて教えられます。

 他方、弟のヤコブは抜け目のない悪賢さを発揮しています。この時とばかりに、兄の長子の権利を奪おうとします。しかも、兄に誓いまでさせて、自分の利益を確保しようとしています。ヤコブのこの行動は、道義的には決して許されるものではありません。兄弟を欺いてまで長子の権利を手に入れることを聖書が勧めているのでもありません。悪や不正を用いてでも神の祝福を手に入れるべきだと聖書が教えているのでもありません。それは、神への忠実な信仰によって、神から賜るものであることをわたしたちは知っています。

 そうであるとしても、神は両親の偏った愛をもご自身のご計画のためにお用いになったように、ここでも兄を出し抜こうとするヤコブの悪だくみをお用いになって、23節のご自身のみ言葉の成就に向けて、あの不思議な神の選びに向けて、救いのみわざをお進めになるのです。

 そのようにして、神はイスカリオテのユダの裏切りや弟子たちの逃亡や、そしてわたしたち人間の罪をもお用いになって、主イエス・キリストの十字架と復活によってご自身の救いのみわざを成就してくださったのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、あなたが主イエス・キリストの十字架の血によってわたしたちと結んでくださった新しい契約は、全世界のすべての国民、すべての人々にとっての永遠の真理であり、まことの救いです。神よ、どうかあなたの愛と義と平和がこの世界を支配し、深く病み、傷ついているこの世界をいやしてくださいますように。

主エス・キリストのみ名によって。アーメン。

4月24日説教「種をまく人」

2022年4月24日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:イザヤ書55章8~13節

    ルカによる福音書8章4~10節

説教題:「種をまく人」

 前回学んだルカ福音書8章1節には、「イエスは神の国を宣べ伝え、その福音を告げ知らせながら、町や村を巡って旅を続けられた」と書かれていましたが、その際に主イエスは多くのたとえ、あるいはたとえ話を用いてお話になりました。共観福音書と言われるマタイ、マルコ、ルカの三つのの福音書では、主イエスがお語りになった説教のほぼ三分の一はたとえであり、その種類は40種以上あると言われています。

 ルカ福音書ではすでに5章36節に、「イエスはたとえを話された」とあり、古いものに新しいものをつなぎ合わせることはできない、新しいものは爆発的な力と命をもって、古いものを破壊してしまうから、ということを強調されました。また、6章39節にも、「イエスはまた、たとえを話された」とあり、新しく始まったゆるしの時代に生きる人は裁き合うのではなくゆるし合うべきことを教えておられます。

 きょうの礼拝で朗読された8章4節以下では、まずたとえが語られ、次に、例えで語ることの理由、目的について、そして11節以下では、先に語られたたとえの解説が主イエスご自身によってなされています。この個所は共観福音書にほぼ同じ形で記録されていますが、ルカ福音書はマタイ、マルコに比べて半分くらいに短縮されています。そこで、マタイ、マルコを参照にしながらこのたとえを学んでいくことにします。

 【4~5節a】。主イエスの説教を聞くために多くの人々が集まってきました。主イエスは彼らにお語りになりました。群衆は、聴衆として、主イエスの説教を聞くように招かれています。彼らの中には、主イエスによって病気をいやしていただくためとか、主イエスの奇跡を見るために集まってきた人たちも多くいたに違いありません。あるいは、主イエスをユダヤ教の異端者とみて、偵察活動のために来た人たちもいたでしょう。その他の目的をもって来た人たちをも含めて、すべての人たちは今、何よりもまず主イエスがお語りになる説教を聞かなければなりません。

 主イエスが説教をお語りになる、そして聴衆がそれを聞くとは、聖書の中ではどのような意味を持つのでしょうか。わたしたちはここでそのことの特別な意味を理解しておかなければなりません。主イエスは興味本意に集まってきた群衆に、みんなの興味に合わせて、いわゆる大衆受けするような講演や講義をしておられるのではありません。集まってきているひとり一人に、その人が聞くべき神のみ言葉を、その人に向かって語っておられ、その人がその神のみ言葉によって生きていくようにと招いておられるのです。主イエスはわたしたち罪びと一人ひとりに語りかけてくださり、わたしたちを救いへとお招きになるために、お語りになります。聖書で「主イエスがお話になった」と書かれているのは、いつでも、どこでも、そういう意味です。

 「たとえを用いて」とありますが、先ほども紹介したように、主イエスの説教の多くはたとえを用いてのお話でした。主イエスがここでお話しになったたとえは、一般に「種まきのたとえ」と言われてきましたが、近年は「種を蒔く人のたとえ」と言われるようになり、少し強調点が移ってきました。『新共同訳』では小見出しに「種を蒔く人」のたとえとしているのは、その変化、強調点の違いを意識していると思われます。マタイ福音書13章18節には、「だから、種を蒔く人のたとえを聞きなさい」と書かれてあり、主イエスご自身が「種を蒔く人のたとえ」と呼んでおられることからも明らかなように、このたとえは「種を蒔く人」に強調点があるのです。種をまく人がこのたとえの主人公なのです。わたしたちはまずこのことを確認しておきましょう。

 5節で「種を蒔く人が種蒔きに出て行った」という言葉でこのたとえは始まります。種をまく人が、種を携えて、町々村々を巡り歩き、この世界の至る所に、すべての場所、すべての人に、神のみ言葉の種を蒔くために出て行く、そのために種をまく人はこの世においでになった、しかり、主イエスこそが神のみ言葉の種を蒔く人ご自身なのだということをわたしたちはまず教えられるのです。主イエスは神のみ言葉の種を携えて、否、ご自身が神のみ言葉そのものであるお方として、天の父なる神のみもとから、この地に下って来られました。

 ヨハネ福音書1章では、主イエスの誕生を神の言葉が受肉したこととして表現しています。14節に、「言(ことば)は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」と書かれてあるように、主イエスは旧約聖書で語られた神のみ言葉をすべて実現に至らせ、成就されるために、人間のお姿でこの世界においでになったのです。

 神のみ言葉の種をまくためにこの世界においでになられた主イエスご自身が種まきのたとえの主人公であるということから、このたとえを理解していくことが求められます。したがって、種がまかれた場所の違い、道端とか石地、いばらの中そして良い土地に注目して、それぞれの特徴について論じるとというのは本来の主題ではありませんし、それぞれの場所にまかれた種がその後にどうなったか、なぜそうなったのかを詳細に分析したり、その4種類に人々を区分けし、分類したりするということは、ここでは主題ではないということです。主イエスが全地に、全世界のすべての人に、神のみ言葉の種をまくために、人となってこの世においでになられたことこそが重要なのです。

 もう一つここで確認しておくべきことは、種まきのたとえは神の国のたとえであるということです。主イエスは10節で弟子たちにこのように語っておられます。「あなたがたには神の国の秘密を悟ることがゆるされているが、他の人々にはたとえを用いて話すのだ」。また、11節の解説の個所では、「種は神の言葉である」と説明しておられます。種まきのたとえは神の国について、神の国の福音についてのたとえということです。ルカ福音書の中でこれまでに語られた5章36節以下のたとえと6章39以下のたとえも神の国の福音に関するものであったということをわたしたちは読んできました。これら以外の主イエスのたとえも、そのほとんどは神の国のたとえです。主イエスの到来によって開始された神の国、神の新しいご支配、その隠された奥義、秘密を語り、解き明かすために、主イエスはたとえをお用いになったのです。このことについては、次回さらに深く学ぶことになるでしょう。

 では、以上のことを基本にしながら、種まきのたとえを読んでいきましょう。【5~8節】。このたとえは当時の農家の慣習を背景にしていると言われます。種まき機械などない時代ですから、農夫は種を入れた大きな袋を背負いながら、広い畑をくまなく歩いて種をまきます。その際に、一部の種は耕作されている畑を越えて道端や石地の所にも飛んでいきますが、農夫はいちいちそのことは気にしませんし、耕作地の外に飛んでいった種をわざわざ拾い集めるということもしません。そのような農夫の慣習を背景にしているという説明がよくなされます。けれども、種まきのたとえの種をまく人が主イエスご自身であり、そこで語られている内容が神の国の福音であるということからすれば、その説明は適切ではないことが分かります。

 もちろん、主イエスはそのような習慣をご存じであられ、当時のだれもが知っている日常的なことを用いてたとえを語られたのですが、それによって指し示されているのは神の国の福音ですから、主イエスがどの場所でも所かまわずに、無造作にみ言葉の種をまかれたとか、道端や石地にまかれた種については無関心であられたということを連想させる説明は適切ではありません。主イエスは一粒一粒の種に思いをこめられ、一人一人にふさわしく、その人が救いに導かれることを祈り、信じながらみ言葉の種をまかれた、神の国の福音をお語りになったということを忘れるべきではありません。

 そうであるとすれば、わたしたちはここでまず、主イエスが道端であれ、石地であれ、あるいは茨が生えている場所であれ、すべての場所に、すべての人に、神の国の福音の種をまかれたのだということを読み取らなければなりません。1節に、「イエスは神の国を宣べ伝え、その福音を告げ知らせながら、町や村を巡って旅を続けられた」と書かれあったとおりです。主イエスは故郷ガリラヤ地方から、異邦人と言われ、ユダヤ人からさげすまされていたサマリア地方にも、時には異教の地にも、そしてご自身を捕えるユダヤ人指導者たちが待ち構えているユダヤ地方、エルサレムに至るまで、あらゆる危険や困難の中を、ひたすらにみ言葉の種をまき続けられました。そして、わたしたちを罪から救い出すために、ご受難の道を進まれました。ついには、一粒の麦の種が地に落ちて死ぬように、十字架で死んでくださり、それによって多くの実りを結ばれたのです。

 主イエスがお語りになる神の国の福音はすべての人に届けられます。宗教には全く無関心で、この世の生活に明け暮れている人も、ローマ帝国の支配者やヘロデの王宮も、ユダヤ教の指導者、ファリサイ派、祭司たちも、そしてユダヤ人以外の異邦人も、すべての人が主イエスが語られる神の国の福音に招かれています。すべての人が神の国の福音を必要としているからです。すべての人が神の国の福音によって救われ、朽ちることのない永遠の命へと招かれています。主イエスが語られた種まく人のたとえでは、まず第一にこのことが強調されなければなりません。

 もう一つ、このたとえの中心点は、まかれた種が必ずや芽を出し、やがて豊かな実りをつけるということです。道端、石地、いばらの中という3種類の場所にまかれた種は実りをつけることができませんでした。もっといろんなケースを挙げることができるかもしれません。用水路に落ちて、流されてしまった種とか、隣の畑に落ちて、隣の人が収穫した場合とか、まかれた種が実りをつけずに失われてしまう例はたくさんあるでしょう。神のみ言葉の種が芽を出し、実りをつけるには、多くの障害があり、困難が待っています。わたしたちは時にその厳しい現実を見て、希望を失いかけることもないわけではありません。けれども、8節に、「また、ほかの種は良い地に落ち、生え出て、百倍の実を結んだ」と書かれています。主イエスはこの約束を与えてくださいます。イザヤ書55章11節にはこのように書かれています。「そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も、むなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ、わたしが与えた使命を必ず果たす」。

 わたしたちもこの約束を信じながら、神のみ言葉の種をまき続ける使命を託されているのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、あなたの命のみ言葉をわたしたちにも与えてください。あなたのみ言葉の力を信じさせてください。あなたのみ言葉が、死んでいる人を生き返らせ、病んでいる人をいやし、憎しみと殺戮を繰り返している国民(くにたみ)に和解と平和の道を備えることを信じさせてください。

〇主なる神よ、この世界を憐れみ、あなたの愛と正義で満たしてください。

 主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

4月17日説教「主イエスは復活であり、命である」

2022年4月17日(日) 秋田教会復活日・教会建設記念日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:詩編16編1~11節

    ヨハネによる福音書11章17~27節

説教題:「主イエスは復活であり、命である」

 教会の暦ではきょうは主イエスの復活を記念するイースター礼拝です。また、きょうの礼拝は秋田教会建設記念日を覚える礼拝でもあります。(旧)日本基督教会秋田教会が自給独立の教会として秋田伝道教会から秋田教会として教会建設式を執行したのが1934年(昭和9年)4月15日(日)、紺野瀧一郎牧師が就職して2年目でした。当時の東北中会が「自給独立十年計画」を立て、外国ミッションからの経済的独立を目指す運動を始めて4年目でした。それまでの外国ミッションの支援に感謝しつつ、精神的にも経済的にもそれから独立して、教会員一人一人が自覚的に教会を支える自給独立の歩みを始めたのでした。今年は88年目になります。弱さや欠けを持つ教会ですが、主の憐みとお導きとを信じて、真実の教会を建てていくために、これからも共に仕えていきたいと願います。

 きょうのイースター礼拝では、ヨハネによる福音書11章17節以下のみ言葉をご一緒に聞きます。この個所は、ベタニア村のマリアとマルタの兄弟ラザロが死んで墓に葬られて4日目に主イエスによって生き返らされたという奇跡が記されていますが、その中でまず25節の主イエスのお言葉に注目しましょう。「イエスは言われた。『わたしは復活であり、命である』」。「わたしは○〇である」という言い方はヨハネ福音書に何度も書かれている特徴的な表現であり、主イエスの自己宣言、自己提示と言われます。たとえば、6章5節では「わたしは命のパンである」、8章12節では「わたしは世の光である」、10章11節では「わたしは良い羊飼いである」、14章6節「わたしは道であり、真理であり、命である」、15章1節「わたしはまことのぶどうの木である」などです。主イエスはこれらの表現によって、ご自身がほかのだれかとは全く違った特別な存在であり、特別な人間であり、天の父なる神が人間のお姿となってこの世に来られた、神のみ子であるということを語っておられます。

 「わたしは〇〇である」はギリシャ語では「エゴー エイミイ」と言います。エゴーは「わたし」という意味の名詞、「エイミイ」は「わたしは〇〇である」という意味の動詞です。つまり、「エイミイ」だけでその意味になるのに、さらにそれに「エゴー」「わたしは」という言葉を付け加え、強調している言い方なのです。その意味を汲んで日本語に翻訳するとすれば、「わたしこそは〇〇である。わたしだけが〇〇である。わたし以外には〇〇はいない」ということになります。

 つまり、「わたしこそは、主イエスこそが、唯一の命のパンである。天から下って来て、あなたがたに朽ちることがないまことの命を与え、罪の中で死んでいたあなた方をまことの命によって生かす命のパンである」と主イエスは言われます。「わたしこそは、主イエスこそが、すべての人を照らす世の光である。暗闇に閉ざされているこの世界を天からの光によって照らし、暗黒の地に住んでいるあなたがたをそこから導き出し、神のみ言葉の光に照らされて歩むようにする世の光である」。「わたしこそは、主イエスこそが、良い羊飼いである。迷える羊を探し出し、清い飲み水を与え、野のすべての獣(けもの)の攻撃から守り、羊のために命をも惜しまない唯一の良い羊飼いである」。「わたしこそは、主イエスこそが、道であり、真理であり、命である。父なる神に至る唯一の真理への道、唯一の命に至る道、だれも主イエスを通らなければ神のみもとに行くことができない」。「わたしこそは、主イエスこそが、唯一のまことのぶどうの木である。主イエスにつながっていれば、だれでも豊かな実りをつけることができる」。そのように、「わたしこそは、主イエスこそが、唯一の、まことの、そして永遠の、すべての人にとっての、復活であり、命である」と主イエスが言われるのです。

 では、この主イエスのみ言葉はどのような状況の中で言われたのか、またそれにはどのような意味が込められているのかを見ていきましょう。

 11章1節に、ラザロはべタニア村に住むマルタとマリアの兄弟であると紹介されています。ベタニアはエルサレムの東3キロメートルにあります。ラザロという名前には「神が助けた」という意味があります。ここでは象徴的な意味があるように思われます。彼が重い病気になりました。マルタとマリアは主イエスが急いできてくださってラザロの病気をいやしてくださることを願いました。その時、主イエスは4節で、「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである」と言われましたが、しかし主イエスはすぐにはベタニアには向かわれずに、なおも二日間もそこに滞在し、その間にラザロは息を引き取りました。主イエスは14、15節でこう言われます。「ラザロは死んだのだ。わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。あなたがたが信じるようになるためである」。そう言われてから、主イエスがマルタとマリアの家に着いた時には、ラザロが死んで墓に葬られてすでに4日もたってからであったと17節に書かれています。これはどういうことでしょうか。ここに主イエスのどのような意図があったのでしょうか。

 一つ明らかなことは、主イエスは意図的にラザロの所に行くのを遅らせておられるということです。もし、主イエスがすぐにラザロのもとへ向かっていたら、彼が息を引き取る前に到着していたでしょう。21節でマルタが言っているとおりです。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」。32節ではマリアも同じことを言っています。彼女たちは主イエスが奇跡によってラザロの病気をいやすことがおできになると期待し、また信じていました。9章に書かれていたように、主イエスは生まれながらにして目が見えなかった人の目を開かれ、見えるようにされました。その他、多くの病をいやす奇跡を行っておられました。ラザロに対しても同じことが出来たはずです。でも、彼が死んでしまってからは、どうすることもできないだろうという思いが彼女たちにはあったのでしょう。彼女たちも、弔問に来たユダヤ人たちもラザロの死の前でただ泣き崩れるほかなかったことが33節に書かれています。

 しかしながら、実はそこにこそ、主イエスの最終的な意図が、目的があったのだということにわたしたちは気づかされます。マルタにとっても、またこの時にラザロの死を悼みながら彼女たちを慰めるためにこの家を訪れていた弔問客も、そしてすべての人にとっても、人間にとって死が最後に行きつくところであり、死が最後に勝利し、人間はそれに対して何の抵抗もできず、全く無力で、死の前に屈服するほかないと、だれもが考えるのですが、しかし、主イエスはここでそれを根本から覆し、死が最後なのではない、死が最後に勝利するのではない、死から新しい命が生み出され、死ではなく命こそが最後に勝利するのだということを、お示しになるのです。病気をいやす奇跡よりもはるかに偉大なる死から命を生み出す復活の奇跡をマルタたちとユダヤ人たちと、そしてわたしたちに見せることが主イエスの最終目的だったのです。

 主イエスが4節で、「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである」と言われたのはこのことだったのです。また、14節で「ラザロは死んだのだ。わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。あなたがたがそれによって信じるようになるためである」と言われたのはこのためだったのです。そして、主イエスは事実ラザロを死から生き返らせたことが38節以下に書かれています。43節から読んでみましょう。【43~44節】。

 主イエスは死の力を打ち破られました。死に勝利されました。死から新しい命を生み出されました。これは神のみ子であられる主イエスにだけ与えられた神の力であり、主イエスだけがなされる神の奇跡です。主イエスはこれによって神の栄光を現わされました。しかしそれは、ラザロに身に起こった奇跡であり、「わたしこそが復活であり、命である」と言われた主イエスのみ言葉の意味がまだ十分に解明されているとは言えません。わたしたちはさらに深くこのみ言葉の意味をさぐっていかなければなりません。

 23節で主イエスが、「あなたの兄弟は復活する」と言われた時、マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じています」と答えています。これが、この時代のユダヤ人が一般的に持っていた復活信仰でした。生涯神を信じ、神に従った信仰者は終わりの日に神の国が完成される時に復活させられるという信仰は、イスラエルの長い苦難の歴史をとおして、特に紀元前2世紀の大規模なユダヤ教迫害を経て、次第に強くなっていったと推測されています。というのは、苦難と試練の中でも神を信じ続け、神に全き服従をささげてその信仰を貫きとおした信仰者を神は決してお見捨てになることはない。地上の生涯では報われなかったとしても、神は最後には必ずや報いてくださる。そして、復活の命をお与えくださるに違いない。そこから、復活信仰が芽生えるようになったと推測されています。

 しかし、主イエスはここで、そのようなマルタや当時のユダヤ人の復活信仰に対して、終末の時の復活ではなく、今ここで主イエスのみ言葉を聞く信仰者に対して、「わたしこそが復活そのものであり、命そのものである。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない」と言われたのです。主イエスを救い主と信じる信仰者は、今すでに復活そのものであられる主イエスの復活に与ることがゆるされている、命そのものであられる主イエスの命によって生きることがゆるされている。それゆえに、主イエスが死に勝利されたように、信仰者ももはや死の力に支配されることはない。死に勝利し、復活の命に生かされている。主イエスはそう言われるのです。

 主イエスのこのみ言葉は、主イエスご自身の十字架の死と3日目の復活というイースターの出来事を土台にして理解されなければなりません。主イエスは全人類の罪を贖うために十字架で死んでくださいました。そして、罪と死と滅びからわたしたちを救い出すために、死の墓から復活され、死に勝利されたのです。この主イエスを救い主と信じる信仰によって、わたしたちは死から命へと移されています(5章24節参照)。死のとげはすでに主イエスによって抜き取られているのです。復活の主イエスを信じる信仰者にとっては、その歩みは死に向かっているのではなく、すでに死から命へと移されています。主イエスの復活の命に向かっています。わたしたちはこの信仰へと招かれているのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、罪の中で滅ぶべきであったわたしたちを、あなたがみ子イエス・キリストの十字架と復活によって、まことの命に生きる者としてくださいましたことを、感謝いたします。どうか、わたしたちが朽ち果てるしかない地上の命のために生きるのではなく、天から与えられる永遠の命に生かされている者にふさわしく、復活であり命であられる主イエス・キリストにお仕えする信仰の歩みを続けさせてください。主イエスの復活の恵みと命が、全世界のすべての人にありますように。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

4月17日説教「主イエスは復活であり、命である」

2022年4月17日(日) 秋田教会復活日・教会建設記念日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:詩編16編1~11節

    ヨハネによる福音書11章17~27節

説教題:「主イエスは復活であり、命である」

 教会の暦ではきょうは主イエスの復活を記念するイースター礼拝です。また、きょうの礼拝は秋田教会建設記念日を覚える礼拝でもあります。(旧)日本基督教会秋田教会が自給独立の教会として秋田伝道教会から秋田教会として教会建設式を執行したのが1934年(昭和9年)4月15日(日)、紺野瀧一郎牧師が就職して2年目でした。当時の東北中会が「自給独立十年計画」を立て、外国ミッションからの経済的独立を目指す運動を始めて4年目でした。それまでの外国ミッションの支援に感謝しつつ、精神的にも経済的にもそれから独立して、教会員一人一人が自覚的に教会を支える自給独立の歩みを始めたのでした。今年は88年目になります。弱さや欠けを持つ教会ですが、主の憐みとお導きとを信じて、真実の教会を建てていくために、これからも共に仕えていきたいと願います。

 きょうのイースター礼拝では、ヨハネによる福音書11章17節以下のみ言葉をご一緒に聞きます。この個所は、ベタニア村のマリアとマルタの兄弟ラザロが死んで墓に葬られて4日目に主イエスによって生き返らされたという奇跡が記されていますが、その中でまず25節の主イエスのお言葉に注目しましょう。「イエスは言われた。『わたしは復活であり、命である』」。「わたしは○〇である」という言い方はヨハネ福音書に何度も書かれている特徴的な表現であり、主イエスの自己宣言、自己提示と言われます。たとえば、6章5節では「わたしは命のパンである」、8章12節では「わたしは世の光である」、10章11節では「わたしは良い羊飼いである」、14章6節「わたしは道であり、真理であり、命である」、15章1節「わたしはまことのぶどうの木である」などです。主イエスはこれらの表現によって、ご自身がほかのだれかとは全く違った特別な存在であり、特別な人間であり、天の父なる神が人間のお姿となってこの世に来られた、神のみ子であるということを語っておられます。

 「わたしは〇〇である」はギリシャ語では「エゴー エイミイ」と言います。エゴーは「わたし」という意味の名詞、「エイミイ」は「わたしは〇〇である」という意味の動詞です。つまり、「エイミイ」だけでその意味になるのに、さらにそれに「エゴー」「わたしは」という言葉を付け加え、強調している言い方なのです。その意味を汲んで日本語に翻訳するとすれば、「わたしこそは〇〇である。わたしだけが〇〇である。わたし以外には〇〇はいない」ということになります。

 つまり、「わたしこそは、主イエスこそが、唯一の命のパンである。天から下って来て、あなたがたに朽ちることがないまことの命を与え、罪の中で死んでいたあなた方をまことの命によって生かす命のパンである」と主イエスは言われます。「わたしこそは、主イエスこそが、すべての人を照らす世の光である。暗闇に閉ざされているこの世界を天からの光によって照らし、暗黒の地に住んでいるあなたがたをそこから導き出し、神のみ言葉の光に照らされて歩むようにする世の光である」。「わたしこそは、主イエスこそが、良い羊飼いである。迷える羊を探し出し、清い飲み水を与え、野のすべての獣(けもの)の攻撃から守り、羊のために命をも惜しまない唯一の良い羊飼いである」。「わたしこそは、主イエスこそが、道であり、真理であり、命である。父なる神に至る唯一の真理への道、唯一の命に至る道、だれも主イエスを通らなければ神のみもとに行くことができない」。「わたしこそは、主イエスこそが、唯一のまことのぶどうの木である。主イエスにつながっていれば、だれでも豊かな実りをつけることができる」。そのように、「わたしこそは、主イエスこそが、唯一の、まことの、そして永遠の、すべての人にとっての、復活であり、命である」と主イエスが言われるのです。

 では、この主イエスのみ言葉はどのような状況の中で言われたのか、またそれにはどのような意味が込められているのかを見ていきましょう。

 11章1節に、ラザロはべタニア村に住むマルタとマリアの兄弟であると紹介されています。ベタニアはエルサレムの東3キロメートルにあります。ラザロという名前には「神が助けた」という意味があります。ここでは象徴的な意味があるように思われます。彼が重い病気になりました。マルタとマリアは主イエスが急いできてくださってラザロの病気をいやしてくださることを願いました。その時、主イエスは4節で、「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである」と言われましたが、しかし主イエスはすぐにはベタニアには向かわれずに、なおも二日間もそこに滞在し、その間にラザロは息を引き取りました。主イエスは14、15節でこう言われます。「ラザロは死んだのだ。わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。あなたがたが信じるようになるためである」。そう言われてから、主イエスがマルタとマリアの家に着いた時には、ラザロが死んで墓に葬られてすでに4日もたってからであったと17節に書かれています。これはどういうことでしょうか。ここに主イエスのどのような意図があったのでしょうか。

 一つ明らかなことは、主イエスは意図的にラザロの所に行くのを遅らせておられるということです。もし、主イエスがすぐにラザロのもとへ向かっていたら、彼が息を引き取る前に到着していたでしょう。21節でマルタが言っているとおりです。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」。32節ではマリアも同じことを言っています。彼女たちは主イエスが奇跡によってラザロの病気をいやすことがおできになると期待し、また信じていました。9章に書かれていたように、主イエスは生まれながらにして目が見えなかった人の目を開かれ、見えるようにされました。その他、多くの病をいやす奇跡を行っておられました。ラザロに対しても同じことが出来たはずです。でも、彼が死んでしまってからは、どうすることもできないだろうという思いが彼女たちにはあったのでしょう。彼女たちも、弔問に来たユダヤ人たちもラザロの死の前でただ泣き崩れるほかなかったことが33節に書かれています。

 しかしながら、実はそこにこそ、主イエスの最終的な意図が、目的があったのだということにわたしたちは気づかされます。マルタにとっても、またこの時にラザロの死を悼みながら彼女たちを慰めるためにこの家を訪れていた弔問客も、そしてすべての人にとっても、人間にとって死が最後に行きつくところであり、死が最後に勝利し、人間はそれに対して何の抵抗もできず、全く無力で、死の前に屈服するほかないと、だれもが考えるのですが、しかし、主イエスはここでそれを根本から覆し、死が最後なのではない、死が最後に勝利するのではない、死から新しい命が生み出され、死ではなく命こそが最後に勝利するのだということを、お示しになるのです。病気をいやす奇跡よりもはるかに偉大なる死から命を生み出す復活の奇跡をマルタたちとユダヤ人たちと、そしてわたしたちに見せることが主イエスの最終目的だったのです。

 主イエスが4節で、「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである」と言われたのはこのことだったのです。また、14節で「ラザロは死んだのだ。わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。あなたがたがそれによって信じるようになるためである」と言われたのはこのためだったのです。そして、主イエスは事実ラザロを死から生き返らせたことが38節以下に書かれています。43節から読んでみましょう。【43~44節】。

 主イエスは死の力を打ち破られました。死に勝利されました。死から新しい命を生み出されました。これは神のみ子であられる主イエスにだけ与えられた神の力であり、主イエスだけがなされる神の奇跡です。主イエスはこれによって神の栄光を現わされました。しかしそれは、ラザロに身に起こった奇跡であり、「わたしこそが復活であり、命である」と言われた主イエスのみ言葉の意味がまだ十分に解明されているとは言えません。わたしたちはさらに深くこのみ言葉の意味をさぐっていかなければなりません。

 23節で主イエスが、「あなたの兄弟は復活する」と言われた時、マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じています」と答えています。これが、この時代のユダヤ人が一般的に持っていた復活信仰でした。生涯神を信じ、神に従った信仰者は終わりの日に神の国が完成される時に復活させられるという信仰は、イスラエルの長い苦難の歴史をとおして、特に紀元前2世紀の大規模なユダヤ教迫害を経て、次第に強くなっていったと推測されています。というのは、苦難と試練の中でも神を信じ続け、神に全き服従をささげてその信仰を貫きとおした信仰者を神は決してお見捨てになることはない。地上の生涯では報われなかったとしても、神は最後には必ずや報いてくださる。そして、復活の命をお与えくださるに違いない。そこから、復活信仰が芽生えるようになったと推測されています。

 しかし、主イエスはここで、そのようなマルタや当時のユダヤ人の復活信仰に対して、終末の時の復活ではなく、今ここで主イエスのみ言葉を聞く信仰者に対して、「わたしこそが復活そのものであり、命そのものである。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない」と言われたのです。主イエスを救い主と信じる信仰者は、今すでに復活そのものであられる主イエスの復活に与ることがゆるされている、命そのものであられる主イエスの命によって生きることがゆるされている。それゆえに、主イエスが死に勝利されたように、信仰者ももはや死の力に支配されることはない。死に勝利し、復活の命に生かされている。主イエスはそう言われるのです。

 主イエスのこのみ言葉は、主イエスご自身の十字架の死と3日目の復活というイースターの出来事を土台にして理解されなければなりません。主イエスは全人類の罪を贖うために十字架で死んでくださいました。そして、罪と死と滅びからわたしたちを救い出すために、死の墓から復活され、死に勝利されたのです。この主イエスを救い主と信じる信仰によって、わたしたちは死から命へと移されています(5章24節参照)。死のとげはすでに主イエスによって抜き取られているのです。復活の主イエスを信じる信仰者にとっては、その歩みは死に向かっているのではなく、すでに死から命へと移されています。主イエスの復活の命に向かっています。わたしたちはこの信仰へと招かれているのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、罪の中で滅ぶべきであったわたしたちを、あなたがみ子イエス・キリストの十字架と復活によって、まことの命に生きる者としてくださいましたことを、感謝いたします。どうか、わたしたちが朽ち果てるしかない地上の命のために生きるのではなく、天から与えられる永遠の命に生かされている者にふさわしく、復活であり命であられる主イエス・キリストにお仕えする信仰の歩みを続けさせてください。主イエスの復活の恵みと命が、全世界のすべての人にありますように。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

4月10日説教「完全な犠牲をささげ、贖いをなしとげられた主イエス」

2022年4月10日(日) 秋田教会主日礼拝(受難週)説教(駒井利則牧師)

聖 書:イザヤ書53章1~12節

    ペトロの手紙一1章13~21節

説教題:「完全な犠牲をささげ、贖いを成し遂げられた主イエス」

 教会の暦では、きょうは「棕櫚の主日」、今週は受難週です。主イエスの地上のご生涯の最後の一週間です。主イエスは日曜日にロバの子に乗ってエルサレムに入場されました。人々は棕櫚(しゅろ)の枝を手に主イエスを迎えたとヨハネ福音書12章13節に書かれています。主イエスはその日から毎日エルサレム神殿で神の国の福音を説教されました。木曜日の夕方には弟子たちとの最後の晩餐、それはユダヤ人の最大の祭りである過ぎ越し祭を祝う食事であったと共観福音書は伝えています。そして、金曜日にはユダヤ最高法院での裁判、十字架の死、日没前の墓への葬りと続きます。安息日の土曜日をはさんで三日目の日曜日の朝早く、主イエスは墓から復活されました。次週17日に、わたしたちはイースター礼拝をささげます。

 『日本キリスト教会信仰の告白』を続けて学んでいますが、きょうはちょうど十字架の贖いの個所を学ぶことなっておりますので、主イエスのご受難に思いを馳せながら、聖書のみ言葉から聞いていくことにします。

 『日本キリスト教会信仰の告白』をわたしたちが学ぶことの意義についてここで改めて確認しておきましょう。一つには、すでに洗礼を受けて教会員になった人はこの信仰告白を受け入れて洗礼を受け、秋田教会員になったのですから、自分の信仰をより確かにし、深めるためにこれを繰り返して学んでいく必要があります。二つには、求道中の人はこの信仰告白を自分の信仰として受け入れ、告白して、洗礼へと導かれるために、これを学ぶことが何よりも基本的で重要なことになります。

では、『信仰告白』の個所を読んでみましょう。「主は、神の永遠の計画に従い、人となって、人類の罪のため十字架にかかり、完全な犠牲をささげて、贖いをなしとげ、復活して永遠のいのちの保証を与え」と続いています。ここではキリスト教信仰の最も重要で中心的な内容が告白されています。きょうは、その「贖いをなしとげ」という告白について学びます。

「贖い」という言葉は一般にも用いられますが、聖書では特別な内容を含んでいます。旧約聖書からそれをさぐっていきましょう。贖いの一つの意味は、神から買い戻すということです。本来は神にささげられるべきものを、その代わりに別のものをささげる場合に贖うという言葉が用いられます。たとえば、家畜の中で最初に生まれた雄はすべて神にささげられねばならないと旧約聖書の律法に定められています。これを初子(ういご)の奉献と言います。ここには、命はすべて神から与えられたものであり、神に属するものであるので、神にお返しするという信仰があります。しかし、ロバの場合は宗教的に汚れた動物と考えられ、神にささげることができないので、ロバの初子の代わりに小羊をささげて贖わなければならないと定められています。

 人間の初子、最初に生まれた男子も、神のものであり、神にささげられねばなりませんが、人間の命そのもの神にささげることはできないので、動物の命や金銀で贖うように定められています。ルカによる福音書2章に書かれているように、主イエスの両親も生まれて40日を過ぎた幼子主イエスを神にささげるために、エルサレムの神殿で神を礼拝しました。贖うとは、本来神に属すべきもの、神の所有であるものを、贖いの動物や贖い金を神に支払うことによって、神から買い戻すという意味をもっています。しかし、その命が人間の自由になったというのではなく、あくまでもすべての命は神のものであることには変わりません。主イエスは、ご自身の命をその本来の所有者であられる父なる神におささげになりました。

 第二には、奴隷などを買い戻す際にもこの言葉が用いられます。貧しさのために、家族のだれかがを奴隷として売った場合や土地を売り渡した場合に、後になって近親者がその奴隷や土地を買い戻すことを贖うと言いました。その際に、だれでも奴隷や土地を自由に売買できるというのではなく、もとの所有者に最も近い肉親、近親者にだけ贖う権利がありました。したがって、奴隷や土地をだれでもが自由に売買することは、イスラエルでは固く禁じられていました。奴隷も土地も、すべては本来神のものであり、人間に貸し与えられたものであるという信仰がここにもあります。

 第三に、イスラエルの民が外国に支配され、奴隷状態であった時に、主なる神が彼らを外国の支配から解放されることを贖うと言いました。イスラエルのエジプト脱出は、神の贖いのみわざでした。出エジプト記6章6節には次のように書かれています。「それゆえ、イスラエルの人々に言いなさい。わたしは主である。わたしはエジプトの重労働の下からあなたたちを導き出し、奴隷の身分から救い出す。腕を伸ばし、大いなる審判によってあなたたちを贖う」。また、イザヤ書では、バビロンに捕囚になっているイスラエルの民を神が再び約束の地、聖なる神の都エルサレムに連れ戻されることを、神の贖いのみわざとして繰り返し預言されています。イザヤ書43章1節にはこうあります。「ヤコブよ、あなたを創造された主は、イスラエルよ、あなたを造られた主は、今、こう言われる。恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのものだ」。神の贖いのみわざは、イスラエルの民にとっては外国の支配からの解放であり、救いでした。イスラエルはもはや異教の王の支配下にあるのではありません。奴隷の民ではありません。主なる神によって解放された自由の民であり、贖い主であられる神の所有とされたのです。

 ここには、神の贖いのみわざの重要な特徴が含まれています。それは、神が奴隷の民、捕囚の民イスラエルを買い戻すために、彼らの近親者となってくださったということです。イスラエルの民は自らの罪のゆえに、主なる神を捨て、主なる神に背いて、自らを奴隷として異教の王に売り渡したのですが、それゆえに彼らを贖う近親者はイスラエルの側から要求されるのですが、しかし、彼らの中にはだれも彼らを奴隷から解放できる贖う者、その資格を持つ者もその能力を持つ者も、だれ一人いませんでした。その時に、主なる神が、そうする義務も責任も全くなかったにもかかわらず、むしろご自身に背き、敵対したイスラエルのために、彼ら奴隷の民の近親者、贖い主となってくださったのです。イスラエルが自らを贖うための贖い金を全く支払っていないにもかかわらず、神は全く無償で、神の側からの一方的なあわれみと恵みによって、彼らを奴隷の支配から救い出され、ご自身の民として買い戻してくださったのです。

 贖うの第四の意味は、これが最も重要な意味ですが、人間の罪の贖いのために雄牛や雄山羊などの家畜を贖罪の犠牲として神にささげるという儀式です。これについては、旧約聖書のレビ記や申命記などに細かく規定されています。イスラエルの民が神の律法に背いて罪を犯した場合、その罪を神からゆるしていただくために、動物の命を自分たちの身代わりとして神にささげ、神の裁きを逃れ、神の怒りを和らげるという意味がありました。エルサレムの神殿では、毎日毎日人間の罪の贖いのために家畜が贖罪の犠牲としてささげられていました。それが、彼らの礼拝だったのです。イスラエルの民はこの罪からの贖いなしには、神の民として生きていくことができなかったのです。

 さて、主イエス・キリストの十字架の死が、わたしたちのための贖いの成就であったという『日本キリスト教会信仰の告白』は、以上のような旧約聖書の贖いの信仰を背景にしています。では次に、主イエス・キリストの贖いのみわざについて、更に深く学んでいきましょう。

 「贖いをなしとげ」は、1953年に制定されたら文語体の告白では、「贖いを成就し」となっていました。主イエスの十字架の死によって、旧約聖書に預言されていた神の贖いのみわざが成就したという意味が含まれています。先ほど挙げたイスラエルのエジプトの奴隷の家からの贖いと救い、バビロン捕囚からの帰還とエルサレムの再建、人間の罪からの贖いを願っての礼拝、それらのすべてが主イエス・キリストの十字架による贖いと救いを預言しているのであり、また主イエス・キリストの十字架の死によって旧約聖書で語られているそれらすべての神の贖いのみわざが、完全に成就したのだということです。神がイスラエルの民のためになされた贖いのみわざが、主イエス・キリストの十字架によって、全人類の贖いのみわざとして成就したのです。イスラエルの民が苦難の歴史の中で待ち望んでいた永遠の贖い主、奴隷からの解放者、罪と死と滅びからの救い主が、主イエス・キリストの到来によって成就したのだということです。主イエス・キリストこそがイスラエルと全人類のための真実の、永遠の贖い主であられ、わたしたちを罪の奴隷から贖い出し、すべての悪しき支配から解放してくださる救い主なのです。

 第二の重要な点は、主イエスはわたしたちの真実の贖い主となるために、わたしたち罪びとたちに最も近い近親者となってくださったということです。わたしたちは神を知らず、神から離れ、神に敵対していた罪びとでした。そのような罪びとたちの世に、神のみ子が人間のお姿となって天から降(くだ)って来られ、わたしたち罪びとたちと共に歩まれました。主イエスは、マタイによる福音書20章28節でこのように言われました。「人の子が(主イエスご自身のことですが)、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金(これは贖い金という意味ですが)として自分の命をささげるために来た」。主イエスは、罪なき神のみ子であられましたが、徹底して罪びとたちの僕(しもべ)として仕えてくださり、最後にはご自身が罪びとの一人に数えられ、罪びとが受けるべき十字架の死の裁きを、わたしたちに代わって受けてくださるほどに、わたしたち罪びとたちの近親者となってくださり、そのようにしてわたしたちを罪の奴隷から贖ってくださったのです。

 わたしたち人間はだれも自分自身を贖うことも他の人を贖うこともできません。詩編49編の詩人はこのように告白しています。「神に対して、人は兄弟をも贖いえない。神に身代金を払うことはできない。魂を贖う値は高く/とこしえに、払い終えることはない。しかし、神はわたしの魂を贖い/陰府の手から取り上げてくださる」(8~9節、16節)。神のみ子であられ、罪も汚れもない主イエス・キリストの尊い血だけが、すべての人を罪と死の支配から贖い、救い出すことができるのです。

 そのことについて、ヘブライ人への手紙9章11節以下では次のように教えられています。【9章11~14節】(411ページ)。また、【ペトロの手紙一1章18~19節】(429ページ)。

 主イエス・キリストが十字架でおささげくださった血は、動物などの代用品ではなく、神のみ子の血であり、地上のどれほどに価値あるものよりもはるかに尊く高価であり、完全であり、永遠であるゆえに、すべての人の罪を完全に、永遠に贖い、救うことができると、強調されています。主イエス・キリストの十字架によって罪ゆるされない人は、だれもいません。主イエス・キリストの十字架によってゆるされない罪は何もありません。すべての人のすべての罪が永遠に贖われ、ゆるされています。それが、『日本キリスト教会信仰の告白』で「贖いをなしとげ」と告白されている内容です。

 わたしたちはこの信仰告白を共に告白することによって、主イエス・キリストによって罪の奴隷から贖われ、主キリストのものとされている一人一人として、また罪のゆるしの恵みによって生かされてれている者たちの群れとして、ここに主イエス・キリストの体なる教会を建てていくのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、罪の中で滅ぶべき者であったわたしたちをあなたがみ子の尊い血によって贖い、救ってくださいましたことを心から感謝いたします。どうか、わたしたちを永遠にあなたのものとしてください。

〇主なる神よ、あなたの義と平和をこの世界にお与えください。国々の為政者、指導者たちが、何よりもあなたを恐れ、あなたのみ前にひれ伏す者としてください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

4月3日説教「ステファノの説教(一)アブラハムの選び」

2022年4月3日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:創世記12章1~9節

    使徒言行録7章1~8節

説教題:「ステファノの説教(一)アブラハムの選び」

 使徒言行録7章2節からステファノの長い説教が始まります。これは53節まで続きます。使徒言行録に記されている説教の中で最も長いものです。わたしたちがこれまで聞いてきた使徒ペトロの説教は2章29~39節、3章12~26節、4章9~12節、5章30~32節がありました。このあとには、10章36~43節、それから使徒パウロの説教が13章16~41節、14章15~17節、Ⅰ7章22~31節にあります。これらのどれよりもはるかに長い説教です。使徒言行録の著者であるルカがある意図をもってこれだけの長い説教を記録していることは明らかです。あらかじめその意図の一つを指摘しておきましょう。

 それは、ステファノがキリスト教会最初の殉教者となったということと関連しているように思われます。しかも、彼のこの一回の説教が直接的な理由となって、53節で彼の説教が終わるや否や、あるいは途中で中断させられたのかもしれませんが、すぐに58節で石打の刑によってステファノは殺されてしまいます。初代教会がこれから幾度も経験しなければならないユダヤ人とローマ人からの迫害とそれによって流すであろう殉教の血がここで初めて流されたのです。キリスト教会はステファノが語った説教によって、また同時にステファノが流した殉教の血によって、これからのちも生き続けていくのです。ここに、ステファノの説教の大きな意味があるのです。

 では1節から読んでいきましょう。【1節】。ユダヤ最高議会・最高裁判所の議長を務めている大祭司は裁判の正式な手続きを踏んで、最初に、訴えられている被告の罪状認否と弁明の機会を与えます。被告はここで、自分が無罪であることや情状酌量の余地があることなどを語るのが一般的です。けれども、これまでのペトロたちの裁判でもわたしたちが見てきたように、彼らはその席で主イエス・キリストの福音を語りました。彼らは主イエス・キリストの福音の証し人としてその裁判の席に立ち、そこに集まっているユダヤ人の指導者たちに主イエス・キリストの十字架の福音を語るのです。自分たちの減刑や命乞いの機会とするのではなく、福音宣教の機会として彼らは被告席に立っています。

 ステファノも同様です。もっとも、彼がはっきりと主イエスご自身について語るのは長い説教の終わりの個所、52、53節になってからですが、しかも直接主イエスのお名前を口に出してはいませんが、そこをまず読んでみましょう。【52~53節】。聞いていたユダヤ人指導者たちは、これが主イエスと自分たちのことであることを直ちに理解し、激しく怒ったと54節に書かれています。したがって、ステファノの長い説教はこの終わりの個所に向かっていたということがわたしたちにも分かってきます。彼がアブラハムから始まって、イサク、ヤコブの族長たちについて語っていること、9節からはヨセフとエジプト移住、23節以下ではモーセによるエジプト脱出とダビデ、ソロモンの時代のことを彼は旧約聖書に基づいて説教しているのですが、それらの旧約聖書に描かれているイスラエルの歴史はすべてが主イエス・キリストの福音に向かっていたということ、主イエスによって最後の目標に達したのだということ、それがステファノの説教の結論なのです。それと同時に、しかしユダヤ人はそれを受け入れず、信じなかったということ、この二つがステファノの説教の大きな柱なのです。そのことをあらかじめ確認して、2節からのステファノの説教を読んでいくことにしましょう。

2節から8節では、アブラハム、イサク、ヤコブの3人の族長の信仰について語っています。創世記12章以下に書かれている内容と大筋では一致していますが、細かな点では違いも見られます。きょうは細かな点の違いについては触れません。

 まず、ステファノの説教が族長アブラハムから始まっていることに注目したいと思います。イスラエルの歴史を語る場合、特に主イエス・キリストによってその頂点、最終目的に達するという意味でのイスラエルの信仰の歩みについて語るにあたって、出エジプト時代のモーセと彼に授かった律法から語るのではなく、アブラハムの召命と選びから語るということは、この文脈においては意義深いと言えます。おそらく、ユダヤ最高議会の主たるメンバーである律法学者やサドカイ派の人たちならば、モーセの律法やダビデ・ソロモン時代の礼拝や祭司の務めなどについて触れるに違いないのですが、ステファノはそれらについては一切触れていません。

 彼は説教の冒頭で、神の招きのみ言葉に聞き従った信仰の父アブラハムについて語ります。3節にあるように、「あなたの土地と親族を離れ、わたしが示す土地に行け」。アブラハムはこの神のみ言葉に聞き従いました。ここには、神の召命があります。神の招きと選びがあります。そしてまた、神の招きのみ言葉に従順に聞き従うアブラハムの信仰があります。これこそが神の民であるイスラエルの出発点なのだとステファノは語るのです。ヘブライ人への手紙11章8節に書かれているとおりです。「信仰によって、アブラハムは、自分が財産として受け継ぐことをになる土地に出て行くように召し出されると、これに服従し、行く先も知らずに出発したのです」。

 ステファノはこのアブラハムの信仰と今のイスラエルとの関連性を強調するために、「兄弟であり父である皆さん」と呼びかけ、「わたしたちの父アブラハムが」と語りだしています。およそ千年も前の族長時代とステファノの時代とを結びつけています。イスラエルはこのようなアブラハムの信仰によって神の民としての歩みを始めたのです。神がアブラハムを選び、彼を召し、彼にみ言葉を語り、恵みと救いへの道へと彼をお招きになられた。アブラハムはその神のみ言葉を信じて服従した。この信仰こそが神の民イスラエルの原点なのです。そして、今この時も、同じようにしてすべてのユダヤ人も神の招きを受けているのです。神がメシア・救い主をイスラエルと全世界のためにお遣わしになったからです。そうであるのに、あなたがたはその神の招きに逆らったのではないか、とステファノは51節で言うのです。

 2節の終わりに「栄光の神が現れ」とあります。「栄光の神」とは、この世に存在するものとは思えないような、天からの圧倒的に大きな力と権威と威厳とをもって人間の進むべき道を照らされる神のことです。その栄光の神のみ前では、アブラハムはただ黙々と従うほかにありません。また、そうすることが彼が生きるべき幸いな道なのです。なぜならば、アブラハムには今はまだ何も分からなくても、神ご自身が彼のために最もよい道を備えてくださるからです。彼の行く先にどのような困難が待っていようとも、そこがどのような土地であり、いつそれが自分の所有になるのかも全く知らされていないにもかかわらず、アブラハムは神の招きに従って、故郷を捨て、親族を捨て、それまでのすべての生活を捨てて、行く先を知らずして旅立ちました。これが信仰の父アブラハムの信仰です。

 主イエス・キリストの福音を信じる信仰もこれと同様です。主イエスはわたしたちが罪と死と滅びから救われ、新しい命に生きるために必要なすべてのみわざを成し遂げてくださいました。その主イエス・キリストをわたしの救い主と信じる信仰によってすべての人が救われます。わたしには何一つ誇りえるものがなく、良きわざもなく、神の律法にことごとく背いているとしても、わたしの今あるがままで、主イエス・キリストの十字架の福音を信じる信仰によって、神はわたしを義と認めてくださり、罪なき者と見なしてくださるのです。ユダヤ人もまたこの信仰へと招かれています。けれども、彼らはその招きに応えなかったと、ステファノは言うのです。

 まだ見ていないことを信じるアブラハムの信仰はさらに続きます。5節では次のように言われています。【5節】。わたしたちは今並行して創世記を読んでいますから、ここで言われていることについては何度も聞いてきました。アブラハムが最初に神の約束のみ言葉を聞いたのは彼が75歳の時でした。それから彼が100歳になって長男イサクが与えられるまで、彼には子どもがなく、また約束の地の一角をも所有していませんでした。けれども、彼は神のみ言葉を信じ続けました。神の約束の成就を待ち続けました。

 神の約束のみ言葉は、さらには、アブラハムの生涯をも超えて、それのみか、その子イサク、その子ヤコブをも超えて、いやさらに、エジプトでの400年の奴隷と苦難の歴史をも超えて、その先に進みます。

【6~7節】。ここまでくると、アブラハムの信仰とか、イサク、ヤコブ、ヤコブの12人の子どもたちの信仰とかがここで問題にされているというよりは、彼らの信仰を超えて、神の約束のみ言葉の永遠性、神の救いのご計画の永遠性こそが重要なのだと言うべきでしょう。神はイスラエルのエジプトでの400年間の苦難の歴史を経て、そののちにようやくにして、アブラハムに対する約束を成就されたのです。神はイスラエルの苦難の歴史をとおして、彼らを真実の礼拝の民とされるのです。エジプト脱出は彼らが真実の礼拝の民となるためであったのです。

 わたしたちはここにも主イエスによって成就された真実の礼拝の原型を見るように思います。イスラエルの民は400年間のエジプトでの奴隷と苦難の歴史から解放されて、真実の礼拝の民とされるとここで預言されています。それと同じように、主イエス・キリストのご受難と十字架の死をとおして、「霊と真理とをもって礼拝する」(ヨハネ福音書4章24節)まことの礼拝がわたしたち教会の民のために成就されたのです。ユダヤ人もこのまことの礼拝へと招かれています。しかし、彼らは依然としてエルサレム神殿での古い礼拝にとどまり続けているとステファノは語ります。

 最後に8節を読みましょう。【8節】。割礼は神とイスラエルとの永遠の契約の目に見えるしるしです。神が最初にアブラハムと結ばれた契約は、彼の子孫によって永遠に受け継がれていきます。イスラエルの民は、エジプトで奴隷であった時も、約束のカナンに移り住んでからも、また約束の地を失い、異教の地バビロンで捕囚の民であった時にも、割礼のしるしによって、神との契約の民であることを忘れませんでした。そして今、主イエス・キリストを救い主と信じる教会の民は、洗礼という目に見えるしるしをもって、神との新しい契約に生きる民であることを覚え続けるのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、あなたの恵みと慈しみとは永遠に変わらず、あなたを信じる民に豊かに注がれます。あなたがお選びになった信仰の民と結ばれた契約も、永遠に変わることなく、み国の完成の時まで続きます。どうか、わたしたちがそのことを信じてあなたのみ前に従順に歩む者としてください。

〇主なる神よ、多くの困難な課題を抱えながら苦悩しているこの世界を顧みてください。その中で、傷つき傷んでいるひとり一人を顧みてください。どうか、あなたの真実と正義と平和をわたしたちにお与えください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

3月27日説教「主イエスにお仕えした婦人たち」

2022年3月27日(日) 秋田教会主日礼拝説教(牧師駒井利則)

聖 書:サムエル記上1章21~28節

    ルカによる福音書8章1~3節

説教題:「主イエスにお仕えした婦人たち」

 ルカによる福音書8章1節にこのように書かれています。【1節】。「すぐその後」とあり、前の個所との連続性が強調されています。その連続性を考えながら、きょうのみ言葉を学んでいきましょう。

 7章36節以下では、主イエスがユダヤ教ファリサイ派の人の家に招待されて食卓に着いている時に、一人の罪深い婦人が主イエスの足元にひれ伏し、その足に香油を塗った。それを見ていたファリサイ派のこの人は、罪深い婦人の奉仕を受け入れた主イエスを非難した。けれども、主イエスはこの婦人は多くの罪をゆるされたから、このような愛の奉仕をしたのだと言われ、彼女に「あなたの罪はゆるされた」と言われた。その場にいた人たちは罪をゆるす権威を持っておられる主イエスに驚いた。これが、36節以下に書かれている内容でした。

 そこで語られていた内容と8章1節との関連を見ていくと、いくつかのことが分かります。第一には、主イエスが人間の罪をゆるす権威を持っておられることと、主イエスが宣べ伝えられた神の国の福音との関連です。すなわち、神の国の福音とは罪のゆるしと関連しているということです。主イエスの宣教活動は、マルコ福音書1章15節では、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」という内容でした。ルカ福音書4章16節以下では、イザヤ書61章の預言の成就として、貧しい人々が福音を聞かされていること、捕らわれている人々に解放が告げられること、主の恵みの年が告げられること、それが主イエスの到来によって今成就しているという内容でした。これらのことすべてが「神の国の福音」の内容です。イスラエルの民が信じてきた神、そして全世界の唯一の神が、ご自身のみ子主イエス・キリストによって、今このような恵みと愛のご支配を始められたのです。そこに、罪のゆるしがあり、罪ゆるされた信仰者の新しい命の歩みがあるのです。7章50節で「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と言われた主イエスのみ言葉に導かれた、わたしたちの新しい歩みがここから始まるのです。

 ここでもう一つ重要な点は、主イエスが宣べ伝えられた神の国の福音をわたしたちが聞くということです。聞くとは、単に耳で情報を得るというのではなく、聞いて、信じ、その信じたことにわたしのすべてを委ね、従うということです。8章ではこのあと、神のみ言葉を聞くということがテーマになっています。主イエスは「種まきのたとえ」をお語りになり、8節で「聞く耳のある者は聞きなさい」と大声で言われ、11節では「種は神の言葉である」と説明され、さらに11節で「良い土地に落ちたのは、立派な良い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人たちである」と、また21節では「わたしの母、わたしの兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである」と教えられました。

主イエスは「神の国を宣べ伝え、その福音を告げ知らせた」最初の人でした。神の国のみ言葉の種を蒔いた最初の人でした。そのみ言葉を聞き、信じ、従って生きることによってわたしたちは豊かな実を結ぶことができると約束されています。「あなたの罪はゆるされた。あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」。この主イエスのみ言葉に聞き、信じ、このみ言葉に生きることによって、わたしたちは神の国の民とされ、永遠の命を受け継ぐ者とされるのです。

 主イエスは神の国の福音を宣べ伝えた最初の人であると言いましたが、主イエスは神の国の福音そのものでもあられます。神の独り子であられる主イエスがこの世においでになったその時から、神の国は始まりました。主イエスとともに神の愛と恵みのご支配が始まりました。主イエスがいますところ、主イエスを救い主と信じる人たちが集まっているところに、神の国が実現します。12人の弟子たちはその神の国の福音に生きる最初の人たちとして選ばれ、主イエスと行動を共にしました。

 弟子たちが選ばれたのはそのためにだけではありません。彼らは間もなく、主イエスによって神の国の福音を宣べ伝える宣教者として派遣されます。9章1節からは12人の弟子たちの派遣について、また10章1節からは72人の弟子たちの派遣について書かれています。神の国の福音を聞くために選ばれた弟子たちは、神の国の福音を宣教する人にされます。ここに、教会が誕生します。教会は、神の国の福音の種を最初に蒔かれた主イエスのみ言葉を聞き、それを信じ、そのみ言葉によって生き、そして、教会が建てられているその地にあって、世の人々に神の国の福音を宣教する務めを果たしていく、そのために選ばれた信仰者の群れが教会なのです。

12人の弟子たちから受け継がれてきた教会のこの務めは、今も変わりません。秋田教会が、この地で宣教を開始した130年前から今に至るまで、またこれからのちも、教会はこの務めを果たしていくことによって生きるのです。

 2節からは、数人の婦人たちが主イエスと行動を共にし、主イエスのために奉仕していたことが語られています。【2~3節】。これは、ルカ福音書にだけ書かれているルカ特有の記事です。ルカ福音書が「婦人の書」と言われる理由の一つです。ルカ福音書では、共観福音書であるマタイ、マルコよりも、あるいは第四福音書と言われるヨハネ福音書と比較しても、婦人たちの活動が数多く記録されています。主イエスは神の国の福音を宣べ伝えるために、12弟子と共に多くの婦人たちをもお用いになりました。

 けれども、主イエスが婦人たちと一緒に宣教活動をされたということは、当時の人々にとっては異常に映ったに違いありません。というのは、当時の社会では婦人は政治や宗教活動から遠ざけられていたからです。宗教的指導者が婦人たちと一緒に行動するということは恥ずべきことだと考えられていました。けれども、主イエスの場合には違っていました。主イエスにとっては、また主イエスが宣べ伝えた神の国の福音にあっては、男と女の違いや区別はなく、民族の違い、貧富や社会的地位、その他どんな人間の違いであっても、それらは全く問題ではありませんでした。すべての人は、主イエス・キリストにあって一つとされ、すべての人は神の国の福音によって罪ゆるされ、救われ、神の国の民をされるからです。使徒パウロがガラテヤの信徒への手紙3章26節以下で教えているとおりです。【26~28節】(346ページ)。

 主イエス・キリストの福音はわたしたちを罪の奴隷から解放し、この世のあらゆる束縛からも自由にします。この世の富や社会的地位や名誉などに縛りつけられている生活からわたしたちを解放し、政治形態や民族、宗教などの違いから生じる対立や争いから社会を解放し、すべての人、すべての国を、神の国の福音の中で、自由と喜びとをもって共に生きる歩みへと導くのです。いわゆる婦人解放運動とか、民族解放運動とか、その他の自由と解放を目指した社会運動のすべても、主イエス・キリストの神の国の福音に基礎づけられている時に、本当の意味での解放となるのです。

 2節と3節に挙げられている婦人たちについて見ていきましょう。マグダラの女と呼ばれるマリアは主イエスによって七つの悪霊を追い出していただいたとありますが、彼女がいやされた記録そのものは福音書には書かれていません。マグダラはガリラヤ湖の西側にあった町で、彼女が「マグダラの女」と呼ばれていたことから、その町でよく名が知られていた婦人であったと思われます。彼女が有名になったのは、第一には彼女がたくさんの悪霊に取りつかれており、その姿がほとんど人間とは思えないような、悲惨で、残酷で、本人にとっても周囲の人たちにとっても、見るに堪えないほどの苦しみと痛みとによって苦しめられていた人であったからです。しかし、彼女を有名にしたのは、それほどの悲惨さと苦悩から、主イエスによっていやされ、救われ、しかも今は主イエスのために喜びをもって、生き生きとしてお仕えしているという、その驚くべき大きな変化を、多くの人が見ていることにもその理由があったと思われます。主イエスが7章47節で言われたように、彼女は主イエスによって多くの罪をゆるされたから、多くの愛をもって主イエスにお仕えするようになったのです。

 マグダラのマリアだけではなく、他の婦人たちも「悪霊を追い出して病気をいやしていただいた」という、大きな感謝をもって、主イエスにお仕えしていました。彼女たちは悪霊の支配のもとで生きる生活から解放され、主イエスの救いの恵みのご支配の中で、その救いの恵みに対する感謝の思いをもって、新しい歩みを始めたのです。

 二人目に名前を挙げられているのは、「ヘロデの家令クザの妻ヨハナ」です。ヘロデとは、主イエスが誕生した時のユダヤの王ヘロデ大王の4人の息子の一人で、洗礼者ヨハネの首をはね、主イエスの裁判に立ち会った、ガリラヤ地方の領主ヘロデ・アンティパスのことです。夫であるクザが領主ヘロデに仕えていたことから察すると、社会的地位があり裕福であったと思われますが、その妻であるヨハナが主イエスによって病をいやされ、主イエスにお仕えすることになったのでしょうが、その後夫との関係はどうなったのか、夫は彼女に賛成したのかなどは分かりません。いずれにしても、彼女は今や主イエスが宣べ伝えておられた神の国の福音に生きる信仰者であり、その福音のために自分自身と持っているものすべてを主イエスにおささげする新しい歩みを始めたのです。

三人目の婦人スサンナはここ以外には聖書の中にはその名はありませんが、おそらく初代教会ではよく知られていた婦人だったと思われます。この3人のほかにも多くの婦人たちが主イエスと行動と共にしていたと書かれています。主イエスの一行は少なくとも10数人、婦人たちも含めると20人ほどのグループで、町々村々を移動しながらの共同生活ですから、それを支えるのは経済的にも人的にもそれなりのものが必要だったはずです。幸いにも、これらの婦人たちが「自分の持ち物を出し合って」主イエスと弟子たちを支えていたのでした。彼女たちもまた、このようなかたちで神の国の福音宣教の働きのために仕えていました。彼女たちもまた、「あなたの罪はゆるされた。あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」との主イエスのみ言葉によって、新しい歩みを始めたのです。神の国の福音に生きたのです。

ルカ福音書では、この婦人たちはこのあと何度も登場します。主イエスの十字架の場面で、【23章49節】、主イエスの葬りの場面で、【23章55~56節】、主イエスの復活の場面で、【24章8~11節】、彼女たちはそれらの目撃者となりました。彼女たちは主イエスの十字架の証人となり、主イエスの葬りの証人となり、そして主イエスの復活の証人となり、そのようにして神の国の福音のために仕えたのです。わたしたち一人一人も、主イエスの復活の証人として、神の国の福音のためにお仕えするように召されています。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、あなたは取るに足りない、いと小さき者であるわたしたちを選んでくださり、神の国の福音の奉仕者として立てていてくださいますことを覚え、心から感謝いたします。願わくは、わたしたちをあなたのみ言葉によって強め、聖霊によって武装させ、神の国の証し人としてみ心のままにお用いください。

〇主なる神よ、この地にまことの平和を来たらせてください。人間の罪と傲慢、欲望や邪悪な思いをあなたが取り除いてくださり、あなたにあるゆるしと和解をお与えください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。